大百足
昼だった。
銀秋とキミコは、店の奥で飯を食べていた。
今日は客足も落ち着いていた。
キミコが最後の一口を食べ終える。
銀秋も少し遅れて箸を置いた。
銀秋は器を重ねた。
少しして、ふと思い出したようにキミコを見る。
「そういや、お前」
「何?」
「……あの女みたいな中身してねえよな」
キミコが首を傾げる。
「あの女?」
「乱霧だよ。腕斬った時、中で変なのうじゃうじゃしてただろ」
「ああ」
キミコは少し考えた。
「たぶん、いない」
「たぶんかよ」
「たぶん」
「……まあ、普通は見ねえか」
銀秋は少し黙った。
「同じだったらどうする?」
「どうするって」
「嫌?」
銀秋はキミコを見る。
「…………」
銀秋は何とも言えない顔をした。
キミコは自分の腕を見る。
「見てみる?」
「やめろ」
「どうして」
「斬ろうと思ってるだろ」
「うん」
「絶対やめろよ」
「分かった」
キミコは少し考えた。
それから立ち上がる。
「たぬきのところ行ってくる」
「おう」
キミコは店を出た。
銀秋はその背中を見送りながら、何となく嫌な予感がしていた。
空は晴れている。
日差しはあるが、風は少し冷たい。
通りには人が行き交い、店先からは客を呼ぶ声が聞こえていた。
キミコはその中を迷うことなく進んでいく。
少し前、銀秋と喧嘩をしたときに山へ行き、そこで古狸に八つ当たりをした。
古狸には怒られた。
二度と怒って来るなとも言われた。
だが、遊びに来るなら構わないとも言われた。
それに、古狸の腹が気に入っていた。
大きくて、柔らかい。
茶褐色の毛は厚く、身体を沈めると包み込まれるようだった。
前にそこで眠ったときは、随分よく眠れた。
もう一度、あそこで寝たい。
キミコはそれだけ考えながら歩いていた。
京を離れるにつれて、人の姿が少なくなる。
家々もまばらになり、その向こうには畑が広がっていた。
さらに歩けば、道の両脇に木々が増えていく。
山へ入る。
湿った土の匂いがした。
風が木々の間を抜け、葉が擦れる音がする。
キミコは以前通った道を覚えていた。
しばらく進む。
やがて、木々の間が開けた。
古狸はそこにいた。
大きな身体を地面へ横たえている。
人間の家よりも大きな身体だった。
木々に囲まれ、無防備に仰向けで眠っている。
キミコは近づいた。
「たぬき」
古狸の耳が動いた。
しばらくして、片方の目が開く。
「……お前か」
「うん」
古狸はキミコをじっと見た。
「今日は怒ってないだろうな」
「怒ってない」
「本当だな」
「うん」
「銀秋と喧嘩は」
「してない」
古狸はしばらくキミコを見ていた。
やがて、低く息を吐く。
「ならいい」
また目を閉じた。
キミコは古狸の横へ回った。
その大きな腹を見る。
古狸が片目を開ける。
「何だ」
「寝る」
「……俺の上でか」
「うん」
「他に寝るところはあるだろう」
「ここがいい」
「そうか」
古狸はそれ以上何も言わなかった。
キミコは腹へ手を置いた。
厚い毛が指の間へ入る。
柔らかい。
少し力を入れると、手が毛の中へ沈んだ。
キミコは古狸の身体へよじ登る。
大きな腹の上へ乗ると、そのまま仰向けになった。
身体が毛へ沈む。
「やっぱり柔らかい」
「そうか」
「うん」
「毛を抜くなよ」
「抜かない」
キミコは近くの毛をひと束掴んだ。
指の間を通す。
古狸が目を開ける。
「抜くなと言っただろう」
「抜いてない」
「引っ張るな」
「引っ張ってない」
「そうか」
「うん」
キミコは手を離した。
古狸の腹が呼吸に合わせてゆっくり上下する。
そのたびに、キミコの身体も少し持ち上がり、また沈む。
風が吹いた。
木々が揺れる。
キミコは目を閉じた。
このまま眠ろうと思った。
しばらく何も言わずにいる。
古狸も静かだった。
そのうち、本当に眠りかけた頃だった。
「お前」
古狸の声がした。
キミコは目を閉じたまま答える。
「何」
「暇か」
「暇」
「そうか」
少し間が空く。
「なら、一つ頼まれてくれ」
キミコが目を開けた。
「何」
「最近、この辺りで大百足が暴れている」
「むかで?」
「ああ」
「大きい?」
「かなりな」
キミコは身体を起こした。
「どのくらい」
「人よりは遥かに大きい」
「たぬきより?」
「俺よりは小さい」
「そう」
「だが、人間にはどうにもできん」
古狸は目を開けた。
「山を下りたところに畑や家があるだろう」
「うん」
「その辺りに出る」
「何してるの」
「畑を荒らす。家畜を食う。家の近くまで下りることもある」
「そう」
「暇なら、殺してきてくれないか」
「分かった」
返事は早かった。
古狸が少し目を細める。
「本当に行くのか」
「頼んだだろう」
「頼んだが」
「どこ」
「山を下りて少し東へ行け。畑が続いているところがある」
「分かった」
キミコは古狸の腹から降りた。
「もう行くのか」
「うん」
「気をつけろ」
「何に」
「大百足に決まってるだろう」
「大丈夫」
「そういうところが不安なんだ」
キミコは古狸を見る。
「たぬきは心配してる?」
「少しな」
「そう」
キミコは少し嬉しそうだった。
「何で嬉しそうなんだ」
「心配されたから」
「……早く行ってこい」
「うん」
キミコは山を下り始めた。
山道を抜けると、畑が見えてきた。
いくつもの畑が並んでいる。
その向こうには、小さな家々が点々と建っていた。
人の姿もある。
だが、様子がおかしい。
何人かの男が、道の端へ集まっていた。
鍬や棒を持つ者もいる。
その中には、腰に刀を差している者もいた。
家の前では、女が子供を中へ入れようとしている。
畑仕事をしている者の姿は、ほとんどなかった。
キミコは歩いていく。
近くにいた男がキミコに気づいた。
「おい」
キミコが見る。
「そっちへ行くな」
「どうして」
「出たんだ」
「むかで?」
男が驚いた顔をした。
「知ってるのか」
「聞いた」
「なら近づくな。でかいぞ」
「知ってる」
「知ってるなら――」
そのときだった。
遠くで何かが倒れる音がした。
人々が一斉にそちらを見る。
畑の向こうで、土が大きく跳ねた。
「来た!」
誰かが叫んだ。
「家に入れ!」
「子供を連れていけ!」
人が動き始める。
家へ駆け込む者。
子供の手を引く者。
畑から離れ、道の向こうへ走る者。
男たちの何人かはその場に残った。
手にした鍬や棒を握り締める。
腰の刀へ手をかける者もいた。
だが、誰も前へは出ない。
畑の向こうから、ざらざらと音がした。
無数の脚が土を掻く音だった。
やがて、巨大な身体が姿を現す。
大百足だった。
長い。
何人もの人間を縦に並べても足りないほどの身体だった。
黒褐色の硬そうな殻がいくつもの節に分かれ、その両側から無数の脚が伸びている。
身体をくねらせるたび、脚が一斉に動いた。
畑の土が抉られる。踏み潰された作物が散った。
キミコはそれを見る。
「大きい」
「だから言っただろ!」
さっきの男が叫ぶ。
「下がれ!」
キミコは下がらなかった。
大百足を見る。
それから、近くにいた別の男へ目を向けた。
腰に刀を差している。
キミコはその刀を見る。
「それ、借りる」
「は?」
男が答えるより先に、キミコは刀へ手を伸ばした。
「おい!」
鞘から抜く。
刀身が日の光を受けた。
キミコは少し眺める。
「これなら斬れる?」
「待て! 何する気だ!」
「斬る」
「いや、だから――」
キミコはもう大百足へ向かっていた。
「おい!」
「戻れ!」
声が聞こえる。
キミコは気にしなかった。
刀を片手に、大百足へ近づいていく。
大百足が頭を持ち上げた。
キミコを見る。
無数の脚が動きを止める。
ほんの一瞬だった。
次の瞬間、大百足が身体を大きくくねらせた。
一気に距離を詰めてくる。
キミコは刀を構えた。
迫ってきた身体へ向かって振る。
硬い音がした。
刀が弾かれる。
キミコの腕がわずかに上へ跳ねた。
「……硬い」
大百足の背には、浅い傷さえついていない。
キミコは刀を見る。
刃は欠けていない。
もう一度、大百足へ向き直る。
今度は身体の節へ振り下ろした。
また硬い音がした。
刃が滑る。
大百足の殻には入らない。
キミコは少し黙った。
「つまらない」
刀を下ろす。
その瞬間、大百足の頭が迫った。
キミコは空いている手を伸ばした。
頭部の硬い殻を掴む。
次の瞬間。
キミコの腕に、鋭い痛みが走った。
「……痛い」
大百足の頭のすぐ後ろから伸びた鋭い毒肢が、キミコの手へ深く食い込んでいた。
傷口から血が溢れた。白い肌を伝い、ぽたぽたと地面へ落ちる。
キミコは自分の腕を見る。
「噛んだ」
大百足が身体を大きく捩る。
キミコの身体が引かれた。
足が土の上を滑る。
もう一度、大百足が頭を振った。
キミコの身体が持ち上がる。
足が地面から離れた。
「おい!」
「あいつ、捕まったぞ!」
声が上がる。
大百足は止まらない。
長い身体がキミコの方へ寄ってくる。
無数の脚が動いた。
一本。
二本。
次々とキミコの身体へ触れる。
「何」
脚が腕へ絡む。
肩へ。
腰へ。
脚へ。
大百足は無数の脚で、キミコの身体を抱え込むようにして引き寄せた。
硬い脚が衣の上から身体へ押しつけられる。
何本もの脚が同時に動く。
大百足の脚が、キミコの身体へ次々と絡みついた。
胴へ引き寄せられる。
「うえ」
気持ちが悪い。
顔をしかめる。
キミコは噛まれた手を乱暴に引き抜き、すぐそばの脚を一本掴んだ。
少し持ち上げる。
その隙間へ身体を滑らせた。
大百足の脚の間をするりと抜ける。
地面へ降りる。
そのまま横へ回った。
大百足が身体を捻る。
キミコは刀を構えた。
さっきは背を斬った。
硬かった。
今度は横だった。
節と節の境目へ刀を合わせる。
下から上へ振り抜く。
今度は、刃が通った。
大百足の胴が、真ん中から二つに分かれる。
切断面から、どろりとした体液が噴き出した。
キミコは一歩下がった。
体液が地面へ散る。
着物には届かなかった。
「斬れた」
キミコは二つに分かれた大百足を見た。
無数の脚が、ばらばらに激しく動いている。
しばらくして、それも止まった。
刀の切っ先で腹を軽く刺す。
反応はなかった。
「死んだ」
周囲は静まり返っていた。
少し離れたところから、人々がこちらを見ている。
誰も声を出さない。
キミコは大百足から刀を抜いた。
刀身を見る。
「これ、使えた」
そのまま手に持っている。
それから、噛まれた手を見る。
傷口は大きく裂け、血に濡れていた。
指を曲げる。
動く。
少し痺れている。
「大丈夫」
キミコはそう言った。
しばらくして、一人の男が水の入った桶を持って近づいてきた。
「あんた、その手」
キミコが見る。
「何」
「洗った方がいい」
「どうして」
「毒があるんだろう」
男はキミコの手を見る。
傷口からはまだ血が流れていた。
「ましになるかは分からないが、そのままよりはいい」
「そう」
キミコは噛まれた手を差し出した。
男は桶の水を少しずつ傷口へかける。
赤く濁った水が、指先を伝って地面へ落ちた。
「痛むか」
「少し」
「そうか」
男はもう一度、水をかける。
傷口についた血や土が流れていく。
「これでどうだ」
「分からない」
「まあ、すぐには分からんか」
キミコは濡れた手を見る。
「ありがとう」
男は頷いた。それから、動かなくなった大百足を見る。
「そいつ……死んだのか」
「うん」
「本当に?」
「動いてない」
キミコは動かない大百足をもう一度切っ先で刺す。
男はそれを見て、少し引いた。
少しして、他の者たちも近づいてきた。
「助かった……」
「畑を何度もやられてたんだ」
「家の近くまで来ることもあった」
「誰もどうにもできなくて」
声が重なる。
やがて、一人の女がキミコの前まで来た。
「ありがとう」
頭を下げる。
キミコは女を見る。
「うん」
それをきっかけに、他の者も口々に礼を言い始めた。
「本当に助かった」
「ありがとう」
「何か持っていってくれ」
男が畑から野菜を持ってくる。
キミコは見る。
「野菜」
「ああ。大したものじゃないが」
「おばちゃんが食べる」
「なら持っていけ」
別の者も何かを持ってきた。
「これも」
「こっちも持っていってくれ」
次々に野菜や豆、少しの米が集まってくる。
一人の男が大きな籠を持ってきて、その中へまとめた。
「多い」
「助けてもらったんだ。これくらい持っていってくれ」
「そう?」
「ああ」
キミコは籠の中を見る。
おばちゃんにあげられる。
刀を差していた男も近づいてきた。
「その刀も持っていってくれ」
キミコが刀を見る。
「いいの?」
「ああ。あんたがそいつを斬った刀だ」
男は鞘を差し出した。
キミコは受け取り、刀を納めた。
「ありがとう」
今度はキミコから言った。
人々が少し笑った。
古狸のところへ戻る。
キミコは籠を地面へ置いた。
刀はまだ手に持っている。
「たぬき」
「戻ったか」
「殺した」
「そうか」
「大きかった」
「言っただろう」
「噛まれた」
古狸の目が開く。
「何?」
キミコが手を見せる。
「お前、どこを掴んだ」
「頭」
「何で頭を掴むんだ」
「掴みやすかった」
「毒牙があるだろう」
「知らなかった」
「阿呆が」
「うるさい」
古狸はしばらくキミコの手を見る。
「痛むか」
「少し」
「気分は」
「普通」
「そうか」
古狸は深く息を吐いた。
それから、キミコが提げていた籠へ目を向けた。
中には、米や野菜、いくつかの包みが詰め込まれている。
「随分もらったな」
「うん」
「俺からも礼をやろうと思っていたが」
「礼?」
「ああ」
古狸は少し考えた。
それから前足を動かす。
大きな爪の間に、小さなものが一つあった。
「やる」
キミコが見る。
「何?」
古狸はキミコの顔を見る。
「お前の目と同じ色の花の種だ」
キミコの大きな一つ目が、少し開いた。
「私の目?」
「ああ」
キミコは種を受け取った。
掌の上に乗せる。
「小さい」
「そのくらいなら持てるだろう」
「うん」
キミコはしばらく種を見ていた。
それから、大事そうに握る。
「ありがとう」
「礼を言えるなら十分だ」
古狸は鼻を鳴らした。
「今日はもう帰れ」
「寝ない?」
「その手を銀秋に見せてこい」
「どうして」
「心配するだろう」
キミコは少し考えた。
「心配する?」
「するんじゃないか」
「そう」
キミコは少し嬉しそうにした。
「……早く帰れ」
「うん」




