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スダマの鬼  作者: 肉
35/52

古狸

 昼を少し過ぎた頃だった。

 今日は朝から客が多かった。

 ようやく客足が途切れたところで、銀秋は表の戸を半分ほど閉め、キミコと店の奥で向かい合って座った。

 ふたりで買ってきた飯を食べる。

 その傍らには、餅の包みが置いてあった。

 キミコは飯を食べ終えると、包みを開いた。

 中には餅がいくつか入っている。

 一つ取って食べる。

 銀秋はまだ飯を食べていた。

 キミコは二つ目を食べた。

 それから三つ目へ手を伸ばす。

 その前に、銀秋の手が伸びた。

 一つ取る。

 そのまま口へ入れた。

 キミコの手が止まった。

「銀秋」

「ん?」

「それ、私の」

 銀秋は口へ入れた餅を噛みながら、キミコを見る。

「一個くらいいいだろ」

「私のだった」

「まだあるだろ」

「ある」

「じゃあいいだろ」

「よくない」

「もう食っちまったよ」

「返して」

「無理だろ」

「私のだった」

「分かったって。今度一個多く買ってやる」

「今食べたかった」

「まだあるだろ」

「これはこれ」

「同じ餅だろ」

「違う」

「何が違うんだよ」

「銀秋が食べたのは、私のだった」

 銀秋は息を吐いた。

「だから悪かったって」

「悪いと思ってない」

「思ってるよ」

「思ってない」

「思ってるって」

「思ってない」

「……めんどくせえな、お前」

 キミコが黙った。

 大きな一つ目が、銀秋をじっと見る。

「何だよ」

「銀秋が取った」

「一個だろ」

「私の餅を」

「だから悪かったって言ってるだろ」

「銀秋、嫌い」

 銀秋の眉が動いた。

「……餅一個でそこまで言うか?」

「嫌い」

「お前なあ」

「銀秋なんか嫌い」

「俺も今のお前は嫌いだよ」

 キミコが黙った。

 銀秋も黙る。

 ふたりで睨み合った。

「……そう」

「ああ」

「分かった」

「何がだよ」

「もう知らない」

 キミコは立ち上がった。

「おい」

「銀秋なんか知らない」

「どこ行くんだ」

「知らない」

「おい、キミコ」

「ついてこないで」

 キミコはそのまま店を出ていった。

 銀秋も追わなかった。

 表の戸からキミコの姿が見えなくなる。

「…………」

 銀秋はしばらくそこを見ていた。

 やがて、舌打ちする。

「……何なんだよ、餅一個で」

 残った餅を見る。

 手を伸ばしかけ、やめた。

 銀秋は包みを閉じた。




 祀煙(しえん)は、しばらく京に滞在していた。

 兄様の様子を見るために来たのだが、思っていたより長く居ついてしまった。

 銀秋という人間の店へ顔を出すこともあれば、一人で京の町を歩くこともあった。

 兄様はもう、人を喰ってはいなかった。

 毎日銀秋と飯を食い、同じところで眠り、時には店に座って銀秋の仕事を眺めている。

 以前の兄様からは考えられない暮らしだった。

 それも十分に見た。

 そろそろ帰ろう。

 そう思った日のことだった。

 祀煙は、昔馴染みの古狸のことを思い出した。

 京の外れからさらに山へ入ったところに、古くから棲んでいる狸がいる。

 祀煙がまだ今より若かった頃からの知り合いだった。

 最後に会ったのは随分前だ。

 帰る前に、顔くらい見ておくか。

 そう思い、祀煙は京を出た。

 山へ向かう。

 人家が少なくなり、やがて道の両側を木々が囲むようになる。

 さらに奥へ入っていく。

 湿った土の匂いがする。

 風が木々の間を抜けていた。

 昔とほとんど変わらない。

 もう少し行けば、古狸の棲み処がある。

 そう思ったところで、祀煙は足を止めた。

 音がした。

 何か大きなものが地面へ叩きつけられたような音だった。

 木々が揺れる。

「……何だ?」

 また音がする。

 今度はさっきより近かった。

 祀煙は歩調を速めた。

 木々の間を抜ける。

 開けた場所へ出た。

 そこで、足を止めた。

「…………」

 大きな狸がいた。

 見覚えのある姿だった。

 山の中に横たわるその身体は、人間の家よりも大きい。

 茶褐色の毛が、あちこち乱れている。

 昔馴染みの古狸だった。

 そして、その前に一人立っている。

「……兄様?」

 キミコが振り返った。

「祀煙」

「何をなさってるんです?」

「たぬき」

「……狸ですが」

 古狸が低く唸った。

「祀煙」

「久しぶりだな」

「久しぶり、ではない」

 地の底から響くような低い声だった。

「こいつをどうにかしろ」

 祀煙はキミコを見る。

「兄様、何をなさったんです?」

「何も」

「何もしてない奴が、こんな姿になるわけないでしょう」

 祀煙はぼさぼさになった古狸を見ながら言う。

「俺は寝ていただけだ」

 古狸が言った。

「起きたらこいつがいた」

「……そうか」

「それからずっとこれだ」

 祀煙は額へ手をやった。

「兄様」

「何?」

「どうして狸に当たってるんです」

「腹が立ったから」

「狸に?」

「銀秋に」

「…………」

 祀煙は黙った。

 古狸も黙った。

「銀秋に腹が立って、どうしてこいつがこうなるんです?」

「たぬきがいたから」

「俺はいただけだ」

 祀煙は息を吐いた。

「銀秋と何があったんです?」

「餅を食べた」

「……誰が?」

「銀秋」

「……兄様の餅を?」

「一個」

 祀煙はしばらく何も言わなかった。

「それだけですか?」

 キミコは少し黙った。

「今のお前は嫌いって言われた」

 祀煙が目を細める。

「……銀秋に?」

「うん」

「兄様は何と?」

「私も嫌いって言った」

「そうですか」

 横たわった古狸が祀煙を見る。

「それで俺はこうなった」

「……災難だったな」

「他人事のように言うな」

「他人だからな」

「止めろ」

 祀煙はもう一度息を吐いた。

「兄様。もうそのくらいになさってください」

「まだ腹が立ってる」

「狸には関係ないでしょう」

「知ってる」

「でしたら――」

 祀煙はキミコへ近づいた。

「一度落ち着いてください」

 肩へ手を伸ばす。

 その手首を、キミコに掴まれた。

「……兄様?」

 次の瞬間、身体を引かれた。

 足が地面を離れる。

 そのまま勢いよく振られ、祀煙の身体が宙へ投げ出された。

「…………」

 視界が回る。

 祀煙は空中で身体を捻った。

 地面が近づく。

 足から降りる。

 少し滑ったが、倒れはしなかった。

 祀煙は顔を上げた。

「兄様」

「邪魔」

「止めてるんですよ」

 歩いて戻る。

 古狸が祀煙を見る。

「お前も大変だな」

「誰のせいだ」

「俺ではない」

「……そうだな」

 祀煙は再びキミコの前へ立った。

「兄様」

「何?」

「銀秋に腹が立っているなら、銀秋と話してください」

「嫌」

「なぜ」

「今は顔を見たくない」

「だからといって狸に――」

 キミコが祀煙の腕を掴んだ。

「兄様、待っ――」

 言い終わる前に身体を引かれる。

 祀煙の足が浮いた。

 そのまま大きく振られ、遠くへ投げ飛ばされる。

「兄様!」

 今度はさっきより遠くまで飛んだ。

 祀煙は空中で体勢を整える。

 足から地面へ降りる。

 髪が頬へかかった。

「…………」

 祀煙は髪を払った。

 また戻る。

「何度投げるんですか」

「祀煙が邪魔するから」

「止めてるんです」

「邪魔」

 キミコが祀煙の腕を掴んだ。

「あ」

 身体が引かれる。

 三度目だった。

 祀煙は抵抗する間もなく、また宙へ投げ出された。

 また着地する。

 今度は少し髪が乱れた。

「…………」

 祀煙は戻った。

「兄様」

「何?」

「餅一個でしょう」

「私のだった」

「それは分かりました。銀秋にはそう仰ったんですか?」

「言った」

「何と返されたんです?」

「一個くらいいいだろって」

「…………」

 祀煙は少し考えた。

「それは銀秋も悪いですね」

「そうだろう」

 キミコが頷く。

 古狸が顔を上げた。

「だからといって俺を殴るな」

「それもそうです」

 祀煙が言った。

「でも腹が立つ」

「知るか」

 キミコが古狸へ近づく。

 古狸が身構えた。

 祀煙はふたりの間へ入った。

「兄様、もう――」

 今度は衣の袖を掴まれた。

「兄様!!」

 そのまま身体を振られる。

 四度目だった。

 祀煙は勢いよく宙へ放られた。

 空中で身体を捻る。

 地面へ降りる。

 髪を束ねていたものが緩み、何本か頬へ落ちた。

 祀煙は黙った。

「…………」

 もう戻らなかった。

 近くの木の根元へ腰を下ろす。

 古狸が遠くから言った。

「諦めたか」

「好きにしろ」

「俺が困る」

「知らん」

「祀煙」

「何だ」

「助けろ」

「四回投げられた」

「俺はもっとやられている」

「なら頑張れ」

「薄情者」

「うるさい」

 また大きな音がした。

 それからもう一度。

 やがて、静かになった。

 祀煙は顔を上げた。

 古狸が地面へ仰向けに横たわっている。

 その大きな腹の上に、キミコがいた。

 仰向けになり、毛へ身体を沈めている。

 目を閉じていた。

「…………」

 祀煙は立ち上がった。

 近づく。

「兄様?」

 返事はない。

 古狸が低い声で言った。

「寝た」

「……そうか」

「やっとだ」

 祀煙はキミコを見る。

 すっかり眠っている。

 古狸が深く息を吐いた。

 大きな腹が上下する。

 そのたび、キミコの身体もゆっくり持ち上がり、また沈む。

「随分やられたな」

「死ぬかと思った」

「その程度で死ぬか」

「気分の話だ」

 祀煙は古狸の横へ腰を下ろした。

 乱れた髪を整える。

「お前も飛んでいたな」

「四回だ」

「全部戻ってきた」

「止めようとしたんだよ」

「止まってなかったぞ」

「うるさい」

 古狸が鼻を鳴らした。

 しばらく、ふたりとも黙っていた。

 風が木々を揺らす。

 キミコは起きない。

「……餅一個か」

 古狸が言った。

「ああ」

「俺は餅一個でこれか」

「そうらしい」

「納得できん」

「俺もだ」

 古狸がしばらく黙る。

「銀秋というのは、こいつと暮らしている人間か」

「ああ」

「そいつに一言言う」

 祀煙が古狸を見る。

「何を」

「二度とこいつの餅を食うなと」

「わざわざ京まで行くのか」

「行く」

「銀秋に殴られたわけじゃないだろ」

「元を辿れば銀秋だ。餅を食わなければ、こいつは来なかった」

「……まあ、それはそうだが」

「俺は寝ていただけだ」

「ああ」

「起こされた」

「ああ」

「殴られた」

「聞いた」

「一言くらい言わせろ」

「好きにしろ」




 それからしばらく経って、キミコが目を覚ました。

 大きな一つ目が開く。

「……祀煙」

「おはようございます、兄様」

 キミコは古狸の腹の上で身体を起こした。

「寝てた」

「ええ。よく眠られていましたね」

「どのくらい?」

「しばらくです」

「そう」

 キミコは古狸の腹を撫でた。

「たぬき」

「何だ」

「気が済んだ」

「二度と怒って来るな」

「分かった」

「遊びに来るなら構わん」

「うん」

「本当だな」

「うん」

 キミコは古狸の腹から降りた。

 祀煙も立ち上がる。

「兄様、京へ戻られますか」

「うん」

「では、ご一緒します」

「祀煙も?」

「はい。私もそろそろ、自分の屋敷へ戻ります」

「そう」

 キミコが祀煙を見る。

 少しして、その髪へ目を向けた。

「髪、ぼさぼさ」

「誰のせいですか」

「私」

「分かっていらっしゃるなら結構です」

「ごめん」

 祀煙はキミコを見る。

「……もう投げないでくださいね」

「祀煙が邪魔しなければ」

「また止めますよ」

「じゃあ投げる」

「兄様」

 キミコが少し笑った。

 その後ろで、古狸が起き上がる。

 祀煙が振り返った。

「……お前も来るのか」

「行くと言っただろう」

「その身体で?」

「少し小さくなる」

 古狸の身体が縮んでいく。

 山の中で家ほどもあった巨体が、少しずつ小さくなる。

 やがて止まった。

 それでも大きい。

 人より遥かに大きく、銀秋の店の戸口をどうにか通れそうなほどだった。

 祀煙は古狸を見る。

「……それで小さくなったつもりか」

「なっただろう」

「まあ、さっきよりはな」

「十分だ」

 キミコが古狸を見る。

「小さい」

「兄様まで何を言ってるんです」

 キミコと祀煙、古狸は山を下りた。

 京へ近づくにつれて、人の姿が増えていく。

 古狸を見る者も増えた。

 道の端へ避ける者。

 立ち止まる者。

 遠巻きについてくる者もいる。

 古狸は気にした様子もなく歩いていた。

 やがて銀秋の店が見えた。

 表の戸は開いている。

 銀秋は帳場に座っていた。

 キミコが先に店へ入る。

 銀秋が顔を上げた。

 ふたりの目が合う。

「……帰ったのか」

「うん」

 それだけだった。

 銀秋はまだ少し不機嫌そうだった。

 キミコも銀秋のそばへは行かなかった。

 祀煙が後から入る。

 銀秋が祀煙を見る。

「お前も一緒だったのか」

「ああ」

 銀秋が眉を寄せた。

「……髪どうした」

「兄様に投げられた」

「は?」

「四回」

 銀秋がキミコを見る。

「お前、何してたんだ」

「祀煙が邪魔した」

「何の邪魔だよ」

「たぬき」

「……狸?」

 その時だった。

 店の中が暗くなった。

 銀秋が表を見る。

 巨大な狸の顔が、戸口から中を覗いていた。

「…………」

 銀秋は黙った。

 古狸も銀秋を見る。

「……何だ、お前」

「たぬき」

 キミコが代わりに答えた。

「でかくないか」

 古狸が店へ入ろうとする。

 頭が戸口をくぐる。

 肩も入った。

 腹がつかえた。

「…………」

 古狸は身体を横へ向けた。

 ずりずりと入ってくる。

 銀秋はそれを見ながら言う。

「おい。なんでこんなでっかい狸連れてきたんだ」

「話がある」

「喋った!」

 古狸は答えない。

 どうにか腹が入った。

 最後に大きな尻と尻尾が入ってくる。

 店の中が一気に狭くなった。

 古狸は銀秋の前へ座る。

 尻尾が動いた。

「おい」

 銀秋が言った。

「尻尾動かすな。質物に当たる」

 尻尾が止まった。

「分かった」

「聞き分けはいいな……」

 古狸は銀秋を見た。

「お前が銀秋か」

「……そうだが」

「こいつの餅を食ったそうだな」

「…………」

 銀秋がキミコを見る。

 キミコは古狸の毛にすっかり埋まっていた。

 片手で毛を掴み、指の間を通す。

 柔らかいのが気に入ったらしい。

「お前、狸にまで話したのか」

「聞いた」

 古狸が言った。

「一個食ったそうだな」

「……食ったよ」

「なぜ食った」

「そこにあったからだよ」

「お前のものではないだろう」

「……買ったのは――」

「人のものを勝手に食うな」

 銀秋の言葉を古狸が遮る。

「……はい」

 祀煙は横を向いた。

 銀秋が祀煙を見る。

「お前、今笑っただろ」

「笑ってない」

「笑ってんだろ」

「話を聞け」

 古狸の低い声が響く。山の主らしく、威厳のある声だった。

 銀秋が古狸へ向き直った。

「聞いてるよ」

「食い物の恨みは恐ろしいぞ」

「身をもって知った顔してんな」

「知った」

 古狸の毛は、まだあちこち乱れている。

「俺は寝ていた」

「……ああ」

「起きたらこいつがいた」

「……ああ」

「殴られた」

「…………」

「何度もだ」

 銀秋がキミコを見る。

「お前なあ……」

「銀秋が悪い」

「俺も悪かったけど、こいつ関係ねえだろ!」

「俺もそう言った」

 祀煙が言う。

「止めたら四回投げられた」

「だから髪がそうなってんのかよ!」

「ああ」

 銀秋は額を押さえた。

「何してんだ、お前ら……」

「俺は寝ていただけだ」

 古狸が言う。

「俺は止めただけだ」

 祀煙が言う。

 ふたりの視線がキミコへ向く。

 キミコは少し黙った。

「……私がやった」

「そうだよ!」

 古狸が銀秋を見る。

「だから、お前に言いに来た」

「何で俺なんだよ」

「二度とこいつの餅を食うな」

「分かったよ」

「一個でもだ」

「分かった」

「自分の分を食え」

「分かったって!」

「それから」

「まだあんのかよ」

 古狸は銀秋をじっと見た。

「頼むから、こいつを怒らせるな」

「無理だろ」

「困る」

「俺だって好きで喧嘩してんじゃねえよ」

「お前たちが喧嘩すると、俺が殴られる」

「知らねえよ!」

「俺も投げられた」

「知らねえって!」

 古狸が低く息を吐く。

「俺からはそれだけだ」

「そのために山から来たのか」

「ああ」

「……ご苦労なこった」

「誰のせいだ」

「俺だけのせいにすんなよ」

「餅を食ったのはお前だ」

「分かったよ!」

 銀秋は大きく息を吐いた。

 それからキミコを見る。

 キミコも銀秋を見ていた。

 しばらく、どちらも何も言わなかった。

「……悪かったよ」

 銀秋が言った。

「何が?」

「お前の餅、勝手に食って」

「うん」

「今度から食わねえ」

「一個も?」

「一個も」

「本当に?」

「本当だよ」

 キミコは少し考えた。

「分かった」

 また少し黙る。

「私も悪かった」

「何が」

「銀秋を嫌いって言った」

「……俺も言っただろ」

「うん」

 銀秋はキミコから目を逸らした。

「……悪かったよ」

「今も嫌い?」

「今はもう嫌いじゃねえよ」

「いつから?」

「知らねえよ」

「山にいた時?」

「俺がお前が山にいたこと知るわけねえだろ」

「帰ってきた時は?」

「細けえな、お前」

「知りたい」

 銀秋は黙った。

 少しして、息を吐く。

「……帰ってきた時には、もう怒ってなかったよ」

「でも怒ってる顔だった」

「お前がまだ怒ってそうだったからだよ」

「そう」

「お前は?」

「たぬきの上で寝たら、あまり怒ってなかった」

「……そうかよ」

 キミコは銀秋へ近づいた。

 いつものように、その隣へ座る。

 銀秋は何も言わなかった。

 少しして、キミコが銀秋の袖をつまんだ。

 銀秋はその手を見る。

 それからキミコを見る。

「何だよ」

「何でもない」

「そうかよ」

「うん」

 銀秋は袖を掴む手を振り払わなかった。

 古狸がふたりを見る。

「済んだか」

「……たぶんな」

 銀秋が答えた。

「ならいい」

 古狸が立ち上がる。

「俺は帰る」

「その身体でまた町歩くのか」

「何か問題があるか」

「問題しかねえよ」

「山ではもっと大きい」

「だから何だよ」

 古狸は戸口へ向かった。

 腹がつかえた。

「…………」

 銀秋はそれを見る。

「……戸、壊すなよ」

「入れたのだから出られる」

 古狸はずりずりと身体を動かす。

 やがて、どうにか店の外へ出た。

 祀煙も立ち上がる。

「俺も帰る」

 キミコが顔を上げた。

「屋敷に?」

「はい」

「もう?」

「随分長居しましたから」

「そう」

 キミコは少し黙った。

「……また来る?」

「はい」

「いつ?」

「そのうち」

「分かった」

 キミコは祀煙を見た。

「またね、祀煙」

「はい。また参ります、兄様」

 祀煙は銀秋を見る。

「じゃあな」

「ああ」

 少し間を置いて、銀秋が言った。

「……髪ぼさぼさだな」

「誰のせいだと思ってる」

「俺のせいじゃねえだろ」

 店の外から、低い声がした。

「餅を食ったのはお前だ」

「まだいたのかよ!」

 祀煙は笑った。

 店を出る。

 古狸が待っていた。

 ふたりで通りを歩き出す。

 後ろから、銀秋の声が聞こえた。

「……餅、買いに行くか」

「今?」

「今だよ」

「二個多くして」

「何で二個だよ」

「一個はたぬきの分」

「もう帰っただろ!」

 祀煙は振り返らなかった。

 隣を歩く古狸が言う。

「……あれで大丈夫なのか」

「大丈夫だろ」

「また喧嘩するぞ」

「するだろうな」

「また山へ来たらどうする」

「逃げろ」

「薄情者」

 古狸が鼻を鳴らした。

 祀煙は乱れた髪をかき上げる。

 兄様の様子を見るために京へ来た。

 随分変わったと聞いたからだ。

 実際、その通りだった。

 人間と暮らし、同じ飯を食い、同じところで眠る。

 口付けをして、喧嘩をする。

 餅を一つ取られただけで腹を立て、嫌いだと言って店を飛び出す。

 山へ来て狸に八つ当たりをして、気が済めば眠る。

 そして目を覚ませば、また銀秋のところへ帰っていく。

 銀秋もまた、兄様に嫌いだと言いながら、帰ってくるのを待っていた。

 祀煙は小さく笑った。

「本当に、変わられたな」

「何がだ」

「こっちの話だ」

 古狸はそれ以上聞かなかった。

 しばらく歩いてから、祀煙はふと思った。

 人間とは、生きる長さが違う。

 銀秋は、いつか死ぬ。

 兄様よりずっと早く。

 その時、兄様はどうなるのだろう。

 今日のように腹を立てて、山へ来るのだろうか。

 誰かに八つ当たりをして、眠れば済むのだろうか。

 祀煙には分からなかった。

 ただ、銀秋がいなくなったあとも、今と同じように兄様が笑っている姿だけは、うまく想像できなかった。

 京の町を抜けるところで、ふたりは別れた。

 古狸は山へ。

 祀煙は、自分の屋敷へ帰る。

 祀煙は一度だけ京を振り返った。

 それから煙へと姿を変え、その場から消えた。

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