古狸
昼を少し過ぎた頃だった。
今日は朝から客が多かった。
ようやく客足が途切れたところで、銀秋は表の戸を半分ほど閉め、キミコと店の奥で向かい合って座った。
ふたりで買ってきた飯を食べる。
その傍らには、餅の包みが置いてあった。
キミコは飯を食べ終えると、包みを開いた。
中には餅がいくつか入っている。
一つ取って食べる。
銀秋はまだ飯を食べていた。
キミコは二つ目を食べた。
それから三つ目へ手を伸ばす。
その前に、銀秋の手が伸びた。
一つ取る。
そのまま口へ入れた。
キミコの手が止まった。
「銀秋」
「ん?」
「それ、私の」
銀秋は口へ入れた餅を噛みながら、キミコを見る。
「一個くらいいいだろ」
「私のだった」
「まだあるだろ」
「ある」
「じゃあいいだろ」
「よくない」
「もう食っちまったよ」
「返して」
「無理だろ」
「私のだった」
「分かったって。今度一個多く買ってやる」
「今食べたかった」
「まだあるだろ」
「これはこれ」
「同じ餅だろ」
「違う」
「何が違うんだよ」
「銀秋が食べたのは、私のだった」
銀秋は息を吐いた。
「だから悪かったって」
「悪いと思ってない」
「思ってるよ」
「思ってない」
「思ってるって」
「思ってない」
「……めんどくせえな、お前」
キミコが黙った。
大きな一つ目が、銀秋をじっと見る。
「何だよ」
「銀秋が取った」
「一個だろ」
「私の餅を」
「だから悪かったって言ってるだろ」
「銀秋、嫌い」
銀秋の眉が動いた。
「……餅一個でそこまで言うか?」
「嫌い」
「お前なあ」
「銀秋なんか嫌い」
「俺も今のお前は嫌いだよ」
キミコが黙った。
銀秋も黙る。
ふたりで睨み合った。
「……そう」
「ああ」
「分かった」
「何がだよ」
「もう知らない」
キミコは立ち上がった。
「おい」
「銀秋なんか知らない」
「どこ行くんだ」
「知らない」
「おい、キミコ」
「ついてこないで」
キミコはそのまま店を出ていった。
銀秋も追わなかった。
表の戸からキミコの姿が見えなくなる。
「…………」
銀秋はしばらくそこを見ていた。
やがて、舌打ちする。
「……何なんだよ、餅一個で」
残った餅を見る。
手を伸ばしかけ、やめた。
銀秋は包みを閉じた。
祀煙は、しばらく京に滞在していた。
兄様の様子を見るために来たのだが、思っていたより長く居ついてしまった。
銀秋という人間の店へ顔を出すこともあれば、一人で京の町を歩くこともあった。
兄様はもう、人を喰ってはいなかった。
毎日銀秋と飯を食い、同じところで眠り、時には店に座って銀秋の仕事を眺めている。
以前の兄様からは考えられない暮らしだった。
それも十分に見た。
そろそろ帰ろう。
そう思った日のことだった。
祀煙は、昔馴染みの古狸のことを思い出した。
京の外れからさらに山へ入ったところに、古くから棲んでいる狸がいる。
祀煙がまだ今より若かった頃からの知り合いだった。
最後に会ったのは随分前だ。
帰る前に、顔くらい見ておくか。
そう思い、祀煙は京を出た。
山へ向かう。
人家が少なくなり、やがて道の両側を木々が囲むようになる。
さらに奥へ入っていく。
湿った土の匂いがする。
風が木々の間を抜けていた。
昔とほとんど変わらない。
もう少し行けば、古狸の棲み処がある。
そう思ったところで、祀煙は足を止めた。
音がした。
何か大きなものが地面へ叩きつけられたような音だった。
木々が揺れる。
「……何だ?」
また音がする。
今度はさっきより近かった。
祀煙は歩調を速めた。
木々の間を抜ける。
開けた場所へ出た。
そこで、足を止めた。
「…………」
大きな狸がいた。
見覚えのある姿だった。
山の中に横たわるその身体は、人間の家よりも大きい。
茶褐色の毛が、あちこち乱れている。
昔馴染みの古狸だった。
そして、その前に一人立っている。
「……兄様?」
キミコが振り返った。
「祀煙」
「何をなさってるんです?」
「たぬき」
「……狸ですが」
古狸が低く唸った。
「祀煙」
「久しぶりだな」
「久しぶり、ではない」
地の底から響くような低い声だった。
「こいつをどうにかしろ」
祀煙はキミコを見る。
「兄様、何をなさったんです?」
「何も」
「何もしてない奴が、こんな姿になるわけないでしょう」
祀煙はぼさぼさになった古狸を見ながら言う。
「俺は寝ていただけだ」
古狸が言った。
「起きたらこいつがいた」
「……そうか」
「それからずっとこれだ」
祀煙は額へ手をやった。
「兄様」
「何?」
「どうして狸に当たってるんです」
「腹が立ったから」
「狸に?」
「銀秋に」
「…………」
祀煙は黙った。
古狸も黙った。
「銀秋に腹が立って、どうしてこいつがこうなるんです?」
「たぬきがいたから」
「俺はいただけだ」
祀煙は息を吐いた。
「銀秋と何があったんです?」
「餅を食べた」
「……誰が?」
「銀秋」
「……兄様の餅を?」
「一個」
祀煙はしばらく何も言わなかった。
「それだけですか?」
キミコは少し黙った。
「今のお前は嫌いって言われた」
祀煙が目を細める。
「……銀秋に?」
「うん」
「兄様は何と?」
「私も嫌いって言った」
「そうですか」
横たわった古狸が祀煙を見る。
「それで俺はこうなった」
「……災難だったな」
「他人事のように言うな」
「他人だからな」
「止めろ」
祀煙はもう一度息を吐いた。
「兄様。もうそのくらいになさってください」
「まだ腹が立ってる」
「狸には関係ないでしょう」
「知ってる」
「でしたら――」
祀煙はキミコへ近づいた。
「一度落ち着いてください」
肩へ手を伸ばす。
その手首を、キミコに掴まれた。
「……兄様?」
次の瞬間、身体を引かれた。
足が地面を離れる。
そのまま勢いよく振られ、祀煙の身体が宙へ投げ出された。
「…………」
視界が回る。
祀煙は空中で身体を捻った。
地面が近づく。
足から降りる。
少し滑ったが、倒れはしなかった。
祀煙は顔を上げた。
「兄様」
「邪魔」
「止めてるんですよ」
歩いて戻る。
古狸が祀煙を見る。
「お前も大変だな」
「誰のせいだ」
「俺ではない」
「……そうだな」
祀煙は再びキミコの前へ立った。
「兄様」
「何?」
「銀秋に腹が立っているなら、銀秋と話してください」
「嫌」
「なぜ」
「今は顔を見たくない」
「だからといって狸に――」
キミコが祀煙の腕を掴んだ。
「兄様、待っ――」
言い終わる前に身体を引かれる。
祀煙の足が浮いた。
そのまま大きく振られ、遠くへ投げ飛ばされる。
「兄様!」
今度はさっきより遠くまで飛んだ。
祀煙は空中で体勢を整える。
足から地面へ降りる。
髪が頬へかかった。
「…………」
祀煙は髪を払った。
また戻る。
「何度投げるんですか」
「祀煙が邪魔するから」
「止めてるんです」
「邪魔」
キミコが祀煙の腕を掴んだ。
「あ」
身体が引かれる。
三度目だった。
祀煙は抵抗する間もなく、また宙へ投げ出された。
また着地する。
今度は少し髪が乱れた。
「…………」
祀煙は戻った。
「兄様」
「何?」
「餅一個でしょう」
「私のだった」
「それは分かりました。銀秋にはそう仰ったんですか?」
「言った」
「何と返されたんです?」
「一個くらいいいだろって」
「…………」
祀煙は少し考えた。
「それは銀秋も悪いですね」
「そうだろう」
キミコが頷く。
古狸が顔を上げた。
「だからといって俺を殴るな」
「それもそうです」
祀煙が言った。
「でも腹が立つ」
「知るか」
キミコが古狸へ近づく。
古狸が身構えた。
祀煙はふたりの間へ入った。
「兄様、もう――」
今度は衣の袖を掴まれた。
「兄様!!」
そのまま身体を振られる。
四度目だった。
祀煙は勢いよく宙へ放られた。
空中で身体を捻る。
地面へ降りる。
髪を束ねていたものが緩み、何本か頬へ落ちた。
祀煙は黙った。
「…………」
もう戻らなかった。
近くの木の根元へ腰を下ろす。
古狸が遠くから言った。
「諦めたか」
「好きにしろ」
「俺が困る」
「知らん」
「祀煙」
「何だ」
「助けろ」
「四回投げられた」
「俺はもっとやられている」
「なら頑張れ」
「薄情者」
「うるさい」
また大きな音がした。
それからもう一度。
やがて、静かになった。
祀煙は顔を上げた。
古狸が地面へ仰向けに横たわっている。
その大きな腹の上に、キミコがいた。
仰向けになり、毛へ身体を沈めている。
目を閉じていた。
「…………」
祀煙は立ち上がった。
近づく。
「兄様?」
返事はない。
古狸が低い声で言った。
「寝た」
「……そうか」
「やっとだ」
祀煙はキミコを見る。
すっかり眠っている。
古狸が深く息を吐いた。
大きな腹が上下する。
そのたび、キミコの身体もゆっくり持ち上がり、また沈む。
「随分やられたな」
「死ぬかと思った」
「その程度で死ぬか」
「気分の話だ」
祀煙は古狸の横へ腰を下ろした。
乱れた髪を整える。
「お前も飛んでいたな」
「四回だ」
「全部戻ってきた」
「止めようとしたんだよ」
「止まってなかったぞ」
「うるさい」
古狸が鼻を鳴らした。
しばらく、ふたりとも黙っていた。
風が木々を揺らす。
キミコは起きない。
「……餅一個か」
古狸が言った。
「ああ」
「俺は餅一個でこれか」
「そうらしい」
「納得できん」
「俺もだ」
古狸がしばらく黙る。
「銀秋というのは、こいつと暮らしている人間か」
「ああ」
「そいつに一言言う」
祀煙が古狸を見る。
「何を」
「二度とこいつの餅を食うなと」
「わざわざ京まで行くのか」
「行く」
「銀秋に殴られたわけじゃないだろ」
「元を辿れば銀秋だ。餅を食わなければ、こいつは来なかった」
「……まあ、それはそうだが」
「俺は寝ていただけだ」
「ああ」
「起こされた」
「ああ」
「殴られた」
「聞いた」
「一言くらい言わせろ」
「好きにしろ」
それからしばらく経って、キミコが目を覚ました。
大きな一つ目が開く。
「……祀煙」
「おはようございます、兄様」
キミコは古狸の腹の上で身体を起こした。
「寝てた」
「ええ。よく眠られていましたね」
「どのくらい?」
「しばらくです」
「そう」
キミコは古狸の腹を撫でた。
「たぬき」
「何だ」
「気が済んだ」
「二度と怒って来るな」
「分かった」
「遊びに来るなら構わん」
「うん」
「本当だな」
「うん」
キミコは古狸の腹から降りた。
祀煙も立ち上がる。
「兄様、京へ戻られますか」
「うん」
「では、ご一緒します」
「祀煙も?」
「はい。私もそろそろ、自分の屋敷へ戻ります」
「そう」
キミコが祀煙を見る。
少しして、その髪へ目を向けた。
「髪、ぼさぼさ」
「誰のせいですか」
「私」
「分かっていらっしゃるなら結構です」
「ごめん」
祀煙はキミコを見る。
「……もう投げないでくださいね」
「祀煙が邪魔しなければ」
「また止めますよ」
「じゃあ投げる」
「兄様」
キミコが少し笑った。
その後ろで、古狸が起き上がる。
祀煙が振り返った。
「……お前も来るのか」
「行くと言っただろう」
「その身体で?」
「少し小さくなる」
古狸の身体が縮んでいく。
山の中で家ほどもあった巨体が、少しずつ小さくなる。
やがて止まった。
それでも大きい。
人より遥かに大きく、銀秋の店の戸口をどうにか通れそうなほどだった。
祀煙は古狸を見る。
「……それで小さくなったつもりか」
「なっただろう」
「まあ、さっきよりはな」
「十分だ」
キミコが古狸を見る。
「小さい」
「兄様まで何を言ってるんです」
キミコと祀煙、古狸は山を下りた。
京へ近づくにつれて、人の姿が増えていく。
古狸を見る者も増えた。
道の端へ避ける者。
立ち止まる者。
遠巻きについてくる者もいる。
古狸は気にした様子もなく歩いていた。
やがて銀秋の店が見えた。
表の戸は開いている。
銀秋は帳場に座っていた。
キミコが先に店へ入る。
銀秋が顔を上げた。
ふたりの目が合う。
「……帰ったのか」
「うん」
それだけだった。
銀秋はまだ少し不機嫌そうだった。
キミコも銀秋のそばへは行かなかった。
祀煙が後から入る。
銀秋が祀煙を見る。
「お前も一緒だったのか」
「ああ」
銀秋が眉を寄せた。
「……髪どうした」
「兄様に投げられた」
「は?」
「四回」
銀秋がキミコを見る。
「お前、何してたんだ」
「祀煙が邪魔した」
「何の邪魔だよ」
「たぬき」
「……狸?」
その時だった。
店の中が暗くなった。
銀秋が表を見る。
巨大な狸の顔が、戸口から中を覗いていた。
「…………」
銀秋は黙った。
古狸も銀秋を見る。
「……何だ、お前」
「たぬき」
キミコが代わりに答えた。
「でかくないか」
古狸が店へ入ろうとする。
頭が戸口をくぐる。
肩も入った。
腹がつかえた。
「…………」
古狸は身体を横へ向けた。
ずりずりと入ってくる。
銀秋はそれを見ながら言う。
「おい。なんでこんなでっかい狸連れてきたんだ」
「話がある」
「喋った!」
古狸は答えない。
どうにか腹が入った。
最後に大きな尻と尻尾が入ってくる。
店の中が一気に狭くなった。
古狸は銀秋の前へ座る。
尻尾が動いた。
「おい」
銀秋が言った。
「尻尾動かすな。質物に当たる」
尻尾が止まった。
「分かった」
「聞き分けはいいな……」
古狸は銀秋を見た。
「お前が銀秋か」
「……そうだが」
「こいつの餅を食ったそうだな」
「…………」
銀秋がキミコを見る。
キミコは古狸の毛にすっかり埋まっていた。
片手で毛を掴み、指の間を通す。
柔らかいのが気に入ったらしい。
「お前、狸にまで話したのか」
「聞いた」
古狸が言った。
「一個食ったそうだな」
「……食ったよ」
「なぜ食った」
「そこにあったからだよ」
「お前のものではないだろう」
「……買ったのは――」
「人のものを勝手に食うな」
銀秋の言葉を古狸が遮る。
「……はい」
祀煙は横を向いた。
銀秋が祀煙を見る。
「お前、今笑っただろ」
「笑ってない」
「笑ってんだろ」
「話を聞け」
古狸の低い声が響く。山の主らしく、威厳のある声だった。
銀秋が古狸へ向き直った。
「聞いてるよ」
「食い物の恨みは恐ろしいぞ」
「身をもって知った顔してんな」
「知った」
古狸の毛は、まだあちこち乱れている。
「俺は寝ていた」
「……ああ」
「起きたらこいつがいた」
「……ああ」
「殴られた」
「…………」
「何度もだ」
銀秋がキミコを見る。
「お前なあ……」
「銀秋が悪い」
「俺も悪かったけど、こいつ関係ねえだろ!」
「俺もそう言った」
祀煙が言う。
「止めたら四回投げられた」
「だから髪がそうなってんのかよ!」
「ああ」
銀秋は額を押さえた。
「何してんだ、お前ら……」
「俺は寝ていただけだ」
古狸が言う。
「俺は止めただけだ」
祀煙が言う。
ふたりの視線がキミコへ向く。
キミコは少し黙った。
「……私がやった」
「そうだよ!」
古狸が銀秋を見る。
「だから、お前に言いに来た」
「何で俺なんだよ」
「二度とこいつの餅を食うな」
「分かったよ」
「一個でもだ」
「分かった」
「自分の分を食え」
「分かったって!」
「それから」
「まだあんのかよ」
古狸は銀秋をじっと見た。
「頼むから、こいつを怒らせるな」
「無理だろ」
「困る」
「俺だって好きで喧嘩してんじゃねえよ」
「お前たちが喧嘩すると、俺が殴られる」
「知らねえよ!」
「俺も投げられた」
「知らねえって!」
古狸が低く息を吐く。
「俺からはそれだけだ」
「そのために山から来たのか」
「ああ」
「……ご苦労なこった」
「誰のせいだ」
「俺だけのせいにすんなよ」
「餅を食ったのはお前だ」
「分かったよ!」
銀秋は大きく息を吐いた。
それからキミコを見る。
キミコも銀秋を見ていた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
「……悪かったよ」
銀秋が言った。
「何が?」
「お前の餅、勝手に食って」
「うん」
「今度から食わねえ」
「一個も?」
「一個も」
「本当に?」
「本当だよ」
キミコは少し考えた。
「分かった」
また少し黙る。
「私も悪かった」
「何が」
「銀秋を嫌いって言った」
「……俺も言っただろ」
「うん」
銀秋はキミコから目を逸らした。
「……悪かったよ」
「今も嫌い?」
「今はもう嫌いじゃねえよ」
「いつから?」
「知らねえよ」
「山にいた時?」
「俺がお前が山にいたこと知るわけねえだろ」
「帰ってきた時は?」
「細けえな、お前」
「知りたい」
銀秋は黙った。
少しして、息を吐く。
「……帰ってきた時には、もう怒ってなかったよ」
「でも怒ってる顔だった」
「お前がまだ怒ってそうだったからだよ」
「そう」
「お前は?」
「たぬきの上で寝たら、あまり怒ってなかった」
「……そうかよ」
キミコは銀秋へ近づいた。
いつものように、その隣へ座る。
銀秋は何も言わなかった。
少しして、キミコが銀秋の袖をつまんだ。
銀秋はその手を見る。
それからキミコを見る。
「何だよ」
「何でもない」
「そうかよ」
「うん」
銀秋は袖を掴む手を振り払わなかった。
古狸がふたりを見る。
「済んだか」
「……たぶんな」
銀秋が答えた。
「ならいい」
古狸が立ち上がる。
「俺は帰る」
「その身体でまた町歩くのか」
「何か問題があるか」
「問題しかねえよ」
「山ではもっと大きい」
「だから何だよ」
古狸は戸口へ向かった。
腹がつかえた。
「…………」
銀秋はそれを見る。
「……戸、壊すなよ」
「入れたのだから出られる」
古狸はずりずりと身体を動かす。
やがて、どうにか店の外へ出た。
祀煙も立ち上がる。
「俺も帰る」
キミコが顔を上げた。
「屋敷に?」
「はい」
「もう?」
「随分長居しましたから」
「そう」
キミコは少し黙った。
「……また来る?」
「はい」
「いつ?」
「そのうち」
「分かった」
キミコは祀煙を見た。
「またね、祀煙」
「はい。また参ります、兄様」
祀煙は銀秋を見る。
「じゃあな」
「ああ」
少し間を置いて、銀秋が言った。
「……髪ぼさぼさだな」
「誰のせいだと思ってる」
「俺のせいじゃねえだろ」
店の外から、低い声がした。
「餅を食ったのはお前だ」
「まだいたのかよ!」
祀煙は笑った。
店を出る。
古狸が待っていた。
ふたりで通りを歩き出す。
後ろから、銀秋の声が聞こえた。
「……餅、買いに行くか」
「今?」
「今だよ」
「二個多くして」
「何で二個だよ」
「一個はたぬきの分」
「もう帰っただろ!」
祀煙は振り返らなかった。
隣を歩く古狸が言う。
「……あれで大丈夫なのか」
「大丈夫だろ」
「また喧嘩するぞ」
「するだろうな」
「また山へ来たらどうする」
「逃げろ」
「薄情者」
古狸が鼻を鳴らした。
祀煙は乱れた髪をかき上げる。
兄様の様子を見るために京へ来た。
随分変わったと聞いたからだ。
実際、その通りだった。
人間と暮らし、同じ飯を食い、同じところで眠る。
口付けをして、喧嘩をする。
餅を一つ取られただけで腹を立て、嫌いだと言って店を飛び出す。
山へ来て狸に八つ当たりをして、気が済めば眠る。
そして目を覚ませば、また銀秋のところへ帰っていく。
銀秋もまた、兄様に嫌いだと言いながら、帰ってくるのを待っていた。
祀煙は小さく笑った。
「本当に、変わられたな」
「何がだ」
「こっちの話だ」
古狸はそれ以上聞かなかった。
しばらく歩いてから、祀煙はふと思った。
人間とは、生きる長さが違う。
銀秋は、いつか死ぬ。
兄様よりずっと早く。
その時、兄様はどうなるのだろう。
今日のように腹を立てて、山へ来るのだろうか。
誰かに八つ当たりをして、眠れば済むのだろうか。
祀煙には分からなかった。
ただ、銀秋がいなくなったあとも、今と同じように兄様が笑っている姿だけは、うまく想像できなかった。
京の町を抜けるところで、ふたりは別れた。
古狸は山へ。
祀煙は、自分の屋敷へ帰る。
祀煙は一度だけ京を振り返った。
それから煙へと姿を変え、その場から消えた。




