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スダマの鬼  作者: 肉
34/52

好きなもの

 男は、まだ生きていた。

 乱霧(らんぎり)は開いた腹を覗き込んでいた。

 中にあるものを一つずつ眺める。

 知っているものもあれば、よく分からないものもある。

 人間の身体を見るのは、これが初めてではない。

 何十人も見た。

 それでも、同じものばかりではなかった。

「ふうん」

 乱霧は顔を近づけた。

 指先で、ひとつを少し持ち上げる。

 形を見る。

 隣にあるものと見比べる。

 男の身体が小さく震えた。

 乱霧が顔を上げる。

「何?」

 男の口が動いた。

 声にはならなかった。

「聞こえない」

 もう一度、口が動く。

 乱霧はしばらく待った。

 男の呼吸が浅くなっていた。

 開いた腹から、血が流れ続けている。

 乱霧はそこを見る。

「駄目」

 片手を男の腹へかざした。

 その手の下が、薄く白く光る。

 淡い光が傷口を覆った。

 流れていた血が、少しずつ止まっていく。

 完全に元へ戻るわけではない。

 開いた腹はそのままだった。

 ただ、すぐに死なないように。

 乱霧は男の顔を見る。

「まだ死なせないわ」

 笑った。

「頑張ってね」

 男の口がわずかに開いた。

 乱霧はまた腹へ目を戻す。

 まだ見ていないところがある。

 指を入れる。

 少し動かす。

「これは何だろう」

 知っているものの隣に、知らないものがある。

 乱霧はそれを眺めた。

 しばらくすると、また血が流れ始めた。

「もう?」

 手をかざす。

 薄い白い光が灯る。

 血が止まる。

「これでいい」

 乱霧はまた続きを始めた。

 男の身体は、ときどき震えた。

 呼吸も何度か弱くなった。

 そのたびに乱霧は手をかざした。

 白い光が灯る。

 血が止まる。

 少しだけ身体が持ち直す。

 それを何度か繰り返した。

 乱霧は飽きずに腹の中を眺めていた。

 男が何かを言った。

 乱霧が顔を上げた。

 口が動く。

 乱霧は耳を近づけた。

 それでも、聞き取れなかった。

 男はもう一度、何かを言おうとした。

 口だけがわずかに動いた。

 やがて、それも止まった。

 乱霧はしばらく待った。

「あ」

 胸を見る。

 動いていない。

 乱霧は手をかざした。

 白い光が薄く灯る。

 だが、男は動かなかった。

「死んじゃった」

 少し残念そうに言った。

 まだ見たいところがあった。

 乱霧はもう一度、男の腹を見る。

 だが、死んだものを見ても仕方がない。

 乱霧は立ち上がった。

 手についた血を眺める。

「まあ、いいか」

 乱霧はその場を離れた。




 乱霧が祀煙(しえん)のところへ現れたのは、日が暮れてからだった。

 山を降りたところに、祀煙の屋敷がある。

 周囲には結界が張られ、その内側にはいくつかの灯りが見えていた。

 乱霧は屋敷の前まで来ると、足を止めた。

 これ以上は進まない。

 結界があることは知っている。

 触れようともせず、その向こうにある屋敷を眺める。

「相変わらずね」

 乱霧は扇を開いた。

 そのまま待っていると、しばらくして屋敷の方から人影が近づいてきた。

 祀煙だった。

 祀煙は乱霧の姿を認め、足を止めた。

「何しに来た」

「久しぶりに会った妹に、それ?」

「お前が来ると面倒だ」

「入れてくれないの?」

「入れるわけがない」

「妹を信用しないの?」

「それだけ血の匂いを纏っておいて、何が信用だ」

 祀煙は結界を越えた。

 乱霧と同じ側へ出る。

「それで、何の用だ」

「別に」

「帰れ」

「せっかちね」

 乱霧は扇で口元を隠した。

「キミコに会ってきた」

 祀煙の顔から、わずかに険が消えた。

「姉様に?」

「うん」

「どこにいらっしゃる」

「ずいぶん遠く」

「お元気だったか」

「元気だったわ」

「そうか」

 祀煙は短く息を吐いた。

「なら、もう帰れ」

「まだ何も話してないわ」

「姉様がお元気なら、それでいい」

「随分変わってたけどね」

 祀煙が乱霧を見る。

 乱霧は楽しそうに笑っていた。

「何が」

「色々」

「色々って何だ」

「身体も変わってた」

 祀煙の眉が動いた。

「今は男よ」

「知っている。俺と同じくらいの」

「それよりずっと小さくなってた」

「……姉様がそうなさったのか?」

「どうだろうね」

 乱霧は扇を揺らした。

「それに、人間と暮らしてる」

 祀煙は黙った。

「……人間と?」

「男」

「喰わずに?」

「喰わずに」

「殺さずに?」

「殺さずに」

「何をなさってるんだ」

「一緒に暮らしてる」

 祀煙はしばらく何も言わなかった。

 乱霧はその顔を眺めている。

「驚いた?」

「……少しな」

「私は随分驚いたわ」

「お前が何かしたんじゃないだろうな」

「失礼ね」

「何もしてないのか」

「してない」

 乱霧は笑った。

「少し話をしただけ」

「本当にそれだけか?」

「手は落とされたけど」

「何をした」

「近づいただけ」

「姉様に?」

「その男に」

 祀煙は目を閉じた。

「お前は——」

「キミコ、あの男に随分入れ込んでるみたい」

 祀煙が目を開ける。

「姉様が?」

「いなくなったら嫌なんだって」

 乱霧は扇の向こうで笑った。

「死んでも嫌。他の誰かと暮らすのも嫌。傷つくのも嫌」

 祀煙は何も言わない。

「綺麗だとも言われたって」

「……姉様が?」

「嬉しかったみたい」

 祀煙の顔に、わずかな戸惑いが浮かんだ。

「本当に姉様の話か?」

「だから面白いんじゃない」

「面白がるな」

「祀煙も見たら分かるわ」

「何が」

「キミコが変わったって」

 乱霧は扇を閉じた。

「じゃあね」

「待て」

 乱霧が振り返る。

「何?」

 祀煙は少し迷った。

「姉様は、どこにいらっしゃる」

 乱霧は笑った。




 昼を過ぎた頃だった。

 朝から空は曇っていた。

 雨は降っていないが、風は冷たい。

 通りを歩く者の中には、肩をすくめて歩いている者もいた。

 銀秋は帳場に座り、帳簿を開いていた。

 表の戸は開いている。

 通りからは、人の声や足音が絶えず聞こえていた。

 朝から何人かの客が出入りしていたが、今は少し途切れている。

 その隣には、キミコがいた。

 銀秋は帳簿へ一文字書きつけると、少し身体を横へ寄せた。

 肩がキミコの肩に触れる。

 キミコが銀秋を見る。

「銀秋」

「何だ」

「近い」

「寒いんだよ」

「私は寒くない」

「知ってる」

 銀秋は離れなかった。

 キミコの身体は温かい。

 こうしてそばにいれば、肌寒い店の中でも随分ましだった。

「温かいからな、お前」

「そう?」

「ああ」

 キミコは少し考えた。

 それから、自分から銀秋へ身体を寄せる。

 肩だけでなく、腕まで触れた。

「これならいい?」

「いいよ」

 銀秋は帳簿へ目を戻した。

 キミコは身体を寄せたまま、その手元を眺めている。

 開いた戸の向こうでは、人々が行き交っていた。

 荷を背負って歩く者もいれば、誰かと話しながら通り過ぎる者もいる。

 風が吹くたび、店先の布がわずかに揺れた。

 銀秋は筆を動かした。

 そのときだった。

 キミコが顔を上げる。

 通りを見る。

「祀煙」

 銀秋の手が止まった。

「何?」

 キミコは答えなかった。

 立ち上がり、そのまま表へ向かう。

「おい」

 キミコは店先に出た。

 銀秋は筆を置く。

 その姿を目で追った。

 キミコに迷う様子はない。

 その先に、一人の男がいた。

 背の高い男だった。

 黒い狩衣を身につけ、長い黒髪を後ろでまとめている。

 随分な男前だった。

 立ち姿にも隙がない。

 行き交う人々の中にいても、自然と目につく男だった。

 銀秋は少し眉を上げた。

 あれが祀煙か。

 キミコから話には聞いていた。

 だが、どんな姿をしているのかまでは知らなかった。

「祀煙」

 男がキミコを見る。

「姉——」

 言いかけて、止まった。

 祀煙は目の前まで来たキミコを改めて見た。

 乱霧から聞いてはいた。

 それでも、記憶にある姿よりずっと小さい。

「……兄様」

「うん」

「お久しぶりです」

「久しぶり」

 キミコは祀煙の前まで行った。

 腕を上げる。

 そのまま抱きつこうとして、止まった。

 祀煙が首を傾げる。

「どうなさいました?」

 キミコは腕を下ろした。

「浮気者」

「……まだ覚えていらっしゃるんですか」

「覚えてる」

「あれは随分前のことでしょう」

「お前は私より女を選んだ」

「兄様がうちの女たちを喰おうとなさったからでしょう」

「私より女を選んだ」

「ですから、そういう話ではありません」

 キミコは祀煙を見る。

「喋り方も違った」

 祀煙が黙る。

「……違いましたか?」

「違った」

「覚えていませんね」

「嘘だ」

 祀煙は何も言わなかった。

「荒っぽかった」

「兄様」

「私に、お前って言った」

 祀煙が少し目を逸らす。

「覚えてるな」

 キミコはじっとりと祀煙を見た。

「……あの時は、余裕がなかったんですよ」

「いつもは姉様って言う」

「はい」

「お前って言った」

「……言いましたね」

「浮気者」

「それと浮気は関係ないでしょう」

「ある」

「ありません」

「ある」

 祀煙は息を吐いた。

「随分細かいところまで覚えていらっしゃいますね」

「祀煙のことだから覚えてる」

 祀煙が一瞬、黙った。

「……そうですか」

「でも浮気者」

「そこへ戻るんですか」

「浮気者」

「分かりましたから」

「分かってない」

「では、どうしろと仰るんですか」

「知らない」

「困りましたね」


「お前ら」


 銀秋の声がした。

 二人が振り返る。

 銀秋は帳場から二人を見ていた。

「そこでいつまで喋ってるんだ」

 キミコが銀秋を見る。

「祀煙が来た」

「分かったよ」

 銀秋は祀煙を見る。

「話すなら中入れ」

 キミコはすぐに店へ戻った。

 祀煙も少し遅れて後に続く。

 銀秋は二人が入ってくるのを待った。

 祀煙を見る。

 祀煙も銀秋を見る。

「銀秋だ」

「祀煙だ」

「乱霧から俺のことは聞いてるんだろ」

「ああ」

「俺もお前のことはキミコから聞いてるよ」

「そうか」

 銀秋は祀煙を見た。

 それから、キミコを見る。

「しかし、お前の身内はどうなってんだ」

「何が?」

「あの女は姉様って呼んでただろ」

「乱霧?」

「ああ。今度はこいつが兄様だ」

 銀秋は祀煙を指した。

「どうなってんだ、お前ら」

 キミコは少し考えた。

「私は一人だ」

「そういう話してねえよ」

 祀煙がわずかに笑った。

「兄様は今、男でしょう」

「女だった頃もあるのか」

 銀秋はキミコを見る。

「ころころ変わるんだな」

 銀秋は息を吐いた。

「で、わざわざこいつに会いに来たのか」

「ああ。乱霧から、兄様が随分変わられたと聞いた」

「それで見に来たと」

「そういうことだ」

 銀秋は少し頷いた。

「しかし、お前はあの女と違って話が通じそうだな」

「乱霧か?」

「ああ」

「何をされた」

「色々だよ」

「そうか」

「否定しねえんだな」

「乱霧だからな」

「身内からもそういう扱いなのかよ」

「お前も会ったなら分かるだろ」

「まあな」

 銀秋は少し肩の力を抜いた。

 祀煙は改めてキミコを見る。

「以前より随分小さくなられましたね」

「うん」

「兄様がそうなさったんですか?」

「勝手になった」

「勝手に?」

「銀秋と同じくらいになって、それからまた小さくなった」

 祀煙が銀秋を見る。

「お前と暮らし始めてからか」

「ああ」

「そうか」

 祀煙はキミコへ目を戻した。

「ここで暮らしていらっしゃるんですか?」

「うん」

「銀秋と?」

「うん」

 キミコは微笑んだ。

「飯も一緒に食べる」

「はい」

「寝るのも一緒だ」

「おい」

 銀秋が口を挟んだ。

「そこまで説明しなくていい」

「どうして?」

「どうしてもだ」

「口付けもする」

「それはもっと言わなくていい」

 祀煙が銀秋を見る。

「何だよ」

「いや」

「何だ」

「何も言ってないだろ」

 キミコが続ける。

「毎晩する」

「もういいって」

「毎晩?」

 祀煙が尋ねる。

「うん」

「お前も聞くな」

 祀煙はしばらく二人を見ていた。

「本当に変わられましたね」

「変わってない」

「そうですか」

「うん」

「では、そういうことにしておきます」

 キミコは満足したようだった。

 祀煙はそんなキミコを見ていたが、ふとその衣へ目を止めた。

 淡い薄紅の小袖だった。

 草花の文様が入っている。

「兄様、その衣は?」

 キミコは自分の袖を見る。

「これ?」

「はい」

「銀秋が買ってくれた」

 祀煙が銀秋を見る。

「お前が?」

「ああ」

「選んだのも?」

「俺だよ」

 祀煙はもう一度、キミコの小袖を見る。

「お気に入りなんですか?」

「うん。好き」

 キミコは袖を持ち上げた。

「できるまで長かった」

「数日だ」

 銀秋が言う。

「長かった」

「毎日まだかって聞きに行ってただろ」

「待った」

「それを待ったとは言わねえよ」

 祀煙は二人のやり取りを眺めた。

 それから、店の棚へ目を向ける。

 そこにはいくつもの衣が畳まれていた。

「兄様は、衣がお好きなんですか?」

「好き」

「そうでしたか」

 祀煙は棚を見る。

「この店の中で、欲しいものはありますか?」

「欲しいもの?」

「はい」

「どうして?」

「お好きなのでしょう」

「うん」

「でしたら、何か買いますよ」

 銀秋が祀煙を見る。

「お前、急だな」

「そうか?」

「そうだろ」

 キミコは立ち上がった。

 棚の前へ行き、並んだ衣を眺める。

 そのうちの一枚を指した。

「これは?」

 銀秋が見る。

「それは駄目だ。まだ質に入ってるだけだからな」

「そう」

 キミコは隣の衣を見る。

「これは?」

「それなら売れる」

 祀煙が尋ねる。

「兄様、お好きですか?」

「好き」

「では、それを」

 銀秋が祀煙を見る。

「本当に買うのかよ」

「兄様がお好きなんだろ」

「まあな」

 キミコはまた別の衣を指した。

「これも好き」

「それも売れる」

「では、それも」

「これも」

「それも買う」

 銀秋は黙って祀煙を見た。

「……お前、何着買う気だ」

「兄様がお好きなものを」

「全部買うつもりじゃねえだろうな」

「兄様がお好きなら」

「お前、こいつに甘いな」

「そうか?」

「そうだろ」

 祀煙はキミコを見る。

「兄様がお好きなら、それでいい」

「そういうところだよ」

 銀秋は息を吐いた。

「まあ、俺は売れりゃ文句ねえけどな」

 キミコが棚を見る。

「他に売れるのは?」

「お前も完全にその気じゃねえか」

「どれ?」

「……待ってろ」

 銀秋は立ち上がった。

 棚の前へ行き、一枚ずつ確かめていく。

「これはまだ駄目だ。これもだ。こっちは質流れしてる」

「好き」

「では、それも」

「即決すんな」

「兄様がお好きだと言っている」

「そうだけどよ」

 結局、売ることのできる衣のほとんどを、祀煙は買うことになった。

 銀秋が値を告げる。

 祀煙は懐へ手を入れた。

 しばらく探る。

 それから、手を止めた。

「足りないな」

「おい」

 銀秋が祀煙を見る。

 祀煙は特に困った様子もなかった。

「少し待て」

 そう言うと、片方の腕を持ち上げた。

 肘から先が、ふっと崩れる。

 灰色の煙になった。

「……は?」

 銀秋が目を見開く。

 煙は祀煙の身体の脇で揺れた。

 その中で、何かを探すように動いている。

 祀煙は何食わぬ顔で待っていた。

 やがて煙がまとまり始める。

 肘から先が元の形へ戻った。

 その手には、銭が握られていた。

 銀秋がぎょっとする。

「お前、今どこから出した」

「少し遠いところから」

「少し遠いってどこだよ」

「俺の屋敷だ」

「腕で取りに行くな」

 祀煙は何でもないように、銭を銀秋の前へ置いた。

「これで足りるか」

 銀秋は祀煙の腕と銭を交互に見る。

 値切るつもりもないらしい。

 銀秋は受け取った銭を数える。

「……お前、いい客だな」

「そうか」

「また来い」

「銀秋」

 キミコが銀秋を見る。

「何だよ」

「祀煙はここに住んでいない」

「知ってるよ」

 買った衣は、キミコの前に重ねられていた。

 キミコは一枚を手に取る。

 広げて眺める。

 次の一枚も見る。

 その下も見る。

 色も柄も違っている。

 キミコはもう一枚を手に取った。

「全部、私の?」

「はい」

「全部?」

「全部です」

 キミコはしばらく衣を見ていた。

 それから、祀煙を見る。

「祀煙」

「はい、兄様」

「ありがとう」

「どういたしまして」

 キミコは手にしていた衣を置いた。

 立ち上がる。

 祀煙の前まで行く。

「祀煙」

「はい」

「好き」

 キミコは祀煙へ腕を回した。

 今度は止まらなかった。

 祀煙はキミコを受け止める。

 それから、少しはにかんだように言う。

「兄様、急に来ないでください」

 キミコが顔を上げる。

「嫌か?」

「いいえ」

 祀煙もキミコの背へ腕を回した。

 銀秋は二人を眺めている。

「お前、やっぱりこいつに甘いな」

 祀煙が銀秋を見る。

「そうか?」

「売れる衣、ほとんど買っただろ」

「兄様がお好きだからな」

「だから、それが甘いんだよ」

 キミコは祀煙を抱いたまま言った。

「祀煙」

「はい、兄様」

「もっと好き」

 祀煙は少し笑った。

「ありがとうございます、兄様」

 銀秋は何も言わず、空になった棚を見ていた。

 それから、祀煙を見る。

「こいつ、昔から衣が好きだったのか」

「いや」

 祀煙は答えた。

「少なくとも、俺が知っている頃は違った」

「そうなのか」

「ああ」

 キミコは祀煙から離れ、買ってもらった衣の前へ戻った。

 一枚を手に取り、膝の上へ広げる。

 祀煙はその様子を見た。

「兄様は昔、鬼の屋敷に囚われていた」

 銀秋が祀煙を見る。

「……囚われてた?」

「ああ。座敷牢にな」

 銀秋の目がキミコへ向く。

 キミコは何も言わない。

 膝の上の衣を見ている。

「そんな話、聞いてねえぞ」

 キミコは黙ったままだった。

 銀秋もしばらくキミコを見ていたが、それ以上は聞かなかった。

「その頃、花や菓子を持っていった」

「それは聞いたことがある」

「そうか」

 祀煙はキミコを見る。

「何を渡しても、今のようには喜ばなかった」

 銀秋は黙って聞いている。

「花は見るだけだった。菓子も、ただ持っていた」

「……ああ」

「欲しいとも、好きとも言わなかった」

 祀煙は少し間を置いた。

「何を考えているのか、俺にもよく分からなかった」

 銀秋はキミコを見る。

 キミコは黙ったまま、衣の文様を指でなぞっている。

「今は分かりやすいな」

「ああ」

 キミコは次の衣を手に取った。

「これも好き」

 銀秋が少し笑った。

「……本当にな」

 祀煙もわずかに笑う。

「そうだな」

 キミコが二人を見る。

「何?」

「何でもねえよ」

 銀秋が答えた。

 キミコはまた衣へ目を戻した。

 祀煙はその姿をしばらく眺めていた。

「兄様」

「何」

「今は、好きなものがたくさんあるんですね」

 キミコは少し考えた。

「うん」

 それだけ答えて、また衣へ目を戻した。

 やがて、店の外から足音が近づいてくる。

 銀秋が表を見る。

 一人の客が、店の前で足を止めた。

 祀煙もそちらへ目を向ける。

「客か」

「ああ」

 銀秋が答えた。

 祀煙は立ち上がる。

「では、俺はそろそろ行く」

 キミコが顔を上げた。

「帰るの?」

「はい」

「もう?」

「商売の邪魔はしたくありませんので。ですが、しばらく京にいるつもりです」

「また来る?」

「そのうち来ますよ」

 キミコは祀煙を見たまま言った。

「本当に来る?」

「本当に来ます」

「分かった」

 祀煙は銀秋を見る。

「また顔を出す」

 銀秋は少し間を置いた。

「また来い」

 祀煙が銀秋を見る。

「ああ」

 店の前にいた客が、こちらを窺っている。

 祀煙もそれに気づいた。

「では、行く」

「ああ」

 祀煙は表へ向かった。

 そのまま通りへ出ていく。

 キミコは店先に立ったまま、祀煙の背中を見送った。

 行き交う人々の間へ入っても、背の高い祀煙の姿はしばらく見えていた。

 やがて、それも人の流れの向こうへ消える。

「キミコ」

 銀秋が呼ぶ。

 キミコが振り返った。

「客」

「うん」

 キミコは店の中へ戻る。

 それと同時に、待っていた男が店へ入ってきた。

 銀秋は帳簿を開き直した。

 その隣で、キミコは祀煙からもらった衣を一枚、膝の上へ置いた。

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