奥方
銀秋とキミコは、並べて敷いた寝具に横になっていた。
眠る前の短い口付けを終え、銀秋は既に目を閉じている。
その隣で、キミコはまだ起きていた。
昨日、餅屋で聞いた言葉が頭に残っている。
奥方。
あの男はそう言った。
銀秋、お前、奥方が亡くなってまだ――。
その先は聞けなかった。
おばちゃんが男を止めたからだ。
死人を使って、生きてる人間を責めるんじゃないよ。
何を言っているのか、あの時は分からなかった。
キミコは少し考えた。
「銀秋」
「ん」
銀秋は目を閉じたまま答えた。
「奥方って誰?」
銀秋が目を開けた。
しばらく何も言わない。
それから、顔だけをキミコへ向けた。
「……何だ、急に」
「昨日、あの男が言ってた」
「あの男?」
「餅屋にいた」
「ああ」
銀秋は思い出したらしい。
また仰向けになる。
すぐには答えなかった。
キミコは待った。
「俺の女房だよ」
やがて銀秋が言った。
「女房」
「ああ」
「一緒に暮らしてた?」
「暮らしてたよ」
「ここで?」
「いや」
銀秋は天井を見たまま答える。
「ここじゃねえ。別の家だ」
「どこ?」
「ここから、そう遠くねえところだよ」
「今はいない?」
銀秋は黙った。
キミコは銀秋を見る。
しばらくして、銀秋が息を吐いた。
「死んだよ」
「死んだ」
「ああ」
「どうして?」
また少し、間が空いた。
「火事だ」
キミコの大きな目が、わずかに動いた。
「火?」
「ああ」
銀秋はそれ以上何も言わなかった。
キミコも黙った。
銀秋は火を嫌う。
キミコが以前、銀秋の前で炎を出した時もそうだった。
銀秋は顔色を変えた。
息が苦しそうになり、炎を消してほしいと言った。
それからキミコは、銀秋の前では炎を出していない。
「火が嫌いなのは、それ?」
「……まあな」
「そう」
キミコは口を閉じた。
銀秋も何も言わない。
少しして、銀秋が口を開いた。
「子供もいた」
キミコが銀秋を見る。
「子供?」
「ああ」
「銀秋の?」
「俺の子だよ」
「その子も死んだ?」
「ああ」
「火で?」
「……ああ」
銀秋の声は、さっきより低かった。
キミコは黙った。
外から足音が聞こえた。
一人分だった。
ゆっくりと近づいてきて、店の前を通り過ぎていく。
足音が遠ざかる。
また何も聞こえなくなった。
「奥方は、どんな人だった?」
キミコが聞いた。
銀秋は少し驚いたようにキミコを見る。
「どんなって」
「どんな人?」
「……そうだな」
銀秋は天井へ目を戻した。
しばらく考えている。
「よく喋る女だったな」
「よく喋る?」
「ああ。朝から晩まで、どうでもいいことをよく喋ってた」
「何を?」
「何って言われてもな」
銀秋は少し考える。
「近所の誰それが何をしたとか、今日は何が安かったとか、道で誰に会ったとか」
「銀秋に?」
「ああ」
「毎日?」
「毎日だよ」
「銀秋は聞いてた?」
「聞いてたよ」
「全部?」
「全部じゃねえよ」
「どうして?」
「疲れるだろ」
キミコは少し考えた。
「聞いてないと怒った?」
「怒ったな」
「どうやって?」
「今の話聞いてたかって聞くんだよ」
「聞いてなかった?」
「聞いてねえ時もあった」
「怒られた?」
「怒られたよ」
「銀秋が悪い」
「お前、会ったこともねえのにあっちの味方すんのかよ」
「聞いてなかったから」
「はいはい」
銀秋が小さく息を吐いた。
ほんの少しだけ、笑っているようにも見えた。
キミコはその顔を見る。
「綺麗だった?」
「ああ」
銀秋は答えた。
「綺麗だったよ」
「どこが?」
「どこって」
「目?」
「目もな」
「髪?」
「髪も」
「全部?」
銀秋はキミコを見る。
「全部だよ」
「そう」
キミコはそれ以上聞かなかった。
少しだけ間が空く。
「子供は?」
「ん?」
「どんな子だった?」
銀秋は黙った。
その顔から、さっきまでわずかにあった笑みが消える。
「……よく泣く子だったよ」
「泣く?」
「ああ」
「どうして?」
「子供なんてそんなもんだろ。腹が減っただの、眠いだの、何だのって」
「銀秋が抱いた?」
「抱いたよ」
「泣き止んだ?」
「俺が抱くと余計泣く時もあった」
「嫌われてた?」
「違えよ」
「でも泣いた」
「女房が抱いたって泣く時は泣くんだよ」
「そうなの?」
「そういうもんだ」
キミコには分からなかった。
子供と暮らしたことはない。
小さな人間がなぜ泣くのかも、よく知らない。
けれど銀秋がその子を抱いたことは分かった。
銀秋の腕を見る。
今は、夜になれば自分を抱く腕だった。
「好きだった?」
キミコが聞いた。
「子供を?」
「奥方も、子供も」
「ああ」
銀秋は答えた。
「好きだったよ」
「今も?」
銀秋は黙った。
すぐには答えなかった。
キミコは待った。
やがて、銀秋が口を開く。
「……ああ」
低い声だった。
「死んだからって、嫌いになるわけじゃねえよ」
「そう」
キミコは銀秋を見る。
銀秋が死んでも、銀秋を嫌いになるわけではない。
今、銀秋が奥方と子供を好きなままでいるように。
そう思うと、胸の奥に重いものが残った。
キミコはしばらく何も言わなかった。
銀秋も黙っている。
キミコは昨日のことを思い出した。
「昨日の男は、どうして奥方のことを言った?」
「ん?」
「おばちゃんが怒った」
「ああ」
「死人を使って、生きてる人間を責めるなって言ってた」
「……よく覚えてんな」
「覚えてる」
「そうか」
「何を責めてた?」
銀秋は少し黙った。
「俺がお前といることだろ」
「私と?」
「ああ」
「どうして?」
「女房が死んで、二年くらいしか経ってねえのに、もう別のやつと一緒にいるからじゃねえか」
キミコは銀秋を見る。
「一緒にいたら駄目?」
「駄目じゃねえよ」
銀秋はすぐに答えた。
「じゃあ、どうして?」
「そう思うやつもいるってだけだ」
「銀秋は思わない?」
「思わねえよ」
「本当に?」
「ああ」
キミコは少し考えた。
「奥方は?」
「何だ」
「私と銀秋が一緒にいたら、嫌?」
銀秋は黙った。
天井を見たまま、しばらく何も言わない。
「……分からねえよ」
「分からないのか」
「もう聞けねえからな」
「そう」
「でも」
銀秋は一度言葉を切った。
「俺がこの先ずっと一人でいろとは、たぶん言わねえよ」
「どうして分かる?」
「長いこと一緒にいたからだよ」
「どれくらい?」
「何年もだ」
「私より長い?」
「そりゃそうだ」
「そう」
キミコは黙った。
少しして、また口を開く。
「銀秋は、奥方が好きだった」
「ああ」
「子供も好きだった」
「ああ」
「今も好き」
「……そうだ」
銀秋は答えた。
キミコは何も言わなかった。
銀秋も、それ以上は話さなかった。
外は静かだった。
もう人の声も聞こえない。
銀秋が目を閉じる。
「もういいか?」
「うん」
「そうか」
それきり、銀秋は黙った。
キミコはまだ目を閉じなかった。
隣にいる銀秋を見る。
手を伸ばせば触れられる。
今は、銀秋がいる。
朝になれば一緒に起き、飯を食べ、店で過ごす。
夜になれば、また隣で眠る。
キミコは身体を動かした。
銀秋へ近づく。
銀秋が目を開けた。
「何だ」
キミコは答えず、もう少し近づいた。
「キミコ?」
腕を銀秋の身体へ回す。
ただ、すぐそこにいる銀秋を抱きしめた。




