風呂
店を閉める頃には、通りを行き交う人も少なくなっていた。
銀秋は帳簿を閉じ、筆を置いた。
それから立ち上がる。
「今日は風呂に行くぞ」
店の奥にいたキミコが顔を上げた。
「うん」
キミコも立ち上がった。
銀秋は銭と二人分の手拭いを持ち、キミコとともに店を出た。
振り返って表の戸を閉める。
ふたりで夕暮れの通りを歩き出した。
湯屋へ行くのは、これが初めてではない。
キミコが銀秋のところへ来てから、何度も一緒に来ている。
最初こそ何をする場所なのか分かっていなかったが、今では銀秋が何も言わなくても勝手が分かるようになっていた。
しばらく歩くと、見慣れた湯屋が見えてきた。
中へ入る。
すでに何人か客が来ていた。
一日の仕事を終えてきたのだろう。銀秋の知った顔もいくつかある。
「よう、銀秋」
声をかけられた。
「ああ」
「今日は遅かったな」
「店閉めてから来たんだよ」
銀秋は短く答えた。
男が隣にいるキミコを見る。
「そっちも一緒か」
「いつもいるだろ」
「そうだったな」
男はそれ以上気にした様子もなく、奥へ入っていった。
銀秋も羽織へ手をかけた。
隣では、キミコが帯を解いている。
それも、いつものことだった。
銀秋は羽織を脱ぎ、自分の帯を解く。
衣を脱ぎながら、何気なく隣を見た。
キミコが衣を脱いでいく。
見慣れた姿だった。
風呂へ来るたびに見ている。
同じ家で暮らしているのだから、それ以外にも目にすることはあった。
それでも今日は、なぜか目に留まった。
銀秋よりも若い身体だった。
背丈は銀秋より少し低い。
肩から腰へかけての線はすらりとしているが、細すぎるわけではない。衣の下では目立たなかった身体の輪郭が、すこしずつ露わになっていく。
長い黒髪が背へ落ちていた。
艶のある髪は何もせずともまっすぐに伸び、白い肌の上でよく目立つ。
綺麗だと思う。
それは今に始まったことではなかった。
キミコの身体が、自分の好みに合わせて変わったことも知っている。
ならば、この姿を好ましく思うのは当然なのかもしれない。
銀秋は視線を外した。
今さら何を見ている。
これまで何度も湯屋で見てきた身体だ。
「銀秋」
「何だ」
「行かないのか」
銀秋が見ると、キミコはもう衣を脱ぎ終えていた。
「行くよ」
銀秋も衣を脱いだ。
ふたりで奥へ入る。
中には熱い蒸気が満ちていた。
白く霞んだ向こうに、先に入っていた男たちの姿が見える。
銀秋は空いている場所へ腰を下ろした。
キミコも隣に座る。
肩が触れそうなほど近い。
銀秋は横目でキミコを見た。
いつも、このくらいだった。
キミコは人との距離をあまり気にしない。
銀秋の隣に座れば、自然と近くなる。
これまでは、それでよかった。
銀秋は何も言わず、前を向いた。
熱い蒸気が身体を包む。
少しすると、銀秋の額から汗が流れ始めた。
隣のキミコは、何も変わらない。
白い肌には汗ひとつ浮かんでいなかった。
銀秋は横目で見る。
「いつも思うけど、お前暑くねえのか」
「暑くない」
「……そうかよ」
銀秋はそれ以上聞かなかった。
蒸気に湿った黒髪が、キミコの白い肌へ張りついている。
肩へ落ちた髪が、背中を伝っていた。
銀秋はまた横を見る。
伏せた顔には、大きな藤色の目がひとつある。
人の男とはまるで違う顔をしている。
それも、今では見慣れていた。
初めて見たときには、人とは思わなかった。
今でも人ではないことに変わりはない。
それでも、綺麗だと思った。
銀秋は目を逸らした。
昨夜のことが、頭に浮かぶ。
寝具の上。
すぐ近くにあったキミコの顔。
触れた唇。
銀秋は小さく息を吐いた。
昨日までなら、こんなことはなかった。
裸を見たところで何とも思わなかったわけではない。
キミコが自分の好む姿をしていることくらい、ずっと前から分かっている。
だが、それをいちいち意識することはなかった。
今は違う。
隣にいる身体が、妙に近く感じる。
銀秋は少し横へずれた。
肩ひとつ分ほど距離が空く。
しばらくすると、キミコも動いた。
また近くなる。
銀秋は横を見る。
キミコは何事もなかったように座っている。
銀秋はもう一度、少し横へずれた。
キミコもついてきた。
「……お前」
キミコが銀秋を見る。
「何だ」
「何で寄ってくるんだよ」
「銀秋が離れるから」
「離れてんだよ」
「なぜ」
「近えから」
キミコは少し考えた。
「いつも近い」
「そうだよ」
「今日は駄目なのか」
「……今日は少し離れてろ」
「なぜ」
銀秋は答えなかった。
キミコが見ている。
「銀秋」
「何だ」
「なぜ」
「お前なあ」
銀秋は額を押さえた。
「少しは自分で考えろ」
キミコは黙った。
しばらく本当に考えているようだった。
銀秋は前を向く。
「口付けしたからか」
銀秋は目を閉じた。
「……」
「違うのか」
「……合ってるよ」
「そうか」
キミコは納得したように頷いた。
銀秋もそれ以上は言わなかった。
だが、キミコは離れない。
「分かったなら離れろよ」
「なぜ」
「お前、何が分かったんだよ」
「口付けしたから、今日は私が気になる」
「そうだよ」
「なら、近くてもいいだろう」
「よくねえんだよ」
「なぜ」
「だから――」
「……お前らさあ」
別の声が割り込んだ。
銀秋は口を閉じた。
少し離れたところに、一人の男が座っている。
さっき入口で顔を合わせた男だった。
男は呆れたようにふたりを見ていた。
「何だよ」
銀秋が言う。
「そういうの、よそでやってくんねえかなあ」
「何もしてねえよ!」
銀秋の声が湯気の中へ響いた。
近くにいた別の男が笑った。
「さっきから近いだの離れろだの、うるせえんだよ」
「こいつが寄ってくるんだよ」
「銀秋が離れるからだ」
「お前は黙ってろ」
「なぜ」
「ほら、また始まった」
男が言う。
「何もしてねえって」
「分かったよ。何もしてねえから静かにしてくれ」
「……」
銀秋は黙った。
隣を見る。
キミコも銀秋を見ている。
「お前も少し黙ってろ」
「うん」
キミコは素直に頷いた。
ようやく静かになった。
銀秋は息を吐く。
隣には相変わらずキミコがいる。
結局、離れてはいない。
もう一度言うのも面倒になって、そのままにしておく。
少しして、キミコの肩が銀秋の腕へ触れた。
銀秋は横目で見た。
キミコは気にしていない。
銀秋は何も言わなかった。
やがて蒸し風呂を出た。
身体にはすっかり汗をかいている。
銀秋は湯を汲み、肩から身体へかけた。
熱い湯が汗を流していく。
もう一度汲もうとすると、隣からキミコが手を伸ばした。
「私がする」
「自分のやれよ」
「もうした」
「そうかよ」
キミコが湯を汲む。
「銀秋」
「何だ」
「後ろを向いて」
「何でだよ」
「背中にかける」
「自分でできる」
「全部は届かない」
銀秋はキミコを見る。
キミコは湯を持ったまま待っている。
これも初めてではなかった。
以前にも、同じように背中へ湯をかけてもらったことがある。
そのときは何とも思わなかった。
銀秋は少し迷ってから、背を向けた。
肩へ湯がかかる。
熱い湯が背中を流れ落ちていった。
もう一度。
銀秋は黙っている。
「終わった」
「そうか」
振り返る。
すぐ目の前にキミコがいた。
湿った黒髪が肩から胸へ落ちている。
藤色の目が、まっすぐ銀秋を見ていた。
銀秋はしばらくキミコを見た。
「銀秋?」
「……」
銀秋はキミコの肩を掴んだ。
そのまま少し押し離す。
「何だ」
「近い」
「またか」
「近いからだよ」
後ろから声がした。
「だからよそでやれって」
「うるせえ!」
男たちが笑う。
キミコもわずかに口元を緩めていた。
「お前まで笑うな」
また笑い声が上がる。
銀秋は舌打ちした。
「行くぞ」
「うん」
ふたりは衣を身につけ、湯屋を出た。
外へ出ると、空はすっかり暗くなりかけていた。
昼間より人通りは少ない。
店を閉めたところも増えている。
ふたりで家へ向かう。
キミコはいつものように銀秋の隣を歩いていた。
銀秋も、今度は離れなかった。
しばらく歩いたところで、キミコが口を開いた。
「銀秋」
「何だ」
「まだ私が気になるのか」
「……何だよ、急に」
「風呂で言っていた」
「言ったな」
「口付けしたから」
「ああ」
「前は気にならなかったのに」
銀秋は少し黙った。
「前から気にはなってたよ」
キミコが銀秋を見る。
「そうなのか」
「ああ」
「なら、何が違う」
「……」
銀秋は前を向いた。
答えようと思えば、答えられる。
自分でも分かっている。
ただ、それをキミコへ一から説明する気にはならなかった。
「自分で考えろ」
「分からない」
「だろうな」
「教えて」
「嫌だ」
「なぜ」
「面倒くせえから」
キミコはしばらく黙った。
銀秋はそのまま歩く。
少しして、手に何かが触れた。
キミコの指だった。
その指が銀秋の手へ重なる。
銀秋は振りほどかなかった。
やがて、キミコがその手を握った。
「これはいいのか」
「何が」
「近い」
銀秋はキミコを見た。
藤色の目が、銀秋を見返している。
銀秋は少しだけ笑った。
「これはいい」
「そうか」
キミコもそれ以上は聞かなかった。
ふたりは手を繋いだまま、家へ向かって歩いた。




