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スダマの鬼  作者:
31/34

風呂

 店を閉める頃には、通りを行き交う人も少なくなっていた。

 銀秋は帳簿を閉じ、筆を置いた。

 それから立ち上がる。

「今日は風呂に行くぞ」

 店の奥にいたキミコが顔を上げた。

「うん」

 キミコも立ち上がった。

 銀秋は銭と二人分の手拭いを持ち、キミコとともに店を出た。

 振り返って表の戸を閉める。

 ふたりで夕暮れの通りを歩き出した。

 湯屋へ行くのは、これが初めてではない。

 キミコが銀秋のところへ来てから、何度も一緒に来ている。

 最初こそ何をする場所なのか分かっていなかったが、今では銀秋が何も言わなくても勝手が分かるようになっていた。

 しばらく歩くと、見慣れた湯屋が見えてきた。

 中へ入る。

 すでに何人か客が来ていた。

 一日の仕事を終えてきたのだろう。銀秋の知った顔もいくつかある。

「よう、銀秋」

 声をかけられた。

「ああ」

「今日は遅かったな」

「店閉めてから来たんだよ」

 銀秋は短く答えた。

 男が隣にいるキミコを見る。

「そっちも一緒か」

「いつもいるだろ」

「そうだったな」

 男はそれ以上気にした様子もなく、奥へ入っていった。

 銀秋も羽織へ手をかけた。

 隣では、キミコが帯を解いている。

 それも、いつものことだった。

 銀秋は羽織を脱ぎ、自分の帯を解く。

 衣を脱ぎながら、何気なく隣を見た。

 キミコが衣を脱いでいく。

 見慣れた姿だった。

 風呂へ来るたびに見ている。

 同じ家で暮らしているのだから、それ以外にも目にすることはあった。

 それでも今日は、なぜか目に留まった。

 銀秋よりも若い身体だった。

 背丈は銀秋より少し低い。

 肩から腰へかけての線はすらりとしているが、細すぎるわけではない。衣の下では目立たなかった身体の輪郭が、すこしずつ露わになっていく。

 長い黒髪が背へ落ちていた。

 艶のある髪は何もせずともまっすぐに伸び、白い肌の上でよく目立つ。

 綺麗だと思う。

 それは今に始まったことではなかった。

 キミコの身体が、自分の好みに合わせて変わったことも知っている。

 ならば、この姿を好ましく思うのは当然なのかもしれない。

 銀秋は視線を外した。

 今さら何を見ている。

 これまで何度も湯屋で見てきた身体だ。

「銀秋」

「何だ」

「行かないのか」

 銀秋が見ると、キミコはもう衣を脱ぎ終えていた。

「行くよ」

 銀秋も衣を脱いだ。

 ふたりで奥へ入る。

 中には熱い蒸気が満ちていた。

 白く霞んだ向こうに、先に入っていた男たちの姿が見える。

 銀秋は空いている場所へ腰を下ろした。

 キミコも隣に座る。

 肩が触れそうなほど近い。

 銀秋は横目でキミコを見た。

 いつも、このくらいだった。

 キミコは人との距離をあまり気にしない。

 銀秋の隣に座れば、自然と近くなる。

 これまでは、それでよかった。

 銀秋は何も言わず、前を向いた。

 熱い蒸気が身体を包む。

 少しすると、銀秋の額から汗が流れ始めた。

 隣のキミコは、何も変わらない。

 白い肌には汗ひとつ浮かんでいなかった。

 銀秋は横目で見る。

「いつも思うけど、お前暑くねえのか」

「暑くない」

「……そうかよ」

 銀秋はそれ以上聞かなかった。

 蒸気に湿った黒髪が、キミコの白い肌へ張りついている。

 肩へ落ちた髪が、背中を伝っていた。

 銀秋はまた横を見る。

 伏せた顔には、大きな藤色の目がひとつある。

 人の男とはまるで違う顔をしている。

 それも、今では見慣れていた。

 初めて見たときには、人とは思わなかった。

 今でも人ではないことに変わりはない。

 それでも、綺麗だと思った。

 銀秋は目を逸らした。

 昨夜のことが、頭に浮かぶ。

 寝具の上。

 すぐ近くにあったキミコの顔。

 触れた唇。

 銀秋は小さく息を吐いた。

 昨日までなら、こんなことはなかった。

 裸を見たところで何とも思わなかったわけではない。

 キミコが自分の好む姿をしていることくらい、ずっと前から分かっている。

 だが、それをいちいち意識することはなかった。

 今は違う。

 隣にいる身体が、妙に近く感じる。

 銀秋は少し横へずれた。

 肩ひとつ分ほど距離が空く。

 しばらくすると、キミコも動いた。

 また近くなる。

 銀秋は横を見る。

 キミコは何事もなかったように座っている。

 銀秋はもう一度、少し横へずれた。

 キミコもついてきた。

「……お前」

 キミコが銀秋を見る。

「何だ」

「何で寄ってくるんだよ」

「銀秋が離れるから」

「離れてんだよ」

「なぜ」

「近えから」

 キミコは少し考えた。

「いつも近い」

「そうだよ」

「今日は駄目なのか」

「……今日は少し離れてろ」

「なぜ」

 銀秋は答えなかった。

 キミコが見ている。

「銀秋」

「何だ」

「なぜ」

「お前なあ」

 銀秋は額を押さえた。

「少しは自分で考えろ」

 キミコは黙った。

 しばらく本当に考えているようだった。

 銀秋は前を向く。

「口付けしたからか」

 銀秋は目を閉じた。

「……」

「違うのか」

「……合ってるよ」

「そうか」

 キミコは納得したように頷いた。

 銀秋もそれ以上は言わなかった。

 だが、キミコは離れない。

「分かったなら離れろよ」

「なぜ」

「お前、何が分かったんだよ」

「口付けしたから、今日は私が気になる」

「そうだよ」

「なら、近くてもいいだろう」

「よくねえんだよ」

「なぜ」

「だから――」


「……お前らさあ」


 別の声が割り込んだ。

 銀秋は口を閉じた。

 少し離れたところに、一人の男が座っている。

 さっき入口で顔を合わせた男だった。

 男は呆れたようにふたりを見ていた。

「何だよ」

 銀秋が言う。

「そういうの、よそでやってくんねえかなあ」

「何もしてねえよ!」

 銀秋の声が湯気の中へ響いた。

 近くにいた別の男が笑った。

「さっきから近いだの離れろだの、うるせえんだよ」

「こいつが寄ってくるんだよ」

「銀秋が離れるからだ」

「お前は黙ってろ」

「なぜ」

「ほら、また始まった」

 男が言う。

「何もしてねえって」

「分かったよ。何もしてねえから静かにしてくれ」

「……」

 銀秋は黙った。

 隣を見る。

 キミコも銀秋を見ている。

「お前も少し黙ってろ」

「うん」

 キミコは素直に頷いた。

 ようやく静かになった。

 銀秋は息を吐く。

 隣には相変わらずキミコがいる。

 結局、離れてはいない。

 もう一度言うのも面倒になって、そのままにしておく。

 少しして、キミコの肩が銀秋の腕へ触れた。

 銀秋は横目で見た。

 キミコは気にしていない。

 銀秋は何も言わなかった。

 やがて蒸し風呂を出た。

 身体にはすっかり汗をかいている。

 銀秋は湯を汲み、肩から身体へかけた。

 熱い湯が汗を流していく。

 もう一度汲もうとすると、隣からキミコが手を伸ばした。

「私がする」

「自分のやれよ」

「もうした」

「そうかよ」

 キミコが湯を汲む。

「銀秋」

「何だ」

「後ろを向いて」

「何でだよ」

「背中にかける」

「自分でできる」

「全部は届かない」

 銀秋はキミコを見る。

 キミコは湯を持ったまま待っている。

 これも初めてではなかった。

 以前にも、同じように背中へ湯をかけてもらったことがある。

 そのときは何とも思わなかった。

 銀秋は少し迷ってから、背を向けた。

 肩へ湯がかかる。

 熱い湯が背中を流れ落ちていった。

 もう一度。

 銀秋は黙っている。

「終わった」

「そうか」

 振り返る。

 すぐ目の前にキミコがいた。

 湿った黒髪が肩から胸へ落ちている。

 藤色の目が、まっすぐ銀秋を見ていた。

 銀秋はしばらくキミコを見た。

「銀秋?」

「……」

 銀秋はキミコの肩を掴んだ。

 そのまま少し押し離す。

「何だ」

「近い」

「またか」

「近いからだよ」

 後ろから声がした。

「だからよそでやれって」

「うるせえ!」

 男たちが笑う。

 キミコもわずかに口元を緩めていた。

「お前まで笑うな」

 また笑い声が上がる。

 銀秋は舌打ちした。

「行くぞ」

「うん」

 ふたりは衣を身につけ、湯屋を出た。

 外へ出ると、空はすっかり暗くなりかけていた。

 昼間より人通りは少ない。

 店を閉めたところも増えている。

 ふたりで家へ向かう。

 キミコはいつものように銀秋の隣を歩いていた。

 銀秋も、今度は離れなかった。

 しばらく歩いたところで、キミコが口を開いた。

「銀秋」

「何だ」

「まだ私が気になるのか」

「……何だよ、急に」

「風呂で言っていた」

「言ったな」

「口付けしたから」

「ああ」

「前は気にならなかったのに」

 銀秋は少し黙った。

「前から気にはなってたよ」

 キミコが銀秋を見る。

「そうなのか」

「ああ」

「なら、何が違う」

「……」

 銀秋は前を向いた。

 答えようと思えば、答えられる。

 自分でも分かっている。

 ただ、それをキミコへ一から説明する気にはならなかった。

「自分で考えろ」

「分からない」

「だろうな」

「教えて」

「嫌だ」

「なぜ」

「面倒くせえから」

 キミコはしばらく黙った。

 銀秋はそのまま歩く。

 少しして、手に何かが触れた。

 キミコの指だった。

 その指が銀秋の手へ重なる。

 銀秋は振りほどかなかった。

 やがて、キミコがその手を握った。

「これはいいのか」

「何が」

「近い」

 銀秋はキミコを見た。

 藤色の目が、銀秋を見返している。

 銀秋は少しだけ笑った。

「これはいい」

「そうか」

 キミコもそれ以上は聞かなかった。

 ふたりは手を繋いだまま、家へ向かって歩いた。

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