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スダマの鬼  作者:
30/33

口付け

 飯を食べ終える頃には、すっかり夜になっていた。

 昼間は通りから絶えず聞こえていた人の声も、今はほとんどない。

 時折、遠くから足音が聞こえてくる。それも店の前を通り過ぎれば、すぐに夜の静けさへ紛れていった。

 銀秋は空になった器を重ねた。

 向かいに座っていたキミコも、最後の一口を飲み込む。

「食ったか」

「うん」

「じゃあ寝るぞ」

 銀秋は立ち上がった。

 いつもと同じように座敷へ入る。

 そこには二人分の寝具が敷いてあった。

 銀秋は自分の寝具へ横になり、掛け物を身体へかける。

 今日一日のことが、まだ頭の中に残っていた。

 キミコとあの女が交わしていた言葉は、簡単には消えそうにない。

 考え始めれば、なかなか眠れそうになかった。

 銀秋は息を吐き、目を閉じようとした。

「銀秋」

 声がした。

 目を開ける。

 キミコが寝具のそばに立っていた。

 自分の寝具へ向かう様子はない。ただ銀秋を見下ろしている。

「何だ」

 キミコはすぐには答えなかった。

 銀秋と、その身体に掛かっている掛け物を交互に見る。

「そこに入っていいか」

 銀秋は黙った。

 何を言われたのか分からなかったわけではない。

 ただ、すぐには返事が出なかった。

「……ここに?」

「うん」

「お前の布団、そこにあるだろ」

 少し離れたところに、キミコの寝具が敷いてある。

 毎晩、キミコがそこで眠っているものだ。

 キミコは言われた方を見る。

 それから、また銀秋へ目を戻した。

「一緒に寝たい」

「……」

 銀秋はキミコを見上げた。

 その顔には、特にためらっている様子もない。

 何かおかしなことを言ったとも思っていないらしい。

「……狭いぞ」

「構わない」

「寝相悪かったら蹴るからな」

「銀秋なら構わない」

「…………」

 銀秋は一瞬、返す言葉に詰まった。

 キミコが首を傾げる。

「何だ」

「いや……何でもねえ」

 銀秋は視線を逸らした。

 少し身体をずらし、隣に一人分の場所を作る。

 それから掛け物の端を持ち上げた。

「……まあ、いい。入れ」

「うん」

 キミコはためらわなかった。

 銀秋の隣へ横になり、持ち上げられた掛け物の下へ身体を入れる。

 銀秋が手を離すと、掛け物がふたりの身体を覆った。

 ふたりで並んで横になる。

 銀秋はすぐに気づいた。

 近い。

 一人で使っていた寝具なのだから、当然だった。

 ふたりで入れば、身体と身体の間にはほとんど隙間がない。

 銀秋は仰向けになったまま天井を見た。

 眠ればいい。

 そう思って目を閉じようとしたところで、隣から衣擦れの音がした。

 顔を向ける。

 すぐそばに、キミコの顔がある。

 藤色の大きな目が銀秋を見ていた。

 普段から何度も見ている目だった。それなのに、同じ寝具の中で見ると妙に近く感じる。

「……近くねえか」

「いいと言ったのは銀秋だ」

「そうだけどよ」

 キミコは動かなかった。

 離れるつもりはないらしい。

 銀秋も、それ以上は何も言わなかった。

 顔を天井へ戻す。

 しばらく、ふたりとも黙っていた。

 外から虫の声が聞こえている。

 風が吹くたび、どこかで木の葉が擦れる音がした。

 いつもと同じ夜だった。

 店を閉め、飯を食い、眠る。

 明日になれば、また店を開ける。

 何一つ変わらないはずだった。

 すぐ隣にキミコがいることだけが、いつもとは違っていた。

「銀秋」

「何だ」

「暖かい」

 銀秋は隣を見る。

 キミコは掛け物の中に収まり、満足そうにしていた。

「ふたりで寝てるからな」

「うん」

 藤色の目が少しずつ細くなる。

「眠い」

「寝ろ」

「うん」

 キミコが目を閉じた。

 これでようやく眠れる。

 銀秋も目を閉じようとする。

 そのとき、キミコが少しだけ身体を動かした。

 銀秋の肩に、キミコの額が触れる。

「……おい」

 閉じたばかりの目が開いた。

「何だ」

「いや……」

 銀秋は、自分の肩に触れているキミコの額を見る。

 寄りかかっているわけではない。

 ただ、触れている。

 離れようと思えば、すぐに離れられる程度の触れ方だった。

「そこで寝るのか」

「うん」

「そうかよ」

 キミコはまた目を閉じた。

 額は離れなかった。

 銀秋は天井へ目を戻した。

 しばらくすると、隣から聞こえる呼吸がゆっくりになっていく。

 規則正しい寝息へ変わるまで、それほど時間はかからなかった。

「……寝たのか」

 返事はない。

 銀秋はもう一度キミコを見る。

 自分の肩に額を触れさせたまま、すっかり眠っている。

「……寝るの早えな」

 小さく笑った。

 銀秋も目を閉じる。

 肩に触れたキミコの額は、そのままだった。

 眠ろうとすると、かえってその感触が気になった。

 ほんのわずかに触れているだけなのに、そこだけが妙にはっきりと分かる。

 銀秋は動かなかった。

 しばらくその感触を意識していたが、やがて銀秋も眠りについた。




 翌朝、銀秋はゆっくりと目を覚ました。

 朝の薄い光が座敷へ差し込んでいる。

 身体を起こそうとして、やめた。

 肩に、何かが触れている。

 昨夜と同じ場所だった。

 顔を向ける。

 キミコはまだ眠っていた。

 夜の間に離れることもなく、額は銀秋の肩に触れたままだった。

 銀秋はしばらく、その顔を眺めた。

 眠っていると、いつも銀秋を追って動く藤色の目も見えない。

 閉じた目蓋の下に、大きな目がある。

 やがて、その目蓋がわずかに動いた。

 藤色の目がゆっくりと開く。

 目覚めたキミコは、すぐそばにいる銀秋を見た。

「起きたか」

「今な」

「そうか」

 キミコはそれだけ言うと、ようやく銀秋の肩から額を離した。

 昨夜のことを気にしている様子はない。

 銀秋は身体を起こした。

「ほら、お前も起きろ。飯食って店開けるぞ」

「うん」

 キミコも起き上がった。




 朝飯を食べ、店を開けた。

 表の戸を開けば、いつもの通りがある。

 朝のうちは人もまばらだったが、日が高くなるにつれて行き交う者が増えていった。

 店にも、いつものように客が来た。

 銀秋は帳場に座り、帳簿をつける。

 キミコはその隣にいた。

 客から預かったものを確かめる。

 金を渡す。

 返済に来た者がいれば、帳簿へ書きつける。

 昨日までと何も変わらない。

 昼になれば飯を食った。

 午後になれば、また客が来た。

 キミコもいつも通りだった。

 銀秋の隣に座り、店へやって来る者を眺めている。

 変わったことなど何もない。

 それなのに、銀秋は時折、隣を見た。

 藤色の目がこちらを向く。

「何だ」

「いや」

 銀秋は帳簿へ目を戻した。

 少しすると、またキミコを見る。

 今度も目が合った。

「何だ」

「何でもねえよ」

 キミコはしばらく銀秋を見ていた。

 銀秋が答えるつもりがないと分かったのか、やがて前を向く。

 銀秋も帳簿へ目を戻した。

 筆を動かしながら、昨夜、自分の肩に触れていた額を思い出す。

 すぐにその考えを追い出すように、次の文字を書いた。




 日が暮れた。

 店を閉め、飯を食う。

 片づけを終える頃には、昨日と同じように夜になっていた。

 銀秋は座敷へ入り、寝具へ横になった。

 昨日とは違い、キミコがどうするのか少しだけ気になった。

 だが、自分から呼ぶことはしなかった。

 掛け物を身体へかける。

 少しして、足音が聞こえた。

「銀秋」

「ん?」

 銀秋はそちらを見る。

 キミコが立っていた。

「入っていいか」

 昨日と同じ言葉だった。

 銀秋は少し笑った。

「昨日も入っただろ」

「今日も入っていいか」

 キミコは昨日入ることを許されたからといって、今日も同じだとは考えていないらしい。

 銀秋は身体をずらした。

「……いいよ」

「うん」

 キミコが掛け物を持ち上げる。

 昨日よりも迷いなく中へ入り、銀秋の隣へ横になった。

 今度は銀秋も、近いとは言わなかった。

 横を向く。

 キミコもこちらを向いている。

 ふたりの顔が近い。

 昨日は落ち着かなかった距離だった。

 今日は、昨日ほど気にならなかった。

 キミコは何も言わず、銀秋を見ている。

「何だ」

「銀秋」

「ん?」

「口付けしてほしい」

 銀秋の目が止まった。

 予想していなかった言葉だった。

「……口付け?」

「うん」

「俺が、お前に?」

「うん」

 キミコは当たり前のように答えた。

 銀秋はその顔を見る。

「どこに」

 キミコは少し考えた。

 それから、自分の口元へ指を触れさせる。

「ここ」

「……」

 銀秋は黙った。

 頬でも額でもない。

 キミコが指した場所を見て、もう一度その目を見る。

 キミコはじっと銀秋を見ていた。

 冗談を言っているわけではないらしい。

「昨日はそんなこと言わなかっただろ」

「昨日は一緒に寝たかった」

「今日は?」

「銀秋に口付けしてほしい」

「……そうか」

 キミコの答えには迷いがなかった。

 銀秋はしばらく何も言わない。

 すぐそばにある藤色の目を見る。

 キミコが望んでいることは分かった。

 それでも、銀秋にはもう一度確かめておきたかった。

「本当にいいのか」

「うん」

「俺で」

 キミコが瞬きをした。

 何を聞かれているのか考えるような、わずかな間があった。

「銀秋がいい」

「……」

 銀秋は目を逸らした。

 聞いたのは自分だった。

 それなのに、返ってきた言葉をまともに受け止めるには、少し照れくさかった。

「銀秋?」

「……分かったよ」

 銀秋はもう一度キミコを見た。

 身体を寄せる。

 距離が少しずつ縮まる。

 キミコは動かなかった。

 逃げることも、近づいてくることもない。ただ銀秋の顔を見ている。

 顔が近づいても、藤色の目は開いたままだった。

「目、閉じねえのか」

「なぜ」

「……まあいい」

 銀秋はそれ以上言わなかった。

 キミコの唇へ、自分の唇を重ねる。

 ほんの一瞬だった。

 触れたことが分かる程度に口付けて、すぐに顔を離す。

 キミコが瞬きをした。

「……」

「したぞ」

 キミコは何も言わない。

 銀秋の顔を見たまま、何かを考えている。

「何だ」

「終わりか」

「終わりだよ」

「短い」

「口付けなんてそんなもんだろ」

 キミコは納得していないようだった。

「酒を飲んだときは、もっとしていた」

「あれはお前が勝手にしてたんだよ」

「そうだったか」

「覚えてねえくせに」

「銀秋に聞いた」

「そうだったな」

 あの夜のことを思い出し、銀秋は息を吐いた。

 キミコは少し考えている。

 やがて、また銀秋を見た。

「もう一回してほしい」

「……気に入ったのか」

「まだ分からない」

「分からねえのにもう一回すんのかよ」

「もう一回したら分かるかもしれない」

 銀秋は思わず笑った。

「何だそれ」

 そう言いながらも、断るつもりはなかった。

 もう一度、キミコへ顔を寄せる。

 今度は先ほどよりもゆっくりと距離を縮めた。

 唇が重なる。

 すぐには離れない。

 キミコは相変わらず目を開けていた。

 すぐそばにある銀秋の顔を見ている。

 銀秋は一度わずかに顔を離した。

 キミコは動かない。

 そのまま、もう一度唇を重ねる。

 先ほどよりも長い口付けだった。

 キミコの目が大きく開く。

 それでも離れようとはしなかった。

 どうすればいいのか分からないまま、銀秋に任せている。

 銀秋はそれ以上急がなかった。

 やがて、ゆっくりと顔を離す。

 ふたりの間に、わずかな距離が戻る。

 キミコは何も言わなかった。

 藤色の目が、ぱちりと瞬く。

 もう一度、ぱちりと瞬いた。

「……」

「どうした」

 キミコはしばらく銀秋を見たあと、自分の口元へ指を触れさせた。

「銀秋に食べられた」

 一瞬、銀秋は黙った。

 言葉の意味が頭に入った途端、堪えきれずに吹き出した。

「ははっ」

 キミコの目が銀秋を見つめる。

「何がおかしい」

「いや、食ってねえよ」

「食べられた」

「食ってねえって」

 銀秋はまだ笑っていた。

 キミコには、なぜ笑われているのか分からないらしい。

 少しも笑わず、じっと銀秋を見ている。

「何がおかしい」

「いや……」

 銀秋はようやく笑いを収めようとした。

 目の前にいるキミコを見る。

 初めて会った夜のことを思い出した。

 暗い道。

 人の姿とは違う大きな身体。

 自分を喰らおうとしていたキミコ。

 あのときは、こんな日が来るなど考えもしなかった。

「お前にそれ言われる日が来るとは思わなくてな」

「なぜ」

「俺、お前に食われかけたんだぞ」

 キミコは瞬きをした。

 それから、何でもないことのように答える。

「喰わなかった」

 銀秋は少し黙った。

 確かに、その通りだった。

 あの夜、キミコは銀秋を喰わなかった。

「そうだな」

 銀秋の笑いが少しずつ収まっていく。

 キミコはまだ銀秋を見ていた。

 やがて口元から指を離す。

「銀秋」

「ん?」

「もう一回」

「……」

「もう一回してほしい」

 銀秋はキミコを見る。

「分かったのか」

「何が」

「気に入ったかどうか」

 キミコは少し考えた。

「分かった」

「どうだった」

「好きだ」

「……そうか」

「うん」

 銀秋は笑った。

 今度は何も言わず、キミコへ顔を寄せる。

 キミコは近づいてくる銀秋を見ていた。

 キミコの口元が、ほんの少し緩む。

 銀秋の唇が触れる少し前に、藤色の目をそっと閉じた。

 銀秋が口付ける。

 キミコも、今度はじっとしているだけではなかった。

 覚えたばかりのことを確かめるように、少しだけ唇を動かした。

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