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スダマの鬼  作者:
29/32

問い

 日が傾き始めていた。

 銀秋は帳場に座り、帳簿を開いていた。

 店の奥まで差し込んでいた日の光は、いつの間にか表の戸口まで退いている。

 棚や柱の影が長く伸び、店の中は少しずつ薄暗くなっていた。

 今日はもう客も来ないだろう。

 銀秋は帳簿へ一文字書きつけ、筆を置いた。

「そろそろ閉めるか」

 隣にいたキミコが顔を上げる。

「飯だ」

「お前はそればっかりだな」

 銀秋は帳簿を閉じた。

 立ち上がろうとした、そのときだった。

 表に人影が見えた。

 一人の女が、店の前に立っている。

 身なりのいい女だった。

 上等な小袖を身につけ、その上から、さらに一枚の小袖を頭に被っている。頭から肩へ垂れた衣が顔の両脇を囲み、その内側には長い黒髪が垂れていた。

 肌は白く、美しい顔には鮮やかな緑の瞳がある。

 手には扇を持ち、足元には草履を履いていた。

「悪いが、今日はもう――」

「久しぶりね、キミコ」

 女は銀秋の言葉を遮った。

 その目は、最初からキミコへ向いていた。

 キミコが女を見る。

乱霧(らんぎり)

 銀秋はふたりを見比べた。

「知り合いか」

「妹だ」

「……妹?」

「うん」

 女――乱霧は店の中へ一歩入ると、そこで足を止めた。

「しばらく遠くに行くから、その前に顔を見ておこうと思って」

「遠く?」

「ええ」

「どこだ」

「海の外」

 それ以上話すつもりはないらしい。

 乱霧は黙ってキミコを眺めた。

 頭から足元まで、確かめるように視線が動く。

「随分変わったわね」

「そうか?」

「そうよ」

 今度は店の中へ目を向ける。

 棚に並んだ質物、帳場、その向こうに続く店の奥。

「ここにいるの?」

「うん」

「ずっと?」

「うん」

「いつから?」

「銀秋に会ってからだ」

「屋敷には戻ってないの?」

「うん」

「どうして」

「ここにいたいからだ」

「ここに?」

 キミコは少し考えた。

「銀秋のところに」

 そこで初めて、乱霧の興味が銀秋へ向いた。

 鮮やかな緑の目が、頭から足元まで銀秋を眺める。

「これが銀秋?」

「うん」

「これとは何だ」

 銀秋が言った。

 乱霧は答えない。

「それで、これは何?」

「銀秋だ」

「名はどうでもいいわ」

「なぜ」

「お前にとって何なのか聞いてるの」

 キミコは銀秋を見る。

「銀秋だ」

「名前じゃなくて」

「質屋だ」

「職もどうでもいいわ」

「金貸しもしている」

 乱霧はしばらくキミコを見た。

「お前に聞いた私が悪かったわ」

 銀秋が乱霧を見る。

「弟がいるって言ってなかったか」

「妹もいる」

「他にもいるのか」

「家族か」

「そうだ」

「殺した」

「……」

 銀秋は何も言えなかった。

 あまりにもあっさりと言われて、聞き返す言葉すら出てこない。

 キミコは何でもないことのように銀秋を見ている。

 乱霧も特に驚いた様子はなかった。

 しばらくして、その視線がキミコへ戻る。

「人間は喰べてないの?」

 今度は銀秋が乱霧を見る。

「……お前も喰うのか」

「喰べるわ」

 乱霧は何でもないことのように答えた。

「そうかよ……」

 銀秋は改めて乱霧を見る。

 上等な衣をまとい、扇を手にした姿は、どう見ても身なりのいい女にしか見えない。

 乱霧はその反応など気にも留めなかった。

「いつから喰べてないの?」

「ここに来てからだ」

「どうして」

「衣に血がつく」

「それでやめたの?」

「うん」

 乱霧の眉がわずかに動いた。

「お前が?」

「うん」

 乱霧はしばらくキミコを見ていた。

 やがて、その視線がキミコの衣へ落ちる。

「それ、新しいわね」

「うん」

「どうしたの」

「銀秋に買ってもらった」

「選んだのも?」

「うん」

 キミコが自分の袖を見る。

「気に入ってる」

「似合ってるわよ」

「銀秋にも言われた」

「嬉しかった?」

「嬉しかった」

 乱霧は答えず、その薄紅の衣をしばらく眺めていた。

 やがて、視線が衣からキミコ自身へ移る。

「それに、その身体」

「何だ」

「いつから?」

「銀秋を喰おうとしたあとだ」

 乱霧の目が銀秋へ向いた。

「喰わなかったのね」

 返事を待つように、しばらく銀秋を眺める。

 それから、もう一度キミコへ目を戻した。

「どうして?」

「銀秋が死にたくないと言った」

「それで?」

「喰わなかった」

 乱霧は黙った。

 銀秋を見て、キミコを見る。

 何かを確かめるように、その視線がふたりの間を行き来した。

「……そう」

 乱霧の視線が、再びキミコの身体へ向く。

「自分で変えたの?」

「違う。勝手に変わった」

 乱霧が銀秋を見る。

 銀秋は眉を寄せた。

「何だよ」

「お前、本当にただの人間?」

「そうだよ」

「キミコに何かした?」

「何もしてねえよ」

 乱霧はキミコへ確かめるように目を向ける。

「本当に?」

「うん」

「じゃあ、どうしてその身体になったの」

「銀秋の趣味だ」

「……そう」

 乱霧の視線が、ゆっくり銀秋へ戻った。

「何だよ」

「別に」

 乱霧は扇を開いた。

 ゆっくりと自分を扇ぐ。

 銀秋は帳場を離れた。

「もう閉めるぞ」

「そう」

「用が済んだなら帰れ」

「まだ済んでないわ」

「何の用だよ」

「キミコを見に来たの」

「見ただろ」

「まだよ」

「いつまで見る気だ」

 乱霧は答えなかった。

 扇が閉じる。

 今までキミコへ向けられていた目が、銀秋へ移った。

 しばらくその場から眺めたあと、乱霧は銀秋へ歩み寄る。

「何だ」

 銀秋が眉を寄せた。

 乱霧は目の前で足を止めた。

 近くで顔を眺め、それから身体へ視線を落とす。

「普通の人間ね」

「悪かったな」

「悪いとは言ってないわ」

「じゃあ何だ」

「分からない」

「何が」

「どうしてお前なのか」

 乱霧は銀秋の顔を眺めた。

 もう一歩近づく。

「近えぞ」

 銀秋が言っても、乱霧は離れない。

 やがて、片手を上げた。

 銀秋の頬へ手を伸ばす。

 触れる寸前だった。

 何かが床へ落ちた。

 銀秋が下を見る。

 手だった。

 乱霧の手が、手首から先だけ床に転がっている。

「……は?」

 銀秋が顔を上げた。

 乱霧の右腕は、手首のところで途切れていた。

 血は出ていない。

 代わりに、断面から透明な水が滴っていた。

 ぽたり、ぽたりと床を濡らしていく。

 その断面で、何かが動いた。

 細いものが、無数に蠢いている。

 一本一本は小さな蚯蚓のようで、それらが互いに絡まり、ほどけ、また絡まりながら、手首の中を埋め尽くしていた。

「……何だ、それ」

 銀秋が顔をしかめた。

 乱霧は自分の腕を見る。

 それから、床に落ちた手を見る。

 さっきまで帳場にいたキミコが、乱霧のすぐそばに立っていた。

 銀秋には、いつ動いたのか分からなかった。

 乱霧がキミコを見る。

 わざとらしく眉を下げてみせる。

「ひどいわ、姉様」

「銀秋に触れようとした」

「そうね」

「だからだ」

「だから手を落とすの?」

「うん」

「どうして?」

 キミコは黙った。

「キミコ?」

「……分からない」

 乱霧は少しだけ目を細めた。

「分からないのに落としたの?」

「うん」

 乱霧はしゃがみ、床に落ちた自分の手を拾い上げた。

 切断された手の断面にも、同じものが蠢いている。

 乱霧は手を自分の手首へ近づけた。

 二つの断面から、細いものが伸びる。

 一本、二本ではない。

 無数のそれが一斉に身を伸ばし、向かい側から伸びてきたものへ絡みついた。

 細いもの同士が空中で絡まり合う。

 その数が増えていくにつれて、離れていた手がゆっくりと手首へ引き寄せられていった。

 やがて二つの断面が合わさる。

 蠢いていたものが内側へ潜り込み、切れ目が塞がっていく。

 乱霧は手を離した。

 手首を回す。

 指を曲げ、開く。

 元通りだった。

 銀秋は顔をしかめたまま、その手を見る。

「……気色悪いな、お前」

「失礼ね」

「その手見せられて他に何て言えってんだ」

 乱霧は気にした様子もなかった。

「触れようとしただけでしょう」

「駄目だ」

 キミコが言った。

「どうして?」

「分からない」

 乱霧はすぐには次を聞かなかった。

 元に戻った自分の手を一度眺め、それから銀秋へ目を向ける。

「銀秋」

「何だ」

「私に触れられるの、嫌だった?」

「嫌に決まってんだろ」

「そう」

「初対面の女にいきなり顔触られて喜ぶと思ったのか」

 乱霧はそれ以上銀秋には構わなかった。

 再びキミコを見る。

「私が銀秋に触れるのが嫌だったの?」

「うん」

「銀秋が嫌がるから?」

 キミコは少し考えた。

「……お前が銀秋を傷つけるかもしれないと思った」

「それだけ?」

 キミコは答えなかった。

 乱霧は待つ。

「……分からない」

 その返事を聞いて、乱霧は黙った。

 先ほどまでとは違う目で、キミコを見ている。

「この人間のこと、好き?」

 キミコは少し黙ったあと、口を開いた。

「分からない」

「じゃあ、いなくなったら嫌?」

「嫌だ」

 銀秋は黙ってふたりを見ていた。

 話しているのは乱霧とキミコなのに、出てくるのは自分の話ばかりだった。

「他の人間を好きになったら?」

 返事が遅れた。

「……嫌だ」

 銀秋はわずかに眉を寄せた。

 何か言おうとして、やめる。

「お前を置いて、どこかへ行っても?」

「嫌だ」

「どうして?」

 キミコは答えない。

「分からない?」

「うん」

 乱霧は扇を持ったまま、じっとキミコを見ていた。

「分からなくても、嫌なのね」

「嫌だ」

 答えだけは迷わなかった。

 乱霧の口元が、わずかに動く。

「この前、銀秋の客を呪ったでしょう」

 キミコの目が乱霧へ向く。

「銀秋を困らせたから、呪ったの?」

 少しの沈黙のあと、

「……そうだ」

 銀秋が乱霧を見る。

「お前、見てたのか」

 乱霧は銀秋には目を向けなかった。

「銀秋が他の誰かを綺麗だと言ったら?」

 キミコは答えない。

 今までより、少し長い間があった。

「……嫌だ」

「どうして?」

「嫌だからだ」

「それじゃ分からないわ、キミコ」

「分からなくていい」

「私は知りたいな」

 キミコは答えなかった。

 乱霧もすぐには次を聞かなかった。

 店の中は、いつの間にか随分と暗くなっている。

 戸口から差し込む夕暮れの光も、もうわずかしか残っていなかった。

 少しして、乱霧が口を開く。

「銀秋に綺麗って言われた?」

「言われた」

「目の話だ」

 銀秋が口を挟んだ。

 乱霧が銀秋を見る。

「目だけ?」

 銀秋は黙った。

 乱霧はしばらく銀秋を見ていたが、それ以上は追及しなかった。

 再びキミコへ目を向ける。

「銀秋に綺麗だと思われたい?」

 キミコは答えない。

「似合ってるって言われたら嬉しかったのよね」

「うん」

「他の人間に言われても嬉しい?」

「……分からない」

「銀秋じゃなきゃ駄目?」

 キミコは黙った。

 乱霧は急かさなかった。

 銀秋も何も言わない。

 少し待ってから、次の問いを口にする。

「銀秋に触れたい?」

 キミコは答えない。

「銀秋に触れられるのは?」

「嫌ではない」

「他の人間なら?」

「嫌だ」

「銀秋だけはいいの?」

 少しの間があった。

「……うん」

 乱霧は、それ以上何も聞かなかった。

 店の外は、もう暗くなっていた。

 向かいの店も戸を閉め、通りを歩く人の姿もほとんどない。

 静かになった店の中で、キミコが銀秋を見る。

 銀秋もキミコを見た。

 しばらく目が合う。

 乱霧は何も言わず、そのふたりを見ている。

 やがて、キミコが口を開いた。

「……銀秋がいい」

 乱霧は何も言わなかった。

 ただ、キミコを見ていた。

 しばらくして、

「ふうん」

 乱霧は満足したように微笑んだ。

「何だ」

 キミコが尋ねる。

「別に」

 キミコは乱霧を見た。

 乱霧はもう答えなかった。

 くるりと銀秋に背を向け、店の外へ向かう。

「おい」

 銀秋が呼び止めた。

 乱霧が振り返る。

「何?」

「帰るのか」

「ええ」

「何しに来たんだ、お前」

「キミコを見に来たって言ったでしょう」

「散々引っ掻きまわして、それで終わりかよ」

「終わりよ」

 乱霧は扇で口元を隠した。

「知りたいことは分かったもの」

 銀秋は乱霧を睨んだ。

「……二度と来るな」

 乱霧は気にした様子もなく、店の外へ出た。

 そこで一度だけ振り返る。

 鮮やかな緑の目が、キミコを見る。

「じゃあね、キミコ」

「うん」

「お前も返事すんな」

 銀秋が言った。

 キミコが銀秋を見る。

「なぜ」

「来るからだよ」

 乱霧はふたりを見て、また少し笑った。

 そのまま通りを歩いていく。

 頭に被った小袖が、歩くたびに揺れる。

 やがて、その姿は通りの向こうへ消えた。

 銀秋はしばらくその後ろ姿を見ていた。

 完全に見えなくなったところで、表の戸を閉める。

「……何だったんだ、あいつ」

「乱霧だ」

「それは分かった。最悪の女だ」

 銀秋は戸に手をかけたまま息を吐いた。

 それから店の奥へ向かう。

「銀秋?」

 しばらくして戻ってきた銀秋の手には、塩があった。

 キミコがそれを見る。

「何をするんだ」

「塩撒くんだよ」

「なぜ」

「清めだ」

 銀秋はまず、表の戸口に塩を撒いた。

 ぱらぱらと白い粒が床へ散る。

 次に、乱霧が立っていた辺りにも撒く。

 そこで、床に残った濡れ跡が目に入った。

 乱霧の手首から滴った水だ。

 銀秋の顔が露骨に歪む。

 塩を撒く。

 もう一度撒く。

 少し考えて、さらに撒いた。

「そこだけ多くないか」

「気色悪いんだよ」

「もういないぞ」

「残ってんだろ、これが」

 銀秋は濡れた床を指した。

「乱霧の血だ」

「だから嫌なんだよ」

 また塩を撒く。

 キミコは黙ってその様子を見ていた。

「もういいだろ」

「よくねえ」

 銀秋は乱霧の手が落ちていた辺りを念入りに清めてから、ようやく立ち上がった。

「今度来ても入れないからな」

「なぜ」

「二度と来るなっつっただろ」

「乱霧はしばらく遠くに行くぞ」

「そうらしいけどよ」

 銀秋は残った塩をしまう。

 キミコはその背中を見ていた。

「銀秋」

「何だ」

「飯は?」

 銀秋の手が止まった。

「……お前は本当にそればっかりだな」

「腹が減った」

「分かったよ。行くぞ」

「うん」

 銀秋は表の戸へ向かった。

 途中、乱霧の体液が落ちていた場所を避けて歩いた。

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