問い
日が傾き始めていた。
銀秋は帳場に座り、帳簿を開いていた。
店の奥まで差し込んでいた日の光は、いつの間にか表の戸口まで退いている。
棚や柱の影が長く伸び、店の中は少しずつ薄暗くなっていた。
今日はもう客も来ないだろう。
銀秋は帳簿へ一文字書きつけ、筆を置いた。
「そろそろ閉めるか」
隣にいたキミコが顔を上げる。
「飯だ」
「お前はそればっかりだな」
銀秋は帳簿を閉じた。
立ち上がろうとした、そのときだった。
表に人影が見えた。
一人の女が、店の前に立っている。
身なりのいい女だった。
上等な小袖を身につけ、その上から、さらに一枚の小袖を頭に被っている。頭から肩へ垂れた衣が顔の両脇を囲み、その内側には長い黒髪が垂れていた。
肌は白く、美しい顔には鮮やかな緑の瞳がある。
手には扇を持ち、足元には草履を履いていた。
「悪いが、今日はもう――」
「久しぶりね、キミコ」
女は銀秋の言葉を遮った。
その目は、最初からキミコへ向いていた。
キミコが女を見る。
「乱霧」
銀秋はふたりを見比べた。
「知り合いか」
「妹だ」
「……妹?」
「うん」
女――乱霧は店の中へ一歩入ると、そこで足を止めた。
「しばらく遠くに行くから、その前に顔を見ておこうと思って」
「遠く?」
「ええ」
「どこだ」
「海の外」
それ以上話すつもりはないらしい。
乱霧は黙ってキミコを眺めた。
頭から足元まで、確かめるように視線が動く。
「随分変わったわね」
「そうか?」
「そうよ」
今度は店の中へ目を向ける。
棚に並んだ質物、帳場、その向こうに続く店の奥。
「ここにいるの?」
「うん」
「ずっと?」
「うん」
「いつから?」
「銀秋に会ってからだ」
「屋敷には戻ってないの?」
「うん」
「どうして」
「ここにいたいからだ」
「ここに?」
キミコは少し考えた。
「銀秋のところに」
そこで初めて、乱霧の興味が銀秋へ向いた。
鮮やかな緑の目が、頭から足元まで銀秋を眺める。
「これが銀秋?」
「うん」
「これとは何だ」
銀秋が言った。
乱霧は答えない。
「それで、これは何?」
「銀秋だ」
「名はどうでもいいわ」
「なぜ」
「お前にとって何なのか聞いてるの」
キミコは銀秋を見る。
「銀秋だ」
「名前じゃなくて」
「質屋だ」
「職もどうでもいいわ」
「金貸しもしている」
乱霧はしばらくキミコを見た。
「お前に聞いた私が悪かったわ」
銀秋が乱霧を見る。
「弟がいるって言ってなかったか」
「妹もいる」
「他にもいるのか」
「家族か」
「そうだ」
「殺した」
「……」
銀秋は何も言えなかった。
あまりにもあっさりと言われて、聞き返す言葉すら出てこない。
キミコは何でもないことのように銀秋を見ている。
乱霧も特に驚いた様子はなかった。
しばらくして、その視線がキミコへ戻る。
「人間は喰べてないの?」
今度は銀秋が乱霧を見る。
「……お前も喰うのか」
「喰べるわ」
乱霧は何でもないことのように答えた。
「そうかよ……」
銀秋は改めて乱霧を見る。
上等な衣をまとい、扇を手にした姿は、どう見ても身なりのいい女にしか見えない。
乱霧はその反応など気にも留めなかった。
「いつから喰べてないの?」
「ここに来てからだ」
「どうして」
「衣に血がつく」
「それでやめたの?」
「うん」
乱霧の眉がわずかに動いた。
「お前が?」
「うん」
乱霧はしばらくキミコを見ていた。
やがて、その視線がキミコの衣へ落ちる。
「それ、新しいわね」
「うん」
「どうしたの」
「銀秋に買ってもらった」
「選んだのも?」
「うん」
キミコが自分の袖を見る。
「気に入ってる」
「似合ってるわよ」
「銀秋にも言われた」
「嬉しかった?」
「嬉しかった」
乱霧は答えず、その薄紅の衣をしばらく眺めていた。
やがて、視線が衣からキミコ自身へ移る。
「それに、その身体」
「何だ」
「いつから?」
「銀秋を喰おうとしたあとだ」
乱霧の目が銀秋へ向いた。
「喰わなかったのね」
返事を待つように、しばらく銀秋を眺める。
それから、もう一度キミコへ目を戻した。
「どうして?」
「銀秋が死にたくないと言った」
「それで?」
「喰わなかった」
乱霧は黙った。
銀秋を見て、キミコを見る。
何かを確かめるように、その視線がふたりの間を行き来した。
「……そう」
乱霧の視線が、再びキミコの身体へ向く。
「自分で変えたの?」
「違う。勝手に変わった」
乱霧が銀秋を見る。
銀秋は眉を寄せた。
「何だよ」
「お前、本当にただの人間?」
「そうだよ」
「キミコに何かした?」
「何もしてねえよ」
乱霧はキミコへ確かめるように目を向ける。
「本当に?」
「うん」
「じゃあ、どうしてその身体になったの」
「銀秋の趣味だ」
「……そう」
乱霧の視線が、ゆっくり銀秋へ戻った。
「何だよ」
「別に」
乱霧は扇を開いた。
ゆっくりと自分を扇ぐ。
銀秋は帳場を離れた。
「もう閉めるぞ」
「そう」
「用が済んだなら帰れ」
「まだ済んでないわ」
「何の用だよ」
「キミコを見に来たの」
「見ただろ」
「まだよ」
「いつまで見る気だ」
乱霧は答えなかった。
扇が閉じる。
今までキミコへ向けられていた目が、銀秋へ移った。
しばらくその場から眺めたあと、乱霧は銀秋へ歩み寄る。
「何だ」
銀秋が眉を寄せた。
乱霧は目の前で足を止めた。
近くで顔を眺め、それから身体へ視線を落とす。
「普通の人間ね」
「悪かったな」
「悪いとは言ってないわ」
「じゃあ何だ」
「分からない」
「何が」
「どうしてお前なのか」
乱霧は銀秋の顔を眺めた。
もう一歩近づく。
「近えぞ」
銀秋が言っても、乱霧は離れない。
やがて、片手を上げた。
銀秋の頬へ手を伸ばす。
触れる寸前だった。
何かが床へ落ちた。
銀秋が下を見る。
手だった。
乱霧の手が、手首から先だけ床に転がっている。
「……は?」
銀秋が顔を上げた。
乱霧の右腕は、手首のところで途切れていた。
血は出ていない。
代わりに、断面から透明な水が滴っていた。
ぽたり、ぽたりと床を濡らしていく。
その断面で、何かが動いた。
細いものが、無数に蠢いている。
一本一本は小さな蚯蚓のようで、それらが互いに絡まり、ほどけ、また絡まりながら、手首の中を埋め尽くしていた。
「……何だ、それ」
銀秋が顔をしかめた。
乱霧は自分の腕を見る。
それから、床に落ちた手を見る。
さっきまで帳場にいたキミコが、乱霧のすぐそばに立っていた。
銀秋には、いつ動いたのか分からなかった。
乱霧がキミコを見る。
わざとらしく眉を下げてみせる。
「ひどいわ、姉様」
「銀秋に触れようとした」
「そうね」
「だからだ」
「だから手を落とすの?」
「うん」
「どうして?」
キミコは黙った。
「キミコ?」
「……分からない」
乱霧は少しだけ目を細めた。
「分からないのに落としたの?」
「うん」
乱霧はしゃがみ、床に落ちた自分の手を拾い上げた。
切断された手の断面にも、同じものが蠢いている。
乱霧は手を自分の手首へ近づけた。
二つの断面から、細いものが伸びる。
一本、二本ではない。
無数のそれが一斉に身を伸ばし、向かい側から伸びてきたものへ絡みついた。
細いもの同士が空中で絡まり合う。
その数が増えていくにつれて、離れていた手がゆっくりと手首へ引き寄せられていった。
やがて二つの断面が合わさる。
蠢いていたものが内側へ潜り込み、切れ目が塞がっていく。
乱霧は手を離した。
手首を回す。
指を曲げ、開く。
元通りだった。
銀秋は顔をしかめたまま、その手を見る。
「……気色悪いな、お前」
「失礼ね」
「その手見せられて他に何て言えってんだ」
乱霧は気にした様子もなかった。
「触れようとしただけでしょう」
「駄目だ」
キミコが言った。
「どうして?」
「分からない」
乱霧はすぐには次を聞かなかった。
元に戻った自分の手を一度眺め、それから銀秋へ目を向ける。
「銀秋」
「何だ」
「私に触れられるの、嫌だった?」
「嫌に決まってんだろ」
「そう」
「初対面の女にいきなり顔触られて喜ぶと思ったのか」
乱霧はそれ以上銀秋には構わなかった。
再びキミコを見る。
「私が銀秋に触れるのが嫌だったの?」
「うん」
「銀秋が嫌がるから?」
キミコは少し考えた。
「……お前が銀秋を傷つけるかもしれないと思った」
「それだけ?」
キミコは答えなかった。
乱霧は待つ。
「……分からない」
その返事を聞いて、乱霧は黙った。
先ほどまでとは違う目で、キミコを見ている。
「この人間のこと、好き?」
キミコは少し黙ったあと、口を開いた。
「分からない」
「じゃあ、いなくなったら嫌?」
「嫌だ」
銀秋は黙ってふたりを見ていた。
話しているのは乱霧とキミコなのに、出てくるのは自分の話ばかりだった。
「他の人間を好きになったら?」
返事が遅れた。
「……嫌だ」
銀秋はわずかに眉を寄せた。
何か言おうとして、やめる。
「お前を置いて、どこかへ行っても?」
「嫌だ」
「どうして?」
キミコは答えない。
「分からない?」
「うん」
乱霧は扇を持ったまま、じっとキミコを見ていた。
「分からなくても、嫌なのね」
「嫌だ」
答えだけは迷わなかった。
乱霧の口元が、わずかに動く。
「この前、銀秋の客を呪ったでしょう」
キミコの目が乱霧へ向く。
「銀秋を困らせたから、呪ったの?」
少しの沈黙のあと、
「……そうだ」
銀秋が乱霧を見る。
「お前、見てたのか」
乱霧は銀秋には目を向けなかった。
「銀秋が他の誰かを綺麗だと言ったら?」
キミコは答えない。
今までより、少し長い間があった。
「……嫌だ」
「どうして?」
「嫌だからだ」
「それじゃ分からないわ、キミコ」
「分からなくていい」
「私は知りたいな」
キミコは答えなかった。
乱霧もすぐには次を聞かなかった。
店の中は、いつの間にか随分と暗くなっている。
戸口から差し込む夕暮れの光も、もうわずかしか残っていなかった。
少しして、乱霧が口を開く。
「銀秋に綺麗って言われた?」
「言われた」
「目の話だ」
銀秋が口を挟んだ。
乱霧が銀秋を見る。
「目だけ?」
銀秋は黙った。
乱霧はしばらく銀秋を見ていたが、それ以上は追及しなかった。
再びキミコへ目を向ける。
「銀秋に綺麗だと思われたい?」
キミコは答えない。
「似合ってるって言われたら嬉しかったのよね」
「うん」
「他の人間に言われても嬉しい?」
「……分からない」
「銀秋じゃなきゃ駄目?」
キミコは黙った。
乱霧は急かさなかった。
銀秋も何も言わない。
少し待ってから、次の問いを口にする。
「銀秋に触れたい?」
キミコは答えない。
「銀秋に触れられるのは?」
「嫌ではない」
「他の人間なら?」
「嫌だ」
「銀秋だけはいいの?」
少しの間があった。
「……うん」
乱霧は、それ以上何も聞かなかった。
店の外は、もう暗くなっていた。
向かいの店も戸を閉め、通りを歩く人の姿もほとんどない。
静かになった店の中で、キミコが銀秋を見る。
銀秋もキミコを見た。
しばらく目が合う。
乱霧は何も言わず、そのふたりを見ている。
やがて、キミコが口を開いた。
「……銀秋がいい」
乱霧は何も言わなかった。
ただ、キミコを見ていた。
しばらくして、
「ふうん」
乱霧は満足したように微笑んだ。
「何だ」
キミコが尋ねる。
「別に」
キミコは乱霧を見た。
乱霧はもう答えなかった。
くるりと銀秋に背を向け、店の外へ向かう。
「おい」
銀秋が呼び止めた。
乱霧が振り返る。
「何?」
「帰るのか」
「ええ」
「何しに来たんだ、お前」
「キミコを見に来たって言ったでしょう」
「散々引っ掻きまわして、それで終わりかよ」
「終わりよ」
乱霧は扇で口元を隠した。
「知りたいことは分かったもの」
銀秋は乱霧を睨んだ。
「……二度と来るな」
乱霧は気にした様子もなく、店の外へ出た。
そこで一度だけ振り返る。
鮮やかな緑の目が、キミコを見る。
「じゃあね、キミコ」
「うん」
「お前も返事すんな」
銀秋が言った。
キミコが銀秋を見る。
「なぜ」
「来るからだよ」
乱霧はふたりを見て、また少し笑った。
そのまま通りを歩いていく。
頭に被った小袖が、歩くたびに揺れる。
やがて、その姿は通りの向こうへ消えた。
銀秋はしばらくその後ろ姿を見ていた。
完全に見えなくなったところで、表の戸を閉める。
「……何だったんだ、あいつ」
「乱霧だ」
「それは分かった。最悪の女だ」
銀秋は戸に手をかけたまま息を吐いた。
それから店の奥へ向かう。
「銀秋?」
しばらくして戻ってきた銀秋の手には、塩があった。
キミコがそれを見る。
「何をするんだ」
「塩撒くんだよ」
「なぜ」
「清めだ」
銀秋はまず、表の戸口に塩を撒いた。
ぱらぱらと白い粒が床へ散る。
次に、乱霧が立っていた辺りにも撒く。
そこで、床に残った濡れ跡が目に入った。
乱霧の手首から滴った水だ。
銀秋の顔が露骨に歪む。
塩を撒く。
もう一度撒く。
少し考えて、さらに撒いた。
「そこだけ多くないか」
「気色悪いんだよ」
「もういないぞ」
「残ってんだろ、これが」
銀秋は濡れた床を指した。
「乱霧の血だ」
「だから嫌なんだよ」
また塩を撒く。
キミコは黙ってその様子を見ていた。
「もういいだろ」
「よくねえ」
銀秋は乱霧の手が落ちていた辺りを念入りに清めてから、ようやく立ち上がった。
「今度来ても入れないからな」
「なぜ」
「二度と来るなっつっただろ」
「乱霧はしばらく遠くに行くぞ」
「そうらしいけどよ」
銀秋は残った塩をしまう。
キミコはその背中を見ていた。
「銀秋」
「何だ」
「飯は?」
銀秋の手が止まった。
「……お前は本当にそればっかりだな」
「腹が減った」
「分かったよ。行くぞ」
「うん」
銀秋は表の戸へ向かった。
途中、乱霧の体液が落ちていた場所を避けて歩いた。




