呪い
朝から、店には客が来ていた。
銀秋は帳場に座り、差し出された文書を眺めている。
向かいには、一人の男が座っていた。
キミコは銀秋の隣から、その文書を覗き込んだ。
何が書かれているのかは分からない。
文字は少しずつ覚えているが、まだ読めないものの方が多かった。
「これでいいか」
男が尋ねた。
「ああ」
銀秋は文書を畳んだ。
「待ってろ」
立ち上がり、店の奥へ向かう。
棚の前で足を止めると、並んだ包みの中から一つを取り出した。
キミコはその様子を目で追った。
銀秋が戻ってくる。
包みを男の前へ置いた。
「ほら」
男は包みを開き、中を確かめた。
ほっとしたように息を吐く。
「助かった」
「なくすなよ。次に持ってきても、同じだけ貸せるとは限らねえぞ」
「分かってるよ」
男は包みを抱え、立ち上がった。
キミコが男を見る。
「金は」
男が足を止める。
「何だ?」
「銀秋から借りた金だ。返さないのか」
「おい」
銀秋が口を挟んだ。
男は少し困ったように銀秋を見る。
「いいんだよ」
銀秋が言った。
「だが、貸したのだろう」
「そうだが」
「なら返すものだ」
「今回は返さなくていい」
キミコは銀秋を見る。
「なぜだ」
「そういう決まりになったんだよ」
「誰が決めた」
「偉い奴ら」
「銀秋より偉いのか」
「俺より偉い奴なんざ腐るほどいる」
男が小さく笑った。
キミコの一つ目が、そちらを向く。
男の笑いが止まった。
「お前は金を返さず、預けたものも持っていくのか」
「だから、そういう御触れなんだよ」
「銀秋には聞いていない」
「キミコ」
銀秋が名前を呼んだ。
キミコは黙った。
「いいから行け」
「あ、ああ」
男は包みを抱え直し、店を出ていった。
キミコは、その背中を見ていた。
男が通りへ出る。
「……呪われろ」
小さな声だった。
銀秋が振り向く。
「おい」
キミコは何も言わない。
「今、何した」
「何もしていない」
「しただろ」
「……」
「何した」
キミコは銀秋から目を逸らした。
「少し、呪った」
「少し呪ったって何だ」
「少しは少しだ」
「解け」
「嫌だ」
「キミコ」
「銀秋の金だ」
キミコが銀秋を見る。
「金を返していない。それなのに、銀秋が預かっていたものまで持っていった」
「そういう決まりだって言っただろ」
「私は決めていない」
「お前が決めることじゃねえよ」
「銀秋も決めていない」
「そうだよ」
「なら、なぜ銀秋が損をする」
銀秋は口を閉じた。
キミコはまだ、男が去った方を見ている。
「銀秋の金なのに」
「だからって、人を呪うな」
「なぜだ」
「気に入らねえからって人を呪ってたら、きりがねえだろ」
「だが、銀秋が損をした」
「それはもういいんだよ」
「私はよくない」
「解け」
「嫌だ」
「キミコ」
少し強い声だった。
キミコは銀秋を見る。
それから、ぷいと顔を逸らした。
「知らない」
「あ、おい」
立ち上がる。
そのまま表へ向かう。
「どこ行くんだ」
キミコは答えなかった。
「おい!」
そのまま店を出ていった。
銀秋は追わなかった。
開いた戸の向こうをしばらく見てから、頭を掻く。
「……ったく」
帳場へ戻った。
「それで、ここへ来たのかい」
「うん」
キミコは餅屋の隅に座っていた。
女は呆れたようにキミコを見ている。
「銀秋が怒った」
「そりゃ怒るよ」
キミコが女を見る。
「なぜだ」
「人を呪ったんだろう?」
「少しだ」
「少しでも呪いは呪いだよ」
「死なない」
「そういう問題じゃないよ」
「怪我もしない」
「じゃあ、どんな呪いなんだい」
キミコは少し考えた。
「何もないところで転ぶ」
「……ほかには」
「鳥の糞が落ちる」
「……」
「物を落とすこともある」
女は黙った。
「それだけかい」
「それだけだ」
「地味だねえ」
「だが嫌だろう」
「そりゃ嫌だけどね」
女は苦笑した。
キミコは膝を抱える。
「銀秋の金なのに」
「まだ言ってるのかい」
「銀秋は損をした」
「商売してりゃ、損することくらいあるよ」
「ない方がいい」
「そりゃそうだけどねえ」
女は並べていた餅へ目を戻した。
しばらくして、またキミコを見る。
「あんた、銀秋のことが随分と大事なんだねえ」
キミコが顔を上げる。
「大事?」
「違うのかい」
キミコは少し考えた。
「分からない」
「そうかい」
女はそれ以上、何も言わなかった。
昼を少し過ぎた頃だった。
餅屋の前に銀秋が現れた。
キミコはすぐに気づいた。
だが、そちらを見ない。
「いるか」
「いるよ」
女が答えた。
銀秋が中を覗く。
キミコは壁の方を向いていた。
「何してんだ、お前」
返事はない。
「飯食うぞ」
キミコの目が少し動いた。
「腹減ってねえのか」
「……減った」
「じゃあ行くぞ」
キミコは動かない。
銀秋は息を吐いた。
「まだ怒ってんのか」
「銀秋が怒った」
「怒られることしたからだろ」
キミコが銀秋を見る。
「お前も怒ってるじゃねえか」
「怒っていない」
「じゃあ帰るぞ」
少しして、キミコは立ち上がった。
その様子を見ていた女が、銀秋を呼び止める。
「あんた、この前のお礼はしたのかい」
「礼?」
「一揆の時だよ。この子、随分働いたんだろう?」
「ああ」
「店も守って、ほかの店まで助けて回ったって聞いたよ」
「そうだな」
「何かしてやったのかい」
「した」
女が少し意外そうな顔をする。
「何を?」
「餅」
「……餅? うちの?」
「五つ」
女は黙った。
「あの五つ?」
「ああ」
「それで済ませたのかい」
「こいつ、喜んで食ってたぞ」
「そりゃ餅は喜ぶだろうけどねえ。あれだけ働いてもらって、それだけかい」
銀秋はキミコを見た。
キミコも銀秋を見ている。
言われてみれば、確かにそうだった。
一揆の夜、キミコは店を守った。
それだけではない。
酒屋へ行き、近くの質屋へ行き、火まで消した。
キミコは餅が欲しいと言った。
だから五つ買った。
嬉しそうに食べていたから、それで礼を済ませたつもりになっていた。
「……確かに、少なかったか」
「今頃気づいたのかい」
「私は餅でよかった」
キミコが言った。
女は苦笑する。
「この子がそう言ってくれるから済んでるんだよ」
銀秋はもう一度、キミコを見た。
「……そうだな」
餅屋を出たあと、ふたりは並んで通りを歩いた。
昼時で、人通りは多い。
キミコは銀秋の少し後ろを歩いていた。
「朝の呪いは解いたのか」
「解いた」
「いつだよ」
「餅屋にいる時」
「なら先に言え」
銀秋は頭を掻いた。
「まだ怒ってんのか」
「怒っていない」
「嘘つけ」
キミコは答えなかった。
銀秋は前を向いたまま言う。
「あれくらいじゃ、店はどうにもならねえよ」
「だが金は減った」
「減ったな」
「なら損をした」
「したよ」
「やはり」
「商売ってのは、いつも得するわけじゃねえんだ」
キミコが銀秋を見る。
「貸した金が全部返ってくるとも限らねえ。質に入ったもんが全部金になるわけでもねえ。今回みたいなこともある」
「それでいいのか」
「よくはねえよ」
銀秋は前を歩きながら続ける。
「だが、あれくらいで傾くほど危ねえ商売してねえ」
「本当か」
「本当だ」
キミコは疑うように銀秋を見る。
「信じてねえな」
「金が減った」
「……分かったよ」
銀秋が足を止めた。
「来い」
「どこへ」
「いいから」
歩き出す。
キミコは少し遅れて、その後を追った。
銀秋が入ったのは、絹物を商う店だった。
キミコは中を見回した。
畳まれた反物がいくつも並んでいる。
色も柄も、それぞれ違う。
白いものもあれば、目を引くほど鮮やかなものもある。
「何をするんだ」
「衣を買う」
「銀秋のか」
「お前のだよ」
キミコが銀秋を見る。
「私の?」
「ああ」
「なぜ」
「この前の礼」
銀秋は並んだ反物へ目を向けた。
「餅五つじゃ足りなかったらしいからな」
「私は餅でよかった」
「俺がよくねえんだよ」
キミコは黙った。
「好きなの選べ」
銀秋が言う。
キミコは反物を見る。
端から一つずつ眺めていく。
色の濃いもの。淡いもの。文様の入ったもの。
どれも、普段身につけている白い着物とは違っていた。
しばらく眺めていたが、手を伸ばさない。
「どうした」
「分からない」
「何が」
「どれがいいのか」
「好きなのでいいだろ」
キミコはまた反物を眺めた。
それから、銀秋を見る。
「銀秋が選んで」
「俺が?」
「うん」
「お前が着るんだぞ」
「銀秋が似合うと思うものがいい」
銀秋はキミコを見た。
キミコも銀秋を見ている。
「……分かったよ」
銀秋は反物へ目を向けた。
一つを手に取る。
少し広げてから、戻す。
別のものを見る。
鮮やかな色だった。
キミコへ目をやり、また戻した。
何本か見比べる。
やがて、一つの反物に手を伸ばした。
淡い紅色だった。
鮮やかな紅とは違う。
少しくすんだ、柔らかな色をしている。
絹の地には細かな草花の文様が入り、光の当たり方によって、うっすらと浮かんで見えた。
銀秋は反物を見る。
それから、キミコを見る。
艶のある黒髪。
白い肌。
顔の中央にある、大きな藤色の目。
「これだな」
キミコが近づいてくる。
「これか」
「ああ」
キミコは銀秋の手にある反物を見た。
指先で、そっと触れる。
「綺麗だ」
「気に入ったか」
「うん」
「じゃあ、これにするぞ」
銀秋は店の者を呼んだ。
反物を渡し、仕立てを頼む。
話をしている途中で、銀秋はもう一度キミコを見た。
「袖、少し長くできるか」
店の者が頷く。
キミコが銀秋を見る。
「長くするのか」
「ああ」
「なぜ」
「その方がお前には似合うだろ」
キミコは少し黙った。
それから、反物を見る。
「そうか」
寸法を取られることになった。
キミコは言われるまま腕を広げる。
肩から腕へ、身体の寸法を測られていく。
銀秋は少し離れたところから、その様子を眺めていた。
やがて、すべて終わった。
「行くぞ」
銀秋が表へ向かう。
キミコは動かなかった。
「何してる」
「衣は」
「まだだよ」
「どこにある」
「今から仕立てるんだ」
キミコは反物を見る。
「今は着られないのか」
「着られねえよ」
「いつできる」
「何日かしたらだ」
「……そうか」
キミコはもう一度、反物を見た。
「できたら取りに来る」
「忘れんなよ」
「忘れない」
ようやくキミコが銀秋のところへ来る。
ふたりで店を出た。
通りへ戻ると、銀秋は歩き出した。
キミコが隣を歩く。
しばらくして、キミコが口を開いた。
「銀秋」
「何だ」
「ありがとう」
「……ああ」
翌日。
キミコは、昨日の店へ行った。
「できたか」
「いえ、まだです」
「そうか」
キミコは帰った。
その翌日も行った。
「できたか」
「まだですねえ」
「そうか」
その次の日も行った。
「できたか」
店の者は、もう驚かなかった。
「もう少しですよ」
「いつできる」
「明日には」
「本当か」
「ええ」
「分かった」
キミコは帰った。
翌日。
キミコは朝から店へ行こうとしていた。
「待て」
銀秋が呼び止める。
キミコが振り返った。
「何だ」
「まだ店開いてねえだろ」
「もうできている」
「できてても店が開いてなきゃ受け取れねえよ」
キミコは表を見る。
「いつ開く」
「もう少し待て」
「昨日、明日にはできると言っていた」
「今日にはなったけどな」
キミコはしばらく表を見ていた。
それから、帳場のそばに座った。
少しして、また銀秋を見る。
「もういいか」
「まだだ」
仕立て上がった小袖を受け取り、店へ戻ると、キミコはすぐに着替えた。
銀秋は帳場に座っていた。
帳簿を開き、筆を動かしている。
「銀秋」
「ん?」
顔を上げる。
銀秋の手が止まった。
キミコが立っていた。
仕立て上がった小袖を身につけている。
淡い薄紅色が、艶のある黒髪によく映えていた。
袖は、普段のものより長い。
キミコが腕を持ち上げる。
長い袖が、ゆるりと揺れた。
「似合っているか」
銀秋はキミコを見た。
自分で選んだ色だった。
似合うと思ったから選んだ。
それでも、実際に身につけた姿を見ると、すぐには言葉が出なかった。
「……似合ってるよ」
キミコはしばらく銀秋を見ていた。
「そうか」
「ああ」
キミコは自分の袖を見る。
少し長く仕立てられた袖を持ち上げる。
淡い紅色の絹が、するりと手の上を滑った。
それから、何かを思い出したように顔を上げる。
「銀秋」
「何だ」
「前の衣を捨てたい」
「前の?」
「持ってきた衣だ」
銀秋は少し考えた。
すぐに思い当たる。
キミコがここへ来た時に持っていた、何枚もの衣。
女たちから奪ったものだと、あとになって聞いた。
洗ってもいない。乾いて黒ずんだ血が、今も残っている。
「あれか」
「うん」
「捨てるって、お前な」
銀秋は眉を寄せた。
「血、どうすんだよ」
あれだけ血のついた衣を、そのまま表へ捨てるわけにもいかない。
見つかれば、何があったのかと騒ぎになる。
キミコは銀秋を見る。
「分からない」
「分からないじゃねえよ」
「でも、もういらない」
銀秋は黙った。
キミコはもう一度、自分の袖を見る。
薄紅色の袖を指先でつまむ。
「これは銀秋が選んでくれた」
「ああ」
「だから、もういらない」
銀秋はキミコを見た。
キミコはそれ以上、何も言わなかった。
ただ、新しい小袖の袖を触っている。
「……分かったよ。捨て方は俺が考える」
「うん」
「勝手にその辺に捨てるなよ」
「分かった」
キミコは素直に頷いた。




