礼
一揆の騒ぎから、数日が経った。
遠くでは、まだ騒ぎが続いているらしい。
どこそこの質屋が襲われた、土倉が破られた。そんな話は、今も人づてに聞こえてくる。
だが、銀秋の店の周りは静かだった。
あの夜以来、一揆の者たちは来ていない。
壊された戸も直した。
酒屋や近くの質屋も同じだった。新しい板の目立つ店はいくつかあるものの、通りには人が戻り、以前と変わらず商売を始めている。
銀秋の店にも、朝から客が出入りしていた。
「またか」
銀秋は帳場に置かれた包みを見た。
米だった。
「何だ」
店の奥にいたキミコが近づいてくる。
「米」
銀秋は包みを持ち上げた。
「この間の礼だと」
「誰からだ」
「今帰った奴だよ。向こうの質屋の」
キミコは少し考えた。
「戸を壊されていたところか」
「そうだ」
銀秋は米を店の奥へ運んだ。
そこには、すでにいくつもの品が置かれていた。
野菜や干した魚、反物。それから酒壺が三つ。
どれも、あの夜の礼として届けられたものだった。
最初に来たのは酒屋だった。
戸を直した翌日、酒壺を三つ抱えてやってきた。
「こんなにいらねえよ」
銀秋が言うと、酒屋は鼻で笑った。
「何言ってんだ。持ってけ」
「一つでいい」
「三つともだ」
「店で売れよ」
「命も店も守ってもらったんだ。酒三つで足りるかよ」
酒屋はそう言って、三つとも置いていった。
帰る前に、店の奥にいたキミコを見る。
「……あいつにも礼を言っといてくれ」
「そこにいるぞ」
「分かってるよ」
酒屋は少し黙った。
それから、キミコへ頭を下げた。
「助かった」
「うん」
それだけ言うと、帰っていった。
他の者も似たようなものだった。
野菜を持ってきた者もいた。
干した魚を持ってきた者もいた。
反物を持ってきた者もいた。
だいたいは、キミコへの礼だった。
あの夜、一揆の者たちに武器を捨てさせ、火を消したことは知られている。
助けられたことには感謝している。
だが、恐ろしくないわけではないのだろう。
品は銀秋へ渡す。
キミコには少し離れたところから礼を言い、頭を下げる。
そんな者が多かった。
「たくさんある」
キミコが置かれた品を見て言った。
「銀秋は人気者だな」
「俺じゃねえよ」
銀秋は帳場へ戻った。
「だいたいお前への礼だ」
キミコが銀秋を見る。
「私に?」
「そうだよ」
キミコはもう一度、品物を見る。
「そうか」
「嬉しくねえのか」
「嬉しい」
「そう見えねえけど」
キミコはしばらく品物を眺めていた。
やがて、酒壺を指す。
「これは?」
「酒屋から」
「飲んでいいのか」
「夕飯のあとにな」
「わかった」
昼を過ぎ、客足が途切れたところで、銀秋は帳簿を閉じた。
「飯にするか」
「うん」
二人で店を出た。
通りには、まだ一揆の跡が残っている。
直したばかりの戸や壁が、ところどころに見えた。
それでも、人々はいつものように歩いている。
二人は餅屋へ向かった。
店が見えてきたところで、キミコが言った。
「餅が食べたい」
「またか」
「五個」
「多くねえか」
「食べられる」
「……分かったよ」
餅屋の女は、二人を見ると笑った。
「来たね」
「いつもの頼む」
「あいよ」
「あと餅。五個」
女がキミコを見る。
「五個も食べるのかい」
「うん」
「よく食べるねえ」
女は笑いながら餅を包み始めた。
キミコはその手元を見ている。
一つ、二つと包みの中へ入っていく。
五つ入れたところで、女はもう一つ取った。
「一つ多い」
「よく見てるねえ」
女は六つ目の餅を、そのまま包みの中へ入れた。
「そいつはご褒美だよ」
キミコが女を見る。
「ご褒美とは何だ」
「よくやった奴がもらえるのさ」
「私が?」
「そうだよ。この間、みんなを助けたんだろう?」
「うん」
「じゃあ、よくやったじゃないか」
女は六つ入った包みを差し出した。
キミコは両手で受け取る。
「ありがとう」
「どういたしまして」
女はいつもと変わらず笑っていた。
あの夜のことを知っても、キミコを見る目は変わっていない。
「よかったな」
銀秋が言う。
「うん」
店へ戻る道でも、キミコは自分で餅の包みを持っていた。
「そんなに嬉しいか」
「ご褒美だ」
「そうだな」
「よくやったからもらった」
キミコは包みを見る。
「六個とも食べていいのか」
「お前のだからな」
「うん」
昼飯を食べ終えると、キミコは本当に六個とも食べた。
夕方には、また腹が減ったと言った。
「お前、よく食うな……」
「腹が減った」
「分かったよ」
店を閉め、二人で夕飯を買いに行った。
食べ終える頃には、日はだいぶ傾いていた。
部屋の中には、まだ夕暮れの淡い光が残っている。
銀秋が空になった器を片づけていると、キミコが店の奥を見る。
「銀秋」
「何だ」
「酒」
「覚えてたのかよ」
「うん」
銀秋は酒壺を一つ持ってきた。
器を二つ並べ、酒を注ぐ。
キミコは器を手に取り、一口飲んだ。
「うまい」
「そうか」
「もう一杯」
「早えよ」
銀秋は笑いながら酒を注いだ。
前に二人で飲んだとき、キミコはいくら飲んでも酔わなかった。
銀秋だけが酔いつぶれ、キミコは最後まで普段と変わらなかった。
だから、銀秋も止めなかった。
二杯。
三杯。
キミコは次々と飲んでいく。
しばらくして、銀秋はキミコを見る。
「……お前」
「何だ」
「酔ってねえか」
「酔っていない」
返事が少し遅かった。
大きな藤色の目も、いつもよりぼんやりしている。
「いや、酔ってるだろ」
「酔っていない」
「何でだ?」
「何がだ」
「この前は全然酔わなかっただろ」
キミコは少し考えた。
「うん」
「俺があんだけ酔ってんのに、お前は何ともなかったじゃねえか」
「そうだった」
「じゃあ何で今日は酔ってんだよ」
「分からない」
銀秋は酒壺を見る。
「酒が違うからか?」
「違うと酔うのか」
「知らねえよ」
銀秋はキミコの手から器を取った。
「もうやめとけ」
「なぜ」
「酔ってるからだよ」
「酔っていない」
「酔ってるって」
キミコは銀秋に取られた器を見る。
それから銀秋を見る。
「銀秋」
「何だ」
「私は綺麗か」
「……またそれかよ」
「綺麗か」
「綺麗だよ」
キミコの目が細くなる。
「うん」
「何だよ」
「嬉しい」
少しすると、またキミコが銀秋を見る。
「銀秋」
「今度は何だ」
「私は綺麗か」
「さっき言っただろ」
「もう一度聞きたい」
「綺麗だよ」
「うん」
また目を細める。
「完全に酔ってるじゃねえか」
「酔っていない」
「酔ってるよ」
キミコは少し黙った。
「銀秋の隣がいい」
「……何だよ、急に」
キミコは立ち上がると、銀秋の隣に座った。
肩が触れる。
「銀秋」
「何だ」
「銀秋といたい」
銀秋がキミコを見る。
「ここがいい」
「ここ?」
「銀秋のところ」
キミコは少し考えた。
「飯がある」
「お前そればっかだな」
「餅もある」
「今日はな」
「銀秋もいる」
銀秋は黙った。
「だから、ここがいい」
「……酔ってんなあ」
「酔っていない」
「はいはい」
銀秋が器を置いた。
その途端、肩を押された。
「うおっ」
身体が傾く。
銀秋はそのまま畳へ倒れた。
「何すんだ、お前」
キミコが上から覗き込んでいる。
長い黒髪が垂れ、銀秋の肩へ落ちた。
「……何だよ」
キミコが顔を近づける。
額に、唇が触れた。
ちゅ、と小さな音がした。
銀秋が固まる。
「……は?」
今度は頬だった。
ちゅ。
「おい」
反対の頬にも。
ちゅ。
「おい、キミコ」
また額。
頬。
顎。
「ちょ、待てって」
銀秋がキミコの肩を掴む。
キミコが止まった。
「何してんだよ」
少し考える。
「分からない」
「分からねえのにやってんのかよ」
「うん」
「何でだよ」
「したい」
「……何を」
「銀秋に、これをしたい」
キミコはまた銀秋の頬へ口をつけた。
「お前なあ……」
「嫌か?」
銀秋の声が止まった。
キミコは銀秋を見下ろしている。
嫌だと言ったら、やめる気なのだろう。
銀秋は少し黙った。
「……嫌じゃねえけど」
「そうか」
キミコの目が細くなった。
また頬に口をつける。
反対の頬にも。
額にも。
「……はは」
銀秋がとうとう笑った。
「何だ」
「いや」
銀秋は笑いながら、キミコの背中へ手を回した。
「もういいよ。好きにしろ」
「うん」
「口は駄目だからな」
「うん」
キミコはまた銀秋の頬へ口をつけた。
「……何が楽しいんだよ」
「分からない」
「分かんねえのかよ」
「でも、したい」
「そうかよ」
銀秋は笑ったまま、キミコの背中を抱いていた。
キミコは額へ口をつける。
頬。
反対の頬。
顎。
鼻。
瞼。
思いついたところへ、何度も口をつける。
やがて、キミコの動きが止まった。
「……キミコ?」
返事がない。
銀秋の胸元に頭を置いたまま、大きな目を閉じている。
「寝たのかよ」
銀秋は呆れてキミコを見る。
部屋に残っていた夕暮れの光は、もうほとんど消えていた。
「面倒くせえ酔っ払いだな」
そう言いながらも、まだ笑っていた。
翌朝。
「……痛い」
銀秋は声のした方を見た。
キミコが寝具の上に座り、頭を押さえている。
「何だ」
「頭が痛い」
「へえ」
銀秋の口元が緩む。
キミコがそちらを見る。
「何だ」
「別に」
「笑っている」
「笑ってねえよ」
「笑っている」
銀秋は明らかに笑っていた。
「待ってろ」
そう言って立ち上がる。
しばらくして、水を入れた器を持って戻ってきた。
「ほら」
キミコが受け取る。
「……ありがとう」
銀秋は笑いながら、キミコの前に座った。
キミコは水を飲む。
少しして、器から口を離した。
「昨日、何があった」
「覚えてねえのか?」
「夕飯を食べた」
「そのあと」
「酒を飲んだ」
「そのあと」
キミコは黙った。
しばらく考える。
「……分からない」
「へえ」
銀秋がにやにやと笑う。
「何だ」
「いやあ?」
「私は何をした」
「覚えてねえならいいんじゃねえの」
「よくない」
「そうか?」
「うん」
キミコはもう一度思い出そうとしたが、すぐに顔をしかめた。
「痛い……」
「ははっ」
「なぜ笑う」
「悪い悪い」
まったく悪いと思っていない声だった。
キミコは頭を押さえたまま考える。
「……酒は便利ではないな」
銀秋が吹き出した。
「便利だと思って飲んでたのかよ」
「飲むと楽しくなる」
「まあ、そういうこともあるな」
「でも、頭が痛い」
「飲みすぎるからだ」
「昨日のことも分からない」
「そうだな」
銀秋はにやにやしながらキミコを見る。
「ずいぶん楽しそうだったけどな」
キミコが顔を上げる。
「何をしていた」
「さあな」
「銀秋」
「何だよ」
「教えてくれ」
「嫌だね」
「なぜ」
「面白いから」
キミコはじっと銀秋を見る。
銀秋はまだ笑っていた。




