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スダマの鬼  作者:
27/34

 一揆の騒ぎから、数日が経った。

 遠くでは、まだ騒ぎが続いているらしい。

 どこそこの質屋が襲われた、土倉が破られた。そんな話は、今も人づてに聞こえてくる。

 だが、銀秋の店の周りは静かだった。

 あの夜以来、一揆の者たちは来ていない。

 壊された戸も直した。

 酒屋や近くの質屋も同じだった。新しい板の目立つ店はいくつかあるものの、通りには人が戻り、以前と変わらず商売を始めている。

 銀秋の店にも、朝から客が出入りしていた。

「またか」

 銀秋は帳場に置かれた包みを見た。

 米だった。

「何だ」

 店の奥にいたキミコが近づいてくる。

「米」

 銀秋は包みを持ち上げた。

「この間の礼だと」

「誰からだ」

「今帰った奴だよ。向こうの質屋の」

 キミコは少し考えた。

「戸を壊されていたところか」

「そうだ」

 銀秋は米を店の奥へ運んだ。

 そこには、すでにいくつもの品が置かれていた。

 野菜や干した魚、反物。それから酒壺が三つ。

 どれも、あの夜の礼として届けられたものだった。

 最初に来たのは酒屋だった。

 戸を直した翌日、酒壺を三つ抱えてやってきた。

「こんなにいらねえよ」

 銀秋が言うと、酒屋は鼻で笑った。

「何言ってんだ。持ってけ」

「一つでいい」

「三つともだ」

「店で売れよ」

「命も店も守ってもらったんだ。酒三つで足りるかよ」

 酒屋はそう言って、三つとも置いていった。

 帰る前に、店の奥にいたキミコを見る。

「……あいつにも礼を言っといてくれ」

「そこにいるぞ」

「分かってるよ」

 酒屋は少し黙った。

 それから、キミコへ頭を下げた。

「助かった」

「うん」

 それだけ言うと、帰っていった。

 他の者も似たようなものだった。

 野菜を持ってきた者もいた。

 干した魚を持ってきた者もいた。

 反物を持ってきた者もいた。

 だいたいは、キミコへの礼だった。

 あの夜、一揆の者たちに武器を捨てさせ、火を消したことは知られている。

 助けられたことには感謝している。

 だが、恐ろしくないわけではないのだろう。

 品は銀秋へ渡す。

 キミコには少し離れたところから礼を言い、頭を下げる。

 そんな者が多かった。

「たくさんある」

 キミコが置かれた品を見て言った。

「銀秋は人気者だな」

「俺じゃねえよ」

 銀秋は帳場へ戻った。

「だいたいお前への礼だ」

 キミコが銀秋を見る。

「私に?」

「そうだよ」

 キミコはもう一度、品物を見る。

「そうか」

「嬉しくねえのか」

「嬉しい」

「そう見えねえけど」

 キミコはしばらく品物を眺めていた。

 やがて、酒壺を指す。

「これは?」

「酒屋から」

「飲んでいいのか」

「夕飯のあとにな」

「わかった」

 昼を過ぎ、客足が途切れたところで、銀秋は帳簿を閉じた。

「飯にするか」

「うん」

 二人で店を出た。

 通りには、まだ一揆の跡が残っている。

 直したばかりの戸や壁が、ところどころに見えた。

 それでも、人々はいつものように歩いている。

 二人は餅屋へ向かった。

 店が見えてきたところで、キミコが言った。

「餅が食べたい」

「またか」

「五個」

「多くねえか」

「食べられる」

「……分かったよ」

 餅屋の女は、二人を見ると笑った。

「来たね」

「いつもの頼む」

「あいよ」

「あと餅。五個」

 女がキミコを見る。

「五個も食べるのかい」

「うん」

「よく食べるねえ」

 女は笑いながら餅を包み始めた。

 キミコはその手元を見ている。

 一つ、二つと包みの中へ入っていく。

 五つ入れたところで、女はもう一つ取った。

「一つ多い」

「よく見てるねえ」

 女は六つ目の餅を、そのまま包みの中へ入れた。

「そいつはご褒美だよ」

 キミコが女を見る。

「ご褒美とは何だ」

「よくやった奴がもらえるのさ」

「私が?」

「そうだよ。この間、みんなを助けたんだろう?」

「うん」

「じゃあ、よくやったじゃないか」

 女は六つ入った包みを差し出した。

 キミコは両手で受け取る。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 女はいつもと変わらず笑っていた。

 あの夜のことを知っても、キミコを見る目は変わっていない。

「よかったな」

 銀秋が言う。

「うん」

 店へ戻る道でも、キミコは自分で餅の包みを持っていた。

「そんなに嬉しいか」

「ご褒美だ」

「そうだな」

「よくやったからもらった」

 キミコは包みを見る。

「六個とも食べていいのか」

「お前のだからな」

「うん」

 昼飯を食べ終えると、キミコは本当に六個とも食べた。

 夕方には、また腹が減ったと言った。

「お前、よく食うな……」

「腹が減った」

「分かったよ」

 店を閉め、二人で夕飯を買いに行った。

 食べ終える頃には、日はだいぶ傾いていた。

 部屋の中には、まだ夕暮れの淡い光が残っている。

 銀秋が空になった器を片づけていると、キミコが店の奥を見る。

「銀秋」

「何だ」

「酒」

「覚えてたのかよ」

「うん」

 銀秋は酒壺を一つ持ってきた。

 器を二つ並べ、酒を注ぐ。

 キミコは器を手に取り、一口飲んだ。

「うまい」

「そうか」

「もう一杯」

「早えよ」

 銀秋は笑いながら酒を注いだ。

 前に二人で飲んだとき、キミコはいくら飲んでも酔わなかった。

 銀秋だけが酔いつぶれ、キミコは最後まで普段と変わらなかった。

 だから、銀秋も止めなかった。

 二杯。

 三杯。

 キミコは次々と飲んでいく。

 しばらくして、銀秋はキミコを見る。

「……お前」

「何だ」

「酔ってねえか」

「酔っていない」

 返事が少し遅かった。

 大きな藤色の目も、いつもよりぼんやりしている。

「いや、酔ってるだろ」

「酔っていない」

「何でだ?」

「何がだ」

「この前は全然酔わなかっただろ」

 キミコは少し考えた。

「うん」

「俺があんだけ酔ってんのに、お前は何ともなかったじゃねえか」

「そうだった」

「じゃあ何で今日は酔ってんだよ」

「分からない」

 銀秋は酒壺を見る。

「酒が違うからか?」

「違うと酔うのか」

「知らねえよ」

 銀秋はキミコの手から器を取った。

「もうやめとけ」

「なぜ」

「酔ってるからだよ」

「酔っていない」

「酔ってるって」

 キミコは銀秋に取られた器を見る。

 それから銀秋を見る。

「銀秋」

「何だ」

「私は綺麗か」

「……またそれかよ」

「綺麗か」

「綺麗だよ」

 キミコの目が細くなる。

「うん」

「何だよ」

「嬉しい」

 少しすると、またキミコが銀秋を見る。

「銀秋」

「今度は何だ」

「私は綺麗か」

「さっき言っただろ」

「もう一度聞きたい」

「綺麗だよ」

「うん」

 また目を細める。

「完全に酔ってるじゃねえか」

「酔っていない」

「酔ってるよ」

 キミコは少し黙った。

「銀秋の隣がいい」

「……何だよ、急に」

 キミコは立ち上がると、銀秋の隣に座った。

 肩が触れる。

「銀秋」

「何だ」

「銀秋といたい」

 銀秋がキミコを見る。

「ここがいい」

「ここ?」

「銀秋のところ」

 キミコは少し考えた。

「飯がある」

「お前そればっかだな」

「餅もある」

「今日はな」

「銀秋もいる」

 銀秋は黙った。

「だから、ここがいい」

「……酔ってんなあ」

「酔っていない」

「はいはい」

 銀秋が器を置いた。

 その途端、肩を押された。

「うおっ」

 身体が傾く。

 銀秋はそのまま畳へ倒れた。

「何すんだ、お前」

 キミコが上から覗き込んでいる。

 長い黒髪が垂れ、銀秋の肩へ落ちた。

「……何だよ」

 キミコが顔を近づける。

 額に、唇が触れた。

 ちゅ、と小さな音がした。

 銀秋が固まる。

「……は?」

 今度は頬だった。

 ちゅ。

「おい」

 反対の頬にも。

 ちゅ。

「おい、キミコ」

 また額。

 頬。

 顎。

「ちょ、待てって」

 銀秋がキミコの肩を掴む。

 キミコが止まった。

「何してんだよ」

 少し考える。

「分からない」

「分からねえのにやってんのかよ」

「うん」

「何でだよ」

「したい」

「……何を」

「銀秋に、これをしたい」

 キミコはまた銀秋の頬へ口をつけた。

「お前なあ……」

「嫌か?」

 銀秋の声が止まった。

 キミコは銀秋を見下ろしている。

 嫌だと言ったら、やめる気なのだろう。

 銀秋は少し黙った。

「……嫌じゃねえけど」

「そうか」

 キミコの目が細くなった。

 また頬に口をつける。

 反対の頬にも。

 額にも。

「……はは」

 銀秋がとうとう笑った。

「何だ」

「いや」

 銀秋は笑いながら、キミコの背中へ手を回した。

「もういいよ。好きにしろ」

「うん」

「口は駄目だからな」

「うん」

 キミコはまた銀秋の頬へ口をつけた。

「……何が楽しいんだよ」

「分からない」

「分かんねえのかよ」

「でも、したい」

「そうかよ」

 銀秋は笑ったまま、キミコの背中を抱いていた。

 キミコは額へ口をつける。

 頬。

 反対の頬。

 顎。

 鼻。

 瞼。

 思いついたところへ、何度も口をつける。

 やがて、キミコの動きが止まった。

「……キミコ?」

 返事がない。

 銀秋の胸元に頭を置いたまま、大きな目を閉じている。

「寝たのかよ」

 銀秋は呆れてキミコを見る。

 部屋に残っていた夕暮れの光は、もうほとんど消えていた。

「面倒くせえ酔っ払いだな」

 そう言いながらも、まだ笑っていた。




 翌朝。

「……痛い」

 銀秋は声のした方を見た。

 キミコが寝具の上に座り、頭を押さえている。

「何だ」

「頭が痛い」

「へえ」

 銀秋の口元が緩む。

 キミコがそちらを見る。

「何だ」

「別に」

「笑っている」

「笑ってねえよ」

「笑っている」

 銀秋は明らかに笑っていた。

「待ってろ」

 そう言って立ち上がる。

 しばらくして、水を入れた器を持って戻ってきた。

「ほら」

 キミコが受け取る。

「……ありがとう」

 銀秋は笑いながら、キミコの前に座った。

 キミコは水を飲む。

 少しして、器から口を離した。

「昨日、何があった」

「覚えてねえのか?」

「夕飯を食べた」

「そのあと」

「酒を飲んだ」

「そのあと」

 キミコは黙った。

 しばらく考える。

「……分からない」

「へえ」

 銀秋がにやにやと笑う。

「何だ」

「いやあ?」

「私は何をした」

「覚えてねえならいいんじゃねえの」

「よくない」

「そうか?」

「うん」

 キミコはもう一度思い出そうとしたが、すぐに顔をしかめた。

「痛い……」

「ははっ」

「なぜ笑う」

「悪い悪い」

 まったく悪いと思っていない声だった。

 キミコは頭を押さえたまま考える。

「……酒は便利ではないな」

 銀秋が吹き出した。

「便利だと思って飲んでたのかよ」

「飲むと楽しくなる」

「まあ、そういうこともあるな」

「でも、頭が痛い」

「飲みすぎるからだ」

「昨日のことも分からない」

「そうだな」

 銀秋はにやにやしながらキミコを見る。

「ずいぶん楽しそうだったけどな」

 キミコが顔を上げる。

「何をしていた」

「さあな」

「銀秋」

「何だよ」

「教えてくれ」

「嫌だね」

「なぜ」

「面白いから」

 キミコはじっと銀秋を見る。

 銀秋はまだ笑っていた。

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