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スダマの鬼  作者:
25/31

 店を閉める頃には、いつものように日が暮れかけていた。

 銀秋は帳簿を閉じ、筆を置いた。

 昼間は絶えず聞こえていた通りの声も、少しずつ遠のいている。向かいの店では、店先に出していたものを中へ運び始めていた。

 銀秋は立ち上がった。

「行くぞ」

 店の奥にいたキミコが顔を上げた。

 それから、何も言わずに立ち上がる。

 銀秋は銭を持ち、キミコとともに店を出た。

 振り返って表の戸を閉める。

 二人で夕暮れの通りを歩き出した。

 銀秋は何も言わなかった。

 昼間に聞いた話が、まだ頭に残っていた。

 徳政。

 借りた金を返さなくてもよくなる。

 質に入れたものも、持ち主のところへ戻る。

 そんなものが本当に行われれば、貸した側はたまったものではない。

 まだ噂に過ぎない。

 何も決まってはいない。

 分かっている。

 それでも、一度耳に入った話は、なかなか頭から離れなかった。

 いつもの店で二人分の飯を買った。

 銀秋が銭を払い、受け取る。

 店を出ると、銀秋は家とは別の方へ顔を向けた。

「酒屋に寄るぞ」

 キミコが銀秋を見る。

「酒屋?」

「ああ」

「何を買う」

「そりゃあ酒だよ」

 銀秋は歩き出した。

 キミコもその後についてくる。

 ほどなくして、酒屋へ着いた。

 銀秋が中へ入る。

 キミコも後に続いた。

 中には酒の匂いが満ちていた。

 キミコはわずかに目を細める。

「変な匂いがする」

「酒の匂いだ」

 奥にいた男が銀秋に気づいた。

「おや」

「酒をくれ」

 男は少し目を丸くした。

「珍しいな」

「何がだ」

「お前が酒を買いに来るなんて」

「俺だって飲むことくらいある」

 男は銀秋の顔を見た。

「昼間の話か」

 銀秋は少し黙った。

「……まあな」

「気になるか」

「気を紛らわしたくてな」

 銀秋は懐から銭を出した。

「適当にくれ」

「適当って、お前な」

「飲めりゃいい」

 男は銀秋を見て、それ以上は何も言わなかった。

「……俺も人のことは言えんがな」

「お前は売る側だろ」

「貸してる方でもある」

 銀秋は何も言わなかった。

 男は小さく息を吐き、酒を用意し始めた。

 その間、キミコは黙って二人のやり取りを聞いていた。

 酒を受け取ると、銀秋は店を出た。

 キミコも後に続く。

 外は先ほどより暗くなっていた。

 二人で家へ向かって歩き始める。

「銀秋」

「なんだ」

「気を紛らわすとは、どういうことだ」

「そのままだよ」

「酒を飲むと、徳政がなくなるのか」

「なくならねえ」

「では、なぜ飲む」

「考えなくて済むかもしれないだろ」

「飲めば忘れるのか」

「少しはな」

 キミコは銀秋が持っている酒を見る。

「便利だな」

「そうでもない」

「なぜ」

「飲み過ぎりゃ、次の日につらい」

「なら、飲み過ぎなければいい」

「そのつもりだよ」

 銀秋は答えた。

 家へ戻ると、二人で夕飯を食べた。

 いつもと変わらない飯だった。

 キミコは箸を動かしながら、昼間に店へ来た客のことや、帰り道で見かけたものについて銀秋に尋ねた。

 銀秋はそのたびに、短く答える。

 食事を終えると、銀秋は空になった器を重ねた。

 それから、買ってきた酒を持ってくる。

 器を一つ用意したところで、向かいにいるキミコを見た。

「お前は?」

「何がだ」

「酒」

「飲まない」

「嫌いなのか」

「知らない」

 銀秋は少し考えた。

「……飲んだことねえのか」

「うん」

 銀秋はもう一つ器を出した。

 キミコがそれを見る。

「私も飲むのか」

「飲んでみるか」

「いいのか」

「嫌ならやめとけ」

「嫌かどうかも分からない」

「じゃあ飲めば分かる」

 銀秋は二つの器に酒を注いだ。

 一つをキミコの前へ置く。

 キミコは器を持ち上げ、顔へ近づけた。

 大きな目がわずかに細くなる。

「やっぱり変な匂いがする」

 銀秋はキミコの顔を見る。

「……鼻どこにあんだよ、お前」

 キミコは少し考えた。

 それから、自分の額を指さした。

「ここ」

「そこ?」

「うん。たぶん鼻の穴だ」

 銀秋はキミコの額を見る。

 額に、小さな切れ目が二本ある。

 これまで何度も見ていたものだった。

「……そこから匂い嗅いでんのか」

「たぶん」

「自分の身体だろ」

「分からない」

 銀秋はしばらくその切れ目を眺めた。

「……変な身体してんな、お前」

「そうなのか」

「人間にはねえよ」

「そうか」

 キミコは手元の酒を見る。

「銀秋はこれを飲むのか」

「飲む」

 銀秋は自分の器を持ち、一口飲んだ。

 それを見てから、キミコも器へ口をつける。

 一口飲む。

 キミコはしばらく黙っていた。

「どうだ」

「変な味がする」

「そうか」

「苦い」

「そうか」

「少し甘い」

「なら飲めそうだな」

 キミコはもう一度口をつけた。

 今度は先ほどより多く飲む。

「おい。一気に飲むなよ」

「なぜ」

「酔うぞ」

「酔う?」

「酒を飲むとなるんだよ」

「何に」

「酔っ払いに」

「酔っ払い」

「頭がぼんやりしたり、足元がふらついたりする」

 キミコは自分の身体を見る。

「今は何もない」

「まだ一杯目だろ」

「銀秋はなるのか」

「飲めばな」

「どのくらい飲めばなる」

「人による」

「私なら?」

「知らねえよ」

 キミコは残っていた酒を飲み干した。

「もう一杯」

「気に入ったのか?」

「まだ分からない」

「分からないのに飲むのか」

「酔うというものになってみたい」

「そうかよ」

 銀秋はそう言いながら、キミコの器へ酒を注いだ。

 自分の器にも注ぐ。

 二人で飲む。

 しばらくすると、キミコの器がまた空になった。

 銀秋が見る。

「どうだ」

「何がだ」

「何か変わったか」

「変わらない」

「顔が熱いとか」

「ない」

「頭がぼんやりするとか」

「しない」

「身体は?」

「いつもと同じだ」

「……そうか」

 銀秋は自分の酒を飲んだ。

 キミコが器を差し出す。

「もう一杯」

「まだ飲むのか」

「銀秋も飲んでいる」

「俺はいいんだよ」

「なぜ」

「飲んだことがあるからだ」

「なら、私も今日から飲んだことがある」

「そういう意味じゃねえ」

 銀秋は呆れながらも酒を注いだ。

 キミコは飲む。

 何も変わらない。

 もう一杯。

 それでも変わらない。

 銀秋はキミコの顔を眺めた。

「お前、本当に何ともないのか」

「何ともない」

「少しくらいあるだろ」

「ない」

「嘘ついてないだろうな」

「なぜ嘘をつく」

「……そうだな」

 銀秋は自分の器へ酒を注いだ。

 飲む。

 キミコも飲む。

 また注ぐ。

 いつの間にか、二人とも何杯飲んだのか分からなくなっていた。

 キミコには何の変化もない。

 銀秋は違った。

 頬が熱い。

 身体も少し重い。

 自分だけ酔っているのが、だんだん腹立たしくなってきた。

「おかしいだろ」

「何がだ」

「なんでお前は酔わねえんだ」

「知らない」

「同じだけ飲んでるだろ」

「ああ」

「俺はもう酔ってるぞ」

「そうなのか」

「分かるだろ」

 キミコが銀秋の顔を見る。

「顔が赤い」

「酒飲んでるんだから当たり前だ」

「目も少し細い」

「うるせえな」

「声もいつもより大きい」

「うるせえ」

「酔っているな」

「分かってるよ」

 銀秋は酒を飲んだ。

 キミコも飲む。

 キミコの顔は、やはり何も変わらない。

「もう一杯だ」

 銀秋が言った。

「お前が酔うまで飲む」

「なぜ」

「俺だけ酔ってんのが腹立つ」

「そうか」

「飲め」

「分かった」

 キミコは素直に器を差し出した。

 銀秋が酒を注ぐ。

 少しこぼれた。

 膳の上に酒が落ちる。

 キミコがそれを見る。

「こぼれた」

「少しくらいいいだろ」

「立つと、足元もふらつくのか」

「……たぶんな」

「見たい」

「見世物じゃねえんだよ」

 キミコは酒を飲んだ。

 やはり、何も変わらない。

 銀秋はそれを見て、息を吐いた。

「ずるいな、お前」

「何がだ」

「知らねえよ」

 銀秋は頬杖をついた。

 キミコがその顔を見る。

「銀秋」

「なんだ」

「気は紛れたか」

「あ?」

「酒を飲めば、徳政のことを考えなくて済むと言っていた」

 銀秋は少し黙った。

 昼間に聞いた話を思い出す。

 だが、酒屋を出た頃ほど胸の内に居座ってはいなかった。

「……まあな」

「今も考えているか」

「お前が全然酔わねえことの方が気になる」

「なら、紛れたな」

「そういうことになるな」

「よかった」

 銀秋はキミコを見る。

「お前のおかげか?」

「そうかもしれない」

 銀秋は少し笑った。

 キミコがその顔を見る。

「笑った」

「何だよ」

「銀秋が笑った」

「俺だって笑う」

「今日はよく喋る」

「そうか?」

「ああ」

「お前がいちいち聞くからだろ」

「いつもなら答えないこともある」

「今日は答えてやってんだよ」

「なぜ」

「酔ってるからじゃねえの」

「酒は便利だな」

「だからそうでもねえって」

 銀秋は器を持ち上げた。

 もう空だった。

 酒を注ぐ。

 キミコも器を差し出した。

「お前、まだ飲めるのか」

「うん」

「本当に酔わねえな」

「そうだな」

「鬼だからか」

「知らない」

「変なの」

 銀秋はキミコの器にも酒を注いだ。

 キミコは飲む。

 銀秋は頬杖をついたまま、その姿を眺めた。

 黒い髪。

 角は、今は引っ込めている。

 その顔の中央に、大きな藤色の目が一つある。

 その目が銀秋を見る。

「銀秋」

「ん」

「昨日のことを聞いてもいいか」

「昨日?」

「私の目だ」

 銀秋はしばらくキミコを見た。

「ああ」

「お前は、綺麗だと言った」

「言ったな」

「なぜ綺麗なんだ」

「なぜって……」

「私は分からない」

「何が」

「私の目の、どこが綺麗なのか」

 銀秋は息を吐いた。

「色とか」

「藤色だからか」

「そうだな」

「大きいからか」

「それもあるんじゃねえか」

「目が一つでもか」

「ああ」

「人間とは違うのに?」

「そうだよ」

「それでも綺麗なのか」

「だから綺麗って言ってんだろ」

 銀秋の声が少し大きくなった。

 キミコが黙った。

「一つだろうが、でかかろうが、そんなもん関係ねえよ」

 銀秋は頬杖をついたまま、キミコを見る。

「俺には綺麗に見えるんだから、それでいいだろ」

 キミコは銀秋を見ている。

「色も綺麗だし」

 銀秋は続けた。

「大きいのも、別に悪くねえし」

「そうなのか」

「そうだよ」

「怖くないのか」

「怖くねえ」

「なぜ」

「知らねえよ」

「だが――」

「ああ、もう」

 銀秋は顔をしかめた。

「お前の目は綺麗だよ。それでいいだろ」

 キミコの目が瞬いた。

 しばらく何も言わない。

「なんだよ」

「嬉しい」

 銀秋が黙る。

「……そうか」

 キミコの目がわずかに細くなった。

 銀秋はそれを見る。

「何笑ってんだ」

「笑っているのか」

「今のはそうだろ」

「そうか」

「自分で分かんねえのかよ」

「分からない」

「……まあいいけど」

 銀秋は酒を飲もうとした。

 器は空だった。

 酒壺へ手を伸ばす。

「もう飲まない方がいい」

「なんでお前が決めるんだ」

「銀秋は酔っている」

「まだ飲める」

「私は酔っていない」

「それが腹立つんだよ」

「明日つらくなるぞ」

 銀秋はキミコを見る。

「誰に教わった」

「銀秋だ」

「……そうだったな」

 銀秋は再び酒壺へ手を伸ばした。

 だが、その前にキミコが立ち上がった。

「何だよ」

 キミコは膳を回り、銀秋の隣へ来た。

 そのまま腰を下ろす。

「近いぞ」

「うん」

「なんでこっち来た」

「銀秋を見る」

「向こうからでも見えるだろ」

「近くで見る」

「何を」

「銀秋を」

「俺の何を見るんだよ」

 キミコは答えない。

 ただ銀秋を見る。

 すぐそばに、大きな藤色の目があった。

 銀秋もそれを見る。

「……近いって」

「嫌か」

 銀秋は少し黙った。

「別に」

 キミコは動かなかった。

 銀秋も、離れろとは言わなかった。

「銀秋」

「なんだ」

「やはり綺麗か」

「まだ聞くのかよ」

「ああ」

「しつこいな」

「駄目か」

 銀秋はキミコの目を見る。

 近くで見ると、やはり大きい。

 人間にはない目だった。

 初めて会った夜も、この目を見た。

 あのときは、自分を喰おうとしていた。

 今は隣に座って、自分の目が綺麗かと聞いている。

 銀秋は少し笑った。

「……綺麗だよ」

 キミコの目が細くなる。

「そうか」

「ああ」

「嬉しい」

「何回も言ってるだろ」

「何度でも嬉しい」

「そうかよ」

 銀秋は目を閉じた。

 身体が少し傾く。

 肩がキミコへ触れた。

 銀秋はそのまま身体を戻さなかった。

 キミコも動かない。

「銀秋」

「……ん」

「眠いのか」

「眠い」

「寝るか」

「ああ」

 そう答えたが、銀秋は立ち上がらなかった。

 しばらくして、キミコがまた声をかける。

「銀秋」

「……聞こえてる」

「立たないのか」

「今立ったら転ぶ」

「私が運ぶか」

「嫌だ」

「なぜ」

「嫌だからだよ」

「そうか」

 キミコはそれ以上言わなかった。

 銀秋はキミコにもたれたまま目を閉じている。

 やがて、呼吸がゆっくりになった。

「銀秋」

 返事はない。

 キミコは銀秋の顔を見る。

 それから、空になった器を見る。

「気は紛れたか」

 銀秋は答えなかった。

 キミコはしばらくそのまま座っていた。




 翌朝。

 銀秋は頭の痛みで目を覚ました。

「……」

 頭の奥が重い。

 口も渇いている。

 銀秋は眉間を押さえた。

「銀秋」

 すぐそばから声がした。

「……うるさい」

「起きたか」

「今起きた」

「頭が痛いのか」

「痛い」

「酒を飲み過ぎると、次の日につらいと言っていた」

「……言ったな」

「本当だったな」

「朝からよく喋るな、お前」

 銀秋は目を閉じた。

 昨夜のことを思い出す。

 酒を買った。

 キミコにも飲ませた。

 キミコは最後まで酔わなかった。

 自分だけが酔った。

 そこまではいい。

 その後。

 銀秋は黙った。

「銀秋」

「なんだ」

「私は綺麗なんだな」

「……」

「昨日、お前が言った」

 銀秋は目を閉じたまま答えない。

「何度も言った」

「分かった」

「目が一つでも関係ないと言った」

「キミコ」

「大きいのも悪くないと言った」

「黙れ」

 キミコは黙った。

 銀秋は額を押さえたまま、深く息を吐いた。

 頭が痛い。

 それとは別の意味でも、頭を抱えたかった。

 しばらく静かになった。

 銀秋はようやく目を開く。

 キミコがこちらを見ていた。

「……なんだよ」

「何でもない」

「なら見るな」

「分かった」

 そう言いながら、キミコはまだ見ている。

「見てるだろ」

「銀秋」

「なんだ」

「また酒を飲むか」

「飲まねえ」

「もう飲まないのか」

「お前とは飲まねえ」

「なぜ」

「お前が酔わねえからだよ」

 キミコは少し考えた。

「では、銀秋だけ飲めばいい」

「もっと嫌だ」

「なぜ」

「知らん」

 銀秋は寝具を引き上げ、頭までかぶった。

 しばらくして、外からキミコの声がした。

「銀秋」

「……なんだ」

「私は綺麗なんだな」

 銀秋は答えなかった。

「銀秋」

「うるせえ」

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