酒
店を閉める頃には、いつものように日が暮れかけていた。
銀秋は帳簿を閉じ、筆を置いた。
昼間は絶えず聞こえていた通りの声も、少しずつ遠のいている。向かいの店では、店先に出していたものを中へ運び始めていた。
銀秋は立ち上がった。
「行くぞ」
店の奥にいたキミコが顔を上げた。
それから、何も言わずに立ち上がる。
銀秋は銭を持ち、キミコとともに店を出た。
振り返って表の戸を閉める。
二人で夕暮れの通りを歩き出した。
銀秋は何も言わなかった。
昼間に聞いた話が、まだ頭に残っていた。
徳政。
借りた金を返さなくてもよくなる。
質に入れたものも、持ち主のところへ戻る。
そんなものが本当に行われれば、貸した側はたまったものではない。
まだ噂に過ぎない。
何も決まってはいない。
分かっている。
それでも、一度耳に入った話は、なかなか頭から離れなかった。
いつもの店で二人分の飯を買った。
銀秋が銭を払い、受け取る。
店を出ると、銀秋は家とは別の方へ顔を向けた。
「酒屋に寄るぞ」
キミコが銀秋を見る。
「酒屋?」
「ああ」
「何を買う」
「そりゃあ酒だよ」
銀秋は歩き出した。
キミコもその後についてくる。
ほどなくして、酒屋へ着いた。
銀秋が中へ入る。
キミコも後に続いた。
中には酒の匂いが満ちていた。
キミコはわずかに目を細める。
「変な匂いがする」
「酒の匂いだ」
奥にいた男が銀秋に気づいた。
「おや」
「酒をくれ」
男は少し目を丸くした。
「珍しいな」
「何がだ」
「お前が酒を買いに来るなんて」
「俺だって飲むことくらいある」
男は銀秋の顔を見た。
「昼間の話か」
銀秋は少し黙った。
「……まあな」
「気になるか」
「気を紛らわしたくてな」
銀秋は懐から銭を出した。
「適当にくれ」
「適当って、お前な」
「飲めりゃいい」
男は銀秋を見て、それ以上は何も言わなかった。
「……俺も人のことは言えんがな」
「お前は売る側だろ」
「貸してる方でもある」
銀秋は何も言わなかった。
男は小さく息を吐き、酒を用意し始めた。
その間、キミコは黙って二人のやり取りを聞いていた。
酒を受け取ると、銀秋は店を出た。
キミコも後に続く。
外は先ほどより暗くなっていた。
二人で家へ向かって歩き始める。
「銀秋」
「なんだ」
「気を紛らわすとは、どういうことだ」
「そのままだよ」
「酒を飲むと、徳政がなくなるのか」
「なくならねえ」
「では、なぜ飲む」
「考えなくて済むかもしれないだろ」
「飲めば忘れるのか」
「少しはな」
キミコは銀秋が持っている酒を見る。
「便利だな」
「そうでもない」
「なぜ」
「飲み過ぎりゃ、次の日につらい」
「なら、飲み過ぎなければいい」
「そのつもりだよ」
銀秋は答えた。
家へ戻ると、二人で夕飯を食べた。
いつもと変わらない飯だった。
キミコは箸を動かしながら、昼間に店へ来た客のことや、帰り道で見かけたものについて銀秋に尋ねた。
銀秋はそのたびに、短く答える。
食事を終えると、銀秋は空になった器を重ねた。
それから、買ってきた酒を持ってくる。
器を一つ用意したところで、向かいにいるキミコを見た。
「お前は?」
「何がだ」
「酒」
「飲まない」
「嫌いなのか」
「知らない」
銀秋は少し考えた。
「……飲んだことねえのか」
「うん」
銀秋はもう一つ器を出した。
キミコがそれを見る。
「私も飲むのか」
「飲んでみるか」
「いいのか」
「嫌ならやめとけ」
「嫌かどうかも分からない」
「じゃあ飲めば分かる」
銀秋は二つの器に酒を注いだ。
一つをキミコの前へ置く。
キミコは器を持ち上げ、顔へ近づけた。
大きな目がわずかに細くなる。
「やっぱり変な匂いがする」
銀秋はキミコの顔を見る。
「……鼻どこにあんだよ、お前」
キミコは少し考えた。
それから、自分の額を指さした。
「ここ」
「そこ?」
「うん。たぶん鼻の穴だ」
銀秋はキミコの額を見る。
額に、小さな切れ目が二本ある。
これまで何度も見ていたものだった。
「……そこから匂い嗅いでんのか」
「たぶん」
「自分の身体だろ」
「分からない」
銀秋はしばらくその切れ目を眺めた。
「……変な身体してんな、お前」
「そうなのか」
「人間にはねえよ」
「そうか」
キミコは手元の酒を見る。
「銀秋はこれを飲むのか」
「飲む」
銀秋は自分の器を持ち、一口飲んだ。
それを見てから、キミコも器へ口をつける。
一口飲む。
キミコはしばらく黙っていた。
「どうだ」
「変な味がする」
「そうか」
「苦い」
「そうか」
「少し甘い」
「なら飲めそうだな」
キミコはもう一度口をつけた。
今度は先ほどより多く飲む。
「おい。一気に飲むなよ」
「なぜ」
「酔うぞ」
「酔う?」
「酒を飲むとなるんだよ」
「何に」
「酔っ払いに」
「酔っ払い」
「頭がぼんやりしたり、足元がふらついたりする」
キミコは自分の身体を見る。
「今は何もない」
「まだ一杯目だろ」
「銀秋はなるのか」
「飲めばな」
「どのくらい飲めばなる」
「人による」
「私なら?」
「知らねえよ」
キミコは残っていた酒を飲み干した。
「もう一杯」
「気に入ったのか?」
「まだ分からない」
「分からないのに飲むのか」
「酔うというものになってみたい」
「そうかよ」
銀秋はそう言いながら、キミコの器へ酒を注いだ。
自分の器にも注ぐ。
二人で飲む。
しばらくすると、キミコの器がまた空になった。
銀秋が見る。
「どうだ」
「何がだ」
「何か変わったか」
「変わらない」
「顔が熱いとか」
「ない」
「頭がぼんやりするとか」
「しない」
「身体は?」
「いつもと同じだ」
「……そうか」
銀秋は自分の酒を飲んだ。
キミコが器を差し出す。
「もう一杯」
「まだ飲むのか」
「銀秋も飲んでいる」
「俺はいいんだよ」
「なぜ」
「飲んだことがあるからだ」
「なら、私も今日から飲んだことがある」
「そういう意味じゃねえ」
銀秋は呆れながらも酒を注いだ。
キミコは飲む。
何も変わらない。
もう一杯。
それでも変わらない。
銀秋はキミコの顔を眺めた。
「お前、本当に何ともないのか」
「何ともない」
「少しくらいあるだろ」
「ない」
「嘘ついてないだろうな」
「なぜ嘘をつく」
「……そうだな」
銀秋は自分の器へ酒を注いだ。
飲む。
キミコも飲む。
また注ぐ。
いつの間にか、二人とも何杯飲んだのか分からなくなっていた。
キミコには何の変化もない。
銀秋は違った。
頬が熱い。
身体も少し重い。
自分だけ酔っているのが、だんだん腹立たしくなってきた。
「おかしいだろ」
「何がだ」
「なんでお前は酔わねえんだ」
「知らない」
「同じだけ飲んでるだろ」
「ああ」
「俺はもう酔ってるぞ」
「そうなのか」
「分かるだろ」
キミコが銀秋の顔を見る。
「顔が赤い」
「酒飲んでるんだから当たり前だ」
「目も少し細い」
「うるせえな」
「声もいつもより大きい」
「うるせえ」
「酔っているな」
「分かってるよ」
銀秋は酒を飲んだ。
キミコも飲む。
キミコの顔は、やはり何も変わらない。
「もう一杯だ」
銀秋が言った。
「お前が酔うまで飲む」
「なぜ」
「俺だけ酔ってんのが腹立つ」
「そうか」
「飲め」
「分かった」
キミコは素直に器を差し出した。
銀秋が酒を注ぐ。
少しこぼれた。
膳の上に酒が落ちる。
キミコがそれを見る。
「こぼれた」
「少しくらいいいだろ」
「立つと、足元もふらつくのか」
「……たぶんな」
「見たい」
「見世物じゃねえんだよ」
キミコは酒を飲んだ。
やはり、何も変わらない。
銀秋はそれを見て、息を吐いた。
「ずるいな、お前」
「何がだ」
「知らねえよ」
銀秋は頬杖をついた。
キミコがその顔を見る。
「銀秋」
「なんだ」
「気は紛れたか」
「あ?」
「酒を飲めば、徳政のことを考えなくて済むと言っていた」
銀秋は少し黙った。
昼間に聞いた話を思い出す。
だが、酒屋を出た頃ほど胸の内に居座ってはいなかった。
「……まあな」
「今も考えているか」
「お前が全然酔わねえことの方が気になる」
「なら、紛れたな」
「そういうことになるな」
「よかった」
銀秋はキミコを見る。
「お前のおかげか?」
「そうかもしれない」
銀秋は少し笑った。
キミコがその顔を見る。
「笑った」
「何だよ」
「銀秋が笑った」
「俺だって笑う」
「今日はよく喋る」
「そうか?」
「ああ」
「お前がいちいち聞くからだろ」
「いつもなら答えないこともある」
「今日は答えてやってんだよ」
「なぜ」
「酔ってるからじゃねえの」
「酒は便利だな」
「だからそうでもねえって」
銀秋は器を持ち上げた。
もう空だった。
酒を注ぐ。
キミコも器を差し出した。
「お前、まだ飲めるのか」
「うん」
「本当に酔わねえな」
「そうだな」
「鬼だからか」
「知らない」
「変なの」
銀秋はキミコの器にも酒を注いだ。
キミコは飲む。
銀秋は頬杖をついたまま、その姿を眺めた。
黒い髪。
角は、今は引っ込めている。
その顔の中央に、大きな藤色の目が一つある。
その目が銀秋を見る。
「銀秋」
「ん」
「昨日のことを聞いてもいいか」
「昨日?」
「私の目だ」
銀秋はしばらくキミコを見た。
「ああ」
「お前は、綺麗だと言った」
「言ったな」
「なぜ綺麗なんだ」
「なぜって……」
「私は分からない」
「何が」
「私の目の、どこが綺麗なのか」
銀秋は息を吐いた。
「色とか」
「藤色だからか」
「そうだな」
「大きいからか」
「それもあるんじゃねえか」
「目が一つでもか」
「ああ」
「人間とは違うのに?」
「そうだよ」
「それでも綺麗なのか」
「だから綺麗って言ってんだろ」
銀秋の声が少し大きくなった。
キミコが黙った。
「一つだろうが、でかかろうが、そんなもん関係ねえよ」
銀秋は頬杖をついたまま、キミコを見る。
「俺には綺麗に見えるんだから、それでいいだろ」
キミコは銀秋を見ている。
「色も綺麗だし」
銀秋は続けた。
「大きいのも、別に悪くねえし」
「そうなのか」
「そうだよ」
「怖くないのか」
「怖くねえ」
「なぜ」
「知らねえよ」
「だが――」
「ああ、もう」
銀秋は顔をしかめた。
「お前の目は綺麗だよ。それでいいだろ」
キミコの目が瞬いた。
しばらく何も言わない。
「なんだよ」
「嬉しい」
銀秋が黙る。
「……そうか」
キミコの目がわずかに細くなった。
銀秋はそれを見る。
「何笑ってんだ」
「笑っているのか」
「今のはそうだろ」
「そうか」
「自分で分かんねえのかよ」
「分からない」
「……まあいいけど」
銀秋は酒を飲もうとした。
器は空だった。
酒壺へ手を伸ばす。
「もう飲まない方がいい」
「なんでお前が決めるんだ」
「銀秋は酔っている」
「まだ飲める」
「私は酔っていない」
「それが腹立つんだよ」
「明日つらくなるぞ」
銀秋はキミコを見る。
「誰に教わった」
「銀秋だ」
「……そうだったな」
銀秋は再び酒壺へ手を伸ばした。
だが、その前にキミコが立ち上がった。
「何だよ」
キミコは膳を回り、銀秋の隣へ来た。
そのまま腰を下ろす。
「近いぞ」
「うん」
「なんでこっち来た」
「銀秋を見る」
「向こうからでも見えるだろ」
「近くで見る」
「何を」
「銀秋を」
「俺の何を見るんだよ」
キミコは答えない。
ただ銀秋を見る。
すぐそばに、大きな藤色の目があった。
銀秋もそれを見る。
「……近いって」
「嫌か」
銀秋は少し黙った。
「別に」
キミコは動かなかった。
銀秋も、離れろとは言わなかった。
「銀秋」
「なんだ」
「やはり綺麗か」
「まだ聞くのかよ」
「ああ」
「しつこいな」
「駄目か」
銀秋はキミコの目を見る。
近くで見ると、やはり大きい。
人間にはない目だった。
初めて会った夜も、この目を見た。
あのときは、自分を喰おうとしていた。
今は隣に座って、自分の目が綺麗かと聞いている。
銀秋は少し笑った。
「……綺麗だよ」
キミコの目が細くなる。
「そうか」
「ああ」
「嬉しい」
「何回も言ってるだろ」
「何度でも嬉しい」
「そうかよ」
銀秋は目を閉じた。
身体が少し傾く。
肩がキミコへ触れた。
銀秋はそのまま身体を戻さなかった。
キミコも動かない。
「銀秋」
「……ん」
「眠いのか」
「眠い」
「寝るか」
「ああ」
そう答えたが、銀秋は立ち上がらなかった。
しばらくして、キミコがまた声をかける。
「銀秋」
「……聞こえてる」
「立たないのか」
「今立ったら転ぶ」
「私が運ぶか」
「嫌だ」
「なぜ」
「嫌だからだよ」
「そうか」
キミコはそれ以上言わなかった。
銀秋はキミコにもたれたまま目を閉じている。
やがて、呼吸がゆっくりになった。
「銀秋」
返事はない。
キミコは銀秋の顔を見る。
それから、空になった器を見る。
「気は紛れたか」
銀秋は答えなかった。
キミコはしばらくそのまま座っていた。
翌朝。
銀秋は頭の痛みで目を覚ました。
「……」
頭の奥が重い。
口も渇いている。
銀秋は眉間を押さえた。
「銀秋」
すぐそばから声がした。
「……うるさい」
「起きたか」
「今起きた」
「頭が痛いのか」
「痛い」
「酒を飲み過ぎると、次の日につらいと言っていた」
「……言ったな」
「本当だったな」
「朝からよく喋るな、お前」
銀秋は目を閉じた。
昨夜のことを思い出す。
酒を買った。
キミコにも飲ませた。
キミコは最後まで酔わなかった。
自分だけが酔った。
そこまではいい。
その後。
銀秋は黙った。
「銀秋」
「なんだ」
「私は綺麗なんだな」
「……」
「昨日、お前が言った」
銀秋は目を閉じたまま答えない。
「何度も言った」
「分かった」
「目が一つでも関係ないと言った」
「キミコ」
「大きいのも悪くないと言った」
「黙れ」
キミコは黙った。
銀秋は額を押さえたまま、深く息を吐いた。
頭が痛い。
それとは別の意味でも、頭を抱えたかった。
しばらく静かになった。
銀秋はようやく目を開く。
キミコがこちらを見ていた。
「……なんだよ」
「何でもない」
「なら見るな」
「分かった」
そう言いながら、キミコはまだ見ている。
「見てるだろ」
「銀秋」
「なんだ」
「また酒を飲むか」
「飲まねえ」
「もう飲まないのか」
「お前とは飲まねえ」
「なぜ」
「お前が酔わねえからだよ」
キミコは少し考えた。
「では、銀秋だけ飲めばいい」
「もっと嫌だ」
「なぜ」
「知らん」
銀秋は寝具を引き上げ、頭までかぶった。
しばらくして、外からキミコの声がした。
「銀秋」
「……なんだ」
「私は綺麗なんだな」
銀秋は答えなかった。
「銀秋」
「うるせえ」




