綺麗
夕飯を食べ始めてから、キミコは妙に静かだった。
銀秋は飯を口へ運びながら、向かいに座るキミコを見た。
いつもなら、何かしら喋る。
膳に並んだものについて聞いたり、昼間に店で見たものについて尋ねたりする。銀秋には何でもないものでも、キミコにとっては知らないものが多い。
今日は、それがない。
キミコは黙って箸を動かしている。
箸の扱いにも慣れてきた。
最初はまともに使うこともできなかったが、今では飯も菜も、落とさず口へ運べるようになっている。
銀秋はしばらく何も言わなかった。
静かなこと自体は悪くない。
むしろ、飯くらい静かに食わせてくれと思うこともある。
だが、今日に限っては、その静けさが妙に気になった。
昼間のことがあったからかもしれない。
店で小刀を向けられた。
キミコがそれを砕いた。
その後には餅屋でも揉め事があった。
銀秋は飯を半分ほど食べたところで、箸を止めた。
「どうした」
キミコが顔を上げる。
「何がだ」
「今日はやけに静かだ」
「……」
キミコは少し考えるように黙った。
「何かあったか」
「今日は色々あった」
「まあな」
「銀秋に小刀を向けた人間がいた」
「ああ」
「餅屋で、人間が騒いだ」
「いたな」
キミコは少し黙った。
「今日、化け物と言われた」
昼間、店から逃げていった男の声が蘇る。
「……ああ」
「気味が悪いとも言われた」
「言ってたな」
銀秋は少し眉を寄せた。
思い出しても、気分のいい言葉ではなかった。
「あいつらの言ったことなんか気にするな」
「気にする、というのは分からない」
「……そうか」
「だが、覚えている」
銀秋はキミコを見る。
「言われたことをか」
「そうだ」
銀秋はそれ以上聞かなかった。
あの男は、小刀を砕かれた直後、キミコの顔を見ていた。
店の奥、棚の前に立つキミコの顔を。
それでも、キミコの顔がどうなっているのかまでは分かっていなかったのだろう。
大きな藤色の目がひとつしかないことも、人間ならあるはずの鼻がないことも。
何がおかしいのかは分からない。
ただ、その顔をまともに見たことで、何かがおかしいという感覚だけが残った。
普段、店を訪れる客はそんな反応すらしない。
キミコのそばを通っても、顔を向けても、何事もなかったように帰っていく。
なぜそうなるのかは、銀秋にも分からない。
「おばちゃんは、綺麗だと言った」
キミコが言った。
銀秋は顔を上げる。
「ああ」
「私の目を見て、綺麗だと言った」
「そうだな」
キミコは黙った。
それきり何も言わない。
銀秋も食事を続けた。
今度こそ話は終わったのかと思った。
「銀秋」
「何だ」
「私の目は綺麗か」
銀秋はキミコを見た。
藤色の大きな目が、まっすぐこちらへ向けられている。
「……あの人が綺麗だって言ったんだろ」
「言った」
「なら、綺麗なんじゃないか」
「そうか」
キミコはそう言った。
だが、箸を取らなかった。
銀秋を見たままだった。
「何だよ」
「銀秋はどう思う」
「俺?」
「そうだ」
銀秋は黙った。
「……俺がどう思うかなんて、どうでもいいだろ」
「どうでもよくない」
「何でだ」
「知りたい」
キミコはそれだけ言った。
銀秋は目を逸らした。
膳の上には、まだ飯が残っている。
食事に戻ればいい。
だが、キミコがこちらを見ているのが分かって、どうにも箸を動かす気になれなかった。
「何で俺に聞くんだ」
「銀秋だからだ」
銀秋は顔を上げた。
キミコは変わらずこちらを見ている。
「それじゃ分からん」
「私も分からない」
「お前な」
「だが、知りたい」
キミコは少し間を置いた。
「銀秋が、どう思うのか」
銀秋は何も言わなかった。
キミコも、それ以上は言わない。
ただ、銀秋を見ている。
答えるまで待つつもりらしい。
銀秋は小さく息を吐いた。
もう誤魔化しても仕方がない。
そう思って、改めてキミコの顔を見た。
人間の顔とは、まるで違う。
鼻も眉もない顔に、大きな目がひとつある。
藤色の目。
初めて会った夜にも見た。
暗い道に立っていたキミコは、今よりもずっと大きかった。
銀秋を見下ろすほどの身体に、色も柄も違う衣を何枚も重ねていた。ところどころには黒ずんだ血がこびりついていた。
人を喰う化け物だった。
銀秋自身も、そう思った。
それでも、その目を気味が悪いと思ったことはなかった。
初めて見たときから、妙に目を引く色をしていた。
今は、その目がすぐ目の前にある。
キミコは何も言わない。
銀秋はしばらくその目を見た。
答えを探していたわけではない。
答えなら、もう分かっていた。
ただ、それを口にすることを躊躇っていただけだった。
銀秋は観念した。
「……綺麗だよ」
キミコは銀秋を見ていた。
大きな目が、わずかに動く。
「そうか」
それだけだった。
笑うわけでもない。
嬉しいとも言わない。
礼を言うこともない。
キミコは箸を取った。
残っていた飯を口へ運ぶ。
銀秋はその様子を見ていた。
「……それでいいのか」
「何がだ」
「いや」
銀秋も箸を取った。
しばらくして、キミコが菜をつまむ。
「これは何だ」
「大根」
「昨日はなかった」
「おばちゃんが入れてくれたんだよ」
「なぜ」
「さあな。今日の礼なんじゃないか」
キミコは箸でつまんだ大根を見る。
「私にか」
「たぶんな」
キミコはしばらく大根を見ていた。
それから、口へ運ぶ。
「これは好きだ」
「そりゃよかったな」
「銀秋は好きか」
「普通だ」
「普通とは何だ」
「……お前、急に喋るようになったな」
キミコは銀秋を見る。
「そうか」
「さっきまで黙ってただろ」
「もういい」
「何が」
「分かったからだ」
銀秋はキミコを見た。
キミコはまた大根をつまんでいる。
先ほどまでの静けさは、もうなかった。
「……そうかよ」
銀秋も飯を食べ始めた。
キミコはもう、昼間のことについて話さなかった。
化け物と言われたことも。
気味が悪いと言われたことも。
銀秋も、それ以上は聞かなかった。
しばらく、ふたりとも黙って飯を食べた。
キミコは大根を食べ終えると、飯を口へ運んだ。
それから、ふと思いついたように銀秋を見る。
「銀秋」
「何だ」
「銀秋は飯を作らないのか」
銀秋がキミコを見る。
「作らない」
「なぜ」
「なんで急にそんなこと聞くんだ」
「銀秋が作ったものを食べたことがない」
「そりゃ作ってないからな」
「食べたい」
銀秋はキミコを見た。
「……俺が作った飯をか」
「そうだ」
「外で買ったものでいいだろ」
「それは食べた」
「まあ、毎日食ってるな」
「銀秋が作ったものも食べたい」
「何でだよ」
「食べたいからだ」
銀秋は黙った。
キミコは銀秋を見ている。
「……作らない」
「作れないのか」
「そうじゃない」
「なら、なぜ作らない」
銀秋は答えなかった。
少しして、目を伏せる。
「……火が、苦手なんだよ」
キミコの目がわずかに動いた。
「火?」
「ああ」
「なぜ」
「……別にいいだろ」
銀秋はそれ以上話すつもりはなかった。
キミコは少し考えるように黙った。
「火なら、私が出せる」
「は?」
キミコが片手を上げた。
その掌に、紫色の炎が灯った。
掌の上で、静かに揺れる。
銀秋の身体が強張った。
箸が手から落ちた。
畳に当たり、乾いた音を立てる。
銀秋は炎を見たまま動かなかった。
息が詰まる。
目の前にあるのは、キミコの掌に収まるほどの炎だった。
何も燃えていない。
燃え広がってもいない。
それでも、身体が言うことを聞かなかった。
「銀秋?」
キミコの声が聞こえる。
銀秋は答えられなかった。
炎が揺れる。
喉が塞がる。
息を吸おうとしても、うまく吸えない。
鼻の奥に、あるはずのない焦げた臭いが蘇った。
燃える柱。
煙。
崩れる音。
炎の向こうに、別の光景が重なる。
銀秋は後ろへ身体を引いた。
「消せ」
掠れた声が出た。
キミコが銀秋を見る。
「銀秋?」
「消せ」
銀秋はもう一度言った。
「それ、消せ」
紫の炎が消えた。
銀秋は俯いた。
息が速い。
吸っても、うまく入ってこない。
キミコは動かなかった。
何もなくなった掌を下ろし、銀秋を見ている。
「銀秋」
返事はない。
「銀秋」
「……何だ」
「怖いのか」
銀秋は答えなかった。
「火が」
「……ああ」
銀秋は短く答えた。
「私の火もか」
「火は……火だ」
「そうか」
キミコは黙った。
銀秋の呼吸は、まだ戻らない。
肩が小さく上下している。
キミコはそれを見ていた。
何をすればいいのか分からないのか、近寄ることもしなかった。
ただ、そこに座っている。
やがて、銀秋の呼吸が少しずつ落ち着いてきた。
銀秋は目を閉じた。
しばらくしてから開く。
目の前には、いつもの部屋がある。
燃えていない。
煙もない。
キミコがいる。
銀秋は息を吐いた。
「……すまなかった」
キミコが言った。
銀秋は顔を上げる。
「何が」
「火を出した」
「お前は知らなかっただろ」
「知らなかった」
「ああ」
キミコは少し黙った。
「今は知っている」
銀秋はキミコを見る。
「銀秋は、火を怖がる」
「……そうだな」
「なら、銀秋の前では出さない」
キミコはそれだけ言った。
銀秋はしばらくキミコを見ていた。
「……そうしてくれ」
「分かった」
キミコは箸を取った。
銀秋は畳に落ちた自分の箸を見る。
手を伸ばし、拾い上げた。
「銀秋」
「何だ」
「飯は作らなくていい」
「……そうか」
「買ったものを食べる」
キミコは飯を口へ運んだ。
銀秋も食事に戻った。
その晩、キミコが再び火を出すことはなかった。
翌朝。
銀秋はいつも通り店を開けた。
表の戸を開けると、朝の空気とともに通りの音が入ってくる。
すでに人が行き交っていた。
品を抱えて歩く者がいる。
店先を掃く者がいる。
少し離れたところからは、物を売る声も聞こえていた。
銀秋は帳場に座り、帳簿を開いた。
キミコは店の奥にいる。
朝のうちに何人かの客が来た。
質物を持ってきた者。
銭を返しに来た者。
以前預けた品を受け取りに来た者。
銀秋はいつも通り客を相手にし、そのたびに帳簿を開いた。
キミコは少し離れたところから、その様子を見ている。
昼が近くなった頃だった。
「銀秋」
表から声がした。
銀秋が顔を上げる。
店先に男が立っていた。
近くで酒を売っている男だった。
「何だ」
「ちょっといいか」
「客じゃないなら後にしろ」
「そう言うな。お前にも関係ある話だ」
男はそう言いながら店へ入ってきた。
銀秋は眉を寄せる。
「何の用だ」
「徳政の話、聞いたか」
銀秋の筆が止まった。
「……どこで聞いた」
「朝から客がその話ばっかりしてる」
「噂だろ」
「今はな」
男は声を落とした。
「また騒ぎになるかもしれんって話だ」
銀秋は筆を置いた。
「どこから出た話だ」
「そこまでは知らん。だが、一人や二人じゃない」
「だからって、本当とは限らんだろ」
「俺もそう思いたいがな」
男は息を吐いた。
「こっちにも話が回ってきてる。お前なら何か聞いてるかと思ってな」
「何も聞いてない」
「そうか」
男は店先の方を振り返った。
「朝から妙に浮き足立ってる奴が多い」
「噂が広がれば、そうなる」
「お前は気にならんのか」
「気にしたところで、まだ何も起きてないだろ」
「それはそうだが」
そのとき、また表から声がした。
「銀秋」
別の男が店へ入ってくる。
銀秋と同じように、近くで質屋を営んでいる男だった。
「お前まで何だ」
「徳政だよ」
銀秋は顔をしかめた。
「お前もか」
「何だ、お前も聞いたのか」
「今こいつから聞いたところだ」
質屋の男は酒屋を見る。
「そっちにも話が来てるのか」
「ああ。朝から客がその話ばっかりだ」
「こっちも似たようなもんだ」
質屋の男は店へ入ってきた。
「今朝なんか、いつもと様子の違う客が何人も来た」
「何か言われたのか」
「いや。まだ何も」
「ならいいだろ」
「今はな」
質屋の男は声を落とした。
「だが、あの様子じゃ噂だけで済むか分からんぞ」
銀秋は黙った。
「どこまで広がってる」
「分からん。俺もそれを聞きに来た」
「俺は何も知らん」
「お前なら何か掴んでるかと思ったんだがな」
「俺を何だと思ってる」
酒屋の男が小さく笑った。
「少なくとも、俺よりはこういう話が入ってくるだろ」
「入ってきてたら最初からそう言ってる」
銀秋は帳簿を閉じた。
「で、他には何か聞いたのか」
「大したことは聞いてない。ただ、近くの連中も気にしてる」
「こっちもだ」
酒屋の男が言った。
「朝から顔を出してくる奴が多い。皆、誰かが何か知ってないか探ってる」
「結局、誰も何も知らないんじゃないか」
「今のところはな」
三人は黙った。
表の通りから、人の声が聞こえてくる。
いつもと変わらないようにも見える。
だが、朝から同じ話を耳にしているせいか、その声の中にも何か落ち着かないものが混じっているように思えた。
キミコは店の奥から三人を見ていた。
徳政。
聞いたことのない言葉だった。
「何もなきゃいいんだがな」
酒屋の男が言った。
「まだ噂だ」
銀秋が返す。
「その噂が嫌なんだよ」
質屋の男が言った。
「何か聞いたら知らせてくれ」
「お前もな」
「ああ」
酒屋の男が立ち上がった。
質屋の男も続く。
「じゃあな」
「ああ」
二人は店を出ていった。
銀秋はその背中を見送った。
通りへ出ても、二人はまだ何か話している。
やがて行き交う人々の中へ紛れ、姿が見えなくなった。
銀秋はしばらく表を見ていた。
それから帳簿を開き直し、筆を取った。
「銀秋」
奥からキミコの声がした。
「何だ」
「徳政とは何だ」
銀秋は振り返った。
キミコがこちらを見ている。
「聞いてたのか」
「聞いていた」
「そうか」
銀秋は少し考えてから、筆を置いた。
「簡単に言えば、借りた銭を返さなくてもいいことにするんだ」
キミコは黙った。
「返さなくてもいいのか」
「徳政になればな」
「なぜ」
「銭を借りても、返せない奴がいるからだよ」
「うん」
「普通なら何とかして返す。それができなければ、預けた物を取られる」
銀秋はキミコの前の棚へ目を向けた。
「そこにあるのもそうだろ。銭を貸す代わりに預かってる」
キミコは棚を見る。
「徳政になれば、借りた銭を返さなくていいことになったり、預けた物を返せと言われたりする」
「銭を返していないのにか」
「そうだ」
キミコは少し考えた。
「なぜ返す」
「そういうことにしろって騒ぐ奴らがいるんだよ」
「騒ぐ」
「ああ。借金をなくせ、質物を返せってな。大勢集まって騒ぎになれば、本当にそういう決まりが出ることもある」
「大勢で言えば、決まりが変わるのか」
「変わることもある」
キミコは棚を見る。
次に、帳場の上に置かれた帳簿を見る。
「銀秋は、銭を貸している」
「そうだ」
「徳政になれば、返ってこない」
「そうなることもある」
「預かっている物も返す」
「ああ」
「銭はない」
「そうだな」
「物もない」
「そうなるな」
キミコは銀秋を見る。
「それでは、銀秋が損をする」
「そういうことだ」
「困るのか」
「そりゃ困る」
銀秋は帳簿を指先で軽く叩いた。
「これで飯を食ってるんだからな」
キミコは銀秋を見る。
「飯が食えなくなるのか」
「すぐにって話じゃない」
「だが、困る」
「ああ」
キミコは黙った。
しばらく、銀秋の顔を見ている。
「徳政にならなければいいのか」
「俺としてはな」
「ならなければいい」
「お前が決めることじゃない」
キミコは黙った。
銀秋は筆を取った。
「それに、まだ噂だ。何も起きないかもしれない」
「さっきの者たちは心配していた」
「商売してる奴は気になるんだよ。噂だけでもな」
「銀秋もか」
銀秋は答えず、筆先を墨につけた。
「銀秋」
「何だ」
「心配しているのか」
銀秋は少し黙った。
「……まあな」
「そうか」
キミコはそれ以上聞かなかった。
銀秋は帳簿へ筆を走らせる。
表の戸は開いている。
通りからは、いつもと変わらない人々の声が聞こえていた。
物を売る声。
誰かを呼ぶ声。
行き交う人々の足音。
店の棚には質物が並んでいる。
帳場には帳簿がある。
銀秋はいつもの場所に座り、キミコもいつものように店の奥にいる。
ただ、通りから聞こえてくる人々の話し声の中に、ときおり同じ言葉が混じっていた。
徳政。
銀秋は一度だけ表へ目を向けた。
それから何も言わず、帳簿へ視線を戻した。




