手
昼を少し過ぎた頃だった。
銀秋は帳場に座り、帳簿を開いていた。
表の戸は開いている。
通りからは、人の行き交う足音や話し声が聞こえていた。
店の奥では、キミコが棚に並べられた衣を眺めている。
質物として預かったものだった。色も柄も違う衣が、畳まれていくつも重ねられている。
キミコは手を伸ばさない。
ただ、一枚ずつ眺めていた。
上に置かれた衣を見て、少し身体を傾ける。その下にあるものまで見ようとしているらしい。
銀秋は帳簿から顔を上げた。
「触るなよ」
キミコが振り返る。
「触っていない」
「今はな」
「ずっと触っていない」
「そうか」
銀秋は帳簿へ目を戻した。
「見るだけならいい」
「うん」
キミコはまた棚へ向き直った。
しばらくして、店の前に人影が立った。
「……銀秋」
声がした。
銀秋が顔を上げる。
男が立っていた。
十日前、借りた金を返せず、銀秋に猶予を求めた男だった。
銀秋は筆を置いた。
「来たか」
男はすぐには入ってこなかった。
開いた戸の向こうに立ったまま、銀秋を見ている。
「何してる。入れよ」
男はようやく店へ入った。
帳場の前まで来る。
銀秋は男を見た。
十日前より、ひどい顔をしていた。
頬は痩せ、目の下には濃い隈がある。髪も乱れている。顔色も悪かった。
男は何も言わない。
銀秋はしばらく待った。
「金は」
男が目を逸らした。
「……もう少し待ってくれ」
銀秋は黙った。
「頼む」
「十日待ったぞ」
「分かってる」
「十日あれば返すと言ったな」
「ああ」
「それで、金は」
男は答えない。
銀秋はその顔を見る。
「持ってきてないのか」
「……ない」
「そうか」
銀秋は帳簿へ目を落とした。
「待ってくれ」
「待った」
「もう少しだ」
「いつまでだ」
「だから、もう少し――」
「三日か」
男が黙る。
「五日か」
「……」
「十日か」
男は答えなかった。
銀秋は顔を上げる。
「いつ返せる」
男の視線が落ちた。
「……返す」
「いつだ」
「返す」
「だから、いつ返せる」
男の口元が歪んだ。
何かを言おうとして、口を開く。
だが、声は出なかった。
握った手に力が入る。
指が震えていた。
額には薄く汗が浮いている。
銀秋は待った。
男は俯いたまま、浅く息をしていた。
「……返すって言ってるだろ」
「いつだ」
男が顔を上げた。
呼吸は浅い。
銀秋と目が合うと、すぐに顔を背けた。
「返すって言ってるだろ!」
男の声が店の中へ響いた。
通りを歩いていた者が、一瞬こちらを見る。
棚の前にいたキミコも振り返った。
銀秋は男から目を逸らさなかった。
「声を出しても金は出てこないぞ」
「俺だって好きで返してないわけじゃない!」
「知るか」
「少しくらい待てないのか」
「だから待っただろ」
「たった十日だ!」
「その十日を決めたのはお前だ」
男の顔が引きつった。
「こっちがどんな思いしてるか分かってるのか」
「分からん」
「お前は座って待ってるだけだろうが!」
「そうだな」
「それで人から金を取りやがって」
銀秋が眉を寄せる。
「借りたのはお前だろ」
男は何も言わなかった。
唇が震えている。
銀秋は帳簿へ目を落とした。
「返せないなら、返せないで話をしろ」
「話ならしてるだろ」
「いつ返すかも言えないのを話とは言わん」
「……」
「返せる当てはあるのか」
男は答えない。
「ないんだな」
銀秋は筆を取った。
「なら、話にならん」
「……ふざけるな」
銀秋の手が止まった。
男の顔が歪んだ。
怒りとも、泣き出しそうともつかない顔だった。
目元に力が入り、唇を強く噛む。
しばらくそうしていた。
やがて、男の手が懐へ入った。
銀秋がその動きを見る。
「おい」
男は答えない。
懐に入れた手が止まる。
銀秋は男を見た。
男はゆっくりと手を引き抜いた。
その手には、小刀が握られていた。
鞘から抜く。
小さな切っ先が、銀秋へ向く。
銀秋が立ち上がる。
「馬鹿なことはやめろ」
「うるさい」
男が小刀を握る手は震えていた。
銀秋との間には帳場がある。
男が身を乗り出す。
「お前さえ――」
「砕けろ」
声がした。
大きな声ではなかった。
次の瞬間、小刀が砕けた。
硬い音が店の中へ響く。
いくつもの破片が板の間へ落ちた。
一つが帳場の端へ当たり、跳ねる。
男は動かなかった。
柄だけになった小刀を握ったまま、自分の手を見ている。
「……は」
銀秋も砕けた小刀を見る。
それから、店の奥へ目を向けた。
キミコがいた。
棚の前から動いていない。
先ほどまで衣を眺めていた場所に立ったまま、男を見ている。
男も、ゆっくりとそちらを向いた。
白い着物。
艶のある黒髪。
その顔にある藤色の大きな目が、男へ向けられていた。
「……何だ」
男の声が震えた。
キミコは答えない。
「今の……お前がやったのか」
キミコは何も言わなかった。
ただ、男を見ている。
男が一歩下がった。
「何だ、お前」
さらに一歩、下がる。
男の手から、小刀の柄が落ちた。
「化け物……」
男の顔から血の気が引いた。
「化け物だ!」
男は店の外へ走り出した。
開いた戸から、そのまま通りへ飛び出す。
「化け物だ! この店に化け物がいる!」
通りを歩いていた者たちが振り返った。
「おい!」
銀秋が帳場から出る。
男は構わず走った。
「銀秋の店だ! 化け物がいる!」
銀秋は店の前まで出た。
男は通りを走りながら、まだ叫んでいる。
何人かが足を止め、銀秋の店へ目を向けていた。
銀秋はその視線を見回した。
それから、遠ざかっていく男を見る。
追わなかった。
男の姿が人の間へ消えると、銀秋は店へ戻った。
板の間には、小刀の破片が散らばっている。
銀秋は息を吐いた。
「……面倒なことになったな」
「私か」
銀秋がキミコを見る。
「お前じゃない。あいつだ」
キミコは店の外を見る。
「化け物と言っていた」
「ああ」
銀秋は床に散らばった破片へ目を落とした。
「人に小刀向けといて、よく他人を化け物呼ばわりできるよな」
独りごちるように言って、銀秋はしゃがんだ。
床に落ちた破片を拾い始める。
「銀秋」
「何だ」
「あれは、お前を刺そうとしていたのか」
「そうだろうな」
銀秋は手にした破片を見る。
「助かった」
キミコが銀秋を見る。
「何が」
「何がって……」
銀秋は床に散らばった破片へ目をやった。
「今のだよ」
キミコも破片を見る。
「砕いた」
「ああ」
キミコはしばらく破片を見ていた。
男の話は、その日のうちに通りへ広がった。
銀秋の店には化け物がいる。
人の姿をした化け物がいて、離れたところから言葉を発しただけで小刀を砕いた。
男は会う者ごとにそう話した。
だが、話を聞いた者たちが気にしたのは、別のところだった。
「小刀?」
「ああ! 俺の小刀が、いきなり砕けたんだ!」
「何で小刀なんか持ってたんだ」
男は言葉を詰まらせた。
「……銀秋に金を返せと言われたからだ」
「それで小刀を出したのか」
「違う。今は化け物の話をしてるんだ」
「銀秋に向けたんだな」
「だから――」
「お前が悪いだろ」
話はそこで終わった。
別の者に話しても同じだった。
「銀秋のところに化け物がいるんだ!」
「お前、銀秋に小刀向けたんだってな」
「そこじゃない!」
「じゃあどこなんだ」
「化け物だよ!」
「小刀なんか持ち出した奴に言われてもなあ」
男がどれだけ話しても、まともに取り合う者はいなかった。
化け物がいるという話より、借りた金を返せず銀秋へ小刀を向けた男の話として広がっていった。
夕方になった。
客足が途切れ、銀秋は店を閉めた。
キミコとともに通りへ出る。
昼よりも日差しは弱くなっていた。
行き交う人の数も少しずつ減り、あちらこちらから夕餉の匂いが漂ってくる。
二人はいつものように餅屋へ向かった。
しばらくすると、店先に人影が見えた。
銀秋が足を止める。
女の前に、一人の男が立っていた。
顔が赤い。
足元もふらついている。
「だから、帰んな!」
女の声が聞こえた。
「うるせえな」
「うるさいのはお前さんだよ。さっきから同じことばっかり言って」
「客だぞ、俺は」
「まともに立てもしない奴が何言ってんだい」
「立ってるだろうが」
「今にも転びそうじゃないか」
男はふらつきながら、女へ手を差し出した。
「酒を出せ」
「ないよ」
「あるだろ」
「ここは餅屋だよ。酒なんかあるもんか」
「隠してんだろ」
「何であたしがお前さんに酒を隠すんだい」
「いいから出せ」
「ないものは出せないよ。帰んな」
男が女へ一歩近づいた。
「客に向かってその言い方は何だ」
「何も買わない奴は客じゃないよ」
銀秋が息を吐く。
「何やってんだ、あいつは」
キミコは二人を見ていた。
「怒っている」
「そうみたいだな」
二人は餅屋へ向かう。
男の声が大きくなった。
「いいから酒を出せ!」
「だから、ないって言ってるだろ!」
「出せって言ってんだろ!」
「何度言わせるんだい。帰んな!」
男が手を伸ばした。
女の腕を掴む。
「ちょっと!」
女の身体が引かれた。
「離しな!」
銀秋が足を踏み出す。
それより早く、キミコが動いた。
銀秋の横を抜け、男のところまで行く。
手を伸ばし、女の腕を掴んでいる男の手首を掴んだ。
男が振り返る。
「何だ、お前」
キミコは何も言わない。
男は女の腕を離さなかった。
キミコの指に力が入る。
「いで」
男の顔が歪んだ。
「いでででで!」
男の手が開く。
女の腕が離れた。
キミコも手を離した。
男はすぐに自分の手首を押さえる。
「何しやがる!」
キミコは男を見る。
「離さなかった」
「だからって何しやがる! 折れたらどうすんだ!」
「折っていない」
「この野郎……!」
男がキミコを睨む。
その顔をまともに見た。
動きが止まる。
藤色の大きな目が、男を見ている。
「……何だ」
男が一歩下がった。
「何だよ、お前」
キミコは答えない。
銀秋がキミコの隣まで来た。
「これ以上絡むな。もう帰れ」
男が銀秋を見る。
「俺はただ酒を――」
「餅屋に酒なんかあるか」
「何だ、お前まで」
「帰れ」
男は銀秋を睨む。
それから、キミコを見る。
「……気味の悪い奴連れやがって」
吐き捨てる。
キミコは何も言わなかった。
男は踵を返した。
ふらつきながら通りを歩いていく。
少し先で足をもつれさせ、壁へ手をついた。
それでも振り返らず、そのまま去っていった。
銀秋はその姿を見送った。
「大丈夫か」
女は掴まれていた腕をさすった。
「これくらい何ともないよ」
「見せろ」
「大丈夫だって」
女はそう言ってから、キミコを見た。
「ありがとねえ」
キミコが女を見る。
女は笑った。
「お前さん、見かけによらず優しいんだねえ」
「優しい?」
「そうだよ。あたしを助けてくれたじゃないか」
キミコは女の腕を見る。
「私は、あれの手を離させただけだ」
「それを助けたって言うんだよ」
女はもう一度笑った。
「ありがとう」
キミコは黙った。
昼にも、似た言葉を聞いた。
助かった。
銀秋がそう言った。
今度は、この女がありがとうと言った。
キミコは自分の手を見る。
先ほど、男の手首を掴んだ手だった。
人間に触れた。
喰らうためではない。
殺すためでもない。
ただ、あの男の手を離させた。
「どうしたんだい」
女が尋ねる。
キミコは顔を上げた。
「何でもない」
「そうかい」
女はそれ以上聞かなかった。
「今日も二人分でいいんだね」
「ああ」
「じゃあ、ちょっと待ってな」
女はそう言って、奥へ引っ込んだ。
しばらくして、女が戻ってきた。
手には、二人分の飯が包まれている。
「ほら、できたよ」
銀秋が受け取る。
「ああ」
女はそのまま、キミコを見た。
キミコも女を見る。
「……あたしはね、昔から妖の類は見えたけどねえ」
女はキミコの顔をしげしげと眺めた。
「あんたは、なんか……別の……」
そこで言葉が止まる。
女はしばらく考えていた。
「……まあ、いいか」
「何がだ」
「何でもないよ」
女は笑った。
それから、キミコの顔をもう一度見る。
「それにしても、綺麗な目だねえ」
キミコの藤色の目が、わずかに動いた。
「綺麗か」
「綺麗だよ。こんな色、なかなか見ないからねえ」
キミコは何も言わなかった。
「ほら、冷めないうちに持って帰んな」
銀秋が飯を持ち直す。
「行くぞ」
「ああ」
「また明日ね」
女が言った。
キミコは女を見る。
「また明日」
二人は餅屋をあとにした。




