おばちゃん
「……随分と大きな目だねえ」
女はそう言って、キミコの顔をしげしげと眺めた。
銀秋が女を見る。
「……見えるのか」
「何がだい」
「こいつの顔だ」
女は銀秋へ目を向けた。
「見えるよ」
「目もか」
「見えてるよ」
女は再びキミコを見る。
「こんなに大きいんだからねえ」
銀秋は黙った。
朝から銀秋の店には何人もの客が出入りしていた。
キミコのすぐそばを通った者もいる。それでも、その顔を見て騒いだ者はいなかった。
ここへ来るまでの道中も同じだった。
昼を過ぎた通りには多くの人が行き交っていた。キミコとすれ違った者も、すぐそばを通り過ぎた者もいる。それでも、誰一人として足を止めなかった。
キミコが店先で花や菓子を眺め、反物の前に立ち止まっていても、その顔を見て驚く者はいなかった。
キミコに聞けば、見える者には見えるのだという。
銀秋はもう一度、女を見た。
「……本当にいるんだな」
「何がだい」
「見える奴だよ」
キミコが銀秋を見る。
「いると言った」
「そうだけどな」
疑っていたわけではない。
ただ、実際に自分以外の人間がキミコの顔を見ているのは、これが初めてだった。
女は銀秋とキミコを交互に見る。
「何だい。私に見えるのがそんなにおかしいのかい」
「いや。今日、他に見える奴がいなかったからな」
「そうかい」
女はそれ以上気にした様子もなく、またキミコへ目を向けた。
キミコも女を見返している。
しばらく、二人は互いの顔を見ていた。
先に目を逸らしたのは女だった。
「それで、飯だったね」
「ああ」
銀秋が答える。
「いつものを二人分頼む」
「はいはい」
女はキミコを見た。
「昨日から二人分だったのは、この人の分かい」
「ああ」
「へえ」
「何だ」
「何でもないよ」
「その顔で言うな」
女は笑いながら奥へ引っ込んだ。
銀秋は小さく息を吐いた。
キミコは女の消えた方を見ている。
「あの人間は銀秋を知っているのか」
「ああ」
「いつから」
「昔からだ」
「昔とはいつだ」
「覚えてない」
「長いのか」
「長いんじゃないか」
キミコは少し考えるように黙った。
やがて、その目が軒先へ向く。
台の上には、丸い餅がいくつか並べられていた。
キミコが一歩近づく。
「これは何だ」
「餅」
「もち」
「ああ」
キミコは餅を眺めた。
「食えるのか」
「食い物だ」
キミコが手を伸ばす。
銀秋はその手首を掴んだ。
「触るな」
「なぜ」
「売り物だ」
「食えるのだろう」
「銭を払えばな」
キミコは自分の手首を掴んでいる銀秋の手を見る。
銀秋が手を離すと、キミコは餅へ目を戻した。
「銭を払えば食える」
「そうだ」
「銀秋」
「買わないぞ」
藤色の目が銀秋へ向く。
「まだ何も言っていない」
「言う前に分かる」
「食いたい」
「やっぱり言っただろ」
キミコは再び餅を見る。
「飯を頼んだんだから、それまで待て」
「餅も食いたい」
「さっき菓子を食っただろ」
「食った」
「もういいだろ」
「これは食っていない」
「……お前な」
キミコは餅を見ている。
「食いたい」
「これから飯だぞ」
「分かっている」
「だったら待て」
「餅は飯ではない」
銀秋はしばらくキミコを見た。
「そういう問題じゃない」
キミコは納得していない様子だったが、もう手は伸ばさなかった。
ただ、台の上の餅をじっと眺めている。
そのとき、通りから声がした。
「おばちゃん!」
キミコが顔を上げた。
一人の子供が駆けてくる。
そのまま店先まで駆け寄り、並んだ餅の前で足を止めた。
「おばちゃん、餅くれ!」
「大声出さなくても聞こえてるよ」
奥から女の声が返ってきた。
「銭は持ってるのかい」
「ある!」
子供が握っていた手を開く。
掌の上には銭があった。
キミコはその銭を見る。
やがて女が奥から戻ってきた。
「ほら、見せてみな」
子供が銭を差し出す。
女はそれを受け取ると、台の上から餅をひとつ取った。
「ほら」
「ありがとう!」
子供は餅を受け取ると、その場で一口かじった。
そのまま通りへ駆けていく。
キミコはその後ろ姿を目で追った。
子供が人の間へ紛れ、姿が見えなくなる。
それから、女を見る。
「おばちゃん」
女が振り返った。
「なんだい」
「餅をくれ」
銀秋がキミコを見る。
女は一瞬きょとんとして、それから笑った。
「私もおばちゃんかい」
「違うのか」
「いや。違わないけどねえ」
「お前、今の子供の真似しただろ」
銀秋が言う。
「あれがそう呼んでいた」
「だからってお前まで呼ぶな」
「なぜ」
「なぜって……」
銀秋が言葉に詰まる。
「いいじゃないか」
女が笑いながら言った。
「おばちゃんでいいよ」
「分かった」
キミコは女へ向き直った。
「おばちゃん」
「はいはい」
「餅をくれ」
「銭は?」
キミコが黙った。
女が手を差し出す。
「さっきの子も払ってただろう?」
キミコはその手を見る。
それから、自分の着物へ目を落とした。
銭は持っていない。
少しして、銀秋を見る。
「銀秋」
「嫌だ」
「銭をくれ」
「さっき菓子を買ってやっただろ」
「餅は買ってもらっていない」
「飯もこれから食うだろ」
「食う」
「ならいらない」
「餅も食う」
「食わなくていい」
「食いたい」
「我慢しろ」
キミコは黙った。
銀秋を見つめる。
銀秋は目を逸らした。
「銀秋」
「駄目だ」
「銭」
「駄目だ」
キミコは何も言わなくなった。
ただ、銀秋を見ている。
しばらくして、銀秋が顔をしかめた。
「……見るな」
「見ているだけだ」
「それをやめろ」
キミコはやめない。
銀秋はしばらく耐えていたが、やがて懐へ手を入れた。
「……一つだけだぞ」
女が吹き出した。
「甘いねえ」
「うるさい」
女が餅をひとつ取り、キミコへ差し出す。
「ほら」
キミコは受け取った。
掌に載せ、しばらく眺める。
指先で押すと、餅が柔らかくへこんだ。
「柔らかい」
「遊んでないで食え」
キミコは餅を口へ運んだ。
一口かじる。
ゆっくりと噛む。
銀秋はその様子を見ていた。
「どうだ」
「うまい」
「そうか」
キミコはもう一口食べる。
やがて、手の中から餅がなくなった。
空になった掌を見る。
それから、台の上に残った餅を見る。
「もう一つ」
「駄目だ」
「まだある」
「あるな」
「食える」
「食えるな」
「銀秋」
「駄目だ」
キミコは銀秋を見る。
銀秋も見返した。
「駄目だからな」
今度は銀秋も目を逸らさなかった。
しばらく見つめ合う。
やがて、キミコが先に餅へ目を戻した。
そこへ女が包みを持ってきた。
「ほら。二人分」
「ああ」
銀秋は包みを受け取り、飯と餅の分をまとめて払った。
女は銀秋を見て、それからキミコを見る。
「明日も二人分でいいのかい」
銀秋は一瞬、答えなかった。
隣からキミコの目が向く。
「ああ」
銀秋は包みを抱え直した。
「しばらく二人分で頼む」
「そうかい」
女はそれ以上、何も聞かなかった。
「行くぞ」
銀秋が歩き出す。
キミコもその後をついていく。
数歩進んだところで、キミコが足を止めた。
振り返る。
「おばちゃん」
「なんだい」
「明日も餅を食う」
「勝手に決めるな」
銀秋は振り返らずに言った。
背後から、女の笑い声が聞こえた。




