見える人
昼を過ぎた頃、客足が途切れた。
銀秋は帳簿へ最後の一文字を書きつけると、筆を置いた。
「腹減ったか」
藤色の一つ目が銀秋へ向く。
「減った」
「そうか」
銀秋は帳簿を閉じた。
「飯にするぞ」
銀秋は立ち上がった。銭を持ち、表へ出る支度をする。
キミコはまだ座っている。
「何してる。行くぞ」
「私もか」
「お前をここに置いていけるか」
「なぜ」
「質物に触るだろ」
「触らない」
「朝から何度触った」
「……」
「行くぞ」
少しして、キミコは立ち上がった。
銀秋は表の戸を閉め、ふたりで通りへ出た。
昼の日差しが通りを照らしていた。
朝よりも人通りが増えている。行き交う人々の声に、商いの声が混じっていた。荷を背負って歩く男がいれば、籠を抱えた女もいる。道の端では品物を並べている者がおり、その前で足を止める客もいた。
銀秋は慣れた道を歩いていく。
少しして、隣にいたはずの気配がなくなった。
銀秋は足を止める。
振り返った。
キミコは少し後ろに立っていた。
「キミコ」
呼ぶと、一つ目が銀秋へ向いた。
「何してる」
「見ている」
キミコの視線を追う。
道沿いの店先に、赤や白、淡い紫の花が並んでいた。
キミコはその前に立ち、じっと花を眺めていた。
「花がどうした」
「祀煙がくれた」
「誰だ、それ」
「弟だ」
銀秋はキミコを見る。
「お前、弟がいるのか」
「うん」
キミコは再び花へ目を向けた。
花びらの一つ一つを見るように、大きな目がゆっくりと動く。
「また遊びに行こうかな」
「行ったらいい」
銀秋は何気なく答えた。
「でも前は女がたくさんいた」
「……」
銀秋は黙った。
「弟のところに?」
「うん」
「随分もてるんだな」
「浮気者だ」
「浮気?」
「女をたくさん囲っていた」
「……誰から浮気してるんだ」
「私だ」
「お前から?」
「そう」
「……そうか」
銀秋はそれ以上考えるのをやめた。
再び歩き出そうとする。
「腕も千切られた」
足が止まった。
振り返る。
「腕?」
「うん」
「誰に」
「祀煙に」
銀秋はキミコの両腕を見る。
当然のようについている。
「今あるじゃないか」
「生やした」
「……」
銀秋はしばらく何も言わなかった。
「どんな兄弟だ」
キミコが銀秋を見る。
「仲はいい」
「腕を千切られて?」
「お揃いにした」
「……もういい。行くぞ」
銀秋は歩き出した。
キミコもついてきた。
しばらくふたりで歩く。
また、足音が一つ消えた。
銀秋はそのまま数歩進んだ。
それから立ち止まる。
「……キミコ」
振り返る。
今度は菓子だった。
キミコが店先に並んだ菓子を見ている。
銀秋は戻っていった。
「今度は何だ」
「菓子」
「菓子がどうした」
キミコは並んでいる菓子から目を離さない。
「これも祀煙が持ってきた」
「また弟か」
「うん」
「お前の弟、いろいろ持ってくるんだな」
「花と菓子を持ってきた」
「へえ」
銀秋も菓子を見る。
「好きなのか」
「分からん」
「食ったことないのか」
「ない」
銀秋がキミコを見る。
「持ってきたんだろ」
「うん」
「食わなかったのか」
「持っていた」
「持ってただけ?」
「うん」
「何でだ」
キミコは答えなかった。
銀秋は、菓子を見つめたままのキミコを見る。
「食いたいのか」
「分からん」
銀秋は息を吐いた。
「食ってみたいか」
少し間があった。
「食べてみたい」
銀秋は懐へ手を入れた。
「一つくれ」
店の者へ銭を渡す。
受け取った菓子を、そのままキミコへ差し出した。
キミコが見る。
「ほら」
「私にか」
「俺が食うと思ったのか」
キミコは手を伸ばした。
菓子を受け取る。
すぐには食べなかった。
手のひらに載せ、しばらく眺めている。
「……食わないのか」
「見る」
「さっき食べてみたいって言っただろ」
「食べる」
キミコは菓子を口へ運び、一口かじった。
銀秋は歩き出しかけて、足を止めた。
キミコはゆっくりと噛んだ。
「どうだ」
「甘い」
「そりゃ菓子だからな」
もう一口食べる。
しばらくして、キミコが言った。
「うまい」
「そうか」
銀秋は小さく笑った。
「よかったな」
キミコは残った菓子を食べながら、銀秋の後についてくる。
今度はしばらく止まらなかった。
人の流れの中をふたりで進む。
やがて銀秋は、また隣が静かになったことに気づいた。
見る。
いない。
「……またか」
振り返る。
少し離れたところで、キミコが反物を眺めていた。
銀秋は額へ手をやった。
「キミコ」
キミコが振り向く。
「何だ」
「それはこっちの台詞だ」
銀秋はキミコのところまで戻った。
店先には何本もの反物が並んでいる。色も柄も様々だった。
キミコの大きな目が、その間を行き来している。
「綺麗だ」
「そうだな」
銀秋は嫌な予感がした。
キミコが一つを指す。
「これが欲しい」
「駄目だ」
即答した。
「なぜ」
「高い」
「銀秋は金を持っている」
「俺の金だ」
「さっきは菓子を買った」
「あれと一緒にするな」
「何が違う」
「値が違う」
キミコは反物を見る。
「欲しい」
「駄目だ」
「綺麗だ」
「それは分かった」
「欲しい」
「二回言っても駄目だ」
キミコが銀秋を見る。
藤色の大きな目が、じっと向けられる。
銀秋も見返した。
「そんな顔しても駄目だからな」
「どんな顔だ」
「……買わないからな」
「なぜ」
「だから高いんだよ」
キミコはもう一度反物へ目を向けた。
名残惜しそうに、しばらく眺める。
銀秋は待った。
「……行くぞ」
「分かった」
ようやくキミコが反物から離れた。
銀秋の隣へ戻ってくる。
「衣なら、お前もう山ほど持ってるだろ」
「違う」
「何が」
「あれは持っていない」
「全部欲しがる気か、お前」
「綺麗だからな」
歩き出す。
今度は銀秋も、ときどき隣を確かめながら歩いた。
キミコは何かが目に入るたび、そちらへ大きな目を向けている。
それでも、もう足を止めることはなかった。
しばらくして、銀秋は一軒の店の前で立ち止まった。
「着いたぞ」
キミコが店を見る。
「ここか」
「ここだ。いつもここで飯を頼んでる」
銀秋が中へ声をかける。
「いるか」
「あいよ」
奥から女の声がした。
やがて、一人の女が姿を見せる。
年嵩の女だった。
銀秋の姿を見ると、慣れた様子で口を開く。
「あら、銀秋さん。今日は遅かったねえ」
「客が来てた」
「そうかい。いつもの?」
「ああ。それと今日は二人分頼む」
「二人分?」
女が首を傾げる。
「昨日もだったねえ。誰か泊まりに来てるのかい」
「……まあな」
銀秋が少し横へ視線を向けた。
女もそれを追う。
そこで初めて、キミコを見た。
白い着物をまとった青年が、銀秋の隣に立っている。
艶のある黒髪。
顔には、藤色の切れ長の目がひとつ。
女は黙った。
キミコも女を見返している。
しばらく、その大きな目を眺めてから、女は口を開いた。
「……随分と大きな目だねえ」




