商売
飯を食い終えると、キミコは立ち上がった。
銀秋は空になった器を重ねながら、その姿を目で追った。
キミコは板の間を抜け、奥の座敷へ向かっていく。
銀秋も少し遅れて後を追った。
座敷には畳が敷かれている。銀秋の寝具が、敷きっぱなしになっていた。
キミコはそこまで行くと、何のためらいもなく腰を下ろそうとした。
「おい」
キミコが銀秋を見た。
「そこで寝るのか」
「眠い」
「そこは俺の——」
銀秋は言いかけて、口を閉じた。
ここで追い出せば、また人を喰うのだろう。
しばらくキミコを見てから、息を吐く。
「……まあ、いい」
板の間へ戻ろうとして、足を止めた。
「いや、待て」
キミコが銀秋を見る。
「それは脱げ」
「なぜ」
「寝具が汚れる」
キミコは自分の身体を見下ろした。
色も柄も違う女物の衣を、何枚も重ねている。そのところどころには乾いて黒ずんだ血がこびりつき、裾には土もついていた。
「それで寝るな」
キミコは裾を見る。
「汚れているか」
「汚れてるだろ」
「乾いている」
「血だけの話じゃない。裾も汚れてる」
キミコは裾をつまんだ。
「土だ」
「そう言ってる」
「土なら落ちる」
「ここで落とすな」
銀秋は息を吐いた。
「いいから脱げ」
キミコはしばらく動かなかった。
やがて渋々、一番上の衣へ手を掛ける。
一枚脱ぐ。
その下にも衣がある。
脱いだ衣をその場へ落とそうとする。
「投げるな」
手が止まった。
「畳が汚れる。貸せ」
銀秋が手を出す。
キミコは脱いだ衣を渡した。
銀秋は受け取った衣を、汚れたところが畳に触れないようにまとめ、座敷の隅へ置いた。
キミコは残った衣も順に脱いでいった。
最後の一枚を脱ぐと、その下から白い着物が現れた。
それには血も土もついていない。
「それは綺麗なんだな」
キミコは自分の着物を見る。
「これは私のものだ」
銀秋はまとめた衣を見た。
「……そうか」
それ以上は何も言わなかった。
「それならいい」
キミコは白い着物のまま寝具へ入った。
黒い髪が枕の上へ広がり、藤色の一つ目が閉じる。
銀秋はその姿を見下ろした。
「……おい」
返事はない。
「そこ、俺のなんだが」
キミコは動かない。
「端に寄れ」
返事はなかった。
寝具の真ん中を使っている。
「聞こえてるだろ」
キミコは目を閉じたままだった。
銀秋はしばらくその姿を見ていた。
「……もういい」
寝具なら他にもある。
銀秋は座敷を出た。
朝。
銀秋は目を覚ますと、顔を洗い、髪を後ろで束ねた。衣を整え、身支度を済ませる。
座敷へ戻る。
キミコはまだ眠っていた。
銀秋の寝具の真ん中で、昨夜とほとんど変わらない姿勢のまま横になっている。
座敷の隅には、昨夜脱がせた衣もそのまま置かれていた。
銀秋はどちらもそのままにして、板の間へ向かった。
朝飯を用意する。
しばらくすると、布の擦れる音がした。
見ると、キミコが起きていた。
白い着物のまま、板の間へ入ってくる。
銀秋はふと、その姿を見た。
「……お前、また小さくなったか」
キミコが銀秋を見る。
銀秋は立ち上がった。
改めて並んでみると、やはり昨日より小さい。
初めて会ったときは、自分より明らかに大きな男だった。それが昨夜のうちに縮み、今朝になって見ると、さらに少し背が低くなっている。
幼くなったわけではない。青年の姿のまま、銀秋より一回り小さくなっていた。
「昨日はもう少し大きかっただろ」
キミコは自分の身体を見下ろした。
「そうか」
「どこまで小さくなるんだ」
「お前の趣味だからな」
「……俺に聞くなよ」
「聞いていない」
「そうかよ」
銀秋は座り直した。
「飯にするぞ」
キミコも向かいへ座った。
昨夜買った飯の残りと、大根の漬物を並べる。飯はすっかり冷え、少し硬くなっていた。
キミコが飯へ手を伸ばす。
「待て」
手が止まった。
銀秋は箸を差し出した。
「これ使え」
キミコは箸を見る。
「なんでだ」
「幼子じゃあるまいし、手で食うな」
「知らん」
「知らんじゃない」
「手で食える」
「食えるかどうかの話じゃない」
「面倒だ」
「いいから使え」
キミコはしばらく箸を見ていた。
やがて渋々、それを受け取った。
銀秋は自分の箸を持ち、キミコに見えるように動かした。
「こうだ」
キミコはその手元を見る。
見よう見まねで箸を持つ。
キミコは飯に箸を差し込み、そのままつまむ。
固まった飯が、ひとかたまりになって持ち上がった。
銀秋はそれを見る。
「……崩せ」
キミコが銀秋を見る。
「なんでだ」
「そのまま食うな」
キミコは飯を見る。
箸で少し崩し、もう一度つまむ。
今度は小さなかたまりが持ち上がった。
口へ運ぶ途中で落ちる。
キミコは落ちた飯を見た。
そのまま手を伸ばそうとする。
「箸」
銀秋に言われ、手が止まった。
もう一度、箸を使う。
銀秋の手元を見ながら指を動かし、飯を挟む。
今度は落とさず、口まで運んだ。
「できるじゃないか」
「面倒だ」
「慣れろ」
キミコはまた箸を動かした。
まだぎこちない。それでも今度は、自分で食べ物を挟んで口へ運ぶ。
銀秋はそれを見ると、自分の朝飯へ戻った。
食事を終える頃には、キミコもどうにか箸で食べられるようになっていた。
銀秋が器を片づけていると、キミコは座敷へ戻った。
昨夜脱いだ衣から一枚を持ち上げる。
「それは着るな」
キミコが銀秋を見る。
「なぜ」
「これから客が来る」
「客?」
「仕事だよ」
銀秋はキミコの手にある衣を見る。
「そんな格好で店の中をうろつかれたら困る」
キミコは手にした衣を見た。
「白いのでいいだろ」
「……」
「捨てろとは言ってない。置いとけ」
キミコはしばらく衣を持っていたが、やがて元の場所へ戻した。
銀秋は白い着物姿のキミコを見る。
血も土もついていない。
これならまだいい。
そう思ったところで、額から伸びた二本の角が目に入った。
「……それもどうにかならないのか」
「何が」
「角」
銀秋は自分の額を指した。
「引っ込められないのか」
「できる」
「できるのか」
キミコの額から伸びていた二本の角が、ゆっくりと短くなっていく。
やがて根元まで消えた。
銀秋はその額を見る。
「最初からそうしろ」
改めてキミコの姿を眺める。
角は消えた。
だが、藤色の大きな目がひとつある顔は、そのままだった。
「……目はどうにもならないのか」
「ならない」
「それじゃ角だけ隠しても仕方ないだろ」
「顔は見えない」
「何?」
「今は、見える人間にしか見えない」
銀秋はキミコの顔を見た。
「俺には見えてるぞ」
「お前には見える」
「他の奴には?」
「見える奴には見える」
「そうじゃない奴には?」
「見えない」
銀秋は眉を寄せた。
「……角は?」
「見える」
銀秋は黙った。
「じゃあ角は引っ込めてろ」
「分かった」
「前からそうだったのか」
「違う」
「いつからだ」
「お前に会ってから」
銀秋はまた黙った。
身体が勝手に小さくなる。
顔は見える人間にしか見えなくなる。
どちらも、キミコが銀秋と出会ってから起こったことだった。
「……そういうものなのか」
「知らん」
「だろうな」
銀秋は訝しげにキミコを見たが、それ以上は聞かなかった。
見えない者には見えないというのなら、商売に支障はないだろう。
銀秋は表へ向かった。
キミコもついてくる。
家の表側は、そのまま商いの場になっていた。
通りに面した戸を開ける。
朝の光とともに、人の声や足音が入ってくる。すでに通りには人が行き交っていた。
銀秋は帳場へ座った。
帳簿を開き、筆を取る。
すぐ横にキミコが来た。
帳簿を覗き込んでいる。
「……何だ」
「何をしている」
「仕事だ」
「何を書いている」
「誰にいくら貸したか、何を預かってるか」
「書かないと分からないのか」
「全部覚えてられるか」
「覚えられる」
銀秋が手を止める。
「……そうかよ」
再び筆を動かす。
キミコの一つ目が、その先を追う。
一文字書く。
目が動く。
また書く。
また動く。
「面白いか」
「分からない」
「じゃあ何で見てるんだ」
キミコは答えなかった。
銀秋もそれ以上は聞かなかった。
ほどなくして、最初の客が来た。
中年の女だった。
腕に包みを抱えている。
「銀秋さん」
「ああ」
女が店へ入る。
その視線がキミコへ向いた。
「あら。そちらの方は?」
銀秋は一瞬、女の顔を見た。
「……知り合いだ」
「そうですか」
それだけだった。
女はキミコの顔を見ても、驚かなかった。
銀秋は横目でキミコを見る。
本当に、一つ目には見えていないらしい。
女が包みを帳場へ置いた。
中から衣が出てくる。
キミコの目が、すぐにそちらへ向いた。
銀秋は衣を広げ、生地や傷みを確かめる。
キミコが横から覗き込んだ。
「近い」
キミコは動かない。
「……近いって」
「見ている」
銀秋はキミコを横目で見たが、そのまま衣へ視線を戻した。
女が笑った。
「仲がいいんですね」
「そう見えるか?」
「ええ」
「昨日会ったばかりだ」
「まあ」
銀秋は衣へ視線を戻した。
「これなら、このくらいだな」
額を告げる。
女は困ったように眉を下げた。
「もう少し、どうにかなりませんか」
「これ以上は難しい」
「そこを何とか」
銀秋はもう一度、衣を確かめた。
少し考えてから、先ほどよりわずかに多い額を告げる。
「これでどうだ」
「ありがとうございます」
銀秋は金を渡した。
女が帰る。
銀秋が預かった衣を畳んでいると、横から手が伸びてきた。
「触るな」
手が止まる。
「なぜ」
「人のものだからだ」
「置いていった」
「預かったんだ。金を返しに来れば、これも返す」
「来なかったら」
「そのときは俺のものになる」
キミコは衣を見る。
「なら、いつ触っていい」
「お前が触っていいときは来ない」
キミコは黙った。
銀秋は衣をしまう。
「ここにあるものは勝手に触るなよ」
キミコは店の中を見回した。
「全部か」
「全部だ」
次に来たのは、顔馴染みらしい男だった。
「よう」
「ああ」
男は懐から銭を出した。
「この前の分」
銀秋は受け取り、額を確かめる。
「足りてる」
「ちゃんと数えてきたからな」
男は笑った。
それから、銀秋の隣にいるキミコへ目を向ける。
「誰だ、その男」
「知らん」
「知らん?」
「昨日からいる」
「何だそりゃ」
「俺が聞きたい」
男が笑う。
男はキミコを見ても、やはり何の反応も示さなかった。
「変な奴だな」
「そうだな」
「お前も大概だけどな」
「帰れ」
「金返しに来た客に言うことかよ」
「返したならもう用はないだろ」
「ひでえな」
男は笑いながら帰っていった。
銀秋はその背を見送り、受け取った銭をしまう。
それから帳簿を引き寄せ、返された金額を書き込んだ。
すぐ横から、キミコがまた覗き込んでくる。
しばらくすると、キミコは立ち上がった。
棚を見る。
器を見る。
道具を見る。
並べられた質物を順に眺めていく。
衣の前で止まった。
手を伸ばす。
「おい」
手が止まる。
「触るなと言っただろ」
「見ていただけだ」
「手が出てただろ」
キミコは手を引っ込めた。
それからも、人の出入りは続いた。
器を持ってくる者。
道具を預ける者。
金を返しに来る者。
預けていたものを取り戻しに来る者。
もう少し待ってほしいと頼む者。
銀秋はそのたびに話を聞き、品を確かめ、金を渡し、受け取り、帳簿へ書いた。
待てるものは待つ。
無理なものは断る。
相手が誰であろうと、銀秋の態度はほとんど変わらなかった。
キミコはその間、ずっと店の中にいた。
銀秋の隣で帳簿を見る。
ときどき店の中を歩く。
通りを眺める。
質物を眺める。
それからまた、銀秋の隣へ戻ってくる。
衣へ手を伸ばすたびに叱られた。
昼が近づいた頃だった。
一人の男が店へ入ってきた。
ひどく切羽詰まった顔をしていた。頬は強張り、落ち着かない目が店の中を彷徨っている。
銀秋は男を見る。
それから何事もなかったように帳簿を開いた。
「金か」
「……もう少し待ってくれ」
「前にも聞いた」
銀秋は帳簿から顔を上げない。
「分かってる。分かってるけど、今は本当にないんだ」
「いつなら返せる」
「だから、それが分からねえんだよ」
「なら待てない」
男が息を詰まらせた。
「頼む。もう少しだけ――」
「もう待った」
声に怒気はなかった。
銀秋は帳簿をめくる。
「次はいつだ」
「……何?」
「返せる日だ」
「だから分からねえって言ってるだろ」
「なら待てない」
男の顔が歪んだ。
「仕方ねえだろ。ないものはないんだ」
「そうだな」
銀秋はあっさりと言った。
「だが、借りた金はある」
「お前は困らねえだろ。儲けてるんだからよ」
銀秋はようやく顔を上げた。
「それが何だ」
男が言葉に詰まる。
「俺が儲けていれば、お前の借りた金がなくなるのか」
「こっちはどうにもならねえんだよ!」
怒鳴り声が店の中へ響いた。
キミコが顔を上げる。
銀秋は眉ひとつ動かさなかった。
「だから、いつなら返せる」
「……お前、人の話聞いてんのか」
「聞いてる」
「だったら――」
「返せないことは分かった。いつ返すのかを聞いてる」
男の呼吸が荒くなる。
対する銀秋の声は、最初から何ひとつ変わっていなかった。
「あんまり人を舐めてると、お前だってただじゃ済まねえぞ」
「そうか」
銀秋は帳簿へ目を戻した。
「だが、俺を脅したところで、借りた金はなくならない」
「てめえ――」
男が身を乗り出した。
キミコが男を見る。
藤色の一つ目が、男へ向けられた。
ただ、見ている。
銀秋はそれに気づいた。
「キミコ」
キミコが銀秋を見る。
「何もするな」
「何もしていない」
「そのままでいろ」
キミコは黙った。
男が二人を交互に見る。
「……何の話だ」
「こっちの話だ」
銀秋は男を見る。
「それで、いつだ」
男は答えなかった。
「今日決めろ。決めないなら、こっちで決める」
「……十日」
「十日だな」
「ああ」
「なら十日待つ」
銀秋は帳簿へ日を書き込んだ。
「それ以上は待たない」
男は銀秋を睨んでいた。
銀秋はもう男を見ていなかった。
筆を置き、帳簿を閉じる。
話は終わったというように、それきり口を開かなかった。
男はしばらくその場に立っていたが、やがて店を出ていった。
足音が遠ざかるまで、キミコはその方を見ていた。
「うるさかったか」
「うるさかった」
「だろうな」
「殺せば静かになる」
「殺すな」
キミコが銀秋を見る。
「なぜ」
「客だからだ」
「客なら、殺してはいけないのか」
「当たり前だろ」
「なぜ」
銀秋は少し黙った。
「……金を返しに来てもらわないと困る」
「来なかったら?」
「取り立てる」
「殺すのか」
「殺したら返せないだろ」
キミコは少し考えた。
「面倒だな」
銀秋は一瞬黙り、それから小さく笑った。
「確かに面倒だな」
キミコが銀秋を見る。
「だから、余計なことはするな」
「分かった」
銀秋は帳簿を開き直した。
キミコはまだ銀秋を見ていた。
「何だ」
「笑った」
銀秋が顔を上げる。
「笑うことくらいある」
「そうか」
「何だと思ってるんだ」
「銀秋」
銀秋は少し黙った。
「……そうかよ」
また帳簿へ目を落とす。
キミコもそれ以上は何も言わなかった。
しばらくして、銀秋の視界の端で何かが動いた。
顔を上げる。
キミコが棚に置かれた衣の袖を指でつまんでいた。
「おい」
キミコが銀秋を見る。
「それも触るな」
「触っていない」
「触ってるだろ」
「持っているだけだ」
「それを触ってるって言うんだ。離せ」
キミコは指先につまんだ袖を見る。
しばらくして、離した。
「何でそんなに衣が気になるんだ」
キミコは答えなかった。
衣を見る。
しばらくして、口を開いた。
「……綺麗だから」
銀秋はキミコを見る。
キミコはまだ衣を見ていた。
「たぶん」
「たぶん?」
「分からん」
「……分からんのか」
「分からん」
銀秋は少し黙った。
「まあいい。触るなよ」
「分かった」
キミコは衣から離れた。
帳場へ戻ってくる。
銀秋のすぐ隣へ座り、また帳簿を覗き込んだ。
銀秋は一度だけ横目で見た。
今度は何も言わなかった。
筆先が紙の上を進む。
藤色の大きな目が、その動きをじっと追っていた。




