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スダマの鬼  作者:
20/31

商売

 飯を食い終えると、キミコは立ち上がった。

 銀秋は空になった器を重ねながら、その姿を目で追った。

 キミコは板の間を抜け、奥の座敷へ向かっていく。

 銀秋も少し遅れて後を追った。

 座敷には畳が敷かれている。銀秋の寝具が、敷きっぱなしになっていた。

 キミコはそこまで行くと、何のためらいもなく腰を下ろそうとした。

「おい」

 キミコが銀秋を見た。

「そこで寝るのか」

「眠い」

「そこは俺の——」

 銀秋は言いかけて、口を閉じた。

 ここで追い出せば、また人を喰うのだろう。

 しばらくキミコを見てから、息を吐く。

「……まあ、いい」

 板の間へ戻ろうとして、足を止めた。

「いや、待て」

 キミコが銀秋を見る。

「それは脱げ」

「なぜ」

「寝具が汚れる」

 キミコは自分の身体を見下ろした。

 色も柄も違う女物の衣を、何枚も重ねている。そのところどころには乾いて黒ずんだ血がこびりつき、裾には土もついていた。

「それで寝るな」

 キミコは裾を見る。

「汚れているか」

「汚れてるだろ」

「乾いている」

「血だけの話じゃない。裾も汚れてる」

 キミコは裾をつまんだ。

「土だ」

「そう言ってる」

「土なら落ちる」

「ここで落とすな」

 銀秋は息を吐いた。

「いいから脱げ」

 キミコはしばらく動かなかった。

 やがて渋々、一番上の衣へ手を掛ける。

 一枚脱ぐ。

 その下にも衣がある。

 脱いだ衣をその場へ落とそうとする。

「投げるな」

 手が止まった。

「畳が汚れる。貸せ」

 銀秋が手を出す。

 キミコは脱いだ衣を渡した。

 銀秋は受け取った衣を、汚れたところが畳に触れないようにまとめ、座敷の隅へ置いた。

 キミコは残った衣も順に脱いでいった。

 最後の一枚を脱ぐと、その下から白い着物が現れた。

 それには血も土もついていない。

「それは綺麗なんだな」

 キミコは自分の着物を見る。

「これは私のものだ」

 銀秋はまとめた衣を見た。

「……そうか」

 それ以上は何も言わなかった。

「それならいい」

 キミコは白い着物のまま寝具へ入った。

 黒い髪が枕の上へ広がり、藤色の一つ目が閉じる。

 銀秋はその姿を見下ろした。

「……おい」

 返事はない。

「そこ、俺のなんだが」

 キミコは動かない。

「端に寄れ」

 返事はなかった。

 寝具の真ん中を使っている。

「聞こえてるだろ」

 キミコは目を閉じたままだった。

 銀秋はしばらくその姿を見ていた。

「……もういい」

 寝具なら他にもある。

 銀秋は座敷を出た。




 朝。

 銀秋は目を覚ますと、顔を洗い、髪を後ろで束ねた。衣を整え、身支度を済ませる。

 座敷へ戻る。

 キミコはまだ眠っていた。

 銀秋の寝具の真ん中で、昨夜とほとんど変わらない姿勢のまま横になっている。

 座敷の隅には、昨夜脱がせた衣もそのまま置かれていた。

 銀秋はどちらもそのままにして、板の間へ向かった。

 朝飯を用意する。

 しばらくすると、布の擦れる音がした。

 見ると、キミコが起きていた。

 白い着物のまま、板の間へ入ってくる。

 銀秋はふと、その姿を見た。

「……お前、また小さくなったか」

 キミコが銀秋を見る。

 銀秋は立ち上がった。

 改めて並んでみると、やはり昨日より小さい。

 初めて会ったときは、自分より明らかに大きな男だった。それが昨夜のうちに縮み、今朝になって見ると、さらに少し背が低くなっている。

 幼くなったわけではない。青年の姿のまま、銀秋より一回り小さくなっていた。

「昨日はもう少し大きかっただろ」

 キミコは自分の身体を見下ろした。

「そうか」

「どこまで小さくなるんだ」

「お前の趣味だからな」

「……俺に聞くなよ」

「聞いていない」

「そうかよ」

 銀秋は座り直した。

「飯にするぞ」

 キミコも向かいへ座った。

 昨夜買った飯の残りと、大根の漬物を並べる。飯はすっかり冷え、少し硬くなっていた。

 キミコが飯へ手を伸ばす。

「待て」

 手が止まった。

 銀秋は箸を差し出した。

「これ使え」

 キミコは箸を見る。

「なんでだ」

「幼子じゃあるまいし、手で食うな」

「知らん」

「知らんじゃない」

「手で食える」

「食えるかどうかの話じゃない」

「面倒だ」

「いいから使え」

 キミコはしばらく箸を見ていた。

 やがて渋々、それを受け取った。

 銀秋は自分の箸を持ち、キミコに見えるように動かした。

「こうだ」

 キミコはその手元を見る。

 見よう見まねで箸を持つ。

 キミコは飯に箸を差し込み、そのままつまむ。

 固まった飯が、ひとかたまりになって持ち上がった。

 銀秋はそれを見る。

「……崩せ」

 キミコが銀秋を見る。

「なんでだ」

「そのまま食うな」

 キミコは飯を見る。

 箸で少し崩し、もう一度つまむ。

 今度は小さなかたまりが持ち上がった。

 口へ運ぶ途中で落ちる。

 キミコは落ちた飯を見た。

 そのまま手を伸ばそうとする。

「箸」

 銀秋に言われ、手が止まった。

 もう一度、箸を使う。

 銀秋の手元を見ながら指を動かし、飯を挟む。

 今度は落とさず、口まで運んだ。

「できるじゃないか」

「面倒だ」

「慣れろ」

 キミコはまた箸を動かした。

 まだぎこちない。それでも今度は、自分で食べ物を挟んで口へ運ぶ。

 銀秋はそれを見ると、自分の朝飯へ戻った。

 食事を終える頃には、キミコもどうにか箸で食べられるようになっていた。

 銀秋が器を片づけていると、キミコは座敷へ戻った。

 昨夜脱いだ衣から一枚を持ち上げる。

「それは着るな」

 キミコが銀秋を見る。

「なぜ」

「これから客が来る」

「客?」

「仕事だよ」

 銀秋はキミコの手にある衣を見る。

「そんな格好で店の中をうろつかれたら困る」

 キミコは手にした衣を見た。

「白いのでいいだろ」

「……」

「捨てろとは言ってない。置いとけ」

 キミコはしばらく衣を持っていたが、やがて元の場所へ戻した。

 銀秋は白い着物姿のキミコを見る。

 血も土もついていない。

 これならまだいい。

 そう思ったところで、額から伸びた二本の角が目に入った。

「……それもどうにかならないのか」

「何が」

「角」

 銀秋は自分の額を指した。

「引っ込められないのか」

「できる」

「できるのか」

 キミコの額から伸びていた二本の角が、ゆっくりと短くなっていく。

 やがて根元まで消えた。

 銀秋はその額を見る。

「最初からそうしろ」

 改めてキミコの姿を眺める。

 角は消えた。

 だが、藤色の大きな目がひとつある顔は、そのままだった。

「……目はどうにもならないのか」

「ならない」

「それじゃ角だけ隠しても仕方ないだろ」

「顔は見えない」

「何?」

「今は、見える人間にしか見えない」

 銀秋はキミコの顔を見た。

「俺には見えてるぞ」

「お前には見える」

「他の奴には?」

「見える奴には見える」

「そうじゃない奴には?」

「見えない」

 銀秋は眉を寄せた。

「……角は?」

「見える」

 銀秋は黙った。

「じゃあ角は引っ込めてろ」

「分かった」

「前からそうだったのか」

「違う」

「いつからだ」

「お前に会ってから」

 銀秋はまた黙った。

 身体が勝手に小さくなる。

 顔は見える人間にしか見えなくなる。

 どちらも、キミコが銀秋と出会ってから起こったことだった。

「……そういうものなのか」

「知らん」

「だろうな」

 銀秋は訝しげにキミコを見たが、それ以上は聞かなかった。

 見えない者には見えないというのなら、商売に支障はないだろう。

 銀秋は表へ向かった。

 キミコもついてくる。

 家の表側は、そのまま商いの場になっていた。

 通りに面した戸を開ける。

 朝の光とともに、人の声や足音が入ってくる。すでに通りには人が行き交っていた。

 銀秋は帳場へ座った。

 帳簿を開き、筆を取る。

 すぐ横にキミコが来た。

 帳簿を覗き込んでいる。

「……何だ」

「何をしている」

「仕事だ」

「何を書いている」

「誰にいくら貸したか、何を預かってるか」

「書かないと分からないのか」

「全部覚えてられるか」

「覚えられる」

 銀秋が手を止める。

「……そうかよ」

 再び筆を動かす。

 キミコの一つ目が、その先を追う。

 一文字書く。

 目が動く。

 また書く。

 また動く。

「面白いか」

「分からない」

「じゃあ何で見てるんだ」

 キミコは答えなかった。

 銀秋もそれ以上は聞かなかった。

 ほどなくして、最初の客が来た。

 中年の女だった。

 腕に包みを抱えている。

「銀秋さん」

「ああ」

 女が店へ入る。

 その視線がキミコへ向いた。

「あら。そちらの方は?」

 銀秋は一瞬、女の顔を見た。

「……知り合いだ」

「そうですか」

 それだけだった。

 女はキミコの顔を見ても、驚かなかった。

 銀秋は横目でキミコを見る。

 本当に、一つ目には見えていないらしい。

 女が包みを帳場へ置いた。

 中から衣が出てくる。

 キミコの目が、すぐにそちらへ向いた。

 銀秋は衣を広げ、生地や傷みを確かめる。

 キミコが横から覗き込んだ。

「近い」

 キミコは動かない。

「……近いって」

「見ている」

 銀秋はキミコを横目で見たが、そのまま衣へ視線を戻した。

 女が笑った。

「仲がいいんですね」

「そう見えるか?」

「ええ」

「昨日会ったばかりだ」

「まあ」

 銀秋は衣へ視線を戻した。

「これなら、このくらいだな」

 額を告げる。

 女は困ったように眉を下げた。

「もう少し、どうにかなりませんか」

「これ以上は難しい」

「そこを何とか」

 銀秋はもう一度、衣を確かめた。

 少し考えてから、先ほどよりわずかに多い額を告げる。

「これでどうだ」

「ありがとうございます」

 銀秋は金を渡した。

 女が帰る。

 銀秋が預かった衣を畳んでいると、横から手が伸びてきた。

「触るな」

 手が止まる。

「なぜ」

「人のものだからだ」

「置いていった」

「預かったんだ。金を返しに来れば、これも返す」

「来なかったら」

「そのときは俺のものになる」

 キミコは衣を見る。

「なら、いつ触っていい」

「お前が触っていいときは来ない」

 キミコは黙った。

 銀秋は衣をしまう。

「ここにあるものは勝手に触るなよ」

 キミコは店の中を見回した。

「全部か」

「全部だ」

 次に来たのは、顔馴染みらしい男だった。

「よう」

「ああ」

 男は懐から銭を出した。

「この前の分」

 銀秋は受け取り、額を確かめる。

「足りてる」

「ちゃんと数えてきたからな」

 男は笑った。

 それから、銀秋の隣にいるキミコへ目を向ける。

「誰だ、その男」

「知らん」

「知らん?」

「昨日からいる」

「何だそりゃ」

「俺が聞きたい」

 男が笑う。

 男はキミコを見ても、やはり何の反応も示さなかった。

「変な奴だな」

「そうだな」

「お前も大概だけどな」

「帰れ」

「金返しに来た客に言うことかよ」

「返したならもう用はないだろ」

「ひでえな」

 男は笑いながら帰っていった。

 銀秋はその背を見送り、受け取った銭をしまう。

 それから帳簿を引き寄せ、返された金額を書き込んだ。

 すぐ横から、キミコがまた覗き込んでくる。

 しばらくすると、キミコは立ち上がった。

 棚を見る。

 器を見る。

 道具を見る。

 並べられた質物を順に眺めていく。

 衣の前で止まった。

 手を伸ばす。

「おい」

 手が止まる。

「触るなと言っただろ」

「見ていただけだ」

「手が出てただろ」

 キミコは手を引っ込めた。

 それからも、人の出入りは続いた。

 器を持ってくる者。

 道具を預ける者。

 金を返しに来る者。

 預けていたものを取り戻しに来る者。

 もう少し待ってほしいと頼む者。

 銀秋はそのたびに話を聞き、品を確かめ、金を渡し、受け取り、帳簿へ書いた。

 待てるものは待つ。

 無理なものは断る。

 相手が誰であろうと、銀秋の態度はほとんど変わらなかった。

 キミコはその間、ずっと店の中にいた。

 銀秋の隣で帳簿を見る。

 ときどき店の中を歩く。

 通りを眺める。

 質物を眺める。

 それからまた、銀秋の隣へ戻ってくる。

 衣へ手を伸ばすたびに叱られた。




 昼が近づいた頃だった。

 一人の男が店へ入ってきた。

 ひどく切羽詰まった顔をしていた。頬は強張り、落ち着かない目が店の中を彷徨っている。

 銀秋は男を見る。

 それから何事もなかったように帳簿を開いた。

「金か」

「……もう少し待ってくれ」

「前にも聞いた」

 銀秋は帳簿から顔を上げない。

「分かってる。分かってるけど、今は本当にないんだ」

「いつなら返せる」

「だから、それが分からねえんだよ」

「なら待てない」

 男が息を詰まらせた。

「頼む。もう少しだけ――」

「もう待った」

 声に怒気はなかった。

 銀秋は帳簿をめくる。

「次はいつだ」

「……何?」

「返せる日だ」

「だから分からねえって言ってるだろ」

「なら待てない」

 男の顔が歪んだ。

「仕方ねえだろ。ないものはないんだ」

「そうだな」

 銀秋はあっさりと言った。

「だが、借りた金はある」

「お前は困らねえだろ。儲けてるんだからよ」

 銀秋はようやく顔を上げた。

「それが何だ」

 男が言葉に詰まる。

「俺が儲けていれば、お前の借りた金がなくなるのか」

「こっちはどうにもならねえんだよ!」

 怒鳴り声が店の中へ響いた。

 キミコが顔を上げる。

 銀秋は眉ひとつ動かさなかった。

「だから、いつなら返せる」

「……お前、人の話聞いてんのか」

「聞いてる」

「だったら――」

「返せないことは分かった。いつ返すのかを聞いてる」

 男の呼吸が荒くなる。

 対する銀秋の声は、最初から何ひとつ変わっていなかった。

「あんまり人を舐めてると、お前だってただじゃ済まねえぞ」

「そうか」

 銀秋は帳簿へ目を戻した。

「だが、俺を脅したところで、借りた金はなくならない」

「てめえ――」

 男が身を乗り出した。

 キミコが男を見る。

 藤色の一つ目が、男へ向けられた。

 ただ、見ている。

 銀秋はそれに気づいた。

「キミコ」

 キミコが銀秋を見る。

「何もするな」

「何もしていない」

「そのままでいろ」

 キミコは黙った。

 男が二人を交互に見る。

「……何の話だ」

「こっちの話だ」

 銀秋は男を見る。

「それで、いつだ」

 男は答えなかった。

「今日決めろ。決めないなら、こっちで決める」

「……十日」

「十日だな」

「ああ」

「なら十日待つ」

 銀秋は帳簿へ日を書き込んだ。

「それ以上は待たない」

 男は銀秋を睨んでいた。

 銀秋はもう男を見ていなかった。

 筆を置き、帳簿を閉じる。

 話は終わったというように、それきり口を開かなかった。

 男はしばらくその場に立っていたが、やがて店を出ていった。

 足音が遠ざかるまで、キミコはその方を見ていた。

「うるさかったか」

「うるさかった」

「だろうな」

「殺せば静かになる」

「殺すな」

 キミコが銀秋を見る。

「なぜ」

「客だからだ」

「客なら、殺してはいけないのか」

「当たり前だろ」

「なぜ」

 銀秋は少し黙った。

「……金を返しに来てもらわないと困る」

「来なかったら?」

「取り立てる」

「殺すのか」

「殺したら返せないだろ」

 キミコは少し考えた。

「面倒だな」

 銀秋は一瞬黙り、それから小さく笑った。

「確かに面倒だな」

 キミコが銀秋を見る。

「だから、余計なことはするな」

「分かった」

 銀秋は帳簿を開き直した。

 キミコはまだ銀秋を見ていた。

「何だ」

「笑った」

 銀秋が顔を上げる。

「笑うことくらいある」

「そうか」

「何だと思ってるんだ」

「銀秋」

 銀秋は少し黙った。

「……そうかよ」

 また帳簿へ目を落とす。

 キミコもそれ以上は何も言わなかった。

 しばらくして、銀秋の視界の端で何かが動いた。

 顔を上げる。

 キミコが棚に置かれた衣の袖を指でつまんでいた。

「おい」

 キミコが銀秋を見る。

「それも触るな」

「触っていない」

「触ってるだろ」

「持っているだけだ」

「それを触ってるって言うんだ。離せ」

 キミコは指先につまんだ袖を見る。

 しばらくして、離した。

「何でそんなに衣が気になるんだ」

 キミコは答えなかった。

 衣を見る。

 しばらくして、口を開いた。

「……綺麗だから」

 銀秋はキミコを見る。

 キミコはまだ衣を見ていた。

「たぶん」

「たぶん?」

「分からん」

「……分からんのか」

「分からん」

 銀秋は少し黙った。

「まあいい。触るなよ」

「分かった」

 キミコは衣から離れた。

 帳場へ戻ってくる。

 銀秋のすぐ隣へ座り、また帳簿を覗き込んだ。

 銀秋は一度だけ横目で見た。

 今度は何も言わなかった。

 筆先が紙の上を進む。

 藤色の大きな目が、その動きをじっと追っていた。

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