飯
銀秋は歩き出した。
数歩進んだところで、背後から足音が聞こえた。
銀秋は足を止める。
足音も止まった。
振り返る。
キミコが立っていた。
銀秋と同じほどの背丈。その好みに合わせるように変わった身体つきに、艶のある黒髪。額からは二本の角が伸び、顔には藤色の大きな目がひとつある。
身につけているのは、女物の衣だった。色も柄も構わず何枚も重ね、ところどころには黒ずんだ血がこびりついている。
銀秋は、痩せた長身の男だった。端正な顔立ちをしているが、目の下には薄い隈があり、後ろで無造作に束ねた髪や、うっすら残る髭がどこかくたびれた印象を与えている。身につけている衣は質のいいものだったが、飾り気はない。
「……何だ」
キミコは答えない。
銀秋はしばらくその姿を見ていたが、やがて前を向いた。
また歩き出す。
後ろから足音が続いた。
そのまま歩く。
しばらくして、また足を止めた。
足音も止まる。
振り返る。
やはり、キミコがいる。
「何でついてくる」
「お前が行くから」
「俺は帰るんだ」
「そうか」
「そうか、じゃない」
キミコは黙った。
「お前はどこへ行く」
返事はない。
「帰るところはないのか」
「ない」
銀秋はキミコを見た。
「それで俺についてくるのか」
「そうだ」
「……何でだ」
キミコは答えなかった。
藤色の目が、じっと銀秋を見ている。
少し前まで、自分を喰おうとしていたものだ。
どこの何なのかも分からない。
初めて姿を見たときには、確かに恐ろしいと思った。
人ではないもの。
自分を喰らおうとするもの。
それが今では、自分の後ろを黙ってついてきている。
銀秋はもう一度、キミコを見た。
先ほどまであれほど恐ろしいと思っていたものが、今はもう、不思議とそうは見えなかった。
「……好きにしろ」
銀秋は前を向いた。
再び歩き出す。
後ろから足音が続いた。
今度は、もう振り返らなかった。
町へ入る頃には、夜も深くなっていた。
家々はすでに戸を閉ざしている。道を歩く者の姿もない。ところどころ、格子や戸の隙間から灯りが漏れている。
銀秋は慣れた道を進んでいく。
キミコはその後ろを歩いていた。
時折、藤色の目が道の左右へ向く。
戸を閉ざした家々が続き、その間を細い道が伸びている。軒の連なりの向こうには、暗い空が見えた。
キミコは何も言わない。
ただ、銀秋の後ろをついていく。
やがて銀秋は一軒の家の前で足を止めた。
戸を開ける。
中へ入る。
そのまま閉めようとしたところで、キミコが身体を滑り込ませてきた。
「おい」
キミコは銀秋の横を通り、そのまま中へ入る。
「……ついてくるだけじゃなかったのか」
「ここにいる」
「勝手に決めるな」
銀秋は戸に手を掛けたまま、キミコを見る。
キミコは出ていく様子もなく、そこに立っている。
追い出したところで、どうするのか。
帰るところはないと言っていた。
外へ出せば、そのまま戸の前にでも立っていそうだった。
銀秋はしばらくキミコを見ていたが、やがて戸を閉めた。
「……家に上がれとは言ってないんだがな」
キミコは何も答えなかった。
銀秋は息を吐き、家の奥へ向かった。
「勝手なことはするなよ」
後ろから足音がついてくる。
銀秋の家は、住まいであると同時に商いの場でもあった。
質屋と金貸し。
壁際には箱や長持が並び、反物や道具、調度の類が置かれている。その多くは、人から質に取ったものだった。銭が返れば持ち主のもとへ戻る。返らなければ、いずれ銀秋のものになる。
キミコはその中を通り、銀秋についていく。
藤色の目が、壁際に並ぶ品々へ向いた。
見たことのないものばかりというわけではない。
それでも、目に入ったものを追うように、視線だけがゆっくりと動く。
やがて、その目がひとつの箱で止まった。
蓋がわずかにずれている。
隙間から、鮮やかな色が覗いていた。
銀秋は気づかず、奥へ入った。
「腹が減ったな」
そう言ってから、キミコを見る。
「お前も減ってるか」
「減っている」
「飯は食えるか」
「飯?」
「人が食うものだ」
キミコは銀秋を見た。
「人か」
「人じゃない。人じゃなくても食え」
キミコは黙った。
「食ったことがない」
「なら、食ってみればいい」
もう随分と遅い。
いつも飯を融通してもらっている家でも、とっくに食事は済んでいる頃だろう。
それでも、何かしら残ってはいるはずだった。
銀秋は立ち上がった。
「飯を貰ってくる」
戸へ向かう。
すると、キミコもついてきた。
「お前は来なくていい」
キミコが止まる。
「ここにいろ」
「わかった」
銀秋はまた歩き出した。
数歩進んだところで、足を止める。
振り返った。
キミコの周囲には、人から預かった品がいくつもある。
普通なら、見ず知らずの相手を一人で残すような場所ではない。
銀秋は少し考えた。
「……何も触るなよ」
「わかった」
銀秋は念を押すようにキミコを見た。
キミコも、藤色の目で銀秋を見返している。
しばらくそうしていたが、銀秋は何も言わずに戸へ向かった。
家を出る。
戸が閉まる。
足音が遠ざかっていった。
家の中が静かになる。
キミコはその場に立っていた。
何も触るな。
銀秋はそう言った。
しばらく、動かなかった。
やがて、藤色の目が動いた。
先ほど見つけた箱を見る。
蓋の隙間から、色が覗いている。
キミコは箱へ近づいた。
しゃがむ。
隙間を覗く。
衣だった。
キミコは蓋を開けた。
中には、何枚もの衣が綺麗に畳まれている。
一枚を取り出した。
広げる。
今、自分が身につけているものとは違った。
血もついていない。
土に汚れてもいない。
キミコはしばらく眺めた。
自分の身体に当てる。
それから、そのまま袖を通した。
何枚も重ねた女物の衣の上へ、さらに一枚が重なる。
腕を上げる。
袖が垂れる。
キミコはそれを見る。
もう一枚を取り出した。
広げる。
それも着る。
色も柄も気にしない。
次の一枚を取り出す。
身体に当てる。
しばらく見る。
それは着ず、床へ置いた。
別のものを取る。
袖を通す。
また次を取る。
最初の箱を見終えると、隣の箱を見る。
キミコは手を伸ばした。
蓋を開けた。
そこにも衣が入っていた。
銀秋が戻ってきたのは、それからしばらく後だった。
両手には、二人分の飯を抱えている。
戸を開けた。
「戻ったぞ」
返事はない。
案の定、飯を融通してくれる馴染みの家では、こんな時間に来るなと嫌な顔をされた。
普段なら残っているもので済ませるところだったが、今日は二人分いる。
銭を余分に渡し、白い飯を二人分。それに魚と菜も分けてもらった。
自分一人なら、ここまでは頼まない。
人しか喰ったことがないというものに、少しくらいまともな飯を食わせてみようと思った。
食わなければ、自分が食えばいい。
銀秋は戸を閉めた。
奥へ向かう。
そして、足を止めた。
キミコがいる。
銀秋は黙って、その姿を見る。
もともと、色も柄も合わない女物の衣を何枚も重ねていた。
だが、その中に見覚えのあるものが混じっている。
「……増えてないか」
「増やした」
銀秋はしばらく黙った。
持っていた飯を置く。
キミコへ近づいた。
間違いない。
自分が預かっている質物だった。
一枚ではない。二枚、三枚と、預かりものが重ねられている。
その向こうでは箱が開け放たれ、床にも何枚か衣が置かれている。
銀秋はそれを見る。
キミコを見る。
もう一度、箱を見る。
「……何も触るなと言っただろう」
キミコは銀秋を見た。
「駄目なのか」
「駄目だから言ったんだ」
銀秋は額を押さえた。
「脱げ」
キミコは一番上の衣を脱いだ。
そのまま手を離す。
衣が床へ落ちた。
「やめろ、投げるな」
銀秋が慌てて拾う。
広げる。
汚れはない。
傷もない。
胸を撫で下ろす間もなく、キミコが次の衣を脱ぎ始める。
「待て。寄越せ」
銀秋が手を出した。
キミコは脱いだ衣をその手に載せる。
「そうだ」
もう一枚。
銀秋へ渡す。
受け取るたびに、銀秋は衣を広げた。表を見て、裏を見る。裾を確かめ、袖を見る。
幸い、どれも無事だった。
最後の一枚を受け取って、ようやく銀秋は息を吐いた。
「これは俺のものじゃない」
キミコが、銀秋の腕に重なった衣を見る。
「誰のものだ」
「人から預かってる」
「そうか」
「だから勝手に着るな」
「わかった」
銀秋は疑わしそうにキミコを見る。
今度こそ分かったのか。
確かめても仕方がない。
銀秋は衣を一枚ずつ畳み直した。床に置かれていたものも拾い、元の箱へ戻していく。
「他の箱も勝手に開けるなよ」
「わかった」
「本当だろうな」
「わかった」
「……もういい」
銀秋は蓋を閉めた。
それから、持ち帰った飯のところへ戻る。
包みを開いた。
白い飯。
焼いた魚。
菜。
キミコも近くへ来て、向かいに座った。
藤色の目が、並べられたものへ向く。
「これが飯だ」
「これか」
「それもだ。こっちも食う」
銀秋は魚と菜を示した。
キミコは順に見る。
銀秋は二人分に分け、それぞれに箸を置いた。
「こっちがお前のだ」
キミコが、自分の前へ置かれた飯を見る。
「私の」
「そうだ」
「取っていいのか」
銀秋の手が止まった。
先ほどの話を気にしているらしい。
「ああ。お前のために貰ってきた」
キミコは飯を見る。
手を伸ばした。
箸には触れず、白い飯をそのまま指で掴む。
銀秋の動きが止まった。
キミコは気にせず、掴んだ飯を口へ入れた。
噛む。
飲み込む。
また手を伸ばす。
「……おい、キミコ」
キミコが顔を上げる。
「何だ」
「何してる」
「食っている」
「そうじゃない」
銀秋はキミコの手を見る。
指に飯粒がついていた。
「箸は」
「箸」
銀秋はキミコの前に置かれた箸を指した。
「それだ」
キミコが見る。
「知らないのか」
「知らない」
銀秋は黙った。
考えてみれば、人を喰うのに箸など使わない。
「……そうか」
銀秋は自分の箸を取り、持ってみせた。
「それを使うんだ」
キミコは箸を取った。
二本まとめて握る。
「違う」
銀秋がすぐに言った。
「こうだ」
キミコは銀秋の指を見る。
「こっちは動かさない。こっちだけ動かす」
飯を挟む。
持ち上げる。
「こうして食う」
キミコは真似をする。
箸の先がずれる。
銀秋が手を伸ばした。
「ここだ」
指の位置を直す。
「そう」
キミコは飯を挟もうとした。
少し持ち上がる。
落ちた。
もう一度。
また落ちる。
キミコは飯を見る。
箸を見る。
もう一度挟む。
落ちた。
しばらく箸を見ていた。
やがて、それを置く。
手で飯を掴んだ。
「おい」
そのまま口へ入れる。
銀秋は呆れたようにキミコを見た。
「……教えた意味がないだろう」
「これの方が早い」
キミコはまた飯を掴んだ。
今度は魚へ手を伸ばす。
銀秋は止めようとして、やめた。
息を吐く。
「……もういい。好きにしろ」
キミコは魚を手に取った。
口へ運ぶ。
噛む。
少しだけ動きが止まった。
また食べる。
銀秋はその様子を見る。
「どうだ」
キミコが見る。
「何が」
「飯だ。うまいか」
キミコは口の中のものを飲み込んだ。
白い飯をもう一度食べる。
少し考えた。
「うまい」
「そうか」
銀秋は箸を取った。
自分も食べ始める。
向かいでは、キミコが相変わらず手で飯を食べていた。
白い飯を掴む。
魚を食う。
菜を取る。
銀秋はそれを横目に見る。
「……箸くらい、そのうち覚えろよ」
キミコは答えなかった。
指についた飯粒を舐め取る。
銀秋は呆れたように息を吐き、それ以上は何も言わなかった。




