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スダマの鬼  作者:
19/31

 銀秋は歩き出した。

 数歩進んだところで、背後から足音が聞こえた。

 銀秋は足を止める。

 足音も止まった。

 振り返る。

 キミコが立っていた。

 銀秋と同じほどの背丈。その好みに合わせるように変わった身体つきに、艶のある黒髪。額からは二本の角が伸び、顔には藤色の大きな目がひとつある。

 身につけているのは、女物の衣だった。色も柄も構わず何枚も重ね、ところどころには黒ずんだ血がこびりついている。

 銀秋は、痩せた長身の男だった。端正な顔立ちをしているが、目の下には薄い隈があり、後ろで無造作に束ねた髪や、うっすら残る髭がどこかくたびれた印象を与えている。身につけている衣は質のいいものだったが、飾り気はない。

「……何だ」

 キミコは答えない。

 銀秋はしばらくその姿を見ていたが、やがて前を向いた。

 また歩き出す。

 後ろから足音が続いた。

 そのまま歩く。

 しばらくして、また足を止めた。

 足音も止まる。

 振り返る。

 やはり、キミコがいる。

「何でついてくる」

「お前が行くから」

「俺は帰るんだ」

「そうか」

「そうか、じゃない」

 キミコは黙った。

「お前はどこへ行く」

 返事はない。

「帰るところはないのか」

「ない」

 銀秋はキミコを見た。

「それで俺についてくるのか」

「そうだ」

「……何でだ」

 キミコは答えなかった。

 藤色の目が、じっと銀秋を見ている。

 少し前まで、自分を喰おうとしていたものだ。

 どこの何なのかも分からない。

 初めて姿を見たときには、確かに恐ろしいと思った。

 人ではないもの。

 自分を喰らおうとするもの。

 それが今では、自分の後ろを黙ってついてきている。

 銀秋はもう一度、キミコを見た。

 先ほどまであれほど恐ろしいと思っていたものが、今はもう、不思議とそうは見えなかった。

「……好きにしろ」

 銀秋は前を向いた。

 再び歩き出す。

 後ろから足音が続いた。

 今度は、もう振り返らなかった。

 町へ入る頃には、夜も深くなっていた。

 家々はすでに戸を閉ざしている。道を歩く者の姿もない。ところどころ、格子や戸の隙間から灯りが漏れている。

 銀秋は慣れた道を進んでいく。

 キミコはその後ろを歩いていた。

 時折、藤色の目が道の左右へ向く。

 戸を閉ざした家々が続き、その間を細い道が伸びている。軒の連なりの向こうには、暗い空が見えた。

 キミコは何も言わない。

 ただ、銀秋の後ろをついていく。

 やがて銀秋は一軒の家の前で足を止めた。

 戸を開ける。

 中へ入る。

 そのまま閉めようとしたところで、キミコが身体を滑り込ませてきた。

「おい」

 キミコは銀秋の横を通り、そのまま中へ入る。

「……ついてくるだけじゃなかったのか」

「ここにいる」

「勝手に決めるな」

 銀秋は戸に手を掛けたまま、キミコを見る。

 キミコは出ていく様子もなく、そこに立っている。

 追い出したところで、どうするのか。

 帰るところはないと言っていた。

 外へ出せば、そのまま戸の前にでも立っていそうだった。

 銀秋はしばらくキミコを見ていたが、やがて戸を閉めた。

「……家に上がれとは言ってないんだがな」

 キミコは何も答えなかった。

 銀秋は息を吐き、家の奥へ向かった。

「勝手なことはするなよ」

 後ろから足音がついてくる。

 銀秋の家は、住まいであると同時に商いの場でもあった。

 質屋と金貸し。

 壁際には箱や長持が並び、反物や道具、調度の類が置かれている。その多くは、人から質に取ったものだった。銭が返れば持ち主のもとへ戻る。返らなければ、いずれ銀秋のものになる。

 キミコはその中を通り、銀秋についていく。

 藤色の目が、壁際に並ぶ品々へ向いた。

 見たことのないものばかりというわけではない。

 それでも、目に入ったものを追うように、視線だけがゆっくりと動く。

 やがて、その目がひとつの箱で止まった。

 蓋がわずかにずれている。

 隙間から、鮮やかな色が覗いていた。

 銀秋は気づかず、奥へ入った。

「腹が減ったな」

 そう言ってから、キミコを見る。

「お前も減ってるか」

「減っている」

「飯は食えるか」

「飯?」

「人が食うものだ」

 キミコは銀秋を見た。

「人か」

「人じゃない。人じゃなくても食え」

 キミコは黙った。

「食ったことがない」

「なら、食ってみればいい」

 もう随分と遅い。

 いつも飯を融通してもらっている家でも、とっくに食事は済んでいる頃だろう。

 それでも、何かしら残ってはいるはずだった。

 銀秋は立ち上がった。

「飯を貰ってくる」

 戸へ向かう。

 すると、キミコもついてきた。

「お前は来なくていい」

 キミコが止まる。

「ここにいろ」

「わかった」

 銀秋はまた歩き出した。

 数歩進んだところで、足を止める。

 振り返った。

 キミコの周囲には、人から預かった品がいくつもある。

 普通なら、見ず知らずの相手を一人で残すような場所ではない。

 銀秋は少し考えた。

「……何も触るなよ」

「わかった」

 銀秋は念を押すようにキミコを見た。

 キミコも、藤色の目で銀秋を見返している。

 しばらくそうしていたが、銀秋は何も言わずに戸へ向かった。

 家を出る。

 戸が閉まる。

 足音が遠ざかっていった。

 家の中が静かになる。

 キミコはその場に立っていた。

 何も触るな。

 銀秋はそう言った。

 しばらく、動かなかった。

 やがて、藤色の目が動いた。

 先ほど見つけた箱を見る。

 蓋の隙間から、色が覗いている。

 キミコは箱へ近づいた。

 しゃがむ。

 隙間を覗く。

 衣だった。

 キミコは蓋を開けた。

 中には、何枚もの衣が綺麗に畳まれている。

 一枚を取り出した。

 広げる。

 今、自分が身につけているものとは違った。

 血もついていない。

 土に汚れてもいない。

 キミコはしばらく眺めた。

 自分の身体に当てる。

 それから、そのまま袖を通した。

 何枚も重ねた女物の衣の上へ、さらに一枚が重なる。

 腕を上げる。

 袖が垂れる。

 キミコはそれを見る。

 もう一枚を取り出した。

 広げる。

 それも着る。

 色も柄も気にしない。

 次の一枚を取り出す。

 身体に当てる。

 しばらく見る。

 それは着ず、床へ置いた。

 別のものを取る。

 袖を通す。

 また次を取る。

 最初の箱を見終えると、隣の箱を見る。

 キミコは手を伸ばした。

 蓋を開けた。

 そこにも衣が入っていた。

 銀秋が戻ってきたのは、それからしばらく後だった。

 両手には、二人分の飯を抱えている。

 戸を開けた。

「戻ったぞ」

 返事はない。

 案の定、飯を融通してくれる馴染みの家では、こんな時間に来るなと嫌な顔をされた。

 普段なら残っているもので済ませるところだったが、今日は二人分いる。

 銭を余分に渡し、白い飯を二人分。それに魚と菜も分けてもらった。

 自分一人なら、ここまでは頼まない。

 人しか喰ったことがないというものに、少しくらいまともな飯を食わせてみようと思った。

 食わなければ、自分が食えばいい。

 銀秋は戸を閉めた。

 奥へ向かう。

 そして、足を止めた。

 キミコがいる。

 銀秋は黙って、その姿を見る。

 もともと、色も柄も合わない女物の衣を何枚も重ねていた。

 だが、その中に見覚えのあるものが混じっている。

「……増えてないか」

「増やした」

 銀秋はしばらく黙った。

 持っていた飯を置く。

 キミコへ近づいた。

 間違いない。

 自分が預かっている質物だった。

 一枚ではない。二枚、三枚と、預かりものが重ねられている。

 その向こうでは箱が開け放たれ、床にも何枚か衣が置かれている。

 銀秋はそれを見る。

 キミコを見る。

 もう一度、箱を見る。

「……何も触るなと言っただろう」

 キミコは銀秋を見た。

「駄目なのか」

「駄目だから言ったんだ」

 銀秋は額を押さえた。

「脱げ」

 キミコは一番上の衣を脱いだ。

 そのまま手を離す。

 衣が床へ落ちた。

「やめろ、投げるな」

 銀秋が慌てて拾う。

 広げる。

 汚れはない。

 傷もない。

 胸を撫で下ろす間もなく、キミコが次の衣を脱ぎ始める。

「待て。寄越せ」

 銀秋が手を出した。

 キミコは脱いだ衣をその手に載せる。

「そうだ」

 もう一枚。

 銀秋へ渡す。

 受け取るたびに、銀秋は衣を広げた。表を見て、裏を見る。裾を確かめ、袖を見る。

 幸い、どれも無事だった。

 最後の一枚を受け取って、ようやく銀秋は息を吐いた。

「これは俺のものじゃない」

 キミコが、銀秋の腕に重なった衣を見る。

「誰のものだ」

「人から預かってる」

「そうか」

「だから勝手に着るな」

「わかった」

 銀秋は疑わしそうにキミコを見る。

 今度こそ分かったのか。

 確かめても仕方がない。

 銀秋は衣を一枚ずつ畳み直した。床に置かれていたものも拾い、元の箱へ戻していく。

「他の箱も勝手に開けるなよ」

「わかった」

「本当だろうな」

「わかった」

「……もういい」

 銀秋は蓋を閉めた。

 それから、持ち帰った飯のところへ戻る。

 包みを開いた。

 白い飯。

 焼いた魚。

 菜。

 キミコも近くへ来て、向かいに座った。

 藤色の目が、並べられたものへ向く。

「これが飯だ」

「これか」

「それもだ。こっちも食う」

 銀秋は魚と菜を示した。

 キミコは順に見る。

 銀秋は二人分に分け、それぞれに箸を置いた。

「こっちがお前のだ」

 キミコが、自分の前へ置かれた飯を見る。

「私の」

「そうだ」

「取っていいのか」

 銀秋の手が止まった。

 先ほどの話を気にしているらしい。

「ああ。お前のために貰ってきた」

 キミコは飯を見る。

 手を伸ばした。

 箸には触れず、白い飯をそのまま指で掴む。

 銀秋の動きが止まった。

 キミコは気にせず、掴んだ飯を口へ入れた。

 噛む。

 飲み込む。

 また手を伸ばす。

「……おい、キミコ」

 キミコが顔を上げる。

「何だ」

「何してる」

「食っている」

「そうじゃない」

 銀秋はキミコの手を見る。

 指に飯粒がついていた。

「箸は」

「箸」

 銀秋はキミコの前に置かれた箸を指した。

「それだ」

 キミコが見る。

「知らないのか」

「知らない」

 銀秋は黙った。

 考えてみれば、人を喰うのに箸など使わない。

「……そうか」

 銀秋は自分の箸を取り、持ってみせた。

「それを使うんだ」

 キミコは箸を取った。

 二本まとめて握る。

「違う」

 銀秋がすぐに言った。

「こうだ」

 キミコは銀秋の指を見る。

「こっちは動かさない。こっちだけ動かす」

 飯を挟む。

 持ち上げる。

「こうして食う」

 キミコは真似をする。

 箸の先がずれる。

 銀秋が手を伸ばした。

「ここだ」

 指の位置を直す。

「そう」

 キミコは飯を挟もうとした。

 少し持ち上がる。

 落ちた。

 もう一度。

 また落ちる。

 キミコは飯を見る。

 箸を見る。

 もう一度挟む。

 落ちた。

 しばらく箸を見ていた。

 やがて、それを置く。

 手で飯を掴んだ。

「おい」

 そのまま口へ入れる。

 銀秋は呆れたようにキミコを見た。

「……教えた意味がないだろう」

「これの方が早い」

 キミコはまた飯を掴んだ。

 今度は魚へ手を伸ばす。

 銀秋は止めようとして、やめた。

 息を吐く。

「……もういい。好きにしろ」

 キミコは魚を手に取った。

 口へ運ぶ。

 噛む。

 少しだけ動きが止まった。

 また食べる。

 銀秋はその様子を見る。

「どうだ」

 キミコが見る。

「何が」

「飯だ。うまいか」

 キミコは口の中のものを飲み込んだ。

 白い飯をもう一度食べる。

 少し考えた。

「うまい」

「そうか」

 銀秋は箸を取った。

 自分も食べ始める。

 向かいでは、キミコが相変わらず手で飯を食べていた。

 白い飯を掴む。

 魚を食う。

 菜を取る。

 銀秋はそれを横目に見る。

「……箸くらい、そのうち覚えろよ」

 キミコは答えなかった。

 指についた飯粒を舐め取る。

 銀秋は呆れたように息を吐き、それ以上は何も言わなかった。

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