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スダマの鬼  作者:
18/32

 夜になっていた。

 町を外れた道には、人の姿がなかった。

 道の両側には木々が続いている。月は出ていたが、その光も枝葉に遮られ、道は薄暗い。ところどころ、木々の隙間から差し込んだ光が地面を白く照らしている。

 その道を、一人の男が歩いていた。

 提灯も持たず、急いでいる様子もない。

 その姿を、キミコは木々の間から見ていた。

 人間。

 それだけだった。

 男であることも、一人でいることも、どこへ向かっているのかも、キミコにはどうでもよかった。

 腹が減っていた。

 だから、喰らうことにした。

 キミコは木々の間から道へ出た。

 気配を感じたのか、男が足を止める。

 振り返った。

 暗い道の先に、何かが立っている。

 人のように見えた。

 背丈は男にしても高い。長い黒髪が肩から背へと流れ落ちている。

 その身を包んでいるのは、ひどくちぐはぐな衣だった。色も柄も違うものを、何枚も重ねている。

 どれも女物だった。

 男はその姿を見た。

 雲が流れた。

 月明かりが落ちる。

 額から伸びる二本の角。

 鼻のない顔。

 そして、その中央にあるひとつだけの目。

 藤色の瞳が、まっすぐ男を見ていた。

 男の顔から、表情が消えた。

 鬼。

 そう思ったときには、もう目の前にいた。

「——っ」

 男は咄嗟に身を翻した。

 逃げようと一歩踏み出す。

 その腕を、キミコが掴んだ。

 身体が後ろへ引かれる。

 踏み出した足が地面を滑った。

 男は体勢を崩し、振り向く間もなくキミコの方へ引き戻される。

 次の瞬間、キミコは男を地面へ引き倒した。

 背中を強く打ちつける。

「ぐ……っ」

 肺から一気に息が押し出された。

 男が起き上がるより先に、キミコがその身体に跨った。

 男は反射的に腕を上げた。

 キミコがその手首を掴む。

 男は振りほどこうとした。

 動かない。

 両足を使って押し退けようとしても、キミコの身体はびくともしなかった。

「待て……!」

 キミコは男の顔を見ている。

 月を背にしたその顔は、影に沈んでいた。

 額から伸びる二本の角だけが、夜空を背に黒く浮かんでいる。

 男は息を呑んだ。

 耳にした噂が、頭をよぎった。

 町はずれの屋敷。

 そこで見つかった、喰い荒らされた人の骸。

 人を食う何かがいる。

 そんな話が、しばらく前から町に広がっていた。

 その噂を耳にしたとき、ほんの少しだけ思ったことがある。

 そいつに出くわして、そのまま喰われてしまうのもいいかもしれない。

 自分で死ぬことはできない。

 けれど、向こうからやって来るのなら。

「……お前か」

 キミコは答えない。

「人を喰っているのは」

 返事はなかった。

 キミコが顔を近づける。

 男の身体が強張った。

 分かってしまった。

 喰われる。

 かつて、それでもいいと思ったことがある。

 なのに。

「やめろ!」

 男は身を捩った。

 空いている手でキミコの肩を押す。爪を立て、脚を動かし、どうにかその下から抜け出そうとする。

 何ひとつ効かなかった。

「離せ……!」

 声が震えた。

 キミコは構わず、男の喉元へ顔を寄せる。

「待て」

 声が掠れた。

「待ってくれ」

 返事はない。

「嫌だ」

 男はもう一度、身を捩った。

 掴まれた手首が軋む。

「死にたくない」

 その言葉が、口から出た。

 キミコが止まった。

 男自身も、動きを止めていた。

 男の荒い息だけが、夜道に聞こえている。

 今、自分が何を言ったのか。

 それだけは、はっきりと聞こえていた。

 やがて、キミコが口を開いた。

「死ぬ」

「……」

「喰うから」

 男は何も答えなかった。

 逃げなければならない。

 そう思う。

 だが、片腕は掴まれている。身体の上には鬼がいる。

 逃げられるはずがなかった。

 心臓が、ひどく速く鳴っていた。

 怖かった。

 死ぬことが。

 喰われることが。

 痛いのも、苦しいのも嫌だった。

 男は目を閉じた。

「……痛くするな」

 キミコが首を傾げる。

「痛いのは嫌だ」

「……」

「喰うなら……すぐに殺してくれ」

 キミコは男を見ていた。

 やがて、その顔が再び近づいてくる。

 男の肩が震えた。

 歯を食いしばる。

 それでも身体は逃げようとしていた。地面を踏み、掴まれていない手でキミコを押す。

 どうにもならないと分かっているのに、止められなかった。

「……死にたかったはずなんだがな」

 男が呟いた。

 男の喉元まで近づいていたキミコが、わずかに顔を上げた。

 誰に聞かせるでもない声だった。

「死にたい?」

 男が目を開けた。

 影に沈んだ顔が、すぐそこにある。

「……ああ」

「死にたくないと言った」

「言ったな」

「死にたい?」

「ああ」

「なら、喰う」

「それは嫌だ」

 キミコは黙った。

 男も黙った。

 しばらくして、キミコが首を傾げる。

 男はその顔を見上げた。

 死にたかった。

 それは嘘ではない。

 朝、目を覚ますたびに、また一日が始まると思った。

 夜、目を閉じるたびに、そのまま二度と目が覚めなければいいと思った。

 明日など来なくていい。

 そう思っていた。

 それなのに、いざ喉元へ歯を立てられようとした途端、身体は勝手に動いた。

 逃げようとした。

 離せと叫んだ。

 待ってくれと頼んだ。

 死にたくないとまで言った。

 男は、呆然と夜空を見た。

 枝葉の隙間から、月が見えている。

 まだ生きている。

 胸が上下している。

 心臓が、うるさいほど鳴っている。

「……」

 キミコはまだ、男の上にいる。

 喰うでもなく、離れるでもなく、ただ見ている。

 男はしばらく月を眺めていた。

 やがて視線を戻す。

「……何だ」

「分からない」

「何が」

「お前」

 男は何も言わなかった。

 少しして、力なく息を吐いた。

「……俺にも分からん」

 キミコは首を傾げたまま、男を見ていた。

 やがて、掴んでいた手を離した。

 男はすぐには動かなかった。

 地面に横たわったまま、キミコを見ている。

 やがて、男が口を開いた。

「……退いてくれないか」

 キミコは動かなかった。

「重い」

 男は少し待った。

「喰わないなら、退いてくれ」

 ようやく、キミコは身体を退けた。

 男はゆっくりと上体を起こした。

 地面に手をつき、何度か息を整える。それから、掴まれていた手首を擦った。

 痛む。

 だが、折れてはいない。

 男はそのことを確かめると、キミコを見上げた。

 長い黒髪。

 二本の角。

 鼻のない顔。

 ひとつだけの藤色の目。

 何枚も重ねられた、色も柄も違う女物の衣。

 先ほどまで自分を喰おうとしていたもの。

 恐ろしい。

 今も、そのことに変わりはない。

 それでも男は、キミコを見ていた。

 やがて立ち上がる。

 土のついた衣を払い、改めてキミコと向かい合った。

 男自身、決して小柄ではない。それでも、キミコの顔を見るには視線を上げなければならなかった。

 男の視線が、キミコの頭から足元までを辿る。

 妙な鬼だった。

 人を喰う。

 恐ろしく力が強い。

 言葉は通じる。

 なぜ自分を喰うのをやめたのかは、分からなかった。

 男は、何枚も重ねられた衣を見る。

「……それは、なんだ」

 男がその一枚を指した。

「衣」

「それは分かる」

「女のもの」

「……そうか」

 男はそれ以上聞くのをやめた。

 ふと、重ねられた衣の一枚に目が止まる。

 暗がりでは分かりにくいが、ところどころに黒ずんだ染みが残っていた。

 血だ。

 男はしばらくそれを見ていた。

 そして、どこから持ってきたのかを尋ねるのはやめた。

 男はもう一度、キミコを見た。

 長い手足に、広い肩。

 人の男として見れば、立派な体躯をしている。

「……大きいな」

「大きい?」

「ああ。お前が」

 キミコは自分の身体を見下ろした。

 男もその姿を眺める。

 もう少し。

 ふと、思った。

 もう少し、小さければ。

 その瞬間だった。

 キミコの身体が揺らいだ。

 男が目を凝らす。

 見間違いではない。

 目の前に立っていた大きな身体が、ゆっくりと縮んでいく。

 肩の位置が下がる。

 長い手足が縮まり、広かった肩も狭くなっていく。

 やがて、袖の中へ手が隠れた。

「……」

 男は言葉を失った。

 キミコも、自分の身体を見ていた。

 袖に隠れた手を持ち上げる。

 変化はすぐに止まった。

 そこに立っていたのは、先ほどまでの上背のある男の姿ではなかった。

 青年だった。

 艶やかな長い黒髪。

 二本の角。

 鼻のない顔。

 ひとつだけの藤色の目。

 それらは変わっていない。

 ただ、全体が一回りも二回りも小さくなっていた。

「……お前」

 キミコが顔を上げる。

「今、何をした」

「何?」

「小さくなった」

 キミコはしばらく黙っていた。

 それから、袖に隠れた手を持ち上げる。

「小さいな」

「ああ」

 キミコは腕を下ろした。

「知らない」

「知らない?」

「知らない」

 男は眉を寄せた。

 自分の身体に起きたことだというのに、本当に分かっていないらしい。

 先ほどまで見上げていた顔が、今はずっと近くにある。

 男はその姿を眺めた。

 もう少し、小さければ。

 先ほど、自分はそう思った。

 その直後に、キミコの身体が変わった。

 男が口を開こうとした、そのとき。

「ああ」

 キミコが声を漏らした。

 袖に隠れた自分の手を見ている。

「お前の望んだ姿か」

 男は目を瞬いた。

「……俺の?」

「そう」

 キミコはそれだけ言った。

 男は改めて、目の前の姿を見る。

 確かに、自分はもう少し小さければと思った。

 それだけだった。口に出してもいない。

 それを、目の前の鬼は知っている。

 男はわずかに頬が熱くなるのを感じた。

「……俺が思ったから、お前がこうなったのか」

「そう」

 男は少しだけ視線を逸らした。

「なぜ分かる」

「分かる」

「……そうか」

 男はそれ以上聞かなかった。

 この鬼に理由を尋ねても、おそらく答えは返ってこない。

 キミコは袖に隠れた手を出そうと、腕を振っている。

 何度か繰り返すうちに、ようやく指先が覗いた。

 男はその様子を見ていた。

 恐ろしくないわけではない。

 つい先ほどまで、自分を喰おうとしていたのだ。

 先ほどまで自分の上に跨り、どう足掻いても動かなかった鬼が、今は長すぎる袖に手こずっている。

 男はしばらくそれを眺めていた。

「……名は」

 キミコが顔を上げた。

「名?」

「お前の名だ」

 キミコは黙った。

 名を尋ねられたことはなかった。

 何と呼べばいいのか。

 誰かがキミコ自身に、それを尋ねたことはない。

「キミコ」

「キミコ」

 男が繰り返す。

 自分の口から出た呼び名が、男の口から返ってくる。

 キミコはその声を聞いていた。

「……女人の名のようだな」

「そうか」

 キミコはそれだけ答えた。

 少しして、藤色の目が男へ向いた。

「お前は?」

「俺か」

「名」

 男は一瞬、答えるのをためらった。

 名を聞かれるとは思っていなかった。

「……銀秋」

「ぎんしゅう」

「ああ」

「銀秋」

 キミコがもう一度、その名を口にする。

 男——銀秋は、黙ってそれを聞いていた。

「銀秋」

「……何だ」

「銀秋」

「分かった。俺の名だ」

「うん」

 それで満足したのか、キミコは黙った。

 銀秋も何も言わなかった。

 夜道には、二人のほかに誰もいない。

 キミコは人を喰う鬼で、銀秋はその鬼に喰われかけた人間だった。

 少し前まで、キミコにとって男はただの食べ物でしかなかった。

 今は、銀秋という名を持つ人間だった。

「……ではな」

 銀秋はそう言って、歩き出した。

 キミコはその場に立ったまま、その背を見ていた。

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