名
夜になっていた。
町を外れた道には、人の姿がなかった。
道の両側には木々が続いている。月は出ていたが、その光も枝葉に遮られ、道は薄暗い。ところどころ、木々の隙間から差し込んだ光が地面を白く照らしている。
その道を、一人の男が歩いていた。
提灯も持たず、急いでいる様子もない。
その姿を、キミコは木々の間から見ていた。
人間。
それだけだった。
男であることも、一人でいることも、どこへ向かっているのかも、キミコにはどうでもよかった。
腹が減っていた。
だから、喰らうことにした。
キミコは木々の間から道へ出た。
気配を感じたのか、男が足を止める。
振り返った。
暗い道の先に、何かが立っている。
人のように見えた。
背丈は男にしても高い。長い黒髪が肩から背へと流れ落ちている。
その身を包んでいるのは、ひどくちぐはぐな衣だった。色も柄も違うものを、何枚も重ねている。
どれも女物だった。
男はその姿を見た。
雲が流れた。
月明かりが落ちる。
額から伸びる二本の角。
鼻のない顔。
そして、その中央にあるひとつだけの目。
藤色の瞳が、まっすぐ男を見ていた。
男の顔から、表情が消えた。
鬼。
そう思ったときには、もう目の前にいた。
「——っ」
男は咄嗟に身を翻した。
逃げようと一歩踏み出す。
その腕を、キミコが掴んだ。
身体が後ろへ引かれる。
踏み出した足が地面を滑った。
男は体勢を崩し、振り向く間もなくキミコの方へ引き戻される。
次の瞬間、キミコは男を地面へ引き倒した。
背中を強く打ちつける。
「ぐ……っ」
肺から一気に息が押し出された。
男が起き上がるより先に、キミコがその身体に跨った。
男は反射的に腕を上げた。
キミコがその手首を掴む。
男は振りほどこうとした。
動かない。
両足を使って押し退けようとしても、キミコの身体はびくともしなかった。
「待て……!」
キミコは男の顔を見ている。
月を背にしたその顔は、影に沈んでいた。
額から伸びる二本の角だけが、夜空を背に黒く浮かんでいる。
男は息を呑んだ。
耳にした噂が、頭をよぎった。
町はずれの屋敷。
そこで見つかった、喰い荒らされた人の骸。
人を食う何かがいる。
そんな話が、しばらく前から町に広がっていた。
その噂を耳にしたとき、ほんの少しだけ思ったことがある。
そいつに出くわして、そのまま喰われてしまうのもいいかもしれない。
自分で死ぬことはできない。
けれど、向こうからやって来るのなら。
「……お前か」
キミコは答えない。
「人を喰っているのは」
返事はなかった。
キミコが顔を近づける。
男の身体が強張った。
分かってしまった。
喰われる。
かつて、それでもいいと思ったことがある。
なのに。
「やめろ!」
男は身を捩った。
空いている手でキミコの肩を押す。爪を立て、脚を動かし、どうにかその下から抜け出そうとする。
何ひとつ効かなかった。
「離せ……!」
声が震えた。
キミコは構わず、男の喉元へ顔を寄せる。
「待て」
声が掠れた。
「待ってくれ」
返事はない。
「嫌だ」
男はもう一度、身を捩った。
掴まれた手首が軋む。
「死にたくない」
その言葉が、口から出た。
キミコが止まった。
男自身も、動きを止めていた。
男の荒い息だけが、夜道に聞こえている。
今、自分が何を言ったのか。
それだけは、はっきりと聞こえていた。
やがて、キミコが口を開いた。
「死ぬ」
「……」
「喰うから」
男は何も答えなかった。
逃げなければならない。
そう思う。
だが、片腕は掴まれている。身体の上には鬼がいる。
逃げられるはずがなかった。
心臓が、ひどく速く鳴っていた。
怖かった。
死ぬことが。
喰われることが。
痛いのも、苦しいのも嫌だった。
男は目を閉じた。
「……痛くするな」
キミコが首を傾げる。
「痛いのは嫌だ」
「……」
「喰うなら……すぐに殺してくれ」
キミコは男を見ていた。
やがて、その顔が再び近づいてくる。
男の肩が震えた。
歯を食いしばる。
それでも身体は逃げようとしていた。地面を踏み、掴まれていない手でキミコを押す。
どうにもならないと分かっているのに、止められなかった。
「……死にたかったはずなんだがな」
男が呟いた。
男の喉元まで近づいていたキミコが、わずかに顔を上げた。
誰に聞かせるでもない声だった。
「死にたい?」
男が目を開けた。
影に沈んだ顔が、すぐそこにある。
「……ああ」
「死にたくないと言った」
「言ったな」
「死にたい?」
「ああ」
「なら、喰う」
「それは嫌だ」
キミコは黙った。
男も黙った。
しばらくして、キミコが首を傾げる。
男はその顔を見上げた。
死にたかった。
それは嘘ではない。
朝、目を覚ますたびに、また一日が始まると思った。
夜、目を閉じるたびに、そのまま二度と目が覚めなければいいと思った。
明日など来なくていい。
そう思っていた。
それなのに、いざ喉元へ歯を立てられようとした途端、身体は勝手に動いた。
逃げようとした。
離せと叫んだ。
待ってくれと頼んだ。
死にたくないとまで言った。
男は、呆然と夜空を見た。
枝葉の隙間から、月が見えている。
まだ生きている。
胸が上下している。
心臓が、うるさいほど鳴っている。
「……」
キミコはまだ、男の上にいる。
喰うでもなく、離れるでもなく、ただ見ている。
男はしばらく月を眺めていた。
やがて視線を戻す。
「……何だ」
「分からない」
「何が」
「お前」
男は何も言わなかった。
少しして、力なく息を吐いた。
「……俺にも分からん」
キミコは首を傾げたまま、男を見ていた。
やがて、掴んでいた手を離した。
男はすぐには動かなかった。
地面に横たわったまま、キミコを見ている。
やがて、男が口を開いた。
「……退いてくれないか」
キミコは動かなかった。
「重い」
男は少し待った。
「喰わないなら、退いてくれ」
ようやく、キミコは身体を退けた。
男はゆっくりと上体を起こした。
地面に手をつき、何度か息を整える。それから、掴まれていた手首を擦った。
痛む。
だが、折れてはいない。
男はそのことを確かめると、キミコを見上げた。
長い黒髪。
二本の角。
鼻のない顔。
ひとつだけの藤色の目。
何枚も重ねられた、色も柄も違う女物の衣。
先ほどまで自分を喰おうとしていたもの。
恐ろしい。
今も、そのことに変わりはない。
それでも男は、キミコを見ていた。
やがて立ち上がる。
土のついた衣を払い、改めてキミコと向かい合った。
男自身、決して小柄ではない。それでも、キミコの顔を見るには視線を上げなければならなかった。
男の視線が、キミコの頭から足元までを辿る。
妙な鬼だった。
人を喰う。
恐ろしく力が強い。
言葉は通じる。
なぜ自分を喰うのをやめたのかは、分からなかった。
男は、何枚も重ねられた衣を見る。
「……それは、なんだ」
男がその一枚を指した。
「衣」
「それは分かる」
「女のもの」
「……そうか」
男はそれ以上聞くのをやめた。
ふと、重ねられた衣の一枚に目が止まる。
暗がりでは分かりにくいが、ところどころに黒ずんだ染みが残っていた。
血だ。
男はしばらくそれを見ていた。
そして、どこから持ってきたのかを尋ねるのはやめた。
男はもう一度、キミコを見た。
長い手足に、広い肩。
人の男として見れば、立派な体躯をしている。
「……大きいな」
「大きい?」
「ああ。お前が」
キミコは自分の身体を見下ろした。
男もその姿を眺める。
もう少し。
ふと、思った。
もう少し、小さければ。
その瞬間だった。
キミコの身体が揺らいだ。
男が目を凝らす。
見間違いではない。
目の前に立っていた大きな身体が、ゆっくりと縮んでいく。
肩の位置が下がる。
長い手足が縮まり、広かった肩も狭くなっていく。
やがて、袖の中へ手が隠れた。
「……」
男は言葉を失った。
キミコも、自分の身体を見ていた。
袖に隠れた手を持ち上げる。
変化はすぐに止まった。
そこに立っていたのは、先ほどまでの上背のある男の姿ではなかった。
青年だった。
艶やかな長い黒髪。
二本の角。
鼻のない顔。
ひとつだけの藤色の目。
それらは変わっていない。
ただ、全体が一回りも二回りも小さくなっていた。
「……お前」
キミコが顔を上げる。
「今、何をした」
「何?」
「小さくなった」
キミコはしばらく黙っていた。
それから、袖に隠れた手を持ち上げる。
「小さいな」
「ああ」
キミコは腕を下ろした。
「知らない」
「知らない?」
「知らない」
男は眉を寄せた。
自分の身体に起きたことだというのに、本当に分かっていないらしい。
先ほどまで見上げていた顔が、今はずっと近くにある。
男はその姿を眺めた。
もう少し、小さければ。
先ほど、自分はそう思った。
その直後に、キミコの身体が変わった。
男が口を開こうとした、そのとき。
「ああ」
キミコが声を漏らした。
袖に隠れた自分の手を見ている。
「お前の望んだ姿か」
男は目を瞬いた。
「……俺の?」
「そう」
キミコはそれだけ言った。
男は改めて、目の前の姿を見る。
確かに、自分はもう少し小さければと思った。
それだけだった。口に出してもいない。
それを、目の前の鬼は知っている。
男はわずかに頬が熱くなるのを感じた。
「……俺が思ったから、お前がこうなったのか」
「そう」
男は少しだけ視線を逸らした。
「なぜ分かる」
「分かる」
「……そうか」
男はそれ以上聞かなかった。
この鬼に理由を尋ねても、おそらく答えは返ってこない。
キミコは袖に隠れた手を出そうと、腕を振っている。
何度か繰り返すうちに、ようやく指先が覗いた。
男はその様子を見ていた。
恐ろしくないわけではない。
つい先ほどまで、自分を喰おうとしていたのだ。
先ほどまで自分の上に跨り、どう足掻いても動かなかった鬼が、今は長すぎる袖に手こずっている。
男はしばらくそれを眺めていた。
「……名は」
キミコが顔を上げた。
「名?」
「お前の名だ」
キミコは黙った。
名を尋ねられたことはなかった。
何と呼べばいいのか。
誰かがキミコ自身に、それを尋ねたことはない。
「キミコ」
「キミコ」
男が繰り返す。
自分の口から出た呼び名が、男の口から返ってくる。
キミコはその声を聞いていた。
「……女人の名のようだな」
「そうか」
キミコはそれだけ答えた。
少しして、藤色の目が男へ向いた。
「お前は?」
「俺か」
「名」
男は一瞬、答えるのをためらった。
名を聞かれるとは思っていなかった。
「……銀秋」
「ぎんしゅう」
「ああ」
「銀秋」
キミコがもう一度、その名を口にする。
男——銀秋は、黙ってそれを聞いていた。
「銀秋」
「……何だ」
「銀秋」
「分かった。俺の名だ」
「うん」
それで満足したのか、キミコは黙った。
銀秋も何も言わなかった。
夜道には、二人のほかに誰もいない。
キミコは人を喰う鬼で、銀秋はその鬼に喰われかけた人間だった。
少し前まで、キミコにとって男はただの食べ物でしかなかった。
今は、銀秋という名を持つ人間だった。
「……ではな」
銀秋はそう言って、歩き出した。
キミコはその場に立ったまま、その背を見ていた。




