衣
祀煙の屋敷を出たキミコは、そのまま山へ入った。
すでに日は傾いていた。
木々の間から差し込む夕暮れの光が、山の斜面を赤く染めている。
キミコは振り返らなかった。ただ、歩いた。
屋敷から離れるように、山の奥へ進んでいく。
木々が頭上を覆っていく。
夕暮れの光が届かなくなると、山は急に静かになった。
風が木の葉を揺らす音だけが、遠くで続いていた。
キミコはしばらく歩いた。
それから、足を止める。
右の肩を見る。
腕がない。
祀煙に千切られた腕。
キミコは残った左手を肩口へ伸ばした。
指先が触れる。
何もない。
そこから、紫の炎が生まれた。
ぼう、と小さな炎が灯る。
燃え広がることはない。
肩のあたりで揺らめきながら、そこに留まっている。
やがて炎が、ぼわりと膨らんだ。
何もなかった肩口が盛り上がる。
炎の中で骨が伸び、その上を肉と皮膚が覆っていく。肩から上腕、肘、前腕へと形が続き、やがて手首が形を取った。
それに合わせるように、白い布も炎の中から現れた。
肩を覆う。腕に沿って伸びる。袖になる。
腕が伸びるにつれ、袖もそれに合わせて伸びていく。
最後に掌が形を取り、五本の指がすべて揃った。
紫の炎が、ふっと消えた。
風が吹く。
新しくできた袖が揺れた。
キミコは腕を持ち上げた。
手を握る。
開く。
指を動かす。
腕を曲げる。
伸ばす。
問題はなかった。
肩から先まで、すっかり元通りになっている。
着物も同じだった。
千切れたはずの袖は、何事もなかったように腕を包んでいる。
キミコはしばらく自分の腕を見ていた。
それから、また歩き出した。
やがて夜が訪れた。
木々の間から、月が覗いている。
キミコは大きな木の根元へ腰を下ろした。
背中を幹に預ける。
目を閉じた。
腹が減っている。
けれど、それ以上に眠かった。
キミコはそのまま眠った。
どれほど経ったのか。
朝の光が、木々の間から差し込んでいた。
「いたぞ!」
声がした。
キミコが目を開く。
「鬼だ!」
「間違いない!」
「囲め!」
木々の向こうに、人間がいた。
一人ではない。
何人もいる。
皆、刀を抜いていた。
キミコはゆっくりと身体を起こした。
眠い。
腹も減っている。
人間たちは、そんなキミコを取り囲んでいく。
「気を抜くな!」
「逃がすな!」
一人が声を張った。
キミコは周囲を見る。
人間たちは、刀を構えている。
「お前が、この山にいる妖か」
一人が言った。
「人を襲っているのは、お前だな」
キミコは答えない。
「何とか言え!」
男が刀を構え直した。
キミコは瞬きをした。
声が、少し鬱陶しかった。
「行け!」
誰かが叫んだ。
一斉に人間たちが動いた。
刀が振り下ろされる。
キミコは身を躱した。
刃が髪を掠める。
別の刀が迫る。
キミコは身を引いた。
そのまま、刀を振った男の腕を掴む。
男が息を呑む。振りほどこうとする。
キミコは構わず引き寄せた。
口を開く。
喉笛に噛みつく。
そのまま、喰い千切った。
男の身体が痙攣し、血が噴き出した。やがて、力が抜けた。
キミコは手を離した。
男の身体が、地面へ崩れ落ちた。
周囲の人間が、一瞬だけ動きを止めた。
けれど、逃げる者はいなかった。
「怯むな!」
一人が叫んだ。
「まだ一人だ!」
「囲め!」
「一斉にかかれ!」
再び人間たちが向かってくる。
刀が振り下ろされる。
キミコは身を躱した。腕を掴み、引き寄せる。その喉笛に噛みついた。
また一人、地面へ倒れる。
別の男が向かってくる。
刃が空を切る。
キミコはその腕を掴んだ。引き寄せ、喰らう。
また一人。
人間たちは、なおも向かってきた。
キミコは避けた。
掴んだ。
喰らった。
向かってくる者がいるたび、それを繰り返した。
やがて、声の数が減っていく。
地面には、動かなくなった仲間が倒れている。
それでも、まだ刀を握っている者がいた。
「斬れ!」
「囲め!」
「まだだ!」
声だけが飛び交う。
けれど、誰も次に踏み込もうとはしなかった。
目の前には、傷ひとつない鬼がいる。
その藤色の目には、怒りも興奮もなかった。
ただ、腹を空かせている。
「……無理だ」
誰かが呟いた。
「殺される」
怯えた声だった。
別の男が後ずさる。
キミコが一歩近づく。
男がさらに後ずさった。
「逃げろ!」
誰かが叫んだ。
残った者たちが、一斉に走り出した。
キミコは追った。
木々の間へ逃げ込んでいく背中に、次々と追いついていく。
やがて、山は静かになった。
キミコは立ち止まった。
周囲を見る。
誰もいない。
それから、近くで水の流れる音に気づいた。
音のする方へ歩いていく。
木々の間を抜けると、細い沢があった。
浅い水が、岩の間を静かに流れている。
キミコは水辺へ近づいた。
膝を折り、水面を覗き込む。
昼の光を受けた水面に、自分の姿が映っていた。
そこにいるのは、祀煙と戦ったときと同じ姿だった。
大きな角。
腰まで伸びた黒髪。
白い肌。
背の高い、大人の男の姿。
その顔には、藤色の単眼がひとつある。
キミコは、血に塗れた口元を見た。
それから、水を掬った。
口元へ運ぶ。
血を洗い流す。
もう一度水を掬う。
冷たい水が喉を通っていく。
何度か水を飲む。
それでも、腹の奥は空いたままだった。
キミコは立ち上がった。
そして、また歩き始めた。
西へ向かう。
山を下り、道を進む。
人の目につかない道を選び、ひたすら西へ進んだ。
歩いているうちに、空はすっかり暗くなった。
月明かりの下、遠くに町の灯りが見える。
けれど、キミコは町へ入らなかった。
町の手前で道を外れる。
しばらく歩く。
やがて、高い塀が見えてきた。
大きな屋敷だった。
門も立派だった。
塀の向こうには広い庭があり、そのさらに奥に大きな建物がある。
屋敷の中には、人の気配があった。
キミコは立ち止まった。
暗闇の中で、屋敷を見上げる。
腹が減っている。
人がいる。
キミコは門へ近づいた。
門の前には、門番が立っている。
キミコが近づくと、男がこちらを振り返った。
「誰だ」
男の手が刀へ伸びる。
キミコは答えなかった。
一歩、近づく。
男が刀を抜いた。
その瞬間、キミコの手が男の喉を掴む。
引き寄せようと、指に力を込める。
男の首が、手の中で崩れた。
男の身体から、力が抜ける。
キミコは手を離した。
男は動かなかった。
キミコはしばらく男を見下ろした。
それから、門を抜けた。
庭へ入る。
静かだった。
屋敷の中から、かすかな鼻歌が聞こえる。
キミコはその音を辿った。
障子の向こうに人がいる。
キミコは障子を開けた。
「……え?」
女が振り返った。
キミコを見る。
その顔が強張る。
声を上げるより先に、キミコが近づいた。
女が逃げようとする。
けれど、キミコのほうが速かった。
女はやがて動かなくなった。
キミコは手を離した。
女の身体が畳へ崩れ落ちる。
噴き出る血の勢いが弱くなっていく。
キミコはそれを見下ろした。
それから、その衣を見る。
淡い色の衣に、赤い血がついていた。
ふと、華美な衣を幾重にも纏い、角まで飾り立てていたものを思い出した。
キミコは衣を掴んだ。
それから、自分の着物の上に重ねて着た。
袖が手の先まで垂れている。
裾も長く、足元へ重なっていた。
けれど、気にしなかった。
キミコは立ち上がった。
部屋を出る。
廊下を歩く。
別の部屋から、人の気配がする。
キミコはそちらへ向かった。
戸を開ける。
男がいた。
男はキミコを見て、声を上げた。
キミコは近づいた。
男が逃げようとする。
腕を掴む。
引き寄せる。
口を開く。
男の声が途切れた。
やがて、男は動かなくなった。
キミコは手を離した。
そのまま、また歩いた。
次に見つけたのは女だった。
女はキミコを見るなり逃げ出した。
キミコは追いついた。
腕を掴む。
引き寄せる。
喰らう。
女が動かなくなる。
キミコはその衣を拾った。
一枚。
また一枚。
男の衣には手をつけなかった。
女の衣だけを拾い、自分の着物の上に重ねていく。
屋敷の中を歩く。
人の気配を辿る。
見つける。
喰らう。
女の衣を拾う。
また重ねる。
それを繰り返した。
白い着物の上に、何色もの衣が重なっていく。
どの衣にも、赤い血がついていた。
夜が深くなる頃には、キミコの身体は幾重にも衣を重ねた姿になっていた。
キミコはその姿のまま、屋敷の廊下を歩いた。
やがて、人の気配がなくなった。
キミコは足を止める。
静かな屋敷を見回す。
それから、外へ出た。
重なった衣が、歩くたびに揺れる。
キミコは振り返らなかった。
ただ、西へ向かって歩いた。




