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スダマの鬼  作者:
17/34

 祀煙(しえん)の屋敷を出たキミコは、そのまま山へ入った。

 すでに日は傾いていた。

 木々の間から差し込む夕暮れの光が、山の斜面を赤く染めている。

 キミコは振り返らなかった。ただ、歩いた。

 屋敷から離れるように、山の奥へ進んでいく。

 木々が頭上を覆っていく。

 夕暮れの光が届かなくなると、山は急に静かになった。

 風が木の葉を揺らす音だけが、遠くで続いていた。

 キミコはしばらく歩いた。

 それから、足を止める。

 右の肩を見る。

 腕がない。

 祀煙に千切られた腕。

 キミコは残った左手を肩口へ伸ばした。

 指先が触れる。

 何もない。

 そこから、紫の炎が生まれた。

 ぼう、と小さな炎が灯る。

 燃え広がることはない。

 肩のあたりで揺らめきながら、そこに留まっている。

 やがて炎が、ぼわりと膨らんだ。

 何もなかった肩口が盛り上がる。

 炎の中で骨が伸び、その上を肉と皮膚が覆っていく。肩から上腕、肘、前腕へと形が続き、やがて手首が形を取った。

 それに合わせるように、白い布も炎の中から現れた。

 肩を覆う。腕に沿って伸びる。袖になる。

 腕が伸びるにつれ、袖もそれに合わせて伸びていく。

 最後に掌が形を取り、五本の指がすべて揃った。

 紫の炎が、ふっと消えた。

 風が吹く。

 新しくできた袖が揺れた。

 キミコは腕を持ち上げた。

 手を握る。

 開く。

 指を動かす。

 腕を曲げる。

 伸ばす。

 問題はなかった。

 肩から先まで、すっかり元通りになっている。

 着物も同じだった。

 千切れたはずの袖は、何事もなかったように腕を包んでいる。

 キミコはしばらく自分の腕を見ていた。

 それから、また歩き出した。

 やがて夜が訪れた。

 木々の間から、月が覗いている。

 キミコは大きな木の根元へ腰を下ろした。

 背中を幹に預ける。

 目を閉じた。

 腹が減っている。

 けれど、それ以上に眠かった。

 キミコはそのまま眠った。




 どれほど経ったのか。

 朝の光が、木々の間から差し込んでいた。

「いたぞ!」

 声がした。

 キミコが目を開く。

「鬼だ!」

「間違いない!」

「囲め!」

 木々の向こうに、人間がいた。

 一人ではない。

 何人もいる。

 皆、刀を抜いていた。

 キミコはゆっくりと身体を起こした。

 眠い。

 腹も減っている。

 人間たちは、そんなキミコを取り囲んでいく。

「気を抜くな!」

「逃がすな!」

 一人が声を張った。

 キミコは周囲を見る。

 人間たちは、刀を構えている。

「お前が、この山にいる妖か」

 一人が言った。

「人を襲っているのは、お前だな」

 キミコは答えない。

「何とか言え!」

 男が刀を構え直した。

 キミコは瞬きをした。

 声が、少し鬱陶しかった。

「行け!」

 誰かが叫んだ。

 一斉に人間たちが動いた。

 刀が振り下ろされる。

 キミコは身を躱した。

 刃が髪を掠める。

 別の刀が迫る。

 キミコは身を引いた。

 そのまま、刀を振った男の腕を掴む。

 男が息を呑む。振りほどこうとする。

 キミコは構わず引き寄せた。

 口を開く。

 喉笛に噛みつく。

 そのまま、喰い千切った。

 男の身体が痙攣し、血が噴き出した。やがて、力が抜けた。

 キミコは手を離した。

 男の身体が、地面へ崩れ落ちた。

 周囲の人間が、一瞬だけ動きを止めた。

 けれど、逃げる者はいなかった。

「怯むな!」

 一人が叫んだ。

「まだ一人だ!」

「囲め!」

「一斉にかかれ!」

 再び人間たちが向かってくる。

 刀が振り下ろされる。

 キミコは身を躱した。腕を掴み、引き寄せる。その喉笛に噛みついた。

 また一人、地面へ倒れる。

 別の男が向かってくる。

 刃が空を切る。

 キミコはその腕を掴んだ。引き寄せ、喰らう。

 また一人。

 人間たちは、なおも向かってきた。

 キミコは避けた。

 掴んだ。

 喰らった。

 向かってくる者がいるたび、それを繰り返した。

 やがて、声の数が減っていく。

 地面には、動かなくなった仲間が倒れている。

 それでも、まだ刀を握っている者がいた。

「斬れ!」

「囲め!」

「まだだ!」

 声だけが飛び交う。

 けれど、誰も次に踏み込もうとはしなかった。

 目の前には、傷ひとつない鬼がいる。

 その藤色の目には、怒りも興奮もなかった。

 ただ、腹を空かせている。

「……無理だ」

 誰かが呟いた。

「殺される」

 怯えた声だった。

 別の男が後ずさる。

 キミコが一歩近づく。

 男がさらに後ずさった。

「逃げろ!」

 誰かが叫んだ。

 残った者たちが、一斉に走り出した。

 キミコは追った。

 木々の間へ逃げ込んでいく背中に、次々と追いついていく。

 やがて、山は静かになった。

 キミコは立ち止まった。

 周囲を見る。

 誰もいない。

 それから、近くで水の流れる音に気づいた。

 音のする方へ歩いていく。

 木々の間を抜けると、細い沢があった。

 浅い水が、岩の間を静かに流れている。

 キミコは水辺へ近づいた。

 膝を折り、水面を覗き込む。

 昼の光を受けた水面に、自分の姿が映っていた。

 そこにいるのは、祀煙と戦ったときと同じ姿だった。

 大きな角。

 腰まで伸びた黒髪。

 白い肌。

 背の高い、大人の男の姿。

 その顔には、藤色の単眼がひとつある。

 キミコは、血に塗れた口元を見た。

 それから、水を掬った。

 口元へ運ぶ。

 血を洗い流す。

 もう一度水を掬う。

 冷たい水が喉を通っていく。

 何度か水を飲む。

 それでも、腹の奥は空いたままだった。

 キミコは立ち上がった。

 そして、また歩き始めた。

 西へ向かう。

 山を下り、道を進む。

 人の目につかない道を選び、ひたすら西へ進んだ。

 歩いているうちに、空はすっかり暗くなった。

 月明かりの下、遠くに町の灯りが見える。

 けれど、キミコは町へ入らなかった。

 町の手前で道を外れる。

 しばらく歩く。

 やがて、高い塀が見えてきた。

 大きな屋敷だった。

 門も立派だった。

 塀の向こうには広い庭があり、そのさらに奥に大きな建物がある。

 屋敷の中には、人の気配があった。

 キミコは立ち止まった。

 暗闇の中で、屋敷を見上げる。

 腹が減っている。

 人がいる。

 キミコは門へ近づいた。

 門の前には、門番が立っている。

 キミコが近づくと、男がこちらを振り返った。

「誰だ」

 男の手が刀へ伸びる。

 キミコは答えなかった。

 一歩、近づく。

 男が刀を抜いた。

 その瞬間、キミコの手が男の喉を掴む。

 引き寄せようと、指に力を込める。

 男の首が、手の中で崩れた。

 男の身体から、力が抜ける。

 キミコは手を離した。

 男は動かなかった。

 キミコはしばらく男を見下ろした。

 それから、門を抜けた。

 庭へ入る。

 静かだった。

 屋敷の中から、かすかな鼻歌が聞こえる。

 キミコはその音を辿った。

 障子の向こうに人がいる。

 キミコは障子を開けた。

「……え?」

 女が振り返った。

 キミコを見る。

 その顔が強張る。

 声を上げるより先に、キミコが近づいた。

 女が逃げようとする。

 けれど、キミコのほうが速かった。

 女はやがて動かなくなった。

 キミコは手を離した。

 女の身体が畳へ崩れ落ちる。

 噴き出る血の勢いが弱くなっていく。

 キミコはそれを見下ろした。

 それから、その衣を見る。

 淡い色の衣に、赤い血がついていた。

 ふと、華美な衣を幾重にも纏い、角まで飾り立てていたものを思い出した。

 キミコは衣を掴んだ。

 それから、自分の着物の上に重ねて着た。

 袖が手の先まで垂れている。

 裾も長く、足元へ重なっていた。

 けれど、気にしなかった。

 キミコは立ち上がった。

 部屋を出る。

 廊下を歩く。

 別の部屋から、人の気配がする。

 キミコはそちらへ向かった。

 戸を開ける。

 男がいた。

 男はキミコを見て、声を上げた。

 キミコは近づいた。

 男が逃げようとする。

 腕を掴む。

 引き寄せる。

 口を開く。

 男の声が途切れた。

 やがて、男は動かなくなった。

 キミコは手を離した。

 そのまま、また歩いた。

 次に見つけたのは女だった。

 女はキミコを見るなり逃げ出した。

 キミコは追いついた。

 腕を掴む。

 引き寄せる。

 喰らう。

 女が動かなくなる。

 キミコはその衣を拾った。

 一枚。

 また一枚。

 男の衣には手をつけなかった。

 女の衣だけを拾い、自分の着物の上に重ねていく。

 屋敷の中を歩く。

 人の気配を辿る。

 見つける。

 喰らう。

 女の衣を拾う。

 また重ねる。

 それを繰り返した。

 白い着物の上に、何色もの衣が重なっていく。

 どの衣にも、赤い血がついていた。

 夜が深くなる頃には、キミコの身体は幾重にも衣を重ねた姿になっていた。

 キミコはその姿のまま、屋敷の廊下を歩いた。

 やがて、人の気配がなくなった。

 キミコは足を止める。

 静かな屋敷を見回す。

 それから、外へ出た。

 重なった衣が、歩くたびに揺れる。

 キミコは振り返らなかった。

 ただ、西へ向かって歩いた。


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