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スダマの鬼  作者:
16/31

喰らうもの

※この章は、キミコと祀煙が再会する前の出来事です。

 人間たちは、逃げていた。

 庭を横切る。門へ向かって、ひたすら走る。

 誰も、振り返らない。

 背後では、まだ鬼たちの声が響いている。

「殺せ!」

「何としてでも止めろ!」

「こいつを座敷牢へ戻せ!」

 その声に混じって、ごう、と低い音が響いていた。

 地鳴りだった。

 足元が揺れる。

 それでも、人間たちは走った。

 背後から、また音がした。

 何かが砕ける音。

 続いて、何かが倒れる音。

 鬼の声が、ひとつ途切れた。

 人間たちは、さらに足を速めた。

 門が見える。

 人間たちは、そのまま門を抜けた。

 山道に出る。

 走り続ける。

 背後から聞こえていた鬼の声が、少しずつ遠くなっていく。

 砕ける音も、何かが倒れる音も、もう聞こえない。

 けれど、地鳴りだけは続いていた。

 人間たちは振り返らなかった。

 ただ、山道を下っていく。

 走る。

 ひたすら走る。

 木々の間を抜ける。

 坂を下る。

 それでも、地鳴りはまだ聞こえている。

 足元が、時折小さく揺れる。

 誰かが何かを言った。

 けれど、息が切れていて聞き取れない。

 誰も聞き返さなかった。

 そんなことをしている暇はなかった。

 走る。

 足が痛む。

 それでも止まらない。

 やがて、山道が緩やかになる。

 木々の向こうに、光が見えた。

 その先に、屋根がある。

 人家だった。

 その頃になってようやく、地鳴りが遠くなった。

 人間たちは、村へ入る。

 人の姿が見える。

 誰かがこちらを振り返った。

 その様子を見て、村人がすぐに駆け寄った。

「どうした」

 返事はない。

 逃げ帰った男たちは、荒い息を吐いていた。

 村人たちは、不安そうに男たちの後ろを見た。

「何があった」

「鬼は?」

 その問いに、一人が顔を上げた。

「……分からない」

「分からない?」

「俺たちは、途中で逃げた」

 男は息を整えながら言った。

「鬼たちが、あれに向かっていった」

「あれ?」

「童女だ」

 村人たちが顔を見合わせる。

「童女?」

「ああ」

 男は頷いた。

「白い着物を着た、小さな童女だ」

「人間なのか?」

「分からない」

「鬼なのか?」

「……それも、分からない」

 男は山を見た。

「ただ……一つ目だった」

 村人たちが黙る。

「一つ目?」

「ああ」

「何をしていた」

 男は口を閉じた。

 見ていない。

 見続けることができなかった。

「……分からない」

「何も?」

「鬼たちが向かっていったところまでは見た」

「そのあと、逃げた」

「じゃあ、どうして——」

 村人の言葉を遮るように、男が続けた。

「音がした」

「音?」

「何かが砕ける音だ」

 男の顔が強張る。

「それから、何かが倒れる音がした」

 別の男も頷いた。

「一度じゃない」

「……何度も聞こえた」

「そのあとは?」

 男は首を振った。

「分からない」

 短い答えだった。

「恐ろしくなって、逃げたんだ」


 その日のうちに、話は村へ広がった。

 山の鬼たちに、何かが起きた。

 白い着物を着た童女がいた。

 長い黒髪。

 小さな二本の角。

 そして、一つ目。

 鬼たちが、その童女へ向かっていった。

 そのあと、何かが砕ける音がした。

 何かが倒れる音がした。

 それが何だったのか、誰にも分からない。

 ただ、鬼たちの声を背に、男たちは逃げた。

 童女が何をしたのか。

 鬼たちがどうなったのか。

 誰も最後まで見てはいない。

 だから、最初のうちは、鬼を殺した童女がいる。その程度の噂だった。

 けれど、それだけでも、人々にとっては十分だった。

 山には鬼がいる。

 その鬼たちが、何かに殺された。

 ならば、その何かもまた、人の手には負えないものなのだろう。

 それでも、確かめようとする者が現れた。

 数人の男たちだった。

 刀を持つ者。

 弓を持つ者。

 山へ入る準備を整えた。

「様子を見るだけだ」

「鬼が残っているかもしれない」

「童女が本当にいるなら、姿を確かめる」

 そう言って、男たちは山へ向かった。

 朝だった。

 村人たちは、その背中を見送った。

 昼になった。

 戻らない。

 夕方になった。

 戻らない。

 夜になった。

 それでも、誰一人、戻らなかった。




 翌朝、村人たちは、山を見ていた。

「……まだ帰ってこない」

 誰かが言った。

 返事はない。

「全員か?」

「ああ」

 最初に逃げ帰った男たちも、黙って山を見つめていた。

 あの日、自分たちが逃げた場所。

 その奥へ、今度は別の人間たちが入っていった。

 そして、帰ってこなかった。

 誰も、山へ行こうとは言わなかった。

「……あの童女だ」

 誰かが呟いた。

 今度は、誰も否定しなかった。

 鬼を殺した。

 そして、人間も帰ってこなかった。

 その事実だけが残った。

 それから、人々は山を恐れるようになった。

 山へ入ってはいけない。

 白い着物の童女を見ても、近づいてはいけない。

 あれは、鬼だけを殺すものではない。

 人間にとっても危険なものだ。

 噂は、村から村へ広がっていった。

 鬼を殺した童女。

 一つ目の化け物。

 山に棲むもの。

 人間を殺すもの。

 やがて、人間を喰うもの。そんな噂まで生まれた。

 けれど、その頃のキミコは、何も知らなかった。


 山の中を歩いていた。

 木々を見る。

 花を見る。

 水を見る。

 空を見る。

 鳥を見る。

 知らないものばかりだった。

 キミコは、それらを一つずつ見ていた。

 人間も、その中にあった。

 人間が歩く。

 声を出す。

 何かを持つ。

 そして、ときどきキミコを見る。




 ある日。

 山道の向こうから、人間が歩いてきた。

 キミコは立ち止まった。

 人間も立ち止まる。

 目が合った。

 その顔が、怯えたものに変わった。

 人間は、逃げた。

 キミコは、その背中を見ていた。

 なぜ逃げるのか。

 分からない。

 追わなかった。

 ただ、見ていた。

 人間は、木々の向こうへ走っていった。

 キミコは、また歩き出した。

 それから、幾日か経った。

 今度は、一人ではなかった。

 何人もの人間が、山へ入ってきた。

 キミコは、その姿を見つけた。

 刀。

 弓。

 こちらへ向けられる視線。

 何かを叫んでいる。

 けれど、その言葉は分からない。

 ただ、人間たちは、こちらへ近づいてくる。

 一歩。

 また一歩。

 刀が抜かれた。

 刃が光る。

 キミコの瞳が、その光を追った。

 人間は、刃を持っている。

 それを、自分へ向けている。

 近づいてくる。

 なぜ。

 キミコは考えた。

 人間が何なのかは、まだ分からない。

 けれど、自分へ向かってくる。

 刃を向けている。

 なら、自分に何かをするために来たのだろう。

 キミコは、人間たちを見た。

「……わたしをたべにきたの?」

 小さな声だった。

 人間たちには聞こえない。

 返事もない。

 ただ、刀が向けられている。

 キミコは、その刃を見た。

 しばらく考える。

 食べる。その言葉を、キミコは知っていた。


 近くに顔があった。

 白い肌。

 四つの瞳。

 吐息が触れるほど近くで、乱霧(らんぎり)が笑っていた。

 何をしているのか、キミコには分からなかった。

 ただ、痛かった。

 そして、歯が触れた。


 キミコは、ゆっくりと瞬きをした。

 あれも、食べるということだったのだろうか。

 キミコには、分からなかった。

 けれど、人間たちは、自分へ向かってくる。

 なら、自分もそうすればいい。

 キミコは、一歩踏み出した。

 人間たちが後ずさる。

 その動きを見て、キミコは少しだけ首を傾げた。

 食べられる。

 そういうことなのだろう。

「なら」

 小さな声が落ちた。

「さきにたべる」

 キミコは、ゆっくりと歩き出した。

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