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スダマの鬼  作者:
14/31

来訪

 ある日の昼下がり。

 祀煙(しえん)は縁側に座っていた。

 庭では、女たちが洗濯物を干している。

 風に揺れる布を眺めながら、祀煙はぼんやりと空を見上げていた。

「祀煙さま」

 声をかけられ、祀煙は振り返る。

「何だ」

「お手紙です」

「俺に?」

「はい」

 祀煙は文を受け取った。

 白い紙を折りたたみ、簡素に封じてある。表には、祀煙の名が記されていた。

 見覚えのない筆跡ではなかった。

「……ああ」

 祀煙は、すぐに誰からの文か分かった。

 かつて、この屋敷で暮らしていた女からだった。

 祀煙のもとへ、供物として捧げられた女のひとり。

 もう何年も前に、この屋敷を出ている。

 自分で暮らしてみたい。

 そう言ったのだった。

 祀煙は止めなかった。

 欲しいものがあるなら好きにしろ。

 ここにいたいならいればいい。

 出ていきたいなら、そうすればいい。

 あのときも、祀煙はそう言った。

 必要なものを揃え、金を渡した。

 そうして女は屋敷を出て、町で暮らし始めた。

 ときどき文が届いた。

 今日はこんなものを買った。

 近所に美味しい店があった。

 新しい着物を仕立てた。

 そんな他愛のない話ばかりだった。

 祀煙は、それを読むだけだった。

 返事を求められれば返した。何も言われなければ、こちらから文を書くこともなかった。

 それでも、女からの文が届くたび、祀煙は目を通していた。

 だから、今もその女が元気にしていることは知っている。

 祀煙は封を開いた。

 中には、短い文が書かれていた。

『祀煙さま。

 お久しぶりです。

 もしよかったら、会いに来てください。

 少し、話したいことがあります』

 そこまで読んで、祀煙は紙をめくった。

『会いに来てくれたら、嬉しいです』

 祀煙はしばらく文を見つめていた。

「……何て書いてあったんです?」

 近くにいた女が覗き込もうとする。

 祀煙は文を少し持ち上げた。

「別に」

「別にって顔じゃないでしょう」

「どんな顔だ」

「嬉しそうな顔」

「そうか?」

「そうですよ」

 女は笑った。

 祀煙は文へ目を戻し、懐へしまった。

 その顔は、いつもと変わらない。けれど、ほんの少しだけ、口元が緩んでいた。

 祀煙は、すぐにはその場を離れなかった。

 少し考える。

 今日行くか。

 明日にするか。

 急ぐ必要はない。

 明日でもいい。

 明後日でも構わない。

 けれど、会いに来いと言われたのは、初めてだった。

「……夕飯までには戻る」

「それは無理でしょう」

 女が笑う。

「そこそこ遠いでしょう」

「歩いても、そうかからない」

「そうかしら」

「帰れる」

 祀煙は、そう言った。女は笑う。

「じゃあ、帰ってきたら夕飯にしますね」

「ああ」

「何がいいですか?」

「何でもいい」

「もう」

「うまいものなら何でも」

「はいはい。うまいものですね」

 少し呆れたように女が言う。祀煙は少し考えた。

「任せる」

「分かりました」

 女は、嬉しそうに頷いた。

 祀煙は立ち上がった。

 女たちの視線を背に受けながら、廊下を歩いていく。

「祀煙さま」

 後ろから、女が声をかけた。

「何だ」

「ちゃんと、おめかししていったほうがいいですよ」

 祀煙は足を止めた。

「必要か?」

「必要です」

「そうか」

 少し考える。

「……では、そうする」

 女たちが笑った。

 祀煙は自分の部屋へ戻る。

 普段より少しだけ丁寧に身支度を整えた。

 人の姿を取る。

 角を隠す。

 六つの目のうち、四つを閉じる。

 髪を後ろへ撫でつけ、結ぶ。

 黒に近い墨色の狩衣を選ぶ。飾り気はないが、上質な衣だった。

 祀煙は鏡のように磨かれた金具へ映る自分の姿を見た。赤い瞳が映っている。

「……これでいいか」

 誰に言うでもなく呟く。

 出かける前にもう一度だけ、懐に手を入れた。

 文がある。それを確かめる。

「……会いたい、か」

 小さく呟いた。

 悪い気はしなかった。




 街道を抜ける。

 人の姿を取っている祀煙を見ても、道行く人々は以前ほど驚かない。

 街の人間たちにとって、祀煙は少し変わった鬼だった。

 怖い。けれど、何かを頼めば助けてくれる。

 そんな認識になりつつある。

 祀煙の姿を見て、何人かが軽く頭を下げた。

 祀煙はそれを気にすることなく歩いていく。

 女から届いた文が、懐の中にある。

 何度か手を入れそうになったが、やめた。わざわざ確かめなくても、そこにあることは分かっている。

 歩きながら、祀煙はふと考えた。

 あの女とは、どれくらい会っていないだろう。

 文では、ときどき近況を知らせてくる。元気にしていることも知っている。

 けれど、顔を見るのは久しぶりだった。

 以前、この屋敷から送り出したときには、まだ一人で暮らすには頼りない年頃だった。

 けれど、今では自分で働き、暮らしを立てている。

 どんな顔になっているだろう。

 どんな暮らしをしているだろう。

 そんなことも考えながら歩く。

 やがて、目的の町が見えてきた。




 女の家は、町外れにあった。

 大きな家ではない。

 けれど、一人で暮らすには十分な広さだった。

 女は、自分で暮らしてみたいと言って、この家を選んだ。

 家の周りには、簡素な垣が巡らされている。

 ところどころ隙間があり、外から庭の様子が見えるような粗末なものだった。

 祀煙は垣の切れ目から庭を通り、玄関へ向かう。

 戸の前まで来たところで、足を止める。

 中から物音がした。

 祀煙はしばらく戸を見つめた。

 誰かいる。

 当然だった。

 女は、ここに暮らしている。

 祀煙は手を伸ばす。

 そのときだった。

 家の奥から、何かが倒れる音がした。

 祀煙の手が止まる。

「……?」

 耳を澄ます。

 また、音がした。

 何かを引きずるような音。

 そして——

「いや……」

 女の声だった。

 祀煙の表情が変わる。

「……!」

 次の瞬間。

「いやああああっ!」

 悲鳴が響き渡った。

 祀煙は戸を開けた。廊下を駆ける。

 声のした部屋へ向かう。

 その先で、もう一度、女の悲鳴が聞こえた。

 祀煙は襖を開け放った。

「——!」

 部屋の中に、女がいた。

 その身体は畳の上に押さえつけられている。

 女は必死に身を捩り、足は畳を蹴っていた。

 首を掴まれている。白い肌に、赤い跡が残っていた。

 その隙間から、細い血が流れていた。

 祀煙の視線が、女を押さえつけているものへ向いた。

 大きな角。

 腰まで伸びた、艶のある黒髪。

 真ん中で分けられた前髪。

 その額の中央には、二本の浅い切れ目がある。

 祀煙と変わらないほどの背丈。同じくらいの体格をした、大人の男の姿。肌は白く、右手には刀が握られていた。

 抜き身の刃が、部屋の明かりを受けて鈍く光っている。

 祀煙は息を呑んだ。

 藤色の大きな瞳。

 それだけは、昔と変わっていなかった。

 けれど、その瞳の奥には、獰猛な光が浮かんでいる。

 キミコは、祀煙を見た。

 そして、にこりと笑った。

「……しえん」

 キミコの声を、祀煙は初めて聞いた。

 それは、思っていたよりもずっと穏やかな声だった。

 キミコは、首を掴んでいた手を少し緩める。

 女が、ひゅっと息を吸う。

 キミコはその様子を気にするでもなく、祀煙へ目を向けた。

「きた」

 まるで、待っていた相手がようやく来たことを喜ぶような声だった。

 祀煙は答えない。

 視線は、女の首を掴んでいる手と、もう一方の手に握られた刀に向けられている。

「離せ」

 静かな声だった。

 キミコは首を傾げる。

「これ?」

 女の首を掴んだまま、キミコは笑った。

「たべる?」

 祀煙の目が細くなる。

「……何?」

「いきたままたべるとおいしい」

 キミコは女を見下ろした。

 女は震えている。

 声を上げようとしても、喉を掴まれているせいで息しか漏れない。

 キミコは、そんな女を見ながら微笑んでいた。

 それから、祀煙を見る。

「しえんもたべる?」

 キミコは、女を祀煙に差し出すように手を伸ばした。

 その顔には、悪意らしいものがない。

 ただ、本当に食べようとしている。

 祀煙は一歩近づいた。

「その女を離せ」

 キミコは瞬きをした。

「どうして?」

「食べる必要はない」

「でも」

 キミコは女を見る。

「おなか、すいてる」

「お前は食べなくても死にはしない」

「そうだね」

「ああ」

 祀煙は、もう一歩近づく。

「だから離せ」

 キミコはしばらく祀煙を見つめていた。

「……そのはなしかた、いい」

 キミコは笑った。

「真似させてもらおう」

 その声から、幼さが消えた。

 キミコはもう一度口を開く。

「だから、離せ」

 祀煙と同じ口調だった。

 祀煙はキミコの手から女を奪い取った。女の身体を抱きとめ、青ざめた顔を見る。

「立てるか」

「……っ」

 女は震えながら頷いた。

「逃げろ」

 祀煙が言った。

「でも……」

「早くしろ」

 女は息を呑んだ。祀煙の声に、逆らえないものを感じた。

 女は何度も頷き、祀煙の横をすり抜け、部屋の外へ駆けていく。

 廊下を走る足音が遠ざかる。やがて、それも聞こえなくなった。

 祀煙は、女が逃げたことを確かめる。そして、キミコへ向き直った。

 キミコは動いていなかった。

 ただ、女が逃げていった先を見ている。

 右手には、刀。

 その切っ先は、畳へ向けられている。

「……何故、逃がした」

 祀煙は答えない。

「私が喰おうとしていた」

「だから何だ」

「私のものだ」

 藤色の瞳から、先ほどまでの笑みが消えている。

「いいや、俺の女だ」

 その言葉は、考えるより先に出ていた。

 口にしてから、祀煙は少し驚いた。けれど、言い直そうとは思わなかった。

 キミコは黙って祀煙を見ている。

 藤色の瞳が、再び獰猛な光を帯びた。

「……俺の女」

 キミコが、低く繰り返す。

 その手の中で、刀がわずかに動く。

 祀煙は構えた。

 キミコの姿が、わずかに沈む。

 次の瞬間。

 畳が、弾けた。

 キミコが一気に踏み込んでくる。

 振り上げられた刀が、祀煙の頭上へ落ちた。

 祀煙は身を捻って躱す。

 刃が畳を深く裂いた。

 そのまま、キミコが刀を引き抜く。

 祀煙は一歩引いた。

 キミコが顔を上げる。

 藤色の瞳が、まっすぐ祀煙を捉えていた。

「……そうか」

 小さく笑う。

「ならば、奪うまでだ」

 赤い瞳と藤色の瞳が、互いを見据える。

 静寂の中、煙が二匹の鬼の間を這った。

 キミコが刀を構えた。

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