来訪
ある日の昼下がり。
祀煙は縁側に座っていた。
庭では、女たちが洗濯物を干している。
風に揺れる布を眺めながら、祀煙はぼんやりと空を見上げていた。
「祀煙さま」
声をかけられ、祀煙は振り返る。
「何だ」
「お手紙です」
「俺に?」
「はい」
祀煙は文を受け取った。
白い紙を折りたたみ、簡素に封じてある。表には、祀煙の名が記されていた。
見覚えのない筆跡ではなかった。
「……ああ」
祀煙は、すぐに誰からの文か分かった。
かつて、この屋敷で暮らしていた女からだった。
祀煙のもとへ、供物として捧げられた女のひとり。
もう何年も前に、この屋敷を出ている。
自分で暮らしてみたい。
そう言ったのだった。
祀煙は止めなかった。
欲しいものがあるなら好きにしろ。
ここにいたいならいればいい。
出ていきたいなら、そうすればいい。
あのときも、祀煙はそう言った。
必要なものを揃え、金を渡した。
そうして女は屋敷を出て、町で暮らし始めた。
ときどき文が届いた。
今日はこんなものを買った。
近所に美味しい店があった。
新しい着物を仕立てた。
そんな他愛のない話ばかりだった。
祀煙は、それを読むだけだった。
返事を求められれば返した。何も言われなければ、こちらから文を書くこともなかった。
それでも、女からの文が届くたび、祀煙は目を通していた。
だから、今もその女が元気にしていることは知っている。
祀煙は封を開いた。
中には、短い文が書かれていた。
『祀煙さま。
お久しぶりです。
もしよかったら、会いに来てください。
少し、話したいことがあります』
そこまで読んで、祀煙は紙をめくった。
『会いに来てくれたら、嬉しいです』
祀煙はしばらく文を見つめていた。
「……何て書いてあったんです?」
近くにいた女が覗き込もうとする。
祀煙は文を少し持ち上げた。
「別に」
「別にって顔じゃないでしょう」
「どんな顔だ」
「嬉しそうな顔」
「そうか?」
「そうですよ」
女は笑った。
祀煙は文へ目を戻し、懐へしまった。
その顔は、いつもと変わらない。けれど、ほんの少しだけ、口元が緩んでいた。
祀煙は、すぐにはその場を離れなかった。
少し考える。
今日行くか。
明日にするか。
急ぐ必要はない。
明日でもいい。
明後日でも構わない。
けれど、会いに来いと言われたのは、初めてだった。
「……夕飯までには戻る」
「それは無理でしょう」
女が笑う。
「そこそこ遠いでしょう」
「歩いても、そうかからない」
「そうかしら」
「帰れる」
祀煙は、そう言った。女は笑う。
「じゃあ、帰ってきたら夕飯にしますね」
「ああ」
「何がいいですか?」
「何でもいい」
「もう」
「うまいものなら何でも」
「はいはい。うまいものですね」
少し呆れたように女が言う。祀煙は少し考えた。
「任せる」
「分かりました」
女は、嬉しそうに頷いた。
祀煙は立ち上がった。
女たちの視線を背に受けながら、廊下を歩いていく。
「祀煙さま」
後ろから、女が声をかけた。
「何だ」
「ちゃんと、おめかししていったほうがいいですよ」
祀煙は足を止めた。
「必要か?」
「必要です」
「そうか」
少し考える。
「……では、そうする」
女たちが笑った。
祀煙は自分の部屋へ戻る。
普段より少しだけ丁寧に身支度を整えた。
人の姿を取る。
角を隠す。
六つの目のうち、四つを閉じる。
髪を後ろへ撫でつけ、結ぶ。
黒に近い墨色の狩衣を選ぶ。飾り気はないが、上質な衣だった。
祀煙は鏡のように磨かれた金具へ映る自分の姿を見た。赤い瞳が映っている。
「……これでいいか」
誰に言うでもなく呟く。
出かける前にもう一度だけ、懐に手を入れた。
文がある。それを確かめる。
「……会いたい、か」
小さく呟いた。
悪い気はしなかった。
街道を抜ける。
人の姿を取っている祀煙を見ても、道行く人々は以前ほど驚かない。
街の人間たちにとって、祀煙は少し変わった鬼だった。
怖い。けれど、何かを頼めば助けてくれる。
そんな認識になりつつある。
祀煙の姿を見て、何人かが軽く頭を下げた。
祀煙はそれを気にすることなく歩いていく。
女から届いた文が、懐の中にある。
何度か手を入れそうになったが、やめた。わざわざ確かめなくても、そこにあることは分かっている。
歩きながら、祀煙はふと考えた。
あの女とは、どれくらい会っていないだろう。
文では、ときどき近況を知らせてくる。元気にしていることも知っている。
けれど、顔を見るのは久しぶりだった。
以前、この屋敷から送り出したときには、まだ一人で暮らすには頼りない年頃だった。
けれど、今では自分で働き、暮らしを立てている。
どんな顔になっているだろう。
どんな暮らしをしているだろう。
そんなことも考えながら歩く。
やがて、目的の町が見えてきた。
女の家は、町外れにあった。
大きな家ではない。
けれど、一人で暮らすには十分な広さだった。
女は、自分で暮らしてみたいと言って、この家を選んだ。
家の周りには、簡素な垣が巡らされている。
ところどころ隙間があり、外から庭の様子が見えるような粗末なものだった。
祀煙は垣の切れ目から庭を通り、玄関へ向かう。
戸の前まで来たところで、足を止める。
中から物音がした。
祀煙はしばらく戸を見つめた。
誰かいる。
当然だった。
女は、ここに暮らしている。
祀煙は手を伸ばす。
そのときだった。
家の奥から、何かが倒れる音がした。
祀煙の手が止まる。
「……?」
耳を澄ます。
また、音がした。
何かを引きずるような音。
そして——
「いや……」
女の声だった。
祀煙の表情が変わる。
「……!」
次の瞬間。
「いやああああっ!」
悲鳴が響き渡った。
祀煙は戸を開けた。廊下を駆ける。
声のした部屋へ向かう。
その先で、もう一度、女の悲鳴が聞こえた。
祀煙は襖を開け放った。
「——!」
部屋の中に、女がいた。
その身体は畳の上に押さえつけられている。
女は必死に身を捩り、足は畳を蹴っていた。
首を掴まれている。白い肌に、赤い跡が残っていた。
その隙間から、細い血が流れていた。
祀煙の視線が、女を押さえつけているものへ向いた。
大きな角。
腰まで伸びた、艶のある黒髪。
真ん中で分けられた前髪。
その額の中央には、二本の浅い切れ目がある。
祀煙と変わらないほどの背丈。同じくらいの体格をした、大人の男の姿。肌は白く、右手には刀が握られていた。
抜き身の刃が、部屋の明かりを受けて鈍く光っている。
祀煙は息を呑んだ。
藤色の大きな瞳。
それだけは、昔と変わっていなかった。
けれど、その瞳の奥には、獰猛な光が浮かんでいる。
キミコは、祀煙を見た。
そして、にこりと笑った。
「……しえん」
キミコの声を、祀煙は初めて聞いた。
それは、思っていたよりもずっと穏やかな声だった。
キミコは、首を掴んでいた手を少し緩める。
女が、ひゅっと息を吸う。
キミコはその様子を気にするでもなく、祀煙へ目を向けた。
「きた」
まるで、待っていた相手がようやく来たことを喜ぶような声だった。
祀煙は答えない。
視線は、女の首を掴んでいる手と、もう一方の手に握られた刀に向けられている。
「離せ」
静かな声だった。
キミコは首を傾げる。
「これ?」
女の首を掴んだまま、キミコは笑った。
「たべる?」
祀煙の目が細くなる。
「……何?」
「いきたままたべるとおいしい」
キミコは女を見下ろした。
女は震えている。
声を上げようとしても、喉を掴まれているせいで息しか漏れない。
キミコは、そんな女を見ながら微笑んでいた。
それから、祀煙を見る。
「しえんもたべる?」
キミコは、女を祀煙に差し出すように手を伸ばした。
その顔には、悪意らしいものがない。
ただ、本当に食べようとしている。
祀煙は一歩近づいた。
「その女を離せ」
キミコは瞬きをした。
「どうして?」
「食べる必要はない」
「でも」
キミコは女を見る。
「おなか、すいてる」
「お前は食べなくても死にはしない」
「そうだね」
「ああ」
祀煙は、もう一歩近づく。
「だから離せ」
キミコはしばらく祀煙を見つめていた。
「……そのはなしかた、いい」
キミコは笑った。
「真似させてもらおう」
その声から、幼さが消えた。
キミコはもう一度口を開く。
「だから、離せ」
祀煙と同じ口調だった。
祀煙はキミコの手から女を奪い取った。女の身体を抱きとめ、青ざめた顔を見る。
「立てるか」
「……っ」
女は震えながら頷いた。
「逃げろ」
祀煙が言った。
「でも……」
「早くしろ」
女は息を呑んだ。祀煙の声に、逆らえないものを感じた。
女は何度も頷き、祀煙の横をすり抜け、部屋の外へ駆けていく。
廊下を走る足音が遠ざかる。やがて、それも聞こえなくなった。
祀煙は、女が逃げたことを確かめる。そして、キミコへ向き直った。
キミコは動いていなかった。
ただ、女が逃げていった先を見ている。
右手には、刀。
その切っ先は、畳へ向けられている。
「……何故、逃がした」
祀煙は答えない。
「私が喰おうとしていた」
「だから何だ」
「私のものだ」
藤色の瞳から、先ほどまでの笑みが消えている。
「いいや、俺の女だ」
その言葉は、考えるより先に出ていた。
口にしてから、祀煙は少し驚いた。けれど、言い直そうとは思わなかった。
キミコは黙って祀煙を見ている。
藤色の瞳が、再び獰猛な光を帯びた。
「……俺の女」
キミコが、低く繰り返す。
その手の中で、刀がわずかに動く。
祀煙は構えた。
キミコの姿が、わずかに沈む。
次の瞬間。
畳が、弾けた。
キミコが一気に踏み込んでくる。
振り上げられた刀が、祀煙の頭上へ落ちた。
祀煙は身を捻って躱す。
刃が畳を深く裂いた。
そのまま、キミコが刀を引き抜く。
祀煙は一歩引いた。
キミコが顔を上げる。
藤色の瞳が、まっすぐ祀煙を捉えていた。
「……そうか」
小さく笑う。
「ならば、奪うまでだ」
赤い瞳と藤色の瞳が、互いを見据える。
静寂の中、煙が二匹の鬼の間を這った。
キミコが刀を構えた。




