居場所
西の鬼の一族が滅んだと、祀煙は風の噂で知った。
道端で、二人の男が話していた。
「西の山の鬼が、滅んだらしい」
「一匹残らずか?」
「ああ。……いや、ひとりの鬼がやったそうだ」
「ひとりで?」
「そうらしい」
祀煙は、その横を通り過ぎた。
足を止めることはなかった。けれど、聞き流すこともできなかった。
あの一族を滅ぼせるものなど、そう多くはない。
それが誰なのか、考えるまでもなかった。
あれが、あの一族を滅ぼした。そう思った。
けれど、それ以上は考えなかった。西へ戻り、何かを確かめようとも思わなかった。
今の祀煙には、別の暮らしがあった。
一族の屋敷を出て、山を下り、東へ向かった。
幾日も歩いた先。
人里からそう遠くない場所に、祀煙は屋敷を構えている。
山の中ではない。けれど、町の中でもない。
人の暮らしがある場所から少し離れた、静かなところだった。
近くには街道が通っている。街へ行こうと思えば、歩いて行ける。
けれど、屋敷の周りには木々が多く、少し離れれば山の気配も残っている。
人が住むには少し不便で、鬼が住むには、ちょうどよかった。
屋敷には、二十人ほどの女たちがいる。
いずれも、かつて供物として祀煙のもとへ捧げられた女たちだった。
最初のころ、女たちは祀煙を恐れていた。
当然だった。
人ならざるもの。
六つの目と、角を持つ鬼なのだから。
だから、祀煙は人に化けた。
角を引っ込め、六つの目のうち四つを隠す。そうして取った姿は、人の美しい青年に近かった。
ただ、瞳の色だけはうまく変えられなかった。赤い瞳だけが、鬼の名残として残っている。
けれど、人の姿になった祀煙を見ても、女たちの警戒は解けなかった。
姿が人に近くなったところで、祀煙が鬼であることに変わりはない。
六つの目を持ち、角を生やしていた姿を、女たちは覚えている。
何をされるのかも分からない。いつ喰われるのかも分からない。
だから、女たちは屋敷の中で身を寄せ合い、祀煙が近づくたびに身体を強張らせていた。その赤い瞳を向けられれば、思わず目を逸らす。
けれど、祀煙は女たちに何もしなかった。
食べることもしなかった。
帰れとも言わなかった。
ただ、好きにさせていた。
ある日、女のひとりが恐る恐る尋ねた。
「……私たちは、どうすればいいのでしょう」
「好きにしろ」
祀煙は、それだけ答えた。
「……好きに?」
「欲しいものがあるなら、金を使えばいい」
「何を買っても?」
「構わない」
「……本当に?」
「俺が困ることでもあるのか」
女は答えられなかった。
祀煙には、本当に何の執着もなかった。
着物でも、食べ物でも、化粧道具でも、その他のものでも。
欲しいものがあるなら、買えばいい。
金が足りないなら言えばいい。
それだけだった。
そのうち、女たちは少しずつ気付いていった。
祀煙は、自分たちを食べるつもりがない。
何かを無理に命じることもない。
金を惜しむこともない。
食事を作れば、それを食べる。
頼み事をすれば、できることなら聞く。
そして、街へ出る必要があるときには、祀煙が付き添ってくれる。
一度、供物として捧げられた身だ。女たちは、一人で街へ出ることを避けていた。
自分たちがどこから来たのか。なぜここへ送られたのか。
それを知っている者もいる。知らない者もいる。
けれど、自分たちが鬼の供物としてここへ送られたことだけは、皆が知っていた。
店へ入るだけでも、周囲の視線が気になる。
道ですれ違う人に、何か言われるかもしれない。
自分たちのことを知っている者に会うかもしれない。
そんなことを考えれば、自然と街へ出ること自体を避けるようになる。
けれど、屋敷で暮らしているだけでは手に入らないものもある。
新しい着物が欲しい。
髪飾りが欲しい。
菓子を買いたい。
季節の花を見たい。
そんな些細な願いさえ、一人では叶えに行きづらい。
だから、祀煙が一緒なら、女たちは街へ出ることができた。
祀煙が隣を歩いているだけで、誰も余計なことを言わない。鬼である祀煙を恐れているのだろう。
けれど女たちにとっては、その恐れさえありがたかった。
最初は、ただ怖くないだけだった。
それが、いつの間にか、怖いけれど、優しい鬼。少し変わっているけど、話の通じる鬼。そんなふうに、祀煙を見る目が変わっていった。
やがて、女たちは祀煙の前でも自然に笑うようになった。
祀煙も、それを気に留めなかった。
そんな暮らしが、しばらく続いた。
女たちは、祀煙の姿にも、少しずつ慣れていった。
「祀煙さま」
「何だ」
「少し背が伸びた?」
ある日、女がそう言った。
祀煙は自分の身体を見下ろす。
「そうか?」
「そうよ」
「昔から、このくらいだったと思うが」
「違うわよ」
別の女が笑う。
「前はもう少し、こう……」
女は自分の手を頭のあたりへ置いた。
「若かった気がする」
「若かった?」
「今だって若いけど」
「……俺のほうが、お前たちよりずっと年上だろう」
「そういう話じゃないのよ」
たしかに、そうだった。
屋敷に現れたばかりのころ、祀煙は青年ほどの姿をしていた。
まだ若さの残る顔立ちだった。
それから、少しずつ姿が変わっていった。
今では、すっかり大人の男の姿をしている。
上背がある。身体つきも、それなりにしっかりしている。けれど、ゴツゴツとした大柄な身体つきではない。
黒に近い墨色の狩衣を着ている。
飾り気のない衣の中で、赤い瞳だけが鮮やかだった。
人の姿を取った祀煙は、静かに立っているだけでも目を引いた。
けれど、祀煙にとっては、それもただの姿のひとつに過ぎなかった。
女は祀煙の顔を見る。
女の頬が、ほんのり赤くなった。
「……何だ」
「何でもない」
「そうか」
祀煙は、それ以上気にしなかった。
そのまま歩いていく。
女は、その背中を見送る。
「……ずるいわね」
「何が?」
「昔はもっと可愛かったのに」
「今も可愛いじゃない」
「それはそうだけど」
女たちは顔を見合わせた。
「大人になったと思わない?」
「思う」
「前よりずっと……」
そこで言葉を止める。
「何?」
「何でもない」
女は自分の頬を手で押さえた。
祀煙の耳には、聞こえていた。
自分の姿が、女たちの話題になっていることも。以前より少し大人びた姿を、密かに好ましく思われていることも。
「……そういうものか」
祀煙は独りごちた。
そんな祀煙の暮らしで、変わらなかったものがある。
食事だった。
食べるものには文句を言わない。
むしろ、要求するのは食事くらいだった。
「何か食べたいものはある?」
「何でもいい」
「本当に?」
「うまいものなら何でも」
「それが一番困るのよ」
女が笑う。
けれど、祀煙は本当に何でもよかった。
焼いた魚。
煮物。
汁物。
季節の野菜。
炊き立ての飯。
山で採れたもの。
街で買ってきたもの。
出されたものは、すべて残さず食べる。
「これ、どう?」
「うまい」
「こっちは?」
「うまい」
「こっちも?」
「うまい」
「……本当に分かってる?」
「何がだ」
「どれが一番好きなのか」
祀煙は少し考えた。
「全部うまい」
「もう」
女は笑った。けれど、その言葉を聞くのは嫌いではなかった。
だから女たちは、今日も食事を作る。
誰かが魚を焼く。
誰かが汁を作る。
誰かが飯を炊く。
誰かが菓子を作る。
気付けば、祀煙のための料理だけで何品も並ぶようになっていた。
「こんなに作る必要はない」
「いいのよ」
「食べきれないだろう」
「食べられるでしょう?」
「……まあ」
「じゃあいいじゃない」
祀煙は黙って膳を見る。
女たちは、その反応を見て笑った。
祀煙が要求することは少ない。だからこそ、何かしてやりたくなる。
それが女たちにとっては、いつの間にか楽しみになっていた。
服を選ぶのも、そのひとつだった。
街へ出れば、店先には色とりどりの反物が並んでいる。
新しいものが入ったと聞けば、女たちは見に行きたがった。
誰かが町で見かけた色を話せば、それが次の流行になることもある。
「この色、最近よく見るでしょう?」
「そうね」
「この前も、町で着ている人を見たわ」
「私はこっちのほうが好き」
反物を広げる。
淡い色。深い色。
細かな柄。大きな花。
女たちは、それを並べてあれこれ話す。
祀煙は、その隣で黙っている。
「祀煙さま」
「何だ」
「どっちがいいと思う?」
祀煙は二つの反物を見る。
「好きなほうでいい」
「それじゃ決められないから聞いてるの」
「なら、両方買えばいい」
「……え?」
「欲しいんだろう」
「でも、二つも」
「欲しいなら買えばいい」
女が目を丸くして祀煙を見る。
祀煙は、本気だった。
「……じゃあ、こっちも」
「私もこれ欲しい」
「私はこの色がいい」
「待って、私も」
気付けば、祀煙の腕には反物がいくつも重なっていた。
「……多くないか?」
「いいじゃない」
「そうよ」
「祀煙さまが好きにしろって言ったんでしょう?」
祀煙は黙った。
女たちは笑った。
そんな日が、増えていった。
祀煙の力を頼って、人間が訪ねてくることも増えた。
妖が出た。
山で人が攫われた。
夜になると、妙なものが現れる。
そういった話を持ち込まれる。
祀煙は、それを引き受けた。
妖を討つ。そして、代わりに金を受け取る。
それだけだった。
祀煙は、金に困っていない。だから、法外な額を要求することもない。
払えるだけでいい。
それでも、祀煙に頼めば確実だという評判は広がった。
少し怖い。
けれど、金払いもいい。
話も通じる。
頼んだことはきちんとやる。
そんな評判だった。
町の人間たちも、少しずつ祀煙に慣れていった。
「祀煙さん、この間は助かったよ」
「そうか」
「おかげで夜も眠れる」
「そうか」
「また何かあったら頼むよ」
「構わない」
祀煙は、それだけ答える。
それでも、人々は少し嬉しそうにする。
街へ出れば、祀煙は少し目立つ。
上背のある男が、女たちに付き添って歩いている。
祀煙が鬼だと知っている者もいる。
けれど、以前ほどは恐れられてはいない。
むしろ、顔見知りになった者が声をかけることもある。
女たちは、祀煙の隣を歩く。
祀煙が隣にいるだけで、安心して買い物ができる。
帰れば、また食事を作る。
それが、いつの間にか日常になっていた。
ある日の昼下がり。
祀煙は縁側で横になっていた。
庭から風が入ってくる。木の葉が揺れている。
祀煙は目を閉じていた。
「祀煙さま」
女がひとり、近づいてくる。
「何だ」
「少し休む?」
「休んでいる」
「そうじゃなくて」
女は自分の膝を叩いた。
「膝枕、してあげようか」
祀煙は膝を見る。
「必要ない」
「いいじゃない」
「そうか?」
「うん」
祀煙は少し考えた。
「……では、頼む」
女の頬が赤くなった。
「え」
「何だ」
「本当にするんだ」
「お前が言った」
「そうだけど……」
祀煙は、そのまま女の膝に頭を乗せた。
女はしばらく固まっていた。
それから、そっと祀煙の髪へ手を伸ばす。
指先で髪を梳く。祀煙は何も言わない。
目を閉じたまま、静かにしている。
女は、その顔を見下ろした。
青年だったころより、大人びた顔。
高い背に似合わないほど穏やかな寝顔。
長い睫毛が、頬に影を落としている。
「……大きくなったね」
思わず、そう呟いた。
祀煙は答えない。
もう眠っているらしい。
女の頬が、また赤くなる。
「……かわいい」
そこへ、別の女が二人、通りかかった。
「あら」
「しーっ」
「膝枕」
「そう」
「ずるい」
「何が?」
「私もしてあげたかったのに」
「起きたら頼めば?」
「次は私ね」
「じゃあ、その次は私」
女たちは小さな声で話す。
祀煙は起きない。
昼の庭には、穏やかな時間だけが流れていた。
夜。
祀煙は床についていた。
屋敷は静かだった。
けれど、そのうち、戸の向こうから、小さく言い争う声が聞こえてきた。
「私が先に来たのよ」
「あなた、今日隣にいたじゃない」
「でも……」
「私だって話したかったの」
祀煙は目を開けた。身体を起こす。
戸の向こうには、二人の女がいるらしい。
祀煙は戸を開けた。
「あ」
二人が顔を上げる。
祀煙は、二人の手を取った。
そのまま部屋に引き入れる。
戸が閉まる。
その後は、筆舌に尽くしがたい。
翌朝。
祀煙は、縁側で目を覚ました。
頭の下には、女の膝がある。
「起きた?」
「ああ」
祀煙は身体を起こした。
その瞬間だった。
人の姿を保っていた力が、ふっと緩んだ。
後ろで結んでいた髪が、するりとほどける。
黒い髪が肩から背へ流れ落ちた。
額から角が伸びる。
六つの目が開いた。
女は、目を丸くした。けれど、怖がることはなかった。
「……かわいい」
祀煙は六つの目を瞬かせる。
「何がだ」
「だって、角」
女が笑う。
「それに、目も六つ」
「そうだな」
「こっちの姿も好き」
「そういうものか」
「そういうものよ」
女は嬉しそうに、角へそっと触れた。
祀煙は避けなかった。
そのまま、もう一度女の膝へ頭を戻す。
「もう少し寝る」
「うん」
女は笑った。
朝の光が、庭へ差し込んでいる。
風が吹く。
木々の葉が揺れる。
祀煙は目を閉じた。
西では、一族が滅んだ。
その話は、もう遠い。
今はただ、ここで暮らしている。
食事があって、眠る場所があって、時々、妖を退けて。
町へ出れば、人に声を掛けられる。
帰れば、女たちが食事を作っている。
欲しいものがあると言われれば、好きにしろと答える。
膝枕をしたいと言われれば、断る理由もない。
それでいい。
祀煙は、そう思っていた。
六つの目を閉じたまま、女の膝の上で、もう一度眠りについた。




