言葉
乱霧は、キミコを見つめていた。藤色の瞳が、自分を捉えている。
初めてだった。
幾日も、幾度も。
傷つけても。
触れても。
問いかけても。
何ひとつ返さなかった。視線すら向けなかった。
けれど今、キミコは、乱霧を見ている。
ただ、それだけだった。それだけなのに、乱霧の口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。
「……そう」
キミコは何も言わない。
乱霧は、その一つ目を覗き込んだ。
大きな瞳。そこに何かが浮かんでいるわけではない。
それでも、確かに自分を捉えている。
何が変わったのか。
何が起きたのか。
それは分からない。
けれど、今までとは違う。それだけは、はっきりと分かった。
乱霧は、ゆっくりと身体を起こした。
「もっと見せてあげる」
その声に、キミコは反応しない。
乱霧は手を伸ばした。長い黒髪を掴む。細い髪が、指の間に絡んだ。
そのまま引く。キミコの身体が、わずかに前へ傾いた。
それでも、抵抗しなかった。
乱霧が歩き出す。キミコも、引かれるがままに歩いた。
ふたりは座敷牢を出た。
長い間、キミコを閉じ込めていた場所。
格子。
畳。
壁。
限られた空間。
廊下へ出た。足音が、板張りの床へ響く。
ひとつ。
またひとつ。
乱霧は振り返らない。キミコも、何も言わない。ただ、髪を掴まれたまま歩いていく。
しばらく進む。廊下の先に、明るい場所が見えてきた。
暗い屋敷の中では、そこだけが別の場所のように明るかった。
キミコの足が止まる。乱霧も立ち止まった。
その先に、庭があった。
陽の光が降り注いでいる。白い光が、床へ落ちている。
キミコは、その光を見ていた。
乱霧は何も言わなかった。
キミコが何を見て、何を言うのか。それを待っている。
やがて、キミコは、ゆっくりと顔を上げた。
木々がある。
枝が伸びている。
葉が揺れている。
風が吹いている。
その向こうには、空があった。
キミコは空を見上げた。
青い。
どこまでも広がっている。
天井もない。
壁もない。
果てが見えない。
キミコは、ただ空を見ていた。
藤色の瞳に、青が映る。
しばらくして、視線がゆっくりと下がった。
庭石。
草。
花。
水。
苔。
木の根。
キミコは、目に入るものをひとつずつ追っていった。
風が吹く。
葉が揺れる。
ざわ、と音がする。
キミコの瞳が動いた。
鳥が飛ぶ。
その姿を追い、木々の向こうへ消えるまで見ていた。
やがて、遠くから声が聞こえた。
鬼の声。
人間の足音もする。
キミコの瞳が、そちらへ向いた。
廊下を鬼が歩いている。
その後ろを、人間が通り過ぎる。
盆を抱えている。
別の人間が、その横を走っていく。
誰かが立ち止まる。
誰かが頭を下げる。
誰かが振り返る。
誰かが笑う。
誰かが話す。
世界が動いている。
キミコは、それを見ていた。
ずっと、ずっと、見ていた。
座敷牢の中では、何も動かなかった。
格子の向こうにあるものを、ただ見ているだけだった。
けれど、今は違う。
目の前を、次々にものが通りすぎていく。
光。
風。
音。
木々。
花。
鬼。
人間。
空。
水。
すべてが、一度にキミコの前へ現れていた。
キミコの瞳が、忙しなく動いていく。
右へ。左へ。上へ。下へ。
何かを探しているようにも見えた。けれど、何を探しているのか、乱霧には分からない。
ただ、世界を追っている。
乱霧は、その様子を眺めていた。
そして、キミコの瞳が、ふと止まった。
「……」
小さな声だった。
乱霧は眉を上げる。
聞き取れなかった。
何を言ったのか。そもそも、言葉だったのか。
それすら分からない。
けれど、次の瞬間。
地面が揺れた。
ごう、と低い音が響く。
庭石が震える。木々が大きくしなり、葉が一斉にざわめいた。
屋敷の柱が軋む。床まで揺れる。地鳴りは、止まらない。大地の底から、何かが這い上がってくるようだった。
鬼たちが一斉に顔を上げた。
「何だ……?」
「地震か?」
「いや……」
声が重なる。
人間たちも騒ぎ始めた。盆が落ち、器が割れる。廊下を駆ける足音と悲鳴が響いた。
けれど、乱霧は動かなかった。
ただ、笑っていた。
口元に、薄い笑みをたたえている。四つの瞳が、キミコを見ている。
キミコは、周囲を見ていた。
揺れる木々。震える地面。騒ぐ人間。顔を上げる鬼。逃げ惑うもの。すべてを。
乱霧は、ゆっくりとキミコの髪から手を離した。
一歩、後ろに下がる。そして、ふっと身体の輪郭が、揺らいだ。
衣が霞む。黒髪がほどけるように薄れていく。
乱霧は笑っていた。
最後まで、四つの瞳だけがキミコを見つめている。
そして、その姿は、淡い霧の中へ消えた。
あとには何も残らない。
キミコは、乱霧がいた場所を見なかった。
もう、別のものを見ていた。
庭にいる鬼たち。その鬼たちもまた、キミコを見ている。
地鳴りは、まだ続いていた。
「……何だ、こいつ」
一匹の鬼が言った。
「座敷牢の鬼だろう」
「なぜ、ここにいる」
「乱霧はどこへ行った?」
鬼たちがざわめく。キミコは答えない。
ただ、目の前にいる鬼たちを見る。
一匹が前へ出た。
「おい」
キミコの瞳が、その鬼へ向く。
「何をした」
返事はない。
「聞いている」
鬼が近づく。
一歩。また一歩。
キミコは動かない。
鬼が手を伸ばす。
その手が、キミコへ届くより先に。
「砕けろ」
小さな声だった。
その瞬間、鬼の身体が跳ねた。
頭部が大きく歪む。骨の砕ける音が、庭に響いた。
身体は、その場に立ったままだった。
何が起きたのか、誰にも分からない。
鬼は声を上げる間もなく、ゆっくりと倒れた。
地面へ身体が触れる音がした。
首から下には、傷ひとつない。
けれど、もう動かない。
鬼たちは、その姿を見た。誰も声を出さなかった。
そして、全員の視線が、キミコへ向いた。
キミコは、倒れた鬼を見ていた。
表情は変わらない。
「……何をした」
誰かが呟く。キミコは答えない。
別の鬼が、一歩前へ出た。
「囲め」
声が響く。
「こいつを捕らえろ!」
鬼たちが動いた。
逃げる者はいない。
一族の鬼たちは、キミコを取り囲む。
正面。左右。背後。
逃げ道を塞ぐ。
「かかれ!」
鬼が叫ぶ。
数匹が、同時に走った。キミコは動かない。ただ、近づいてくる鬼を見る。
一匹が腕を振り上げた。
「潰れろ」
鬼の身体が沈んだ。
見えない力に圧し潰されたように、身体が地面へ伏す。
形だけが失われていく。
傷はない。血もない。ただ、そこにあった身体が、潰れている。
別の鬼が飛びかかる。
「壊れろ」
鬼の身体が揺れた。
次の瞬間、腕が、脚が、ばらばらに力を失った。
立っていた形そのものが壊れ、鬼は地面へ崩れ落ちた。
「怯むな!」
「まとめてかかれ!」
「ひとりずつ行くな!」
声が飛び交う。
鬼たちは次々キミコへ向かっていく。
けれど、キミコは一歩も動かなかった。
ただ、近づいてくる鬼を見ている。
そして。
「砕けろ」
ひとつ。
鬼が倒れる。
「潰れろ」
またひとつ。
鬼が沈む。
「壊れろ」
またひとつ。
身体の形が崩れる。
声は小さい。囁くような声だった。
そのたびに、鬼が倒れる。
キミコは、ただ言葉を口にした。
言葉を覚えたばかりの幼い子供が、覚えた言葉をそのまま使ってしまうように。
それでも、鬼たちは退かなかった。逃げることを選ばない。
「殺せ!」
「何としてでも止めろ!」
「こいつを座敷牢へ戻せ!」
怒号が飛ぶ。キミコは、それを聞いている。
そして、また一匹を見る。
「崩れろ」
鬼の身体が揺れた。足元から形が崩れていく。
身体を支えていたものがなくなったように、肩が落ちる。
腕が垂れる。腰が崩れる。
立っていた姿が、ゆっくりと失われていく。
どろり。
鬼の形をしていたものが、その場へ崩れ落ちた。
キミコは、それを見ていた。
潰れた。
砕けた。
崩れた。
壊れた。
キミコは、それを見ていた。
花を潰した乱霧。
潰れた花。
砕けた花弁。
崩れた形。
壊れたもの。
その言葉と、目の前で起きたことが、キミコの中で重なっていく。
潰れろ。
砕けろ。
崩れろ。
壊れろ。
キミコは、ただその言葉を覚えた。
庭に響いていた怒号も、少しずつ少なくなっていく。
人間たちは、すでに逃げ始めていた。
盆を放り出す。履物を脱ぎ捨てる。転びながら走る。門へ向かう。
誰も振り返らない。誰も鬼を助けようとしない。
ただ逃げる。自分だけでも助かろうと、屋敷を飛び出していく。
その間にも、鬼たちは向かってくる。
一匹。また一匹。
けれど、その数は、もうわずかだった。
キミコは、そのたびに言葉を口にする。
「砕けろ」
「壊れろ」
「潰れろ」
「崩れろ」
小さな声が、庭に落ちる。
そのたびに、鬼が倒れる。
最後まで、鬼たちは逃げなかった。
そして、最後の一匹が、キミコの前に立った。
身体には、傷ひとつない。けれど、顔には、恐怖が浮かんでいた。
それでも、逃げない。
鬼は拳を握った。
「……お前を」
声が震えている。
「ここから出すものか」
キミコは、その鬼を見る。藤色の瞳が、まっすぐに向けられる。
鬼が拳を振り上げた。キミコは、ほんの少しだけ首を傾げた。
そして。
「砕けろ」
小さな声だった。
鬼の動きが止まった。
次の瞬間、頭が砕けた。
身体は、そのまま地面へ倒れた。
静かになった。
人の声は、もう聞こえない。鬼の声もない。
遠くへ逃げていく足音だけが、かすかに残っている。
やがて、それすらも聞こえなくなった。
庭に風が吹く。
木の葉が揺れる。
陽の光が、白い着物を照らしている。
散った花が、風に転がる。
割れた器が、庭の隅に残っている。
そこには、倒れた鬼たちがいる。
誰も動かない。誰も声を上げない。
その中に、キミコだけが立っていた。
白い着物。乱れた黒髪。二本の角。
そして、藤色の一つ目。
キミコは、静かに周囲を見回した。
倒れた鬼たち。
荒れた庭。
散った花。
そして、その向こうに広がる空。
キミコは空を見上げた。
青い。
どこまでも広い。
その瞳に、空が映る。
キミコは何も言わなかった。
ただ、初めて見る青空を、静かに見上げていた。




