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スダマの鬼  作者:
12/33

言葉

 乱霧(らんぎり)は、キミコを見つめていた。藤色の瞳が、自分を捉えている。

 初めてだった。

 幾日も、幾度も。

 傷つけても。

 触れても。

 問いかけても。

 何ひとつ返さなかった。視線すら向けなかった。

 けれど今、キミコは、乱霧を見ている。

 ただ、それだけだった。それだけなのに、乱霧の口元には、隠しきれない笑みが浮かんでいた。

「……そう」

 キミコは何も言わない。

 乱霧は、その一つ目を覗き込んだ。

 大きな瞳。そこに何かが浮かんでいるわけではない。

 それでも、確かに自分を捉えている。

 何が変わったのか。

 何が起きたのか。

 それは分からない。

 けれど、今までとは違う。それだけは、はっきりと分かった。

 乱霧は、ゆっくりと身体を起こした。

「もっと見せてあげる」

 その声に、キミコは反応しない。

 乱霧は手を伸ばした。長い黒髪を掴む。細い髪が、指の間に絡んだ。

 そのまま引く。キミコの身体が、わずかに前へ傾いた。

 それでも、抵抗しなかった。

 乱霧が歩き出す。キミコも、引かれるがままに歩いた。

 ふたりは座敷牢を出た。

 長い間、キミコを閉じ込めていた場所。

 格子。

 畳。

 壁。

 限られた空間。

 廊下へ出た。足音が、板張りの床へ響く。

 ひとつ。

 またひとつ。

 乱霧は振り返らない。キミコも、何も言わない。ただ、髪を掴まれたまま歩いていく。

 しばらく進む。廊下の先に、明るい場所が見えてきた。

 暗い屋敷の中では、そこだけが別の場所のように明るかった。

 キミコの足が止まる。乱霧も立ち止まった。

 その先に、庭があった。

 陽の光が降り注いでいる。白い光が、床へ落ちている。

 キミコは、その光を見ていた。

 乱霧は何も言わなかった。

 キミコが何を見て、何を言うのか。それを待っている。

 やがて、キミコは、ゆっくりと顔を上げた。

 木々がある。

 枝が伸びている。

 葉が揺れている。

 風が吹いている。

 その向こうには、空があった。

 キミコは空を見上げた。

 青い。

 どこまでも広がっている。

 天井もない。

 壁もない。

 果てが見えない。

 キミコは、ただ空を見ていた。

 藤色の瞳に、青が映る。

 しばらくして、視線がゆっくりと下がった。

 庭石。

 草。

 花。

 水。

 苔。

 木の根。

 キミコは、目に入るものをひとつずつ追っていった。

 風が吹く。

 葉が揺れる。

 ざわ、と音がする。

 キミコの瞳が動いた。

 鳥が飛ぶ。

 その姿を追い、木々の向こうへ消えるまで見ていた。

 やがて、遠くから声が聞こえた。

 鬼の声。

 人間の足音もする。

 キミコの瞳が、そちらへ向いた。

 廊下を鬼が歩いている。

 その後ろを、人間が通り過ぎる。

 盆を抱えている。

 別の人間が、その横を走っていく。

 誰かが立ち止まる。

 誰かが頭を下げる。

 誰かが振り返る。

 誰かが笑う。

 誰かが話す。

 世界が動いている。

 キミコは、それを見ていた。

 ずっと、ずっと、見ていた。

 座敷牢の中では、何も動かなかった。

 格子の向こうにあるものを、ただ見ているだけだった。

 けれど、今は違う。

 目の前を、次々にものが通りすぎていく。

 光。

 風。

 音。

 木々。

 花。

 鬼。

 人間。

 空。

 水。

 すべてが、一度にキミコの前へ現れていた。

 キミコの瞳が、忙しなく動いていく。

 右へ。左へ。上へ。下へ。

 何かを探しているようにも見えた。けれど、何を探しているのか、乱霧には分からない。

 ただ、世界を追っている。

 乱霧は、その様子を眺めていた。

 そして、キミコの瞳が、ふと止まった。


「……」


 小さな声だった。

 乱霧は眉を上げる。

 聞き取れなかった。

 何を言ったのか。そもそも、言葉だったのか。

 それすら分からない。

 けれど、次の瞬間。

 地面が揺れた。

 ごう、と低い音が響く。

 庭石が震える。木々が大きくしなり、葉が一斉にざわめいた。

 屋敷の柱が軋む。床まで揺れる。地鳴りは、止まらない。大地の底から、何かが這い上がってくるようだった。

 鬼たちが一斉に顔を上げた。

「何だ……?」

「地震か?」

「いや……」

 声が重なる。

 人間たちも騒ぎ始めた。盆が落ち、器が割れる。廊下を駆ける足音と悲鳴が響いた。

 けれど、乱霧は動かなかった。

 ただ、笑っていた。

 口元に、薄い笑みをたたえている。四つの瞳が、キミコを見ている。

 キミコは、周囲を見ていた。

 揺れる木々。震える地面。騒ぐ人間。顔を上げる鬼。逃げ惑うもの。すべてを。

 乱霧は、ゆっくりとキミコの髪から手を離した。

 一歩、後ろに下がる。そして、ふっと身体の輪郭が、揺らいだ。

 衣が霞む。黒髪がほどけるように薄れていく。

 乱霧は笑っていた。

 最後まで、四つの瞳だけがキミコを見つめている。

 そして、その姿は、淡い霧の中へ消えた。

 あとには何も残らない。

 キミコは、乱霧がいた場所を見なかった。

 もう、別のものを見ていた。

 庭にいる鬼たち。その鬼たちもまた、キミコを見ている。

 地鳴りは、まだ続いていた。

「……何だ、こいつ」

 一匹の鬼が言った。

「座敷牢の鬼だろう」

「なぜ、ここにいる」

「乱霧はどこへ行った?」

 鬼たちがざわめく。キミコは答えない。

 ただ、目の前にいる鬼たちを見る。

 一匹が前へ出た。

「おい」

 キミコの瞳が、その鬼へ向く。

「何をした」

 返事はない。

「聞いている」

 鬼が近づく。

 一歩。また一歩。

 キミコは動かない。

 鬼が手を伸ばす。

 その手が、キミコへ届くより先に。


「砕けろ」


 小さな声だった。

 その瞬間、鬼の身体が跳ねた。

 頭部が大きく歪む。骨の砕ける音が、庭に響いた。

 身体は、その場に立ったままだった。

 何が起きたのか、誰にも分からない。

 鬼は声を上げる間もなく、ゆっくりと倒れた。

 地面へ身体が触れる音がした。

 首から下には、傷ひとつない。

 けれど、もう動かない。

 鬼たちは、その姿を見た。誰も声を出さなかった。

 そして、全員の視線が、キミコへ向いた。

 キミコは、倒れた鬼を見ていた。

 表情は変わらない。

「……何をした」

 誰かが呟く。キミコは答えない。

 別の鬼が、一歩前へ出た。

「囲め」

 声が響く。

「こいつを捕らえろ!」

 鬼たちが動いた。

 逃げる者はいない。

 一族の鬼たちは、キミコを取り囲む。

 正面。左右。背後。

 逃げ道を塞ぐ。

「かかれ!」

 鬼が叫ぶ。

 数匹が、同時に走った。キミコは動かない。ただ、近づいてくる鬼を見る。

 一匹が腕を振り上げた。


「潰れろ」


 鬼の身体が沈んだ。

 見えない力に圧し潰されたように、身体が地面へ伏す。

 形だけが失われていく。

 傷はない。血もない。ただ、そこにあった身体が、潰れている。

 別の鬼が飛びかかる。


「壊れろ」


 鬼の身体が揺れた。

 次の瞬間、腕が、脚が、ばらばらに力を失った。

 立っていた形そのものが壊れ、鬼は地面へ崩れ落ちた。

「怯むな!」

「まとめてかかれ!」

「ひとりずつ行くな!」

 声が飛び交う。

 鬼たちは次々キミコへ向かっていく。

 けれど、キミコは一歩も動かなかった。

 ただ、近づいてくる鬼を見ている。

 そして。

「砕けろ」

 ひとつ。

 鬼が倒れる。

「潰れろ」

 またひとつ。

 鬼が沈む。

「壊れろ」

 またひとつ。

 身体の形が崩れる。

 声は小さい。囁くような声だった。

 そのたびに、鬼が倒れる。

 キミコは、ただ言葉を口にした。

 言葉を覚えたばかりの幼い子供が、覚えた言葉をそのまま使ってしまうように。

 それでも、鬼たちは退かなかった。逃げることを選ばない。

「殺せ!」

「何としてでも止めろ!」

「こいつを座敷牢へ戻せ!」

 怒号が飛ぶ。キミコは、それを聞いている。

 そして、また一匹を見る。


「崩れろ」


 鬼の身体が揺れた。足元から形が崩れていく。

 身体を支えていたものがなくなったように、肩が落ちる。

 腕が垂れる。腰が崩れる。

 立っていた姿が、ゆっくりと失われていく。

 どろり。

 鬼の形をしていたものが、その場へ崩れ落ちた。

 キミコは、それを見ていた。

 潰れた。

 砕けた。

 崩れた。

 壊れた。

 キミコは、それを見ていた。

 花を潰した乱霧。

 潰れた花。

 砕けた花弁。

 崩れた形。

 壊れたもの。

 その言葉と、目の前で起きたことが、キミコの中で重なっていく。

 潰れろ。

 砕けろ。

 崩れろ。

 壊れろ。

 キミコは、ただその言葉を覚えた。

 庭に響いていた怒号も、少しずつ少なくなっていく。

 人間たちは、すでに逃げ始めていた。

 盆を放り出す。履物を脱ぎ捨てる。転びながら走る。門へ向かう。

 誰も振り返らない。誰も鬼を助けようとしない。

 ただ逃げる。自分だけでも助かろうと、屋敷を飛び出していく。

 その間にも、鬼たちは向かってくる。

 一匹。また一匹。

 けれど、その数は、もうわずかだった。

 キミコは、そのたびに言葉を口にする。

「砕けろ」

「壊れろ」

「潰れろ」

「崩れろ」

 小さな声が、庭に落ちる。

 そのたびに、鬼が倒れる。

 最後まで、鬼たちは逃げなかった。

 そして、最後の一匹が、キミコの前に立った。

 身体には、傷ひとつない。けれど、顔には、恐怖が浮かんでいた。

 それでも、逃げない。

 鬼は拳を握った。

「……お前を」

 声が震えている。

「ここから出すものか」

 キミコは、その鬼を見る。藤色の瞳が、まっすぐに向けられる。

 鬼が拳を振り上げた。キミコは、ほんの少しだけ首を傾げた。

 そして。


「砕けろ」


 小さな声だった。

 鬼の動きが止まった。

 次の瞬間、頭が砕けた。

 身体は、そのまま地面へ倒れた。




 静かになった。

 人の声は、もう聞こえない。鬼の声もない。

 遠くへ逃げていく足音だけが、かすかに残っている。

 やがて、それすらも聞こえなくなった。

 庭に風が吹く。

 木の葉が揺れる。

 陽の光が、白い着物を照らしている。

 散った花が、風に転がる。

 割れた器が、庭の隅に残っている。

 そこには、倒れた鬼たちがいる。

 誰も動かない。誰も声を上げない。

 その中に、キミコだけが立っていた。

 白い着物。乱れた黒髪。二本の角。

 そして、藤色の一つ目。

 キミコは、静かに周囲を見回した。

 倒れた鬼たち。

 荒れた庭。

 散った花。

 そして、その向こうに広がる空。

 キミコは空を見上げた。

 青い。

 どこまでも広い。

 その瞳に、空が映る。

 キミコは何も言わなかった。

 ただ、初めて見る青空を、静かに見上げていた。


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