色
翌日も、乱霧は座敷牢に来た。
格子の向こうには、キミコがいる。昨日と同じ場所に、同じ姿勢で座っている。
膝を抱えるでもなく、背を壁に預けるでもない。ただ、畳の上に静かに座っている。
乱霧は格子越しに、その姿を眺めた。
昨日、あれほどの傷を負わせた。それでも、キミコの様子は何ひとつ変わっていない。
乱霧は座敷牢の扉を開けた。鍵の外れる音が、座敷牢の中へ響く。
中へ入る。キミコは顔を上げない。
乱霧はそのまま背後へ回った。白い着物の背を眺める。
昨日、短刀を突き立てた場所。刃は背から入り、胸を貫いた。着物は大きく裂け、血に濡れていたはずだった。
けれど、今は、何もない。
裂け目も、血の跡も残っていない。
白い布は、最初から傷ついていなかったかのように繋がっている。
乱霧はしばらく、その背を見つめていた。それから、着物へ手をかける。
キミコは抵抗しなかった。
乱霧は着物を開き、背中を確かめる。
白い肌。
傷ひとつない。
刃が通った場所も、血が流れた場所にも、痕跡は残っていなかった。
乱霧は指先を伸ばした。昨日、刃が入ったはずの場所をなぞる。
指先に触れるのは、滑らかな皮膚だけだった。
何もない。
昨日、確かに心臓を貫いた。手に伝わった感触も覚えている。刃が肉を裂き、そのまま身体を抜けていった。
あれは、間違いなく致命傷だった。
鬼は、人間よりも傷の治りが早い。それでも、深い傷ともなれば相応の時間がかかる。
ましてや、致命傷を負えば。
心臓を貫かれれば。
いくら鬼といえど、一晩で元へ戻ることなどない。
それなのに、目の前のキミコには、その痕跡すら残っていない。
乱霧は着物から手を離した。
「……なるほど」
小さく呟く。キミコは何も答えない。乱霧はその顔を覗き込んだ。
藤色の瞳。大きな一つ目は、乱霧を捉えていない。
視線は、どこか遠くへ向けられている。
「昨日のこと、覚えてる?」
静かな問いだった。
返事はない。まぶたが動くこともない。
乱霧はしばらく、その瞳を見つめていた。
やがて、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「そう」
それ以上は何も言わなかった。
それから、乱霧は毎日のように座敷牢へ通うようになった。
確かめるためだった。
何をしても、何も返ってこない。
傷つけても、脅しても、問いかけても。それでもなお、何も変わらない。
乱霧は、そのたびにキミコの中にあるものを探った。
ある日は、髪を掴んだ。細い髪が指の間に絡む。
そのまま、ゆっくりと引いた。キミコの顔が上を向く。
乱霧は何も言わず、その顔を覗き込んだ。すぐ目の前に、藤色の瞳がある。
大きな一つ目。けれど、その瞳には何も浮かんでいない。
乱霧はキミコの顔を右から覗き込んだ。左からも覗き込む。それでも、キミコの視線は動かなかった。まるで、目の前に誰もいないかのようだった。
乱霧は髪を掴んだまま、しばらくその顔を眺めていた。
幼い顔。
白い頬。
乱れた黒髪。
何をしても変わらない表情。
乱霧は指に絡んだ髪をゆっくりと解いた。
手を離す。キミコの頭が落ちる。
キミコは、何事もなかったかのように元の姿勢へ戻った。
乱霧は、ただその様子を見ていた。
別の日には、頬へ手を伸ばした。指先が白い肌に触れる。
そのまま、顔を横へ向けた。キミコは抵抗しない。
乱霧が向きを変えれば、その通りに顔が動く。
右へ。左へ。正面へ。
何度繰り返しても、キミコからは何も返ってこない。
乱霧は頬から手を離した。指先に残った感触を確かめるように、自分の手を見る。
それから、もう一度キミコを見る。
やはり同じだった。
痛みに顔を歪めることもない。
嫌悪を示すこともない。
逃げようとすることもない。
乱霧を見ようとすることすらない。
乱霧は、そんなキミコの顔をじっと見つめた。
何かを待つように。けれど、何も起こらない。
キミコは、乱霧の手が離れたあとも、何事もなかったかのように座っていた。
また別の日には、キミコの肩を掴んだ。
そのまま畳へ押し倒す。小さな身体が畳へ叩きつけられる。
乱霧は覆いかぶさるようにして、キミコを見下ろした。
キミコは起き上がらない。
乱霧は、さらに顔を近づけた。吐息が触れそうなほどの距離だった。
それでも、キミコの瞳は動かない。
乱霧は手を伸ばした。額にかかった髪を、指先で払う。
白い額が露わになる。中央には、二本の細い切れ目が、左右へ浅く斜めに伸びている。
乱霧はそこへ視線を落とした。
次に、頬を見る。首を見る。肩を見る。
傷があるか。何か変化があるか。
身体のどこかに、これまでとは違う反応が現れていないか。
けれど、何もない。
乱霧は身体を起こし、身を引いた。
キミコの身体が畳の上に残される。しばらくしても、キミコは動かなかった。
時には傷をつけた。
頬に赤い跡が浮かぶこともあった。
首に痕が残ることもあった。
けれど、翌日には、もう消えている。
乱霧は、そのたびに傷のあった場所へ指を伸ばした。
触れる。確かめる。そこには、傷を負った痕跡すらなかった。
乱霧は、それを見ても驚かなかった。
心臓を貫いた傷さえ消えていた。ならば、これも同じなのだろう。
そう思うだけだった。
だから、また試す。
触れる。傷つける。問いかける。近づく。
それでも、キミコは何も返さない。
何かひとつでも、自分へ向けるものはないのか。
怒りでもいい。
恐怖でもいい。
憎しみでもいい。
嫌悪でもいい。
何でもよかった。
乱霧にとって重要なのは、キミコが何を感じるかではなかった。
何かを感じていると、分かればよかった。
けれど、それすら分からない。
キミコは、ただそこにいる。
乱霧の手が触れても。
身体を揺さぶられても。
傷つけられても。
問いかけられても。
何も返さない。
まるで、すべてが遠い場所で起きていることのように。
乱霧は、そのたびにキミコの顔を覗き込んだ。
藤色の瞳を見る。そこに自分が映っていることは分かる。けれど、それだけだった。
視線が重なることはない。キミコの目は、乱霧を見ていない。
やがて乱霧は、それが気に入らなくなっていった。
だから、また確かめる。
何度でも。幾日でも。
そうして、幾日かが過ぎた。その日も、乱霧は座敷牢へ入った。
キミコは、いつもの場所に座っている。乱霧が入ってきても、顔を上げない。
乱霧はその隣まで歩いた。そして、立ち止まる。
何日も見てきた。同じ顔。同じ目。同じ無反応。
それでも、まだ何かがある。乱霧はそう思っていた。
そうでなければ、これほど何もないはずがない。
乱霧は、キミコの髪に手を伸ばし、指に絡め、ゆっくりと引いた。
藤色の瞳が、乱霧のすぐ前に現れる。
乱霧は覗き込んだ。
何もない。
今日も同じだった。
乱霧は髪から手を離した。キミコは、ゆっくりと元の姿勢へ戻る。
「……まだ、か」
乱霧はそう呟き、一歩下がった。
そして、その腹を蹴った。キミコの身体が畳の上を転がった。
白い着物が乱れる。身体は壁に打ち付けられ、止まった。
キミコは起き上がらない。
乱霧は、その姿を見下ろした。
いつもと同じ。何も変わらない。
乱霧はゆっくりと近づいた。そして、今しがた蹴ったキミコの腹へ視線を落とす。
これまで何度も触れてきた場所。傷つけても、何も返ってこなかった場所。
乱霧は懐へ手を入れた。短刀を取り出す。鞘から刃を抜く。鈍い光が、座敷牢の中で揺れた。
乱霧は刃を見つめた。
この刃で、心臓を貫いた。それでも、キミコは何も変わらなかった。
傷も消えた。血も消えた。何もなかったことになった。
ならば、今度は、もっと奥を確かめればいい。
乱霧は短刀を握りなおした。腹へ刃を向ける。
そして、その臓腑を引き出してやろうと、短刀を構えた。
そのときだった。
乱霧の動きが、ふと止まった。
キミコの顔が向いている。乱霧は、その先を見る。
座敷牢の隅。
そこに、一輪の花があった。
乱霧は目を細めた。
いつからあったのか。なぜ、今まで気づかなかったのか。
花弁は色を失い、乾いている。葉は縮れ、茎も萎れていた。
もう、枯れている。
それでも、キミコの目は、その花へ向いていた。
乱霧は花を見る。
それから、キミコを見る。
キミコは何も言わない。
ただ、花を見ている。
乱霧は、花へ近づいた。
しゃがみ込む。指先で花弁に触れる。乾いた感触。触れただけで、花弁がわずかに揺れた。
乱霧は手を離した。
そして、もう一度キミコを見る。
やはり、花を見ている。
「……これ?」
返事はない。けれど、キミコは花から目を逸らさない。
乱霧は立ち上がった。その枯れた花を見下ろす。
そして。
足を下ろした。
乾いた花弁が、畳と足の間で潰れる。
細い茎が折れる。花の形が崩れる。
乱霧は足を退けた。
畳の上には、潰れた花が残っている。
白かった花弁は、もう形すら保っていない。
乱霧は、それを見下ろした。それから、キミコを見る。
何も変わらない、そう思った。
けれど。
キミコの瞳が動いた。
花のあった場所から、ゆっくりと、乱霧へ。
乱霧は動かなかった。
藤色の瞳が、まっすぐに乱霧を捉えている。
初めてだった。
キミコが、乱霧を見た。
乱霧は四つの瞳を細めた。口元から、抑えきれない笑みがこぼれた。




