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スダマの鬼  作者:
11/32

 翌日も、乱霧(らんぎり)は座敷牢に来た。

 格子の向こうには、キミコがいる。昨日と同じ場所に、同じ姿勢で座っている。

 膝を抱えるでもなく、背を壁に預けるでもない。ただ、畳の上に静かに座っている。

 乱霧は格子越しに、その姿を眺めた。

 昨日、あれほどの傷を負わせた。それでも、キミコの様子は何ひとつ変わっていない。

 乱霧は座敷牢の扉を開けた。鍵の外れる音が、座敷牢の中へ響く。

 中へ入る。キミコは顔を上げない。

 乱霧はそのまま背後へ回った。白い着物の背を眺める。

 昨日、短刀を突き立てた場所。刃は背から入り、胸を貫いた。着物は大きく裂け、血に濡れていたはずだった。

 けれど、今は、何もない。

 裂け目も、血の跡も残っていない。

 白い布は、最初から傷ついていなかったかのように繋がっている。

 乱霧はしばらく、その背を見つめていた。それから、着物へ手をかける。

 キミコは抵抗しなかった。

 乱霧は着物を開き、背中を確かめる。

 白い肌。

 傷ひとつない。

 刃が通った場所も、血が流れた場所にも、痕跡は残っていなかった。

 乱霧は指先を伸ばした。昨日、刃が入ったはずの場所をなぞる。

 指先に触れるのは、滑らかな皮膚だけだった。

 何もない。

 昨日、確かに心臓を貫いた。手に伝わった感触も覚えている。刃が肉を裂き、そのまま身体を抜けていった。

 あれは、間違いなく致命傷だった。

 鬼は、人間よりも傷の治りが早い。それでも、深い傷ともなれば相応の時間がかかる。

 ましてや、致命傷を負えば。

 心臓を貫かれれば。

 いくら鬼といえど、一晩で元へ戻ることなどない。

 それなのに、目の前のキミコには、その痕跡すら残っていない。

 乱霧は着物から手を離した。

「……なるほど」

 小さく呟く。キミコは何も答えない。乱霧はその顔を覗き込んだ。

 藤色の瞳。大きな一つ目は、乱霧を捉えていない。

 視線は、どこか遠くへ向けられている。

「昨日のこと、覚えてる?」

 静かな問いだった。

 返事はない。まぶたが動くこともない。

 乱霧はしばらく、その瞳を見つめていた。

 やがて、口元にわずかな笑みを浮かべた。

「そう」

 それ以上は何も言わなかった。




 それから、乱霧は毎日のように座敷牢へ通うようになった。

 確かめるためだった。

 何をしても、何も返ってこない。

 傷つけても、脅しても、問いかけても。それでもなお、何も変わらない。

 乱霧は、そのたびにキミコの中にあるものを探った。

 ある日は、髪を掴んだ。細い髪が指の間に絡む。

 そのまま、ゆっくりと引いた。キミコの顔が上を向く。

 乱霧は何も言わず、その顔を覗き込んだ。すぐ目の前に、藤色の瞳がある。

 大きな一つ目。けれど、その瞳には何も浮かんでいない。

 乱霧はキミコの顔を右から覗き込んだ。左からも覗き込む。それでも、キミコの視線は動かなかった。まるで、目の前に誰もいないかのようだった。

 乱霧は髪を掴んだまま、しばらくその顔を眺めていた。

 幼い顔。

 白い頬。

 乱れた黒髪。

 何をしても変わらない表情。

 乱霧は指に絡んだ髪をゆっくりと解いた。

 手を離す。キミコの頭が落ちる。

 キミコは、何事もなかったかのように元の姿勢へ戻った。

 乱霧は、ただその様子を見ていた。

 別の日には、頬へ手を伸ばした。指先が白い肌に触れる。

 そのまま、顔を横へ向けた。キミコは抵抗しない。

 乱霧が向きを変えれば、その通りに顔が動く。

 右へ。左へ。正面へ。

 何度繰り返しても、キミコからは何も返ってこない。

 乱霧は頬から手を離した。指先に残った感触を確かめるように、自分の手を見る。

 それから、もう一度キミコを見る。

 やはり同じだった。

 痛みに顔を歪めることもない。

 嫌悪を示すこともない。

 逃げようとすることもない。

 乱霧を見ようとすることすらない。

 乱霧は、そんなキミコの顔をじっと見つめた。

 何かを待つように。けれど、何も起こらない。

 キミコは、乱霧の手が離れたあとも、何事もなかったかのように座っていた。

 また別の日には、キミコの肩を掴んだ。

 そのまま畳へ押し倒す。小さな身体が畳へ叩きつけられる。

 乱霧は覆いかぶさるようにして、キミコを見下ろした。

 キミコは起き上がらない。

 乱霧は、さらに顔を近づけた。吐息が触れそうなほどの距離だった。

 それでも、キミコの瞳は動かない。

 乱霧は手を伸ばした。額にかかった髪を、指先で払う。

 白い額が露わになる。中央には、二本の細い切れ目が、左右へ浅く斜めに伸びている。

 乱霧はそこへ視線を落とした。

 次に、頬を見る。首を見る。肩を見る。

 傷があるか。何か変化があるか。

 身体のどこかに、これまでとは違う反応が現れていないか。

 けれど、何もない。

 乱霧は身体を起こし、身を引いた。

 キミコの身体が畳の上に残される。しばらくしても、キミコは動かなかった。




 時には傷をつけた。

 頬に赤い跡が浮かぶこともあった。

 首に痕が残ることもあった。

 けれど、翌日には、もう消えている。

 乱霧は、そのたびに傷のあった場所へ指を伸ばした。

 触れる。確かめる。そこには、傷を負った痕跡すらなかった。

 乱霧は、それを見ても驚かなかった。

 心臓を貫いた傷さえ消えていた。ならば、これも同じなのだろう。

 そう思うだけだった。

 だから、また試す。

 触れる。傷つける。問いかける。近づく。

 それでも、キミコは何も返さない。

 何かひとつでも、自分へ向けるものはないのか。

 怒りでもいい。

 恐怖でもいい。

 憎しみでもいい。

 嫌悪でもいい。

 何でもよかった。

 乱霧にとって重要なのは、キミコが何を感じるかではなかった。

 何かを感じていると、分かればよかった。

 けれど、それすら分からない。

 キミコは、ただそこにいる。

 乱霧の手が触れても。

 身体を揺さぶられても。

 傷つけられても。

 問いかけられても。

 何も返さない。

 まるで、すべてが遠い場所で起きていることのように。

 乱霧は、そのたびにキミコの顔を覗き込んだ。

 藤色の瞳を見る。そこに自分が映っていることは分かる。けれど、それだけだった。

 視線が重なることはない。キミコの目は、乱霧を見ていない。

 やがて乱霧は、それが気に入らなくなっていった。

 だから、また確かめる。

 何度でも。幾日でも。




 そうして、幾日かが過ぎた。その日も、乱霧は座敷牢へ入った。

 キミコは、いつもの場所に座っている。乱霧が入ってきても、顔を上げない。

 乱霧はその隣まで歩いた。そして、立ち止まる。

 何日も見てきた。同じ顔。同じ目。同じ無反応。

 それでも、まだ何かがある。乱霧はそう思っていた。

 そうでなければ、これほど何もないはずがない。

 乱霧は、キミコの髪に手を伸ばし、指に絡め、ゆっくりと引いた。

 藤色の瞳が、乱霧のすぐ前に現れる。

 乱霧は覗き込んだ。

 何もない。

 今日も同じだった。

 乱霧は髪から手を離した。キミコは、ゆっくりと元の姿勢へ戻る。

「……まだ、か」

 乱霧はそう呟き、一歩下がった。

 そして、その腹を蹴った。キミコの身体が畳の上を転がった。

 白い着物が乱れる。身体は壁に打ち付けられ、止まった。

 キミコは起き上がらない。

 乱霧は、その姿を見下ろした。

 いつもと同じ。何も変わらない。

 乱霧はゆっくりと近づいた。そして、今しがた蹴ったキミコの腹へ視線を落とす。

 これまで何度も触れてきた場所。傷つけても、何も返ってこなかった場所。

 乱霧は懐へ手を入れた。短刀を取り出す。鞘から刃を抜く。鈍い光が、座敷牢の中で揺れた。

 乱霧は刃を見つめた。

 この刃で、心臓を貫いた。それでも、キミコは何も変わらなかった。

 傷も消えた。血も消えた。何もなかったことになった。

 ならば、今度は、もっと奥を確かめればいい。

 乱霧は短刀を握りなおした。腹へ刃を向ける。

 そして、その臓腑を引き出してやろうと、短刀を構えた。

 そのときだった。

 乱霧の動きが、ふと止まった。

 キミコの顔が向いている。乱霧は、その先を見る。

 座敷牢の隅。

 そこに、一輪の花があった。

 乱霧は目を細めた。

 いつからあったのか。なぜ、今まで気づかなかったのか。

 花弁は色を失い、乾いている。葉は縮れ、茎も萎れていた。

 もう、枯れている。

 それでも、キミコの目は、その花へ向いていた。

 乱霧は花を見る。

 それから、キミコを見る。

 キミコは何も言わない。

 ただ、花を見ている。

 乱霧は、花へ近づいた。

 しゃがみ込む。指先で花弁に触れる。乾いた感触。触れただけで、花弁がわずかに揺れた。

 乱霧は手を離した。

 そして、もう一度キミコを見る。

 やはり、花を見ている。

「……これ?」

 返事はない。けれど、キミコは花から目を逸らさない。

 乱霧は立ち上がった。その枯れた花を見下ろす。

 そして。

 足を下ろした。

 乾いた花弁が、畳と足の間で潰れる。

 細い茎が折れる。花の形が崩れる。

 乱霧は足を退けた。

 畳の上には、潰れた花が残っている。

 白かった花弁は、もう形すら保っていない。

 乱霧は、それを見下ろした。それから、キミコを見る。

 何も変わらない、そう思った。

 けれど。

 キミコの瞳が動いた。

 花のあった場所から、ゆっくりと、乱霧へ。

 乱霧は動かなかった。

 藤色の瞳が、まっすぐに乱霧を捉えている。

 初めてだった。

 キミコが、乱霧を見た。

 乱霧は四つの瞳を細めた。口元から、抑えきれない笑みがこぼれた。


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