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スダマの鬼  作者:
10/33

 翌日。屋敷は、朝から騒がしかった。

 祀煙(しえん)が消えた。

 その事実は、一族の鬼たちに大きな動揺を与えていた。

 廊下を行き交う鬼たちは、いつもより足早だった。あちらこちらで声が交わされ、誰もが祀煙の行方を探している。

 だが、どれだけ屋敷を探しても、その姿は見つからない。

 あの鬼がいなくなるなど、誰も考えていなかった。

 祀煙は、いつからそこにいたのかすら曖昧なほど、一族にとって当たり前の存在だった。

 何かが起これば、祀煙が動く。

 何かをする必要があれば、祀煙が命じる。

 人間にも、鬼にも。それが、一族の中で当然のことになっていた。

 一族の中で、最も強い力を持つ鬼。

 その存在が欠けたことは、単なるひとりの不在ではない。

 誰もが、それを肌で感じていた。

 屋敷の中に、今までとは違う空気が流れている。


 何かが欠けている。


 何かが狂い始めている。

 

 それが何なのかを、誰も言葉にできない。

 けれど、祀煙がいなくなったことで、この屋敷そのものの均衡が崩れた。

 そのことだけは、一族の鬼たちにも分かっていた。


 そんな騒ぎの中、乱霧(らんぎり)は渡殿に立ち、庭を眺めていた。

騒がしい屋敷の中にあって、乱霧だけはいつもと変わらない様子だった。華美な衣を纏い、長い髪を背に流している。

 やがて、近くにいた鬼のひとりが乱霧へ声をかけた。

「なあ、乱霧は何か知らないか」

 乱霧は、声のしたほうへ顔を向けた。四つの瞳が、その鬼を捉える。

 しばらく何も言わずに見つめたあと、乱霧は小さく肩をすくめてみせた。

「さあ」

 あまりにも素っ気ない返事だった。

「祀煙が何も言わずに消えるなんて、珍しいだろう」

「そうね」

「何か聞いていないのか?」

「何も」

 乱霧はそう答えると、再び庭へ視線を戻した。鬼は納得しきれない様子で、乱霧の横顔を見つめている。

「……本当に何も知らないんだな?」

 念を押すように尋ねられ、乱霧はわずかに口元を緩めた。

「知らないわ」

 それだけ言って、乱霧はまた庭へ目を向ける。

 その横顔には、祀煙が消えたことへの驚きも、焦りもなかった。




 その日の夜。

 乱霧は、座敷牢へ現れた。

 屋敷の中で起きている騒ぎも、座敷牢の中までは届いていなかった。

 格子の向こうには、キミコがいた。座ったまま、ただ正面を見ている。祀煙がいなくなっても、何も変わらない姿だった。

 乱霧は格子の前で足を止めた。四つの瞳で、じっとキミコを見つめる。

 乱霧は、しばらく何も言わずに眺めていた。その姿に変化がないか確かめるように、顔を見て、身体を見る。

 けれど、キミコは瞬きすらほとんどしなかった。

 やがて、乱霧は格子の隙間から手を伸ばした。指先が、キミコの頬に触れる。

 そのまま、白い頬を摘まんだ。

 ゆっくりと力を込めていく。白い皮膚が、指の間で歪んだ。

 それでも、キミコは動かなかった。

「痛くはないの?」

 返事はない。乱霧は、キミコの顔を覗き込む。

 それから、さらに力を強めた。指先が頬へ食い込む。

 それでも、キミコの表情は変わらなかった。

 乱霧は静かに手を離す。白い頬には、指の跡が赤く残っていた。

「……ふうん」

 小さく呟き、乱霧は手を下ろした。

 そして、座敷牢の扉へ手をかける。鍵の外れる音が、静まり返った座敷牢に響いた。

 扉が開く。

 乱霧は、そのまま中へ入った。畳を踏む足音が、やけに大きく聞こえる。

 ゆっくりとキミコへ歩み寄る。

 近づいても、キミコは動かなかった。

 乱霧は、その横で足を止める。

 しばらく、何も言わない。

 すぐ隣に立っているというのに、キミコは乱霧の存在を気にする様子すらなかった。乱霧は、そんなキミコを見下ろしていた。

 やがて、懐へ手を入れる。

 取り出したのは、鞘に収められた短刀だった。

 柄を握る。

 ゆっくりと刃を抜いた。鈍い光が、座敷牢をかすめる。

 乱霧は刀身を眺め、それからキミコへ視線を戻した。

「本当に、何もないの?」

 静かな問いだった。

 返事はない。

 乱霧は短く息を吐く。その顔には苛立ちもなかった。あるのは、純粋な興味だけだった。

 何をしても揺るがぬその奥に、何が隠されているのか。

 乱霧は刀を静かに逆手へ持ち替えた。

「お前の中にあるものを、この目で見せて」

 躊躇はなかった。

 次の瞬間、短刀がキミコの背を貫いた。

 衝撃で、キミコの身体がわずかに前へ傾く。

 白い着物の胸元から、血に濡れた刀身の先が覗いた。

 赤が、白い布へ広がっていく。

 小さな口から血が溢れ、唇を濡らした。

 それが一滴、畳へ落ちる。

 座敷牢の静寂だけが、深く沈んでいく。

 乱霧は目を細めた。キミコの顔を覗き込む。

 

 苦痛はあるのか。


 恐怖はあるのか。


 何かが変わるのか。


 けれど、そこに浮かぶものはなかった。

「……まだ足りないか」

 その声に失望はなかった。あるのは、次に何を試すべきかを考える静かな執着だけだった。

 乱霧はキミコの背から刃を引き抜く。

 刀身から血が滴る。それを払うように刀を振り、静かに鞘に収めた。

 そして、何事もなかったかのように出口へ向かう。格子の向こうに出る前に、乱霧は一度だけ振り返った。

 キミコは、何も変わらず座っていた。

 ただ、白い着物だけが赤く染まっている。

 乱霧は何も言わず、そのまま座敷牢を出た。

 扉が閉じる。鍵の掛かる音が、静かな空間に響いた。

 やがて、足音が遠ざかっていく。

 ひとつ、またひとつ。それも聞こえなくなる。

 再び、静けさが戻った。

 座敷牢には、キミコだけが残された。

 その膝元には、一輪の花が置かれていた。

 白い花弁。その上に、鮮烈な赤が散っている。

 祀煙が残していった花だった。

 キミコは、何も言わない。

 ただ静かに、その花を見つめていた。


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