花
翌日。屋敷は、朝から騒がしかった。
祀煙が消えた。
その事実は、一族の鬼たちに大きな動揺を与えていた。
廊下を行き交う鬼たちは、いつもより足早だった。あちらこちらで声が交わされ、誰もが祀煙の行方を探している。
だが、どれだけ屋敷を探しても、その姿は見つからない。
あの鬼がいなくなるなど、誰も考えていなかった。
祀煙は、いつからそこにいたのかすら曖昧なほど、一族にとって当たり前の存在だった。
何かが起これば、祀煙が動く。
何かをする必要があれば、祀煙が命じる。
人間にも、鬼にも。それが、一族の中で当然のことになっていた。
一族の中で、最も強い力を持つ鬼。
その存在が欠けたことは、単なるひとりの不在ではない。
誰もが、それを肌で感じていた。
屋敷の中に、今までとは違う空気が流れている。
何かが欠けている。
何かが狂い始めている。
それが何なのかを、誰も言葉にできない。
けれど、祀煙がいなくなったことで、この屋敷そのものの均衡が崩れた。
そのことだけは、一族の鬼たちにも分かっていた。
そんな騒ぎの中、乱霧は渡殿に立ち、庭を眺めていた。
騒がしい屋敷の中にあって、乱霧だけはいつもと変わらない様子だった。華美な衣を纏い、長い髪を背に流している。
やがて、近くにいた鬼のひとりが乱霧へ声をかけた。
「なあ、乱霧は何か知らないか」
乱霧は、声のしたほうへ顔を向けた。四つの瞳が、その鬼を捉える。
しばらく何も言わずに見つめたあと、乱霧は小さく肩をすくめてみせた。
「さあ」
あまりにも素っ気ない返事だった。
「祀煙が何も言わずに消えるなんて、珍しいだろう」
「そうね」
「何か聞いていないのか?」
「何も」
乱霧はそう答えると、再び庭へ視線を戻した。鬼は納得しきれない様子で、乱霧の横顔を見つめている。
「……本当に何も知らないんだな?」
念を押すように尋ねられ、乱霧はわずかに口元を緩めた。
「知らないわ」
それだけ言って、乱霧はまた庭へ目を向ける。
その横顔には、祀煙が消えたことへの驚きも、焦りもなかった。
その日の夜。
乱霧は、座敷牢へ現れた。
屋敷の中で起きている騒ぎも、座敷牢の中までは届いていなかった。
格子の向こうには、キミコがいた。座ったまま、ただ正面を見ている。祀煙がいなくなっても、何も変わらない姿だった。
乱霧は格子の前で足を止めた。四つの瞳で、じっとキミコを見つめる。
乱霧は、しばらく何も言わずに眺めていた。その姿に変化がないか確かめるように、顔を見て、身体を見る。
けれど、キミコは瞬きすらほとんどしなかった。
やがて、乱霧は格子の隙間から手を伸ばした。指先が、キミコの頬に触れる。
そのまま、白い頬を摘まんだ。
ゆっくりと力を込めていく。白い皮膚が、指の間で歪んだ。
それでも、キミコは動かなかった。
「痛くはないの?」
返事はない。乱霧は、キミコの顔を覗き込む。
それから、さらに力を強めた。指先が頬へ食い込む。
それでも、キミコの表情は変わらなかった。
乱霧は静かに手を離す。白い頬には、指の跡が赤く残っていた。
「……ふうん」
小さく呟き、乱霧は手を下ろした。
そして、座敷牢の扉へ手をかける。鍵の外れる音が、静まり返った座敷牢に響いた。
扉が開く。
乱霧は、そのまま中へ入った。畳を踏む足音が、やけに大きく聞こえる。
ゆっくりとキミコへ歩み寄る。
近づいても、キミコは動かなかった。
乱霧は、その横で足を止める。
しばらく、何も言わない。
すぐ隣に立っているというのに、キミコは乱霧の存在を気にする様子すらなかった。乱霧は、そんなキミコを見下ろしていた。
やがて、懐へ手を入れる。
取り出したのは、鞘に収められた短刀だった。
柄を握る。
ゆっくりと刃を抜いた。鈍い光が、座敷牢をかすめる。
乱霧は刀身を眺め、それからキミコへ視線を戻した。
「本当に、何もないの?」
静かな問いだった。
返事はない。
乱霧は短く息を吐く。その顔には苛立ちもなかった。あるのは、純粋な興味だけだった。
何をしても揺るがぬその奥に、何が隠されているのか。
乱霧は刀を静かに逆手へ持ち替えた。
「お前の中にあるものを、この目で見せて」
躊躇はなかった。
次の瞬間、短刀がキミコの背を貫いた。
衝撃で、キミコの身体がわずかに前へ傾く。
白い着物の胸元から、血に濡れた刀身の先が覗いた。
赤が、白い布へ広がっていく。
小さな口から血が溢れ、唇を濡らした。
それが一滴、畳へ落ちる。
座敷牢の静寂だけが、深く沈んでいく。
乱霧は目を細めた。キミコの顔を覗き込む。
苦痛はあるのか。
恐怖はあるのか。
何かが変わるのか。
けれど、そこに浮かぶものはなかった。
「……まだ足りないか」
その声に失望はなかった。あるのは、次に何を試すべきかを考える静かな執着だけだった。
乱霧はキミコの背から刃を引き抜く。
刀身から血が滴る。それを払うように刀を振り、静かに鞘に収めた。
そして、何事もなかったかのように出口へ向かう。格子の向こうに出る前に、乱霧は一度だけ振り返った。
キミコは、何も変わらず座っていた。
ただ、白い着物だけが赤く染まっている。
乱霧は何も言わず、そのまま座敷牢を出た。
扉が閉じる。鍵の掛かる音が、静かな空間に響いた。
やがて、足音が遠ざかっていく。
ひとつ、またひとつ。それも聞こえなくなる。
再び、静けさが戻った。
座敷牢には、キミコだけが残された。
その膝元には、一輪の花が置かれていた。
白い花弁。その上に、鮮烈な赤が散っている。
祀煙が残していった花だった。
キミコは、何も言わない。
ただ静かに、その花を見つめていた。




