東京の夜 ― フランス人航海士の説教 ―
リヒトは恋愛になると何でか拗らせます。
書いていて「リヒト〜」となってしまいます。
ツッコミどころ満載な恋愛ヘタレ気味リヒトですが、温かく見守ってやってください。
ホテルのバーは静かだった。
大きな窓の向こうには、東京湾の夜景が広がっている。
レジェンディアが停泊する晴海の灯りも、遠くに小さく見えた。
リヒトはグラスを指先で回していた。
氷がカランと鳴る。
その音だけが妙に大きく聞こえる。
「ずいぶん暗い顔だね。」
向かいの席でルイ・アズナブールが言った。
ワインを片手に、楽しそうに笑っている。
リヒトは視線を上げない。
「飲みに来たのはお前だろう。」
「そうだよ。」
ルイはあっさり答える。
「だから君も付き合わせた。」
軽く肩をすくめる。
「キャプテン。」
リヒトはため息をついた。
「その呼び方はやめろ。」
「なぜ?」
ルイは面白そうに首を傾ける。
「もうクリスタニアの船長だろ?」
沈黙。
リヒトはグラスを一口飲んだ。
「まだ決まっていない。」
「半月後に決めると常務は言ってた。」
ルイは小さく笑った。
「エリコの試験だよ。」
「わかってるだろ?」
リヒトは答えない。
ルイはワインを回しながら続ける。
「君さ。」
「彼女のことを何もわかってないね。」
リヒトの眉がわずかに動いた。
「彼女?」
「レイコさんのことさ。」
ルイは続ける。
「彼女は商船たちにも等しく愛情を注いでいた。
だからホルムズにいる商船たちを心配して、
ロシア機に何をされるか分からない海域へ行くレジェンディアを
置いていけないって言ったんじゃないのかい?」
グラスをテーブルに置く。
「うちの船だけじゃないんだよ。」
ルイは軽く笑う。
「クルーたちとも、ずいぶん楽しそうにしてたらしいじゃないか。」
「軍上がりとか、階級とか、
そんなもの全く気にしてない。」
「それってつまりさ。」
「彼女が、身分や立場を気にしない人間だからだろ?」
リヒトは黙っている。
ルイは少し身を乗り出した。
「なのにどうして。」
「サフィールにだけ嫉妬するんだい?」
その瞬間。
リヒトが顔を上げた。
「……分かってるさ。」
低い声だった。
ルイは黙って聞く。
リヒトは続けた。
「でもマルセイユでもそうだった。」
拳を握る。
「レジェンディアのことなんて、まるで目にも入っていないようで」
「サフィールのオフィサーと、
ずいぶん楽しそうにしていた。」
空気が少し重くなる。
ルイは数秒黙っていた。
そして——
笑った。
「ああ。」
ワインを飲む。
「なるほどね。」
リヒトが睨む。
「何が面白い。」
ルイは肩をすくめた。
「君が単純すぎるからさ。」
グラスをテーブルに置く。
「彼女は船が好きなんだ。」
「全部の船がね。」
「そして君も。」
リヒトは黙る。
ルイは続けた。
「嫉妬する相手を間違えてる。」
「君の敵はオーシャンクレストでもなきゃ、サフィールでもない。」
グラスを軽く持ち上げる。
「君の臆病さだ。」
沈黙。
バーの奥でグラスの音が響く。
ルイはもう一口ワインを飲み、何でもないように言った。
「まあいいさ。」
リヒトが顔を上げる。
ルイは笑った。
「彼女から、クリスタニア乗船の話はまだ来てない。」
リヒトの手が止まる。
氷がグラスの中で小さく鳴った。
「だから。」
ルイは肩をすくめる。
「ゆっくり考えたまえ。」
少し間。
「キャプテン。」
ルイは席を立った。
「俺はもう一杯飲んでくる。」
「君は好きにしなよ。」
そう言ってカウンターへ歩いていった。
リヒトは動かなかった。
グラスの中の氷がゆっくり溶けていく。
——乗船の話は来ていない。
その言葉が頭の中で繰り返される。
クリスタニア。
自分が船長になる船。
当然、レイコも乗ると思っていた。
いや——
乗ってくると、どこかで決めつけていた。
だが。
通達はない。
つまり——
乗らないのか。
リヒトは目を閉じた。
……何を期待している。
苦い笑いが漏れる。
彼女は投資家だ。
名家の令嬢。
ロイヤルネイビーの提督が庇護する存在。
自分とはまるで違う世界の人間だ。
航海士と株主。
それだけの関係。
それだけで十分だったはずだ。
——なのに。
胸の奥が重くなる。
思い出す。
ニューヨークの夜。
「私はレジェンディアを愛しているわ。」
そして。
「あなたも……船も。」
リヒトはグラスを握った。
——情けない。
彼女にあんな言葉を吐いたのは自分だ。
「恋した船と旅をすべきだった。」
今思えば、あまりにも愚かな言葉だった。
それでも。
もし彼女が——
クリスタニアに乗らないのだとしたら。
それは自分のせいだ。
「クソッ」
リヒトは目を開いた。
バーの灯りが揺れている。
遠くでルイが笑っていた。
その声が、やけに遠く聞こえた。
脳裏に、あの夜が浮かんだ。
ツッコミたいことは、たぶん皆さん一緒だと思います。
リヒトはやれば出来る子です。たぶん。
クリスタニアの就航はいかに。




