クリスタニア船長任命— 感情は操船に直結する —
海運会社は、港に着いた瞬間から次の航海の準備が始まる世界です。
今回はそんな本社の一場面です。
リヒトは本社オフィスの扉を開けた。
中には二人の人物が待っていた。
クルーズ事業本部常務エリコ・白鳥・アズナーブル。
そして——
海運統括部門部長、葛城。
リヒトを見た瞬間、葛城は眼鏡の奥でわずかに眉を上げた。
「おや。」
静かな声だった。
エリコは机の前に立ったまま、ファイルに綴じられた書類を一枚めくる。
「聞いていると思うけど。」
顔を上げる。
「あなたをクリスタニアの船長に任命するわ。」
数秒。
リヒトは姿勢を正した。
「……光栄です。」
エリコはしばらく黙ってリヒトを見ていた。
そして眉をひそめる。
「……なんなの?」
少し首を傾ける。
「その失恋したみたいな顔は。」
リヒトは何も言わない。
エリコはファイルをデスクに置き、腕を組んだ。
「オーガスティア様と何かあったのね。」
社員がコーヒーを置いていく。
エリコは視線を外さない。
「知ってるわよ。」
冷たい声だった。
「ニューヨークであれほど全員下ろせと言ったのに、オーガスティア様とヴェイル中佐だけ残ったそうね。」
リヒトの表情は動かない。
だが沈黙がすべてを語っていた。
葛城が小さく頷く。
「なるほど……。」
眼鏡を押し上げる。
「失恋したんですね。」
リヒトの拳が、わずかに握られた。
エリコは窓の方へ歩く。
東京湾が広がっていた。
「あなたの操船は見事なものよ。」
振り向かずに言う。
「船長も評価している。」
少し間。
「ダンスの腕もずば抜けているし。」
リヒトは何も言わない。
エリコはゆっくり振り返る。
その視線は鋭かった。
「でも。」
「クリスタニアの船長としては、今のままでは乗せられない。」
リヒトがわずかに顔を上げる。
エリコは続けた。
「ロイヤルネイビーから招待が来ているの。」
机を指で軽く叩く。
「感情は操船や判断に直結する。」
静かな声だった。
「今のままでは、その招待も辞退するしかないわね。」
数秒の沈黙。
「あと半月後にもう一度決めるわ。」
「クリスタニア出航は予定通り、前倒しの一ヶ月半後。」
視線を外す。
「それまで色々準備しなさい。」
そして手を振った。
「もういいわ。ホテルで休んで。」
リヒトは一礼する。
「失礼します。」
リヒトは扉を開け、部屋を出た。
しばらく沈黙。
葛城が椅子に深く座り、ため息をついた。
「まったく。」
眼鏡を外し、軽く拭く。
「大馬鹿野郎ですねぇ。」
エリコは黙っている。
葛城は続ける。
「何があったか知りませんけど。」
肩をすくめる。
「そんなに好きなら、さっさとプロポーズさせればいいでしょうに。」
エリコがちらりと視線を向ける。
葛城は平然と続けた。
「船長夫人が船のコーディネーターになることも珍しくありませんし。」
眼鏡を掛け直す。
「あなたみたいな人には合理的だと思いますけどね。」
エリコは小さく息を吐いた。
窓の外の海を見ながら、静かに言う。
「……問題はそこじゃないわ。」
葛城が眉を上げる。
エリコは続けた。
「船長になる男が、自分の気持ちから逃げていることよ。」
少し間。
「そんな男に、クリスタニアは預けられない。」
机に指を置く。
「これからあと二隻就航する。」
「まだ二隻建造中。」
「人員は慎重に選ばなければ、この後のスケジュールに響く。」
そして低く言った。
「まだホルムズも危機的な状況なのに——」
「今のあの状態で、協調運航で商船たちを引っ張ってこれると思う?」
葛城は小さく笑った。
「なるほど。」
「常務の試験ですか。」
エリコは何も答えなかった。
その頃——
ホテルのロビー。
チェックインを終えたリヒトは、静かなラウンジのソファに腰を下ろしていた。
長い一日だった。
(レイコに言えないままだったな……)
ネクタイを緩める。
その時、背後から声がした。
「キャプテン!」
振り向く。
ルイ・アズナブールだった。
ネクタイを少し緩め、いつもの気楽な笑顔。
「バーに行かないか?」
リヒトは眉をひそめる。
「悪いが、酒を飲む気分じゃない。」
ルイは肩をすくめた。
「そう言うと思った。」
そして笑う。
「だから誘ってる。」
顎でバーの方を示す。
「来なよ。キャプテン。」
リヒトは少しだけ黙る。
やがて小さく息を吐いた。
「……少しだけだ。」
ルイが笑う。
「それでいい。」
二人はラウンジを横切り、ホテルのバーへ向かった。
その夜。
リヒト・ヴァルナーは——
自分がどれほど面倒くさい男なのかを、
思い知らされることになる。
作中でも少し触れていますが、船長という立場はとても重い責任を持っています。
船長は船の運航だけでなく、
・乗客やクルーの安全・船体や貨物の管理・会社の信用
すべてを背負う立場です。
そして海の上では、最終判断を下すのは常に船長です。
嵐の中で進むか、避けるか。速度を落とすか、航路を変えるか。
その判断ひとつで、船の運命が変わることもあります。
だからこそ多くの海運会社では、船長の選任を非常に慎重に行います。
この物語の中でも、クリスタニアの船長という役職はそれだけ重い意味を持っています。




