明智を気にする必要は……
「明智光秀を気にする必要はない。何故なら……。」
久秀は不敵に笑い、私のすぐ側まで歩み寄って声を潜めた。
「光秀めは今、四方八方の対処に追われ、一歩も動けぬ状況にある。」
「動けない……? 光秀がか?」
私の問いかけに、久秀は我が意を得たりとばかりに顎ヒゲをなでる。
「まずは信長公の次男・織田信雄殿よ。すでに兵を率いて近江国へ入った。光秀にとっては、すぐ背後に巨大な敵が陣取った形となる。さらに光秀が味方と頼みにしている大和の筒井順慶。確かに筒井は兵の一部を明智方として派遣しはしたが……あの男の真の目的は、朝廷から直々に依頼を受けた『京の警護』に過ぎん。光秀のために命を懸けて戦う気など毛頭ない。」
久秀の口から次々と語られる情勢に私は息を呑んだ。さすがは戦国を生き抜いた梟雄。情報の収集と分析の早さが尋常ではない。
「極めつけは丹後の細川親子よ。」
久秀の目が、いやらしく。そして愉しげに細められる。
「光秀の娘を嫁に迎え、最も固い同盟相手になるはずだった細川藤孝・忠興の親子は、信長公の訃報を聞くや否や、即座に髪を剃って仏門に入った。そして光秀からの誘いをはねのけ、完全に『不戦』の構えを崩しておらん。親戚から裏切られた光秀の落胆ぶりが目に浮かぶようではないか。」
(あ、それは歴史の授業で習った……! 細川幽斎と忠興が即座に喪に服して、光秀を絶望させた……。)
現代人としての記憶が、久秀の言葉を裏付ける。
つまり今の光秀は信雄の警戒、筒井の忠誠心の不備。そして細川の拒絶によって完全に手足を縛られ、身動きが取れなくなっているのだ。
「……で、あるからして。」
久秀は私の肩に手を置き、その耳元で悪魔のように囁いた。
「我らが大坂で信孝と丹羽長秀を葬り去ろうとも、光秀がこちらに牙を向けてくる余裕などどこにもない。信孝らの軍勢は少数で疲弊しきっておる。石山が落ちる今こそ、背後から襲撃する。これ以上の好機が、この先訪れると思うか? 恒興殿」
松永久秀の、完璧にして冷酷な戦況説明を聞き――。
私の背中を、どっと冷たい汗が流れ落ちた。
このじいさん、めちゃくちゃ理路整然と「織田家を滅ぼす必勝法」をプレゼンしてきやがった。
理屈が通りすぎている。私の現代知識から見ても、光秀が動けないのは紛れもない事実だ。もし私が本物の野心溢れる池田恒興なら、間違いなくこの提案に乗っていただろう。
(でも、俺が知ってる未来じゃ、このあと羽柴秀吉が『中国大返し』で全部かっさらっていくんだよ!!)
歴史の勝者を知っているからこそ、ここで久秀の罠に乗るわけにはいかない。
しかしこれほど完璧な策を出されて、断る大義名分が思いつかない。どうする。どうやってこの場を切り抜ければいい!?
私の肉体は、あまりのプレッシャーと胃の痛みに耐えかね。ただでさえ恐ろしい強面をさらにクシャクシャに歪め、地獄の閻魔大王のような形相で久秀を睨みつけることしかできなかった。




