動いたは良いが
周囲の「オオオ!」というイケイケな勝ち鬨に流され、勢いだけで勝龍寺城まで兵を進めてしまった池田恒興だったが、現地の光景を目にした瞬間。その顔から完全に血の気が引いた。
(……待て。無理だろ、これ。)
現代人の知識など持ち出すまでもない。目の前にそびえ立つ勝龍寺城は、素人目に見ても絶望的なほどに「堅牢」そのものだった。
池田軍が進軍してきた南側には、小幡川と犬川という二つの川が天然の水堀のように立ちはだかり、行く手を阻んでいる。ならばと視線を北側に転じれば、そこは集落や街道までをも巨大な土塁と堀で丸ごと取り込んだ「惣構え」がガッチリと構築されていた。どこをどう見ても、力任せに突撃して落とせるような城ではない。
(こういう時は、敵を外に誘い出して野戦で叩くのがセオリーのはず。だけど……。)
恒興は城の様子を凝視したが、物々しい静寂が返ってくるだけだった。山崎の決戦で手痛い敗北を喫したばかりの光秀が、今さらそんな見え透いた誘いに乗って城から出てくる気配など微塵もない。徹底抗戦の構えだ。
(まずい。これ、めちゃくちゃ時間がかかるやつだ。このままここでグズグズしていたら、街道で立ち往生している秀吉が追いついてしまう。それだけは絶対に困る。……いや、違う。秀吉以上にヤバいことに気づいてしまった……!)
恒興の脳裏に、戦国時代の正確な勢力図が浮かび上がり、心臓が早鐘を打ち始めた。
明智光秀の兵力は、今この城にいる者たちだけではない。近江の坂本城や、光秀の本拠地である丹波には、まだ手つかずの明智子飼いの部隊が残っているはずなのだ。もし彼らが「光秀様が勝龍寺城で持ちこたえているぞ!」と知り、救援の後詰として背後から一斉に押し寄せてきたらどうなるか。その瞬間、包囲しているはずの池田軍が、逆に挟み撃ちにされて圧殺される。
さらに、恒興の脳裏を最悪のシミュレーションが駆け巡る。
大和の筒井順慶は、今は日和見を決め込んでいる。光秀と縁戚関係にある細川藤孝・忠興親子も、今は丸坊主になって不戦を表明している。
だが、それはあくまで「光秀がすぐに討たれた」からだ。もし、この勝龍寺城が落ちず、明智軍が予想外の粘りを見せたらどうなるか。
「お、光秀が盛り返すチャンスがあるのでは?」と見た筒井や細川が、手のひらを返して明智側に味方し、全軍で池田を叩きにくる恐れは大いにある。裏切りと寝返りが日常茶飯事のこの時代、彼らの「日和見」や「不戦」ほど信用できない言葉はない。
「……坂本の部隊が動いたら。……細川や筒井が、やっぱり光秀に味方すると言い出したら……。」
天幕の中で、恒興はガタガタと震えながら、冷や汗で濡れた手のひらを見つめた。
秀吉から逃げ回っていたはずが、気づけば自分は「明智の残存兵力」「近江・丹波の後詰」「いつ裏切るかわからない周囲の大名」という、戦国最凶の地雷原のど真ん中に自ら飛び込んでしまっていたのだ。
「誰が天下取りだ……! 完全に詰んでるじゃないか! 一体どうすりゃいいんだよぉ……!」
周囲の武将たちが「次はいよいよ光秀の首ですな!」と盛り上がる中、一人だけ最悪の未来を予測してしまった恒興は、底なしの焦燥感と恐怖に包まれ、暗澹たる思いで城を睨みつけるしかなかった。




