狂人と嵐その6
僕たちはレストラン棟へ向かった。
さっき鍵がかかっていて入れなかった建物。
でも今は、もうそんなことを気にしている場合じゃなかった。
ようやく建物が見えた。
「世一!」
こばが叫ぶ。
「窓!」
入口の横にある大きなガラス窓を指差す。
僕は近くに落ちていた木の杭みたいなものを掴んだ。
雨で滑りそうになる手を握り直す。
「いくぞ……!」
思いきり振りかぶって、窓に叩きつける。
ガシャッ!
夜の湖に、ガラスの割れる音が大きく響いた。
「入れ!」
大志が先に大樹を押し込む。
僕とこばでウッチーを窓から中へ入れる。
最後に僕が身を滑り込ませたとき、背後で足音が止まった。
割れた窓の向こうに、管理人が立っていた。
雨に濡れた無表情の顔。
暗闇の中でも、その目だけは妙にはっきり見えた。
「ルーター! 受話器!」
こばが叫ぶ。
僕たちは共有スペースへ駆け込んだ。
暗い室内には、食事のときのままテーブルと椅子が並んでいる。
奥のカウンターの横に、小さな通信機器のランプが見えた。
「ついてる!」
僕はスマートフォンを取り出す。
手が震えて、画面がうまく押せない。
「早く!」
大志が叫ぶ。
その横で、こばがテーブルをひっくり返して割れた窓の前に押しつける。
少しでも侵入を遅らせるためだった。
Wi-Fiマークが出る。
つながった。
「……っ」
僕はすぐに通話アプリを開く。
こっちの緊急番号は分からない。
でも、レストランの壁際に古い固定電話の受話器が見えた。
「電話ある!」
僕はそっちへ飛びついた。
受話器を上げる。
かすかに発信音が聞こえる。
「こば!」
「かけろ!」
僕は震える指で、緊急番号を検索しようとして――やめた。
時間がない。
代わりに、スマートフォンで
local emergency number
と打ち込む。
画面が表示される。
番号を電話機に叩き込む。
発信音。
一回。
二回。
背後で、窓を塞いだテーブルが大きく揺れた。
管理人が外から押しているんだ。
「早く出ろ……!」
僕は受話器を握り締める。
三回目の呼び出し音のあと、
『Police.』
声が聞こえた瞬間、全身の力が抜けそうになった。
「Help!」
僕は叫んだ。
「We’re at Uros Hotel on Wara Island! People have been killed here! The manager has a knife! Please, please come now!」
『Slow down. How many people are with you?』
「Five! Three of us were drugged! We can’t escape by boat!」
そのとき、背後で木が裂ける音がした。
バリケードにしたテーブルの脚が一本折れたらしい。
大志が叫ぶ。
「世一! 来る!」
こばが近くのワインボトルを掴んで、割れた窓の向こうへ投げつける。
鈍い音。
ガラス片が散る。
『Stay inside. Officers are on the way.』
その言葉を聞いた瞬間、少しだけ息ができるようになった。
来る。
警察が来る。
「How long!?」
僕が叫ぶと、受話器の向こうで少し間があった。
『Weather is bad. But they are coming. Hold on.』
その言葉を最後まで聞く前に、また大きな音がした。
バキッ
バリケードがさらに崩れる。
管理人が入ってくる。
僕は受話器を握ったまま振り向いた。
割れた窓の向こう、雨に濡れたままの管理人が、静かにこちらを見ていた。
怒っているわけじゃない。
焦っているわけでもない。
ただ、ここへ入ってくることを決めた人間の顔だった。
こばが低く言う。
「世一」
「ん」
「警察は?」
「来る」
僕が答えると、こばは短くうなずいた。
「なら、持たせる」
その一言が、妙に重かった。
レストラン棟の中に、雨と風が吹き込む。
遠くで雷が鳴る。
そして、その向こうから――
かすかに、別の船のエンジン音が聞こえた気がした
割れた窓の向こうで、管理人がゆっくり一歩踏み出した。
雨に濡れた服の裾から、水がぽたぽたと床に落ちる。
その音だけが、妙にはっきり聞こえた。
こばはひっくり返したテーブルを両手で押さえたまま、低く言った。
「大志、大樹を壁際まで引っ張れ」
「ウッチーもだ」
大志はまだ足元がおぼつかない様子だったが、それでも必死にうなずいた。
「……わかった」
僕は受話器を肩と頬で挟んだまま、空いた手でウッチーの体を引きずる。
『Stay on the line. Officers are close.』
電話の向こうの声が言う。
近い。
その言葉だけを必死に信じた。
でも、目の前の現実はそれを待ってくれそうになかった。
ミシッ
テーブルの脚が、また嫌な音を立てる。
管理人は外から無理やり押しているわけではなかった。
ただ、一定の力で、静かに、壊れるまで押し続けている。
そのことが余計に怖かった。
大樹が壁にもたれたまま、かすれた声で言った。
「……何だよ、あいつ」
返事をする余裕はなかった。
こばが歯を食いしばる。
「世一」
「ん」
「電話切るなよ」
僕はうなずいた。
その瞬間、
バキッ
ついにテーブルの片側が大きくずれた。
隙間ができる。
そこから、管理人の腕が見えた。
ナイフを持った右手だった。
「下がれ!」
こばが叫ぶ。
僕たちは一斉に後ろへ下がる。
管理人はその隙間を押し広げ、壊れた窓枠をまたいで静かに中へ入ってきた。
ガラスを踏む音。
濡れた靴底が床に残す水の跡。
表情は変わらない。
「もうやめてください」
小さな声だった。
「逃げられません」
その静かな口調が、かえって異常だった。
大志が近くにあった椅子を掴んだ。
「来るな!」
叫びながら振り回す。
管理人はそれを身をひねってかわし、逆に一歩近づく。
その動きが速すぎて、一瞬見えなかった。
「っ!」
大志が後ろによろける。
こばが横から体当たりした。
二人がぶつかり、テーブルの端に激しくぶつかる。
受話器の向こうで何か叫ぶ声がしたが、もう聞き取れなかった。
僕は電話機を握ったまま、近くにあったワインボトルを掴む。
手が震える。
でも投げるしかない。
思いきり振りかぶって、管理人に向かって投げつけた。
ガンッ
鈍い音がして、ボトルは肩口に当たったらしい。
管理人の体が一瞬だけ揺れる。
こばがその隙に叫んだ。
「大志! 後ろ!」
大志は半分倒れながらも後ろへ下がり、大樹とウッチーをかばうように立った。
僕はようやく受話器に向かって叫ぶ。
「He’s inside! Please, hurry!」
そのときだった。
外から、今度ははっきりと船のエンジン音が聞こえた。
一つじゃない。
複数だ。
レストラン棟の外で、強いライトが雨の中を横切る。
管理人の動きが、ほんの一瞬だけ止まった。
僕もこばも、それを見逃さなかった。
「警察だ!」
僕が叫ぶ。
直後、外から怒鳴り声が響いた。
「Police! Drop the weapon!」
レストラン棟の入口側から、強いライトが一気に差し込む。
白い光が室内を塗りつぶす。
管理人が目を細める。
初めて、その顔に人間らしい迷いが浮かんだ気がした。
「Drop it! Now!」
もう一度、怒声。
入口と割れた窓の両方から、雨具を着た警官たちが踏み込んでくる。
銃口が一斉に管理人へ向く。
僕たちはその場で固まった。
こばも、大志も、息を切らしたまま動けない。
管理人はナイフを握ったまま、しばらく立ち尽くしていた。
その沈黙が、異様に長く感じた。
雨の音だけが響く。
やがて、
カラン
乾いた音を立てて、ナイフが床に落ちた。
その瞬間、警官たちが一斉に飛びかかった。
管理人はほとんど抵抗しなかった。
床に押さえつけられ、腕を背中へ回されても、叫びもしない。
ただ、濡れた床に頬をつけたまま、遠くを見るみたいな目をしていた。
「……終わった」
僕はその場にへたり込んだ。
膝に力が入らない。
受話器が手から滑り落ちる。
こばが大きく息を吐いた。
大志は壁にもたれ、そのままずるずると座り込む。
大樹はまだ意識がはっきりしないのか、ぼんやりした顔で警官たちを見ていた。
ウッチーはほとんど泣きそうな顔で、小さく笑った。
「……助かった?」
こばが短く答える。
「ああ」
その一言で、ようやく胸の奥の何かが切れた。
緊張が一気にほどけて、全身から力が抜けていく。
外ではさらに別の船の音が近づいてくる。
応援だ。
本当に終わったんだ、と、そのとき初めて少しだけ思えた。
床に押さえつけられていた管理人が、ふいに小さく口を開いた。
誰に向けたのかも分からない声だった。
「……楽しめましたか」
僕はその言葉を聞いて、全身がぞっとした。
最後まで同じなんだ、と思った。
人を殺して、人を埋めて、それでもなお、その言葉しか出てこない。
もう怒りより先に、ただ寒気だけが残った。
外の雨はまだ激しく降っていた。
でもその音は、もうさっきまでとは違って聞こえた。
閉じ込める音じゃない。
終わりを告げる音だった。




