狂人と嵐その5
ようやく宿泊棟が見えた。
雨に煙った視界の向こうで、ぼんやりと灯りが滲んでいる。
僕は階段を駆け上がり、部屋の扉を乱暴に開けた。
「起きろ!」
息を切らしながら叫ぶ。
でも返事はない。
部屋の中は薄暗く、ストーブの火だけが赤く揺れていた。
大樹はベッドの上で完全に眠っている。
ウッチーも動かない。
大志だけが、うっすら目を開けていた。
「……よいち」
かすれた声だった。
「管理人が……」
「いいから起きろ!」
僕は大樹の肩を揺さぶる。
「起きろって!」
重い。
体がだらんとしていて、ほとんど反応がない。
ウッチーも同じだった。
「くそっ……!」
そのとき、廊下の向こうから何かがぶつかるような音がした。
僕の体が強張る。
一瞬、もう来たのかと思った。
でも違う。
その足音は重くて、少しふらついていた。
扉の影から現れたのは――こばだった。
「こば!」
思わず駆け寄る。
こばは肩で息をしていた。
額の横が切れているのか、雨か血か分からないものが頬を伝っていた。
片方の腕を押さえている。
「……なんとか撒いた」
苦しそうに言う。
「椅子ぶつけて、その隙に」
その言葉に少しだけ安堵しかけたけれど、こばはすぐ顔を上げた。
「すぐ来る」
「鍵」
僕は扉を閉め、震える手で鍵を回した。
ガチャ、と小さな音が鳴る。
それだけで少し安心した気がした。
でも、こんな薄い扉一枚で何が変わるんだとも思った。
こばはすぐに部屋の中を見回した。
「状況は」
「大志は少し動ける」
「大樹とウッチーは無理」
「……最悪だな」
吐き捨てるように言って、こばは窓の外を見た。
雷が光った。
一瞬だけ、濡れたテラスが白く浮かび上がる。
「どうする」
僕が聞くと、こばは数秒だけ考え込んだ。
それから部屋の中央のストーブを見た。
「世一」
「ん?」
「この部屋、出口は扉とテラスだけだよな」
「うん」
「なら、テラスから下りる」
僕は目を見開いた。
「外?」
「正面から出たら鉢合わせる」
こばは短く言った。
「下は藁の地面だ。飛び降りても死にはしない」
たしかにそうだった。
この建物は高床式だけど、そこまで高くはない。
怪我はするかもしれない。
でも、あの管理人と一緒の廊下に出るよりはましだった。
「大樹を先に運ぶ」
こばが言う。
「そのあとウッチー」
「大志、お前は歩けるな」
大志はふらつきながらも、かろうじてうなずいた。
「……うん」
「よし」
僕たちは急いで動き始めた。
こばと二人で大樹を抱える。
重い。
さっき湖であんなにはしゃいでいた体が、今はただの重荷みたいだった。
そのときだった。
ドン
扉の向こうで、何かがぶつかる音がした。
全員の動きが止まる。
ドン
まただ。
今度ははっきり分かった。
扉を叩いている。
「……来た」
大志がかすれた声で言った。
次の瞬間、
ドン!
今度はさっきより強かった。
鍵がわずかに揺れる。
こばが低く言う。
「急げ」
僕たちは大樹を抱えたままテラスへ向かった。
ガラス戸を開ける。
冷たい風と雨が一気に吹き込んできた。
ストーブの火が大きく揺れる。
下を見ると、藁の地面が雨に打たれて黒く見えた。
「先に下ろすぞ」
こばが言う。
僕たちは大樹の体を手すり越しに支え、なんとか下へ落とさないように下ろしていく。
そのとき、
バキッ
扉の向こうで、嫌な音がした。
木が裂ける音だった。
こばが振り向く。
「……やばいな」
鍵がもたない。
僕は唇を噛んだ。
やるしかない。
「世一!」
こばの声で我に返る。
僕は必死に大樹の体を支えた。
大樹の足がようやく藁の地面に触れる。
下では大志がふらつきながら大樹を受け止めていた。
その瞬間、
ガン!
ついに扉が大きく内側にたわんだ。
「次、ウッチーだ!」
こばが叫ぶ。
僕たちはすぐに戻り、今度はウッチーを抱える。
ウッチーは意識が浅いのか、かすかにうめき声を漏らした。
「ウッチー、大丈夫、大丈夫だから」
自分に言い聞かせるみたいに僕は呟いた。
ドン! ドン!
扉を叩く音が続く。
まるで時間切れを知らせるみたいだった。
僕たちはウッチーをなんとかテラスの外へ滑らせる。
雨で手が滑る。
腕に力が入らない。
それでも落とさないように必死で支えた。
そのとき、
バキン!
鍵の部分がとうとう外れた。
扉が半分ほど開き、暗い廊下の向こうに――管理人が立っていた。
煙のような雨の向こうから、静かに部屋を見ている。
こっちを見つけても驚いた様子はない。
ただ、そこにいる。
それがまた怖かった。
「遅いですね」
小さく、そう言った。
「こば!」
僕は思わず叫ぶ。
こばが反射的に近くのランプを掴んで投げつけた。
ランプは管理人の足元で割れ、大きな音が響く。
その隙に、僕はウッチーを下へ落とすように手放した。
鈍い音がして、藁の上に体が沈む。
「世一、飛べ!」
こばの声。
僕は手すりを越えた。
落ちる瞬間、こばが椅子を蹴り上げるのが見えた。
管理人の足元へ飛んだ椅子がぶつかり、わずかに動きを止める。
次の瞬間、僕は藁の地面に転がり落ちていた。
全身に衝撃が走る。
息が詰まる。
「っ……!」
雨が顔を叩いた。
大志が駆け寄ってくる。
「世一!」
「こばは!?」
その瞬間、上で激しい物音がした。
木がぶつかる音。
誰かが息を荒げる音。
そして――
ドサッ
重い音がして、こばがテラスから落ちてきた。
藁の地面に転がる。
「こば!」
僕たちは駆け寄る。
こばはうめきながらも、なんとか意識はあった。
「……っ、腕やったかも」
「立てる!?」
「立てる……まだ」
こばは歯を食いしばって起き上がった。
そのとき、テラスの上に管理人が現れた。
雨の中、見下ろしている。
ナイフを持ったまま。
少しも慌てていない。
「もうやめてください」
静かな声だった。
「無駄です」
「ふざけんな!」
僕が叫ぶと、管理人は首を傾げた。
「では、どこへ行くんです」
その言葉に、一瞬みんなが黙る。
船は壊されている。
電話はない。
嵐で湖は荒れている。
島の外には出られない。
こばが低く言った。
「隠れても意味ない」
こばは痛む腕を押さえながら、雨の向こうのレストラン棟を見た。
「警察に連絡するしかない」




