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トトラ  ~方舟読んだ方おすすめ~ ~ホラー好きな方おすすめ~  作者: るらべー


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狂人と嵐その4

ボート乗り場に着いたときには、息が切れていた。


胸が痛い。

喉の奥が焼けるみたいに熱い。


雨はもう本降りだった。

湖の水面は黒く荒れ、昼間の静けさはどこにもない。

風に煽られて、ボート自体が不規則に揺れている。


「早く……」


僕が言うより早く、こばが船に飛びついた。

ロープを外そうとして、でも次の瞬間、その動きが止まる。


「……嘘だろ」


その声で、僕も駆け寄った。

エンジンのカバーが外されていた。

配線がむき出しになっている。

何本かは、明らかに切られていた。


一瞬、何を見ているのか分からなかった。

でもすぐに理解する。

逃げられない。

最初から、そのつもりだったんだ。


「最初から……」


こばが低くつぶやく。


「逃がす気ない」


風が強く吹いた。

雨粒が顔に叩きつけられる。

仮に船が動いたとしても、この波じゃ出せない。

そんなことは見れば分かった。

それでも、その壊された配線を見た瞬間、胸の奥がすっと冷たくなった。

もう後戻りできない。

そう言われた気がした。


そのとき、背後で足音が止まった。


僕たちは同時に振り向く。

少し離れた藁の道の上に、管理人が立っていた。


雨に濡れた服が体に張りついている。

右手には、まだナイフが握られていた。

でも何より怖かったのは、その顔だった。


怒っていない。

焦ってもいない。

追い詰められた人間の顔じゃない。


ただ静かに、そこに立っていた。


「……逃げられません」


その声は、嵐の音より静かだった。

なのに、妙にはっきり聞こえた。


「この島からは」

「誰も」


こばが僕の前に出る。


「何者なんだよ、お前」


管理人は少しだけ首を傾げた。

その問いの意味が、本当に分からないみたいだった。


「何者……?」


しばらく考えるように黙ったあと、ぽつりと言う。


「昔は、宿泊客でした」


僕はその言葉をすぐには理解できなかった。

宿泊客。

でもその響きが、逆にぞっとした。

この人は、最初から管理人としてここにいたわけじゃない。

ある日、僕たちみたいに“泊まる側”としてこの島に来た。

その事実が、どうしようもなく気味悪かった。

管理人は湖の方を見たまま続けた。


「十年以上前です」

「そのときは、まだただの客でした」


風が吹き、雨が顔を打つ。


「でも、あの頃は追われていた」

「見つかれば終わりだった」


こばが何か言おうとした。

でもその前に、管理人が静かに続ける。


「人を殺していたので」


その言い方があまりにも平坦で、僕は息を呑んだ。

まるで、昨日何を食べたかを話すみたいな口調だった。

そこに罪悪感も、後悔も、開き直りすらない。

ただ事実だけを置いていく。

それが怖かった。


「この宿に泊まって」

「管理人に怪しまれた」

「警察に連絡すると言われた」


僕の頭の中で、ひとつの光景が勝手に浮かぶ。


十五年前の夜。

今みたいに風が強くて、湖が暗くて。

そこに一人の客がいて。

管理人は、その客の正体に気づいてしまった。


そして殺された。


「だから……殺したんですか」


自分でも、驚くほど小さい声だった。

管理人はゆっくり僕を見た。

その目には、何もなかった。


「仕方なかったんです」


その静けさに、背中が粟立った。


「通報されたら終わりだった」

「だから先に殺した」


雷が光った。

一瞬だけ、その顔がはっきり照らされる。

初めて見たときから感じていた違和感の正体が、ようやく分かった気がした。

この人は、もうずっと前から普通の人間のふりをしていただけなんだ。


「最初は、それだけのつもりでした」


管理人は静かに続けた。


「でも」


そこで初めて、ほんの少しだけ口元が動いた。

笑ったわけじゃない。

でも何かを思い出したみたいに、わずかに表情が揺れた。


「ここは、都合がよかった」


僕は何も言えなかった。


「船がないと来られない」

「人が少ない」

「電話もつながらない」

「一人で管理していても、不思議じゃない」


雨の音の向こうで、その言葉だけがやけにはっきり届く。


「だから、ここにいた」

「管理人のふりをしたら

「思っていたより簡単でした」


簡単でした。


その一言で、全身の血の気が引いた。


十年前に人を一人殺して。

そのあと、何年も管理人のふりをして。

人を泊めて。

殺して。

金を奪って。

藁の下に埋めて。

この人には、何かが決定的に欠けている。

こっちが怯えていることも、

ここで何人死んだのかも、

十年前に自分が何を始めたのかも、

全部、ちゃんと分かっているはずなのに、

そのどれにも感情がついていない。


ただ、必要なら人を殺す。

そういう人間が、目の前に立っている。

しかもナイフを持ったまま。


こばが僕にだけ聞こえるくらいの声で言った。


「時間を稼ぐ」

「え」

「その間に戻れ」


僕はすぐには意味が分からなかった。


「大樹たちのところまで行け」

「今ならまだ……」

「無理だ」


自分でも情けないくらい弱い声が出た。

こばはそれでも僕を見た。


「やるしかない」


その言葉で、少しだけ現実に引き戻される。

そうだ。

怖がってるだけじゃ終わる。


でも足はすくんでいた。

管理人から目を離した瞬間、背後に回られそうな気さえした。

管理人は、僕たちの小さなやり取りを聞いていたはずなのに、何も言わなかった。

ただ静かに立っている。


「なあ」


こばが前に出る。


声は落ち着いていた。

でも無理をしているのが分かった。


「金ならやる」

「荷物も置いていく」

「だから通してくれ」


管理人は何も言わない。

ただ、雨の中で僕たちを見ている。

まばたきすら少ない。

その沈黙が、時間を変に引き延ばしていた。

こばは続ける。


「三人は眠ってるだけだ」

「今なら――」


その瞬間だった。


管理人が動いた。


何の前触れもなく、一気に距離を詰めてくる。

あまりに急で、僕は一瞬、何が起きたのか分からなかった。


「世一、行け!」

こばの叫びで、ようやく体が動く。


管理人の肩がこばにぶつかる。

二人がもつれる。

ナイフが暗闇で鈍く光った。


「こば!」


「行け!」


僕は歯を食いしばって走り出した。

背後で争う音がする。

でも振り返れなかった。

振り返ったら、足が止まる気がした。


藁の道を、さっき来た部屋へ向かって全力で走る。


雨が一気に強くなる。

足元が滑る。

何度も転びそうになる。


それでも止まれない。


背後に、あの無表情のままの顔が迫ってきている気がして、

ただ前へ走るしかなかった

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