エピローグ
ウロス島の事件から数日後、僕は警察に呼ばれていた。
追加の確認があると言われ、小さな部屋に通される。
机の上には、予約確認メールのコピーや、僕たちの証言をまとめた書類が並んでいた。
窓の外は曇っていた。
南米を出る日だというのに、空はひどく重たく見えた。
担当の捜査官は、何枚かの資料をめくったあと、静かな声で言った。
「宿泊していたホテルについて、分かったことがあります」
僕は顔を上げた。
「ネットに掲載されていた電話番号ですが、あれは本来のホテルの番号でした」
「本来の……?」
捜査官はうなずく。
「十年前まで、このホテルを管理していた人物が使っていた番号です」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が冷たくなった。
十年前。
本物の管理人が殺された時期と同じだった。
「ただ、その後ホテルは事実上休業状態になっていました」
「ですので、その番号に今かけても当然つながりません」
僕は黙っていた。
頭の中で、あの日の港の景色がゆっくり蘇ってくる。
どうやってホテルへ行けばいいのか分からなくて、
僕たちは近くにいた現地の男に電話を頼んだ。
あの、自分をツアーガイドだと名乗った男だ。
彼はネットに載っていた番号に電話をかけ、
それから僕たちに向かってこう言った。
「つながらないな」
「この番号はダメみたいだ」
あのときは、何もおかしいと思わなかった。
でも今なら分かる。
ダメだったのは当然だったんだ。
その番号は、もう十年前に止まったままの、本物のホテルの番号だったんだから。
捜査官は、もう一枚の紙を僕の前に置いた。
「問題はこちらです」
そこには、僕たちの予約確認メールに記載されていた電話番号が印字されていた。
「この番号は、本来のホテルとは無関係の携帯番号でした」
僕は一瞬、息を止めた。
「無関係……?」
「ええ」
「そして調べた結果、この番号はホテルで管理人を名乗っていた男が使っていた端末につながっていました」
僕は何も言えなかった。
机の上の数字を見つめたまま、思考だけが遅れて追いついてくる。
ネットの番号は、本物のホテルの番号。
でももうつながらない。
予約メールの番号は、偽管理人の番号。
つまり、僕たちが実際に連絡を取った相手は――
最初から、本物のホテルなんかじゃなかった。
僕たちは、藁島へ行く手段を探していたつもりだった。
でも本当は、偽物の管理人につながるための番号を掴まされていただけだった。
そこで、ようやく気づく。
「あのガイド……」
僕は小さくつぶやいた。
捜査官が顔を上げる。
「港にいた男です」
僕は言った。
「最初、ネットの番号にかけてもらったんです」
「そのあと、予約メールを確認して……こっちの番号にかけてもらった」
そこまで言って、僕は言葉を止めた。
いや、違う。
思い出してみれば、あの流れはあまりにも自然すぎた。
ネットの番号がダメだと分かる。
僕たちが予約メールを見返す。
別の番号が見つかる。
じゃあ、こっちにかけてみよう――
あのときは、自分たちで“正しい番号”を見つけたつもりだった。
でも、違ったんだ。
本物の番号が休業中でつながらないことを、
あの男は最初から知っていた。
だからこそ、僕たちが不審に思わないように自然に流したんだ。
「こっちの番号はダメだ」
「じゃあ予約メールのほうにかけよう」
そういう流れに、僕たちを乗せた。
僕はゆっくりと顔を上げた。
「……休業中だって、バレないようにしたんだ」
捜査官は何も言わなかった。
でも、その沈黙が答えだった。
もしあのとき、港で
「このホテル、ネットの番号が死んでるのに大丈夫か?」
と少しでも強く疑っていたら。
もし、あの場で予約メールの番号へかけ直さなければ。
僕たちはあのホテルへ行かなかったかもしれない。
でも実際には、僕たちは行った。
自分たちで予約メールを開いて、
自分たちで「こっちが正しい番号なんだ」と納得して。
その選択が、もう罠だった。
事情聴取が終わったあと、僕は空港へ向かった。
ロビーにはもう、大樹たちがいた。
大樹は椅子に深く座り込み、ウッチーは窓の外をぼんやり眺めている。
大志は珍しく静かで、こばは固定された腕を押さえたまま前を見ていた。
僕は誰にも、その話をしなかった。
言えばよかったのかもしれない。
でも、言えなかった。
管理人が捕まった。
事件は終わった。
そう思いたかったからだ。
藁島で起きていたことは、あの島の中だけで完結していたと、そう信じたかった。
でも、本当は違った。
港にも、もう一人いたんだ。
あの島へ人を送るための人間が。
搭乗まで少し時間があったので、僕は何気なくスマートフォンを開いた。
写真フォルダの中に、一枚の画像が残っている。
港のベンチで撮ったものだった。
予約確認メールの画面。
その横に、あの男が置いた名刺が写っている。
僕はその写真を見つめた。
ツアーガイド。
親切な現地の人。
迎えが来るまでの時間を埋めてくれた男。
その全部が、今では別の意味に見える。
彼は、僕たちを助けたんじゃない。
本物のホテルが休業中だと気づかれないように、
自然に偽管理人の番号へつなげただけだった。
つまりあの時点で、
僕たちはもう島へ送られていたんだ。
そのとき、スマートフォンが一度だけ震えた。
知らないアドレスから、メールが届いていた。
件名はなかった。
本文には、たった一行だけ書かれていた。
The old number was never for you.
息が止まった。
画面を持つ手が、ゆっくり震え始める。
古い番号。
それは、本物の管理人の番号だ。
十年前に止まり、
もう二度とかからないはずの、本物のホテルにつながる番号。
それが“君たちのための番号じゃなかった”。
つまり――
最初から僕たちは、本物の宿へ行くことなんてできなかった。
本物につながる道は、最初から閉じられていた。
そしてあの男は、それを知ったうえで、
僕たちを偽物のほうへ案内したんだ。
僕はゆっくりと画面を閉じた。
大学生活最後の旅行。
最後くらいはゆっくりしよう。
静かな湖の上のホテルで、何も考えずに休もう。
そう思って選んだ場所の入口には、
最初から罠が用意されていた。
僕たちは生きて帰る。
管理人は捕まった。
それでも最後まで消えなかったのは、
あのホテルで人を待っていたのは、
あの偽管理人だけじゃなかった、という事実だった。
飛行機がゆっくりと動き始める。
窓の外の景色が流れていく。
もう二度と、見知らぬ土地で差し出される親切を、簡単には信じられないだろう。
それが、あのホテルから持ち帰った
唯一の教訓だった。




