5・旦那様は決意する(sideクイン)
執務室へ向かうために屋敷の廊下を歩きながら、俺——クイン・ハルバートは胸の中に残る熱を感じていた。
脳裏に浮かぶのは、先ほど廊下で見かけたメリッサの姿だ。
大量の書類をまき散らした執事長を気遣い、なんのためらいもなく書類を拾うことを手伝った。
それだけではなく、たった一目見ただけで計算の間違いに気づき、鮮やかな手際で正してみせた。
婚前に身元調査をしたときには『無能な次子』と評価されていたことは小耳にはさんではいたが、彼女のどこが無能なのか。
あれほどの聡明さをもちながらも謙虚にふるまう彼女を、どうしてさげすめるのだろう。
(お前は一体、どれほどのものを隠してきたんだ)
結婚初夜、俺は彼女に「愛すつもりはない」と告げた。
家の存続のため、俺はどうしても結婚しなければならなかった。
正直気乗りはしなかったが、国王から命じられればさすがに身を固めざるを得ない。
しかし、身内すら容赦なく裁いてきた俺は、貴族社会で『嫌われ公爵』と呼ばれ忌み嫌われている。
結婚相手探しは、予想よりもはるかに難航を極めた。
そんななか、ようやく結婚までこぎつけられたのがメリッサだった。
俺の妻になれば、敵の多い俺の巻き添えになり、妻のメリッサまで嫌がらせだけでなく命の危険にすら晒されるかもしれない。
それはさすがに本意ではなかった。
だからこそ、俺は「妻としての振る舞いを求めない」と言った。
彼女を突っぱね、遠ざけることで守ろうとした。
(そんなのは俺の逃げで、ただの言いわけだ)
気配を消し、俺の視界に入らないように過ごしているメリッサのことを思うたび、胸が痛んだ。
誰よりも孤立するつらさを知っているはずの俺が、自らの手で彼女を日陰に追いやっていた。
彼女は、俺が『嫌われ公爵』と呼ばれていることを知った上で、そばに来てくれたというのに。
(こんなにまで、彼女に惹かれるなんて思わなかったんだ)
色白で華奢な彼女を初めて見た時、ふわふわとしてずいぶんと頼りない娘だなと思った。
そもそもメリッサは、25の俺より7つも年下だ。
彼女としても俺のことを異性としては意識しにくいだろうし、俺だってそういう目で見られないだろうと思っていた。
それなのに、あの夜俺の手をぎゅっと握りしめてきたメリッサの、柔らかくて小さな手が忘れられない。
真っすぐに俺を見上げてきたラベンダー色の瞳の輝きが、頭の奥に焼き付いて離れない。
あらゆる汚職を暴き、誰に対しても心を閉ざしていたはずの俺が、たった一度の温もりと真っすぐな眼差しにこうもあっけなく心を奪われた。
……日頃みなに恐れられて仕事ばかりと向き合ってきた。おまけにろくに女性と接してこなかったツケが回ったのだろう。
自分でも呆れるほどの単純さだが、俺を恐れることなく直視してきた彼女に、すっかり恋に落ちてしまっていた。
(だが、メリッサは俺を嫌っているだろう)
あの夜からメリッサは徹底的に俺を避け、俺の視界に入らないように生活している。
どう考えても、あの日の発言が原因だ。
(馬鹿だな、俺は)
今更後悔しても遅いというのに、あの日の自分の言葉を悔やんでならない。
短く息を吐いて、俺は執務室の扉を開ける。
机の前に腰を下ろしたその時——。
「「旦那様!!」」
「うわ……っ!」
メイド長と執事長が執務室の扉を押し開けて、俺の元まで駆け寄ってきた。
二人とも、かつて見たことがないほどに目を血走らせているように見える。
「旦那様……! わたくしもう我慢なりませんわ!」
「何があった……落ち着いて話してくれ……」
大きな声でキンキンと叫ばれては耳が痛くてかなわない。
俺は耳を押えながらノエラを落ち着かせるように声をかける。
けれどもあまり効果はなかったようで、ノエラはまくしたてるように続けた。
「奥様は『旦那様のため』だとおっしゃって、お食事をお一人で召し上がっておられるのですよ!? ドレスも宝石もねだらず、シェフのお菓子だけを所望されて……。健気にもほどがあります!!」
「そ、そうなのか……」
ノエラの口から語られるメリッサの様子に、俺はほんの少しだけ安堵する。
俺の目からは、メリッサの日常を観測することができないから。
それなりには落ち着いて過ごしているのだな……と思ったのもつかの間。
「それなのに旦那様と来たら……! 男として、夫として、恥ずかしくはないのですか……! あの方は、日陰にいて良い方ではありません!」
ノエラは俺を責め立てるように言った。
「そうです! あの方は、かなりの枚数があったはずなのにもかかわらず、書類のミスを一瞬で見抜いてくださいました! あれほどの頭脳を持ちながらも旦那様を立て、あえて自室に閉じこもっておられるのですぞ!? あのような聡明で謙虚なお方を放置するなど、ハルバート公爵家の名折れ! 見損ないましたぞ……!」
「……っ」
普段は口数の多くないはずの執事長からも続けて責められ、俺は言葉に詰まってしまった。
(俺だって、好きで放置しているわけじゃない……!)
喉まで出かかった本音をどうにか飲み込む。
言葉を探す俺を見かねたのか、ノエラははぁとため息をつくと、仕方がない子どもを見るような視線を向けた。
「旦那様のお考えは、おおよそ察してはおります。奥様を突き放したのは、奥様を身の危険から遠ざけるためでございましょう」
「それは……」
「それでも……『俺が守ってやる!』くらいの気概はないのですか。何のための地位と権力なのですか!」
「!」
ノエラの言葉に、がつんと頭を殴られたような衝撃を受けた気がした。
はっと、目が覚めたような心地だった。
「やはり……俺は間違っていたのか」
独り言のようにつぶやくと、より強く実感する。
俺は間違っていた。
俺は……何を臆病になっていたのだろう。
公爵という地位があるだから、こういう時にその権力や財力を生かさなくてどうするのだ。
彼女に惹かれてしまったことを自覚しているのなら、嫌われてしまったと後悔するのなら。俺の持ちうる力すべてを使って、これから好かれるように努力すればいいではないか。
もしもメリッサの身を脅かす者が出てくれば、すべていつものように厳正な対処をすればいいだけだ。
「……今からでも、間に合うだろうか」
「もちろんですよ、旦那様!」
独り言のようにつぶやいた俺に、ノエラたちはしかとうなずいた。
「決めた。明日からメリッサを正しく『公爵夫人』として扱い、望むものすべてを与えよう」




