第44話 逃れ得ぬ試練
あの場に大人しく留まっていてくれるかどうかも疑わしいが、どうするのが正解かもさっぱり分からないので、知っていることから考えるしかない。
「ニアさん。道順は?」
「知ってる。一応、昨日のうちに地下四階までは降りてみたからね」
「……早すぎません? ソロですよね」
「ちゃんと安全マージンは取ってたよ。自分の戦い方が通用するかどうか確かめながら降りたし、万が一に備えてポーションと食料も揃えていたし。ただレッサーウルフ三匹同時に出てきたときは……ちょっと危なかったけどね」
「それでも無傷で切り抜けた、と」
「ふふーん。こう見えて、ぼくってけっこう強いんだからね」
恐慌状態は抜け出せたのか、あるいは意識して強がっているのか、ニアは表情を明るくしてみせた。
ある程度の実力を持っているからこそ、ミノタウロスの危険度も、現実的に理解できてしまったのだろう。
「先導します。僕が記憶違いしていたら教えてください」
テイルはそれなりに広い地下二階の経路をおおよそ把握していた。
もちろん細部については曖昧だが、自分が降りてきた階段から、地下三階へ続くルートについては何度も往来した経験があった。
予想ではあの怪物以外のモンスターはいないと想定していたが、一応、警戒しつつ最短ルートを早足気味に進み、ミノタウロスから充分に距離を取った段階からは駆け足になった。
テイルが前を走り、ニアが少し遅れてついてくる。
足音や装備品でうるさくならないよう全力疾走とはいかなかったが、それほど長くかからずに、地下三階階段前にある十字路までたどり着いた。
この十字路を左に曲がれば、まっすぐな通路がある。
通路の先に広間がひとつ。部屋のすぐ向こうに大階段が見えるはずだ。
「はぁ……はぁ……走ると、けっこう、長かった」
「これでも短い方ですけどね。次の階まで歩いて二十分で進めるなんて、地下三階以降だと考えられないくらい近いですよ」
「それも、そうだけどっ」
「階段が階層の両端に設置されているわけじゃないですし。この地下二階でもルートを知らなかったら、半日くらい迷うかもしれませんが」
角を曲がる前、なんとはなしに《狂奔》の方角を振り返った。二人ともが。
昇り階段前の広間から追いかけてきてはいないか。
不安はずっとぬぐえなかった。
巨体だし、斧も持っているから、近くに来ていたら物音くらいはするだろう。
何も聞こえてこないことに安心し、ひとまず安堵の息を吐き出した。
「すぐには帰れそうにはないですけど、仕方ないですね」
「まあまあ、とりあえず、無事に避難できたことを喜ぼうよ」
そして二人は、地下三階への通路に入った。
少しだけ歩いた先には、記憶にある通りの天井の高い広間が――
「とびら?」
「なに、あれ」
ニアが昨日、テイルは数日前に通った広間前に、見覚えのない扉があった。
通路と広間のちょうど境目に、重厚な意匠を施された金属製の巨大な扉が設置されている。
虫の一匹すら通さないと示すように、一切の隙間がなかった。
「なんで扉が!? 昨日はこんなものなかったはずだ!」
「ここに来るまでのルート、僕が間違えました?」
「……いや、ぼくの記憶とも一致してた。二人ともが同じ勘違いはしていないと思う」
テイルは目の前の、逃げ道を塞ぐようにして閉ざされた扉を調べ始めた。
扉のくせに取っ手、ドアノブのたぐいがない。
ほとんど壁である。
どうにかして開けられないかと、押したり引いたり体当たりしてみたりと色々試したが、肩を痛めただけだった。
仰々しい意匠に指先が引っかかったから、それをとっかかりとして右や左に動かそうとしてみたが、それも無駄だった。
呆然としていたニアも、テイルにならって同じようにした。
やはり扉は開かない。
固く閉ざされていて、力付くでどうにかなりそうな感じもしない。
一度は剣でこじあけようとしたが、ピクリとも動かなかった。
「……これ、まさか」
テイルが気がついたことに、ニアもすぐに思い至ったようで、彼の言いたい内容を引き継いだ。
「試練の間だ、って言いたいの?」
「教えてもらった試練の扉と同じ……いえ、よく似てます。まったく同じかどうかは分かりませんが、少なくとも聞いた特徴との違いが、ないような」
「ここは地下二階なのに!?」
「でも、《狂奔》のミノタウロスがいて、先に進むことを禁じられている。聞いたことのあるシチュエーションそのものですが」
「だとしたら、地上へ向かう道も」
「同じ扉で封鎖されてそう、ですね」
地下三階に降りれば、助けを呼べると思った。
誰かに任せられると考えていた。
甘い考えだった。
どうやら、聞くだけでもうんざりする地下十階の試練の間と同じ状況が、ここ地下二階全体に発生しているらしい。
「つまり」
「《狂奔》を倒すか、死ぬかしないと、この扉は消えてくれない」
「……なんで」
「わかりません」
「どうして、ぼくたちがこんな目に?」
「さあ、それも分からないです」
「くっ」
それまでなんとか耐えていたらしきニアが、扉を蹴りつけた。そうしたくなる気持ちはテイルにもわかった。
「戦う? アレと?」
「……ニアさん」
「無理だ! 無理だよ……あんなの相手に勝てるはずがない!」
特徴や行動パターンの違う固体を指し示して、特殊固体と呼ぶ。
階層主として、巨大だったり、特別強かったり、あるいは何らかの固有能力を持ったモンスターは、ボスと呼ばれる。
その二つの特徴を併せ持った狂奔のミノタウロスは、その威容は、まさに死と暴力の体現であった。
勝ち目がない。
彼我の戦力を冷静に見る目があれば、それ以外の答えは出てこない。
ニアは震えていた。いっときは逃げる希望があったから、その恐怖から目をそらすことができたようだった。
今は、最悪の事態を想像するしかない。
「……テイルくん、なんでそんなに落ち着いてるの? わた……ぼくさ、この手のひらを見てよ。ずっと震えが止まらないんだ」
手のひらに視線を向けていたテイルの目を、ニアが覗き込んできた。
その瞳は潤んでいた。ほとんど涙目で、でもかろうじて泣いていない、しかし恐怖と悔しさと、それを上回るくらいの期待が滲んでいた。
「あいつに見つかったら、狙われたら、たぶん何にもできないで殺される。きみだってそうだ。追われたら逃げ切れない。絶対に死ぬ危険があんなに近くにあるのに、さっきからずっと冷静なのはどうして?」
ニアが求める答えは、この窮地から抜け出せる手段を持っているから、あるいは一発で解決しうるアイデアの存在だろう。
期待されているのは分かるが、テイルはゆっくり首を横に振った。
「こんなところで死ぬ気がないだけです」
「なに、その理由」
ニアが怪訝そうにするのを、テイルは、それまでずっと険しい顔でいたのを解き放ったかのように、微笑を浮かべ、こんな大望を述べた。
「僕は、人生を謳歌したいんですよ。いつか死ぬその日まで、なるべく後悔のない日々を送りたい。今はまだそのための助走期間でしかない。やりたいこと、叶えたい夢、やってみたいこと。山程あるんです」
「……ええー?」
何を言い出すのかと身構えたニアだったが、テイルの言葉を耳にした途端、本当に何を言っているんだろうこの子は、みたいな顔をした。
「あんなミノタウロスごときで、いちいち死んでられませんからね」
テイルは、にやりと笑ってみせた。
ここまで見せなかったような、ちょっと格好つけた表情だった。
「あははっ、なにそれ。……だったらさ、テイルくんの今一番やりたいこと、ひとつでいいから教えてくれる?」
緊張を和らげるための冗談だと思ったのか、それとも。
ニアは、テイルの芝居がかった台詞と動きに、さっきまでの恐怖を忘れたように吹き出してしまった。
それから表情を改めて、やりたいことの中身を尋ねる。
それは同い年くらいの子どもの強がりか遺言を聞くような、そんな気高い気分であったのかもしれないが、テイルは少し悩んでこう口にした。
「誰が見ても絶対に勝ち目がない《狂奔》を、二人だけでぶっ殺す、とか」
「あははっ、いいよ! それ、すごくいい! ……本当にそれができたら面白そうだし、すごすぎるよね……」
「ニアさん、情緒不安定すぎません?」
ニアの声には絶望と諦めと、ついでに投げやりさが混じっていた。
テイルは再確認の意味もこめて、現状のどうしようもなさを口にした。
「《狂奔》のミノタウロスは、地下十階の番人として知られています。では、あいつに挑むために、なぜ充分な準備の必要があるのか。どうして準備してなお数多くの犠牲者が生まれるのか」
もし貴方が《狂奔》に挑むのなら、そこには栄光か死しかない。
有名なフレーズであり、そのまま言葉通りの意味でもある。
負ければ、死ぬか再起不能になる。勝てば先へ進める資格を得られる。
その二択を強要されるのが、狂奔のミノタウロスであり、試練の間だ。
「問題の広間、いわゆる試練の間と呼ばれている区画に一歩でも踏み込むと、狂奔のミノタウロスを倒すか、パーティーメンバーの半分が死ぬまで、絶対に前後の扉は開かない――そんな最悪のギミックが存在しているからです」
このダンジョンは浅瀬で遊んでいるだけの初心者には優しく、先へ進もうとする冒険者には厳しい。
いや、底意地が悪い、と言うべきだろう。
《狂奔》のミノタウロスの危険さと、悪辣さの半分は、そのギミックによって成立している部分もある。
六人パーティーなら三人が、四人パーティーなら二人殺されれば、来た道の側にある閉ざされた扉は開く――逃げることが可能になる。
では三人や五人の場合は、とテイルは当然の疑問を抱くが、わざわざそれを確かめた者はいない。
犠牲者など一人も出ないほうが良いに決まっているからだ。
テイルは、ニアと出会ってからこれまでで一番長く息をはきだした。
「聞いた話によれば、かの《狂奔》のミノタウロスは、試練の間で挑むとき――絶対に一匹でしか出現しないそうです。そして今この地下二階に、一切のモンスターが見当たりません。つまり、そういうことでしょう」
「……うん」
「試練の間に踏み込む――狂奔のミノタウロスと戦うあいだ、前後の扉はどちらも閉まったままです。結果が出るまでは他の冒険者の乱入もありません。狂奔を倒し先に進む資格を得るか、惨たらしく殺されて冒険が終わるか。結末は二つしかない」
聞きかじったその仕様が、完全にそのまま適用されているかは分からない。
ここは本来試練の間がある地下十階ではないからである。
あるいは何らかの違いによって、逃げられる可能性もなくはない。
しかし、それすら賭けになる。希望的観測にすがるだけの、失敗したら無駄死にするしかなくなる、良くない賭け方だ。
賭けに負けるのも判断ミスで死ぬのも仕方がない。だが、勝ち筋があるかを確かめずに、ただ負けるしかない勝負に全賭けするのは馬鹿らしい。
なんでこんなことに、とテイルは思った。ニアも同じだろう。嘆いていても解決はしてくれない。
やるべきことをやるしかなく、できることを探すべきだった。
「戦わずミノタウロスの脇を通り抜けて、階段へと駆け込む。それが成功する可能性はあります。僕たちはまだ、地下一階への階段がどうなっているかを確かめていないから」
しかしそれは、単に不確定なだけだ。箱の中の猫と違って、直接見る前に結果はとうに確定している。
「それは底が見えないほど真っ暗な奈落の穴が思ったより深くないと信じて飛び込むみたいなものです。階段前にこれと同じ扉で塞がれていれば、怒り狂った《狂奔》に頭をかち割られて終わりでしょう。そういう終わり方は、僕は嫌です」
ニアは見た。テイルが、ふん、と鼻を鳴らすのを。
それはもしかしたら初めて見た彼の年相応の仕草だったかもしれない。
「というわけで、ニアさん」
「ニアでいいよ。敬語もやめよう。ここからぼくたちは、お互いに助け合う関係になるんだから」
「……ニア。あいつ、ぶっ殺しましょう」
「まだ敬語だけど……」
「分かったよ。でも敬語は癖みたいなものだから、たまに混じるのは容赦して。とりあえず高ランクの冒険者なら倒せるくらいの強さだ。なんとかなるよ」
それは実力と装備が揃った六人で挑むからでは、とニアは思ったようだが、口に出すほど空気が読めないわけではなかった。
テイルにだって分かっている。これが無謀な挑戦であることは。
「できるの?」
「やるしかないし」
「あはは……、ははっ……、テイルが本気なら、この命を預ける。どうせ死ぬしかないんだったら、少しでも前のめりの方がいいもんね」
そして、ありえざる挑戦が始まった。
たった二人の初級冒険者だけで、《狂奔》のミノタウロスを倒すのだ。
そうでしか生還の道がないのなら、それを成し遂げるのみだった。
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