第43話 隣り合わせの死と栄光
「ぐっ、ゔ、ヴゥオオオォ……」
階段前で、巨大なモンスターが、狂おしい唸り声をあげている。
その怪物を仰ぎ見て、ニアはミノタウロスと口にした。十分な距離があるはずなのに見上げている感覚なのは、ふたりの背丈の低さだけが原因ではない。
もっと近くで見ないと正確なところは分からないが、三メートル以上ありそうな化け物だった。
赤黒く引き締まった肉体は岩のように硬そうで、分厚い腕や足は筋肉の塊そのものである。たとえば腕力自慢がリンゴを片手で握りつぶすようにして、自分たちの頭も軽々と握りつぶされそうな迫力があった。
テイルは自分がニアの手を握りしめたままであること、その相手の指が手の甲に突き刺さるくらい力が込められていること思い出した。
ゆっくりとニアの手を引いて、壁に沿って怪物から遠ざかる。
テイルは、大人しく手を引かれるままについてくるニアを死角に押し込み、かろうじてミノタウロスの足元が覗ける地点に身を潜めた。
目線の高さが違うおかげで、向こうからは視線が通らなかったはずだ。
あそこが通ってきた広間であることは間違いないが、その向こうにあるはずの階段は見えなかった。
さすがに緊張していたらしい。テイルの浅くなっていた呼吸が、少し戻る。長々とした息を吐き出してから、ようやく指先から力を抜くことができた。
テイルは実物こそ実際に見たのは初めてだったが、その特徴については聞いたことがあった。
「ちがう。アレは、ふつうのミノタウロスじゃない」
捻じくれた角を持った牛の頭部と、凄まじく頑強な肉体を持ち、その怪力により巨大な斧を自在に振り回すモンスターである。
他に有名な特徴として人間のように二足歩行する。残虐である。そして、多くのダンジョンにおいて階層主、いわばボスモンスターとして君臨することだ。
「ニアさん。ミノタウロスの特徴については?」
「聞いたことはあるよ……。このダンジョンだと、たしか、地下十階へ降りるためにはミノタウロスを倒さないといけない、って」
顔をひきつらせながら、ニアが答えた。
なるほど、ちゃんとダンジョンの基本知識であるとか、調べれば分かる情報については仕入れていたらしい。
見習い期間もすっ飛ばしたようだし、冒険者登録してからは日が浅いようだが、最低限の心構えは持っていたようだ。
「あ、ごめんっ……」
ニアは、そこで初めて、テイルの手の甲が傷つくほどに力を込めていたことを認識したらしかった。
ニアは普段から爪の手入れもきちんとしているようで、血が出るほど刺さりはしなかったが、小さな爪痕は残った。
慌てて指をほどいて、その指先が絡むくらいに触れ合ったとき、ニアはどうしてか名残惜しそうにした。
「さいわい僕たちはまだ気づかれていません。あるいは、気づいていても興味の対象になっていない。今のうちに距離を取らないと」
「そ、それもそうだねっ」
ミノタウロスについて、テイルには二つの異なる知識がある。
ひとつは、遠い記憶のなかにある神話だった。
英雄テセウスがミノタウロスを殺し、王女アリアドネからもらった糸を辿って迷宮から無事に帰って来る物語。
もうひとつは現実に存在する危険で特別なモンスターについてだ。特にここサルカーニャのダンジョンにおいて、ミノタウロスとは地下十階の番人を指す。
地下九階は順当に強くなっていけばいつか辿り着ける場所と言われていた。真面目に訓練をしたり、装備を整え、一歩ずつ先の階層へ進んでいくだけで、まっとうに成長した冒険者パーティなら一年もかけずに踏破可能な領域である。
地下十階から先は別世界だ。運と才能と実力と装備。全部が揃っていないと、その景色を見ることすら叶わない。
サルカーニャに籍を置くすべての冒険者にとって高い壁、厚い壁として立ちふさがるのが、あのミノタウロスと呼ばれる凶暴な怪物であった。
番人と呼ばれることもある。試練と呼ぶものもいる。
この街で二十年近く活動しているベテラン冒険者パーティであっても、ミノタウロスを倒せないせいで何年も足踏みしていることもある。
もちろん、実力不足のまま挑んでしまい逃げることすらできず、無惨にも皆殺しにされた例もある。
地下十階で行く手を遮るミノタウロスは、通常、四人から六人で組むパーティ単位で戦う相手である。
常に一匹だけで出現するくせに、同層階のモンスターとは桁違いの強さで、しっかりと準備をして挑むことになるのだが、それでも犠牲者がたびたび出る。
生半可な攻撃が通じない防御力、鉄盾をぶち破る攻撃力、そして地下九階までに出現する他のモンスターと違って、武器を扱う賢さを併せ持った化け物だ。
一本道の先にある広間で傲然と待ち構えるこの怪物を打倒することで、先に進むための扉が開くと言われている。
実のところ、地下十階より更に先の階層では、玄室や通路を彷徨うミノタウロスと遭遇することは稀にあるそうだ。
そうした偶発的に遭遇するミノタウロスは、たいした脅威ではない。
もちろん手強くはあるが、油断せず、そしてその階層に辿り着けるだけの実力があるのなら、無傷と言わずとも充分に倒しうる強敵の範疇である。
しかし、地下十階の番人、試練の狂った牛鬼と称されるそれは、ねじくれて巨大な角を持ち、血塗られたように赤い肌で、およそ人間では扱えないほどの鉄塊じみた斧を片手で軽々と振り上げることから、普通とは異なる呼び名を持つ。
「やっぱり、どう見ても《狂奔》のミノタウロスだよな、あれ」
「きょ、狂奔!? これが、あの!?」
もし貴方が《狂奔》に挑むのなら、そこには栄光か死しかない。
ここサルカーニャの冒険者なら、誰もが聞いたことがあるフレーズである。
テイルは手振りで、ニアに声をひそめるよう指示した。
あっ、と思った顔のまま、ニアは自分の口を手で抑えた。なんとか視界に入らないうちに死角に入り込めたが、大声で気づかれるのは避けたい。
テイルは小声で会話を続けた。ここでニアに予想外の動きをされたら困るからでもあった。
「普通のミノタウロスも見たことないですけど、あれは知人に教えてもらった《狂奔》の特徴そのままなので」
「そんな……」
ニアがビクッと体を震わせた。やはり、サルカーニャダンジョンの一般的な知識は前もって頭に入っていたようだ。
世話焼きの先輩冒険者が知人にいるのか、それともギルド職員やその関係者から情報提供されていたか。
とはいえ、こんなもの一ヶ月もこの街の冒険者として暮らしていれば、わざわざ調べずとも入ってくる知識の範疇だ。
高ランク冒険者や宮廷魔術師が授かる二つ名のように、とてつもなく強く危険なモンスターにも、特殊な呼び名、別名がつくことがある。
《狂奔》もそのひとつだ。
「どうして。どうしてあんな化け物がこんな低層に。ありえないっ」
「たとえば地下十階から足を伸ばして、一階ずつ昇ってきたとか」
理由はどうあれ、現に脅威がすぐ近くに存在している状況だ。
軽口めいたテイルの冗談にも、ニアは真面目な顔で首を横に降った。
「普段そこの階層にいないはずのモンスターと遭遇すること自体は、稀にあるらしい、けど……。たとえば戦った相手を追いかけて階段を降りてきたり、あるいは追い詰められて逃げた結果として、違う階層に移動してしまったとか。でも」
「《狂奔》のミノタウロスに、それはない、と」
二つ名めいた別名がつくような、特殊だったり異常に強力なモンスターは一度倒したら二度と出現しないのが通例だ。
しかし、このミノタウロスは極めて特殊で、地下十階の試練の間において、《狂奔》と呼ばれる同一個体が必ず出現するらしかった。
ただし《狂奔》を撃破した冒険者の前に、試練の間は現れなくなる。つまり、《狂奔》は一度倒せば、二度と出くわすことがない。
だから地下十階への番人なのだ。
試練の間そのものがダンジョンの特異なギミックの一種である。《狂奔》を倒したことで、その先へ進む資格が与えられる。そうした仕組みなのだろう。
「あんなの、地下二階にいていいはずがない。あきらかに異常事態です。どうやったらアレをここに呼べたのか、あるいはダンジョンが狂ったのか。でも、とにかく現実問題として、普段とはかけ離れた強さの化け物が階段前に居座っている」
「そう、だね」
無論、高ランクである銀級を目指すならば、避けては通れない壁である。
しかし、下層に活動の場を移した、すでに実力が認められている高位冒険者ほぼ全員が口を揃えて二度と戦いたくないと口にする怪物だ。
冒険者として上の等級を、あるいは地下十階以降を目指すのなら、いつか倒さねばならない存在として誰もが意識はしている。
だが、それと直面するのは、挑むのは、もっとずっと先の話であったはずだ。
まずはダンジョンを一階ずつ攻略しながら自らを鍛え、地道に稼いだり宝箱から装備を揃え、そして万全の準備をしてから挑む未来の絶望だった。
テイルはこの街に来ておよそ二か月、ニアはほんの数日で、街にいる冒険者のほとんどが太刀打ちできない、悪夢のような化け物の実像を目の当たりにした。
「じゃあ、どうしましょうか」
「ど、どうするって……そんなの」
困惑するニアに、テイルはいった。
「選択肢は大きく分けて三つあります。地下三階に逃げるか、この層で助けが来るまで隠れたり逃げ回るか、それとも《狂奔》を倒して堂々と帰るか」
《狂奔》は普通のミノタウロスのおよそ1.5倍のサイズらしい。テイルも伝聞でしか知らないのだが、見た目も違うし、強さも早さもまったく違う。
手にした武器のグレードにも大きな差がある。さらに戦闘における賢さ、そして残虐さも比べ物にならないほど違う、のだそうだ。
ニアが答えどころか、問いかけすら受け入れられていないうちに、
「グゥルゥウウオオオオオオオオオオ!!!!!」
耳をふさぎたくなるような、おぞましい雄叫びが耳朶を打つ。
何がそんなに気に食わないのか、怒りを周囲にばらまいているみたいな、ミノタウロスの咆哮だった。
ひっ、とニアが身をすくませる。テイルも顔をしかめた。
狂奔の名の通り、凄まじい勢いで走り回りそうで怖かった。
「倒す!? あれを!? 無理だよっ! ぜったいに無理!」
「ですよね。ニアさんがあれを見た上で自信満々に倒そうと言い出さなくてよかったです。それから声はもっと抑えてください。聞こえてはいないと思いますが……気をつけるにこしたことはないので」
「う、ごめん」
ふたりとも一度黙り込んだ。ミノタウロスは階段前から離れるつもりはないらしく、その少し広い部屋のなかを歩き回っているようだ。
時折、癇癪を起こしたのか斧を壁に叩きつけているような、凄まじい衝撃と金属音が響き渡る。
あれが直撃したら自分の胴体くらいなら真っ二つだ、とテイルは嫌な未来を想像していた。口には出さなかったが。
「下に降りましょう。ここから離れたほうが良さそうだし」
「だ、だいじょうぶかな?」
「ここに留まるよりはマシかなと。高ランクに助けを求めるべき事態です」
「で、でも、冒険は自己責任だ、って聞いたけど」
「時と場合によりますよ、そんなの」
冒険は自己責任、はよく言われる言葉である。
実力に見合わない場所に自ら踏み込んで死ぬのは当人の責任でしかないからだ。
それこそ地下十階に挑むような冒険者パーティの生死は、自分たちの判断と能力だけにかかっている。
「武器も持たずにウサギと戦って怪我する馬鹿とか、グミスラ追いかけてコウモリの群れに突っ込んだ馬鹿なんて誰も助けません。自業自得だから。でも自分に責任のないトラブルなら基本的には助け合い、困ったときはお互い様の精神ですよ」
見込みが甘くて、地下八階あたりで食料が足りなくなって空腹で困っている冒険者がいたら、相場の五倍くらいの値段で売りつけるのも助け合いの精神である。
無償で助けるとは言ってない。
冒険は自己責任だが、冒険者は人間だから、社会的にも動くのだ。
「あの場所に居座られている以上はどのみち誰かが倒さないと通れません。ここは経験者に頼りましょう」
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