第36話 まだ物語ではない話
そして誰もいなくなった、とティルはつぶやいた。森と呼ぶにはまばらな、中途半端に木々に囲まれただけの開けた場所。
当然ながら、周囲に人間の気配はなかった。近くに虫や鳥、小動物がいたとしても一斉に逃げたことだろう。
いま、この場所は死に満ちていた。見上げた木々の葉擦れの音すら消えて、ひたすらの静寂に支配されていた。
懸念はある。先程の火炎魔術の爆音や上がった火柱は、遠方からでも目立って見えたかもしれなかった。
ティルの予想では、しばらくのあいだ、この場所には誰も近寄らない。
敵の協力者が脇道の入口付近に居残って、横槍がないようにしているはずだ。
それくらいには人手も手間もかけている、必殺の布陣だったと想定している。
おそらく本来進む予定だった道は、実は無事だったと思われる。
山道へと向かうルートを塞いでいた兵士から脇道へと誘導されたのだが、危険な落石とやらの実物を目にしたわけではなかった。
途中で足止めを食らうと引き返すのも大変だということで、横から口を出してきた地元民の助言に従ったのだが、振り返るに彼らは偽物だったのだろう。
あるいは本物だったとしても、金を掴まされたか脅されてかで従っていたに違いない。
問題は、その手引きをしたのが、あるいはこの悪路へと引き込んだのが、どちらの勢力の手によるものであったのか、である。
御者サルコルとその協力者だったのか、あるいは偽行商人と弓使いの襲撃者二人組の仕業だったのか。
第三者の関与を防ぎたい。邪魔が入らないようにしたい。一本道で追跡なり襲撃を楽にしたい。
どの理由もありうる。どちらにも利はある。
しかし、両方同時ということはないだろう。サルコルは最初動きを決めかねていたように見えたし、この大掛かりさは偽行商人側の仕業と考えるべきか。
だとすれば、より致命的である。
サルコルへの指示者はおそらくエンディール子爵家やそれに近い関係者で、ティルが死んでくれたら嬉しいし、チャンスが有ればこの旅の途中で殺しておきたい、それくらいの温度感だった。
損を防ぐためか、利益を得るためか。
政治的なり経済的な理由であれば、ティルにも理解はできる。
もう一方は、詩的な予言をありがたがり、是が非でもティルに死んでもらわねばならないと考え、襲撃者や協力者を複数用意できる危険な集団である。
これなら利害関係で狙われる方がマシだった。
予言なんて曖昧なものを理由として大人数に命を狙われる状況など、ティルとしては受け入れがたい。
「ティル、ね」
ティベリウス・ラグラン。それが彼の名前だ。
いや、今生における彼の名前だった。
「今の僕はティルなのか、それとも、他の誰かなのか」
そして誰もいなくなった。
再び、周囲の惨状を眺めてから、声にする。
開けた場所、向こうの地面に転がっている胴体、あるいは撥ねられた首は、行商人に扮して馬車で突撃してきた襲撃者。
逆袈裟斬りにされた御者サルコルは驚愕の顔のまま死んでいる。一方、剣に身を預けたまま絶命した騎士コンプリスの顔は見えない。
そこから少し離れた場所に、魔術で焼き殺した弓使いの残骸がある。
そして、胸部を矢で射抜かれたメイドのパテル。
彼女はいま、ティルの膝の上で、二度と目覚めない眠りについている。胸部に突き立った矢は先ほど抜いた。血は、ほとんど流れながった。
死体は五つ。
同じく心臓をナイフで突き刺されて死んだはずのティルは、どういうわけか、こうして今も動いてしゃべっている。
血まみれの服の感触は苦手だ。その色と肌触りのせいで、ちゃんと自分の血が流れたことを思い出させる。
「僕がなんの気無しに口をついて出た『そして誰もいなくなった』は、アガサ・クリスティの名作ミステリ……だよな。結末もちゃんと分かる」
ティルは誰に語りかけるでもなく、確認するように声に出す。
返事はない。
「でもこれは、覚えているといっていいものか?」
自問自答。相槌やツッコミを入れてくれる誰かの反応がないかと、ほんの少しだけ待ってみる。
当たり前だが、何も起こらない。起こるはずがない。
みな、死んでいる。
たとえば舞台役者のような心持ちで、ティルは朗々と語りを続ける。
人生はただ歩く影法師、あわれな役者だ。シェイクスピアの『マクベス』の一節が思い浮かんでは、これといった感慨もなく脳裏から消えてゆく。
「どれもこれも忘れた記憶を無理に呼び起こしている気分だ。読んだときに感じたはずの驚きだとか、楽しさだとかは、奇妙なくらい薄っぺらい」
観客なしの舞台上で大げさに見栄を切るように、あるいはカメラを探すように、地べたに座り込んだままティルは動かず、周囲をゆっくりと見回してみる。
自分は誰で、今はいつで、ここはどこであるのか。
ラグラン男爵家の長子、ティベリウス・ラグランという自認の向こう側に、この世界はなんであるか、この状況はどうしたことであるかと、疑問は尽きない。
今日は、いろいろなことが一度に起こりすぎた。
ティルはいま、混乱のさなかにある。
こんなのは一時の気の迷いだ。
他人事ならそう慰めもしただろう。
だとしても、どれほど違和感にまみれていても、自分の人生からは目を背けることができない。
ティルは死んだ。ナイフで心臓を貫かれ、あの弓使いの襲撃者に殺された。
彼の人生はそこで終わるはずだった。
なのに、どうしたことか、ティルは死ななかった。
いや、あれは死だ。
死の感触を再び味わった。
だからティルはあの瞬間、間違いなく一度、いや、二度目の人生で再びむなしく死んだのだ。
なのに、延長戦があった。
ゲームで言うところの、リトライ、あるいはコンテニューをしたみたいに。
だけどこれはゲームじゃない。嫌になるくらい現実だった。どうしてか傷は塞がっているけれど痛みはジクジクと残っていて、肌が引きつる感覚が続いている。
もちろん死に際の悪あがきは、誰にでも起こりうることだろう。
「なるほどなるほど、僕がこれまでなんとなく最初から知っていた知識は、そういうことだったわけだ」
はっきりと喋っているが、一応は独り言である。あえて声に出さないと、自分が妄想の世界の住人になったみたいな気がして耐えられなかった。
沈黙した死体に囲まれた現状においては、誰にでもなく語って聞かせる子どもの声はどこか場違いに響いている。
ティルは、自分というものの輪郭について思いを馳せた。
我思う、ゆえに我あり。それで済ませても良かったが、彼はもう少しだけ自分というものを定義するべきだと考えた。
そうしないと、自分がなんであるかが揺らぎそうだった。
ゆっくりと過去を振り返っているうちに、結局のところ、自分について一番よく知っている人間に聞くべきだと気づいた。
だけど、それはもうかなわない。
自分をティルと呼んでくれるもっとも身近な人間を、彼はさっき失ったから。
「ねえ、パテル。大好きだったよ」
ティルはパテルの亡骸へと語りかけた。
さっきまでの自分、今の自分が本当に同じものであるか、ティル当人には証明する手段はない。
ただ、ティベリウス・ラグランとして過ごした日々のなかで、彼はパテルを慕っていた。想っていた。
初恋だった、と思う。
あるいは前世を含めても、そこまで親しくなった女性はいなかった気がするから、それが本当に恋だったのかは分からない。
でも、そうだったらいいなと思って、しばらく語り続けた。思い出は尽きなかったけれど、思考の片隅で、この状況への危機感が彼を動かした。
彼女の口元の血をぬぐい、その頬を少しだけなでる。
わずかな微笑。
いつしか冷たくなっていたパテルの亡骸を、そっと地面に横たえる。
それから、ティルはゆっくり立ち上がると、のろのろと歩き出した。
振り返って、パテルの美しくもさみしげな死体を見下ろした。
泣きたい気分だったが、いっこうに涙は出なかった。
彼女の死を悼む時間をもっと取るべきだ。ティルにとって、どれだけ一緒に時間を過ごしたか分からない家族みたいなひとだったから。
彼女の望みを考えたら、ティルはこの場を急いで離れるべきだった。泣いている時間も余裕もないことを、彼は身にしみて理解している。
ここは死地だ。
危険はまだ続いている。
ティルが生きている限り狙われ続けると知った。
最後までティルの身を案じたまま亡くなった彼女のためにも、ティルには生き延びる義務があった。
彼女は何も答えない。最期の時間は、ティルの膝を枕にして、眠るように亡くなった。
たぶんティルの名を呼んだのが、パテルの最後の声だった。
ティルも一緒に死んでいたはずだった。
パテルの仇である弓使いへは最後に一矢報いた。
それで満足して、ティルも二度と目覚めないはずだった。
二度目、いや、三度目だと思った。
その瞬間に、ティルは八歳のティベリウス・ラグランとしての生まれる前に、もうひとつ分の人生があったことに急に気がついたのだ。
あるいは、どこかで薄々察していたのかも知れない。
時折思い浮かぶ、自分の知り得ないはずの知識や、したことがないのに深く分かっている感覚、経験則のようなもの。
そうした奇妙な感覚が、どこから来たものであったのか。
異世界転生。
もっとも簡易にまとめると、その言葉ひとつで事足りる。
ここは異世界だ、なんて認識はなかった。いま自分のいる場所こそが唯一の世界であるからだ。
ただ、己の所属がどこにあるかによって呼び方は変わるだろう。地球の、日本の人間であった過去の自分自身から見れば、ここは異世界になる。
逆に、現在の自分からすれば、地球こそが異世界だ。
異世界に転生してきた。異世界から転生してきた。どちらにしても、言葉としては同じになる。
「問題は、僕にその自覚がなかったこと……いや、今もあんまりちゃんと自覚できてないことかな」
ティルは自身の前世について、思い出そうとしてみた。
だが、どれほど頑張っても前世の自分の名前であるとか、知人友人の顔であるとか、あるいはどんな風に人生を送ったのか、その具体的な内容が思い浮かばなかった。
そのくせ、知識や感覚については、まるでつい最近見聞きしたばかりのように、あるいは自分の体験したかのように思い出せる。
アガサ・クリスティの作品のタイトルが思い浮かんだのも、シェイクスピアの戯曲の台詞を諳んじることができるのも、そうした遠い記憶に由来している。
かつての自分の名前はいっこうに形にならないのに、読んだことがある本の名前はいくらでも語れるし、やったことがあるゲームのタイトル、ついでにくだらないネットミームや名言のたぐいも、それにまつわる情報込みで記憶から再生できる。
気持ち悪いことこの上ない。意味記憶、エピソード記憶、手続き記憶のどれもが鮮明であるのに、自分自身、あるいは自分の人生にまつわる必要な部分だけ、選んで消したみたいに空白がある。
自分を納得させうる理屈はある。
たとえば、死に方がよろしくなくて、そのショックで死を感じさせる要素丸ごと前世に置き去りにして転生した、とか。
正解かどうかは判定できない。ただ、一応の妥協はできる。今の自分にとって、前世の自分の情報など邪魔でしかないからである。
イメージとしては、頭の中にすぐ取り出せる書庫があるようなものだ。
今の自分に前世の過度な影響を及ぼさないよう、人格にまつわる部分だけ逆止弁がついている、といったところだろう。
「これはゲームではないし、遊びでもない」
ティルは、有名作品の一節をもじって諧謔してみた。ゲーム世界への転生、あるいはバーチャルリアリティ作品への没入であれば、少しだけ気分は楽になる。
だけど、そんな気はぜんぜんしない。
もし本当にここが架空世界であれば、良かったのに。
それであれば、パテルの死も、自分の命も、もっと軽く考えられるのに。
腹の底に煮えたぎる何か、背筋に走り抜ける冷たい何かから、考え続けることで目をそらしている自覚はあった。
思考はとめどなく溢れ続ける。
考えなければ、考え続けていなければ、きっと、泣きながらパテルの死体にすがりついて、そのまま時間切れになってしまうだろうから。
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