第34話 二つの選択
何も考えられないのに、逃げろと語るようなパテルの目に見つめられて、自然と体は動いた。
最初にしたことはパテルから遠ざかることだった。
本当ならば彼女も引っ張ってきたかったが、そんな悠長なことを許してくれる敵ではなさそうだ。
パテルは樹木に身を寄せたまま地面に倒れていったが、追撃はなかった。
無力化できたと判断したのかも知れないし、最初から狙いはティルだけで、パテルには興味がないのかもしれなかった。
流れ矢がパテルに当たることを避けるためにも、とにかく違う方角に向かうべきだと考えた。
矢の飛んできた方角から逆算し、樹木の合間を縫うように駆け抜ける。
風切りの音。
次の矢はティルの肩を掠った。
二発目はティルの鼻の先を通り抜けていった。
三発目はティルがしゃがんだ瞬間、頭のあった場所に突き立った。
相手の姿を確かめようとしたが、そんな余裕はなかった。
ただ、敵とティルとのあいだには無数の木々が立ち並んでいるはずで、射線が通る場所はさほど多くないと思われた。
にもかかわらず、矢はその隙間を通ったうえで、ティルに迫る。
どんな凄腕だよ、とティルは青ざめた。
それと同時に、これはあの行商人のフリをして馬車で突っ込んできた暗殺者っぽい印象を受けた。
同じティルを殺すにしても、サルコルはあくまで仕事だった。
一方、こちら側の二人には妙な必死さがある。
たとえば、ティルを殺さないと自分が破滅するかのような、まるで家族を人質にでも取られているかのような、重く、粘りつく殺意がある。
ティルは息を切らしつつも、どうにか幅広の樹木の裏に逃げ込んだ。
射線が通っていない以上、近づいてくるか、あるいは回り込んでくるか。
ティルが焦れてこの大樹から離れるのを息を潜めて待っている可能性もある。
下手に動けば、今度こそ四肢のどこかを射抜かれる。
動けなくなれば、逃げられなくなれば、今度こそ一巻の終わりだった。
だから動ける今のうちに、何らかの指針を立てないといけない。
逃げるなら、どうやって逃げるか。
反撃するなら、なにか使えるものはないか。
材料を探そうとしたが、パテルから遠ざかったということは、壊れた馬車からも離れてしまったことになる。
荷物や部品のひとつも拾えていれば、何かチャンスがあった。コンプリスやサルコルの死体に近づければ、武器の一つも手に入った。
現状ティルの所持品は、あの短杖が一本だけだ。
ハッタリは二度目は通用しない。救援も望めない。パテルは致命傷だ。刻一刻と死へと近づいている。
つまるところ、八歳のティル――ラグラン男爵家長男ティベリウス・ラグランは無力な子供でしかなかった。それに尽きる。
無論、彼は年齢に似合わず賢かった。その評価は間違ってはいない。
つい先ほどだって、絶体絶命のピンチを知略によって切り抜けた。
使えもしない魔術を、さも使えるような顔をして、大声で詠唱をする。
御者サルコルはティルの魔力不全症を知っていたはずだ。
あるいは昔なじみである彼には父が語ったかもしれないが、伏せていても間諜ならラグラン領の情報を集めるうちに自然と耳に入っただろう。
賭けではあった。
瀕死のコンプリスが一撃を狙っていると察知したから、意識を逸らすなり隙を作れれば良いと考えた。
ティルが知る様々な呪文から《砲火》を選択したのは、直前にあったサルコルの嘆き、馬車への思い入れに真実味を感じたからだった。
馬車を破壊した攻撃魔術であれば、他の魔術よりも強く印象に残っているし、何より具体的な威力を想像できる。
まず、その呪文が警戒に値すると思ってもらわないと始まらない。
詠唱も、かろうじて聞こえる大きさで発生したのはあえてのことだった。
あの行商人の格好をした襲撃者は、こちらに聞こえないよう意図的に小声で詠唱していた。
呪文は明瞭な発音が必要であるが、詠唱ではむしろ声をひそめる術者が多い。
どんな魔術を使うのかが、相手に筒抜けになるからだ。
これは対人での戦いの際、気をつけるべき心得でもあった。
人語を解さない一般的なモンスター相手には気にしなくてよいが、たとえば魔術を用いた決闘などでは注意すべき点として師から教わった。
ティルはこれを逆手に取ったのである。
御者サルコルが間諜、つまりプロなら攻撃魔術への警戒心はあるだろう。
与えられた情報を鵜呑みにしないくらいには疑い深いはずだ。
だからティベリウス・ラグランは一切の魔術が使えない、という情報を把握していたとしても、彼の性質上、無警戒ではいられないに違いない。
だろう。はずだ。違いない。
どれも希望的観測だ。不確定さと憶測だけに頼った、一か八かの賭け。
だからこそ、通ればデカい。だからこそ、ありえないと一蹴されなかった。
死にかけの騎士より、手札を隠し持っていた幼い魔術師を危険視した。
これを暗殺者の判断ミスと呼ぶのは可哀想だろう。
ただ彼よりティルが一枚上手だった。それだけのことなのだ。
かくして、ティルは窮地を知恵と勇気で切り抜けた。
落ちたら即死の危険な綱渡りを渡り終えたと思ったが、実はそこはまだゴールではなかった。
凄絶な逆転劇、その一部始終を遠くから観察していたのだろう。
その存在はどうやってティルが生き残ったのかを理解した。
だから姿も見せず、遠くから射殺することに決めたらしい。
先程の魔術行使が単なるブラフであったことは、たぶん露見している。
幼い外見に騙されてサルコルは知恵比べで負けた。
それゆえに警戒に値すると判断されたのだ。追加の暗殺者は一方的な距離からティルが死ぬまで矢を射かけ続けるだろう。
ティルが同じ立場でもそうする。
敵は最適解を選んだ。
魔術も使えず、肉体的にも単なる八歳児に過ぎないティルには、もはや抗う手段が残っていない。
だいぶ離れてしまったが、元いた場所に目を向けた。
早くパテルを医者に見せないといけない。
だが、どうすれば。
急がないと。
一番大事なときに何も思いつかない自分の無能さに苛立った。
自分の冷静な部分が、パテルはもう助からないと囁いている。
たとえこの暗殺者を退けることに成功したところで、パテルの死は確定している。
あれから何分が経過したか。
ここから一番近い人里へと向かうのに、どれだけ時間がかかるか。
そこに医者がいたとして、心臓を穿たれた少女を助ける手段など存在しない。
だからもう手遅れだった。ちゃんと分かっていた。
だからといって、諦めるわけにはいかない。
いや、諦めたくなかった。
パテルの負った傷は部位も深さも致命傷と思われるが、まだ息がある。
だからこそ、ティルは全力での逃亡を選べないという状況にもあった。
彼女をこの場に置き去りにはできない。
なんとか打開する方法がないか、敵を追い払えないか、状況を好転させうるチャンスはないか、とずっと頭を悩ませている。
双方、動きを相手に気取られたくはない。
ティルは樹木の根本で息を潜め、射手である暗殺者は今も音もなく移動しているのだろう。
おそらくは血がこみ上げてきて咳き込んだパテルの苦しげなうめき声が、十数メートル先から何度か聞こえる。
トドメは刺されないはずだ。ティルが全力でこの場から離れようとしていない理由を相手もすぐに察するだろうから。
膠着状態、といえば聞こえは良いが、圧倒的不利な状況は続いているし、これをひっくり返す方法もまだ思いついていない。
時間はどちらにも平等に流れるが、たぶんティルの味方ではなかった。
パテルの命の残り時間と考えるなら、もういくぶんの猶予もない。
ティルは覚悟を決めた。
「どうして僕を狙うんです?」
自分から話しかけるなんて、居場所を相手に知らせる愚行でしかない。
そんなことは重々承知していた。相手はパテルの状態を把握した頃だろう。そして次の動きをどうするか思案している。
ティルを殺すためにもっとも最適な方法を。
「聞こえませんでしたか? 僕はどうして殺されなきゃいけないんですか? それくらい教えてくれてもいいじゃないですか」
それほど大きな声ではなかったが、聞こえたはずだ。パテルの苦痛の声と、風によって木々が葉を揺らされる以外の音はない。
魔術も使えないティルに出来ることといったら、考えること、そして言葉を使うことだけだ。
脚力や腕力、あるいは体力も鍛えておくべきだったが、今更いっても始まらない。
悪あがきではある。暗殺者が、暗殺対象に情報をべらべら喋るなんて都合の良い展開はありえない。
ただ、ほんの少しの違和感が、ティルに対話を選ばせた。
サルコルは、御者と間諜のどちらが副業だったのか分からないが、とにかくティルの暗殺を命じられたらしかった。
圧倒的優位から多少は口を滑らせたが、油断と言うより、コンプリスが力尽きるまでの時間稼ぎの側面もあった。
行商人に扮した魔術使いの襲撃者、そしてこの姿を見せない弓使いは、ティルを殺したいのは間違いない。
間違いないのだが、これは暗殺か? という疑問が生じてしまったのである。
なんというか、なりふり構っていない感が強い。
言葉遊びかもしれないが、彼らがティルを殺すにあたっては、政敵や障害を廃するような暗殺ではなく、もっと必死さがある。
切羽詰まっている。
つまり、粛清、討伐、駆除、そういった強烈な使命感に似た何かが伴っているように思えてならなかったのだ。
単なる暗殺者なら、答えは返ってこない。
単なる暗殺以外の何かであれば、もしかしたら。
結果としては、後者であった。
「お前は死なねばならない。こんな幼い子供を手に掛けるのは気が進まないが……災厄の芽は疾く摘まねばならないから」
そして、想定外のことがもうひとつ。
二人目の襲撃者の声は、とても険しくはあるが、若い女のものだった。
「抗わないのであれば、痛みを与えずに殺してやれる。逆に、この場から逃げ出そうとしたら、まず動けなくして、じわじわと痛めつけながら殺す」
分かったことが二つある。
殺害のターゲットはティルで間違いないこと。
そして想定よりも、敵がずっと理性的であったこと。
どっちにしてもティルを殺すことは既定路線らしいが、子供を直接殺害することに忌避感を覚えるくらいには、この弓使いにはまともな感性が残っているらしい。
復讐という感じでもない。
ティルには殺されるほど恨まれる心当たりは一切無かった。そもそもラグラン男爵家の屋敷からほとんど外に出たことのない八歳児なのだ。
「……あの、だから、どうして僕を殺したいんですか?」
では親の因果がめぐりめぐって自分に届いたか。
少なくとも、ティルの知る限り父であるラグラン男爵はそれなりに真面目だ。
領地を守るため毎日のように自領を駆けずり回っているし、領地経営はヘタクソで貧乏だが、差配している村や町で餓死者を出すほど悲惨でもない。
母である男爵夫人エリザベートについては否定の材料はないものの、息子を狙われるほどの害悪を周囲に振りまいていたとも考えにくい。
次男ルキウスが生まれてからは彼にしか興味を向けていないし、それ以前でも領民を虐げたり、他領で騒ぎを起こしたという話は聞いたことがない。
そもそも男爵夫人としての仕事を放棄していた、という評価のほうが正しいだろうが。
それ以前の先祖からの因縁であればお手上げだ。
知ったこっちゃないし、どうしようもない。
「言っただろう。お前が災厄の芽であるからだ」
「意味がわからないんですが」
「これから死ぬべきものに聞かせる話でもない」
「ええ……?」
言葉は通じるのに、会話になっていない。
いや、言い分としては分からなくもないのだ。
どのみち殺す相手に、あるいは殺す相手だからこそ、伝えなくて良いことがある。
これは相手が決して非情ではないからこその判断といえる。冥土の土産だから教えてやると言われた内容が、たとえば実は不義の子で、だったらティルも困る。
実際にはそんなことはないのだろうが、ティルは何も知らないまま死んだほうが幸せだ、と相手が判断するような理由があるらしい。
災厄の芽。
言葉の響きからして不穏であるが、具体的に教えてほしいものだ。
「ここで僕が死ななかった場合、何が起こるんです? というか、それをどうやって知ったんですか」
「なっ。なぜそれを」
「災厄。僕が死ぬことで、それを防げる。あなたはそう聞かされたんですね?」
「……っ! 知ってしまったか。そうだ。お前は生きている限り、大いなる災いの原因になる存在だ。だから今のうちに死ななければいけない!」
前言撤回。相手は理性的である、はそうでもなかった。
いや、年齢通りの迂闊さと思ったほうが正しいのか。
彼女は凄腕の弓使いかもしれないが、暗殺者、あるいは襲撃者としては素人っぽい。
新しい情報を語ったわけではなく、なんとなく訳知り顔の口調で、相手の言っていたことをそれっぽく繰り返しただけなのだ。
だが、彼女はティルがもっと詳しい情報を理解したかのように誤解した。
「予言か何かですか」
「なっ」
殺気だか殺意だか分からないが、急にあたりの空気が重くなった気がした。これ以上は言葉をかわしてくれないかもしれない。
人間の子供相手への情が生まれつつあったものを、それが人語を解する怪物だと思い出してしまった、みたいな場面だろうか。
彼女からすれば、自分の頭の中を読み取られたみたいな気分になったのだろう。
警戒心、危機感を煽ってしまったが、こればかりは仕方がない。
ティルとしても、彼女の応答から新しい情報を拾えた。
彼女、あるいは彼女たちには、ティルの危険性を示し、この状況での殺害を指示した人間がいる。そして彼女たちはそれを心の底から信じている。
何らかの宗教、あるいは組織に属する狂信者か? 師であるゲイリオスに教えてもらった分類や希少属性に、予言や未来予知に属する魔術は含まれていなかった。
が、それは存在しないことを意味しない。
ゲイリオスですら知らない秘術や禁術はありうると、ティルは知っている。知られていないのかもしれないし、隠されるのかもしれないし、あるいはルキウスの光魔術のように、一度途絶えてから、今になって突然に復活したのかもしれない。
そもそも、予言や未来予知であればかつて存在し、使われ、そして永久に失われた可能性だってある。
それでも過去の言葉は残るから、現状と矛盾はしないだろう。
と、必死にあれこれ考えていたティルだったが、真っ先に確かめなければならないことが残っていたことを思い出した。
「弓使いのお姉さん。これだけは答えてほしいんですが」
「……っ」
ティルにとって会話も攻防の一種と悟ったのか、彼女は無言になった。
だが、かまわずこう尋ねた。
「その予言にあったのって、本当に僕の名前でしたか?」
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