第33話 三つの誤算
パテルが甲高い悲鳴を上げた。首を刺された瞬間を目の当たりにしたからだ。
ティルは周囲を見回した。誰かが駆けつけてくる気配はない。
近くには誰もいなかった。
木々に囲まれていて、少しだけ開けた区画。逃げるにも隠れるにも不向きな、絶好の場所といえた。
「きさ、ま」
「おうおう騎士様、ガキのお守りは大変だなあ。まさか自分が死ぬとは思ってなかった顔してなさる。いや、いい顔だぜ。おれは大好きだよ、そういう顔。もうすぐ死ぬってことを必死に忘れようとしている顔だ。へっへっへ、怒ったか?」
さっきは本気で泣いているように見えた。
今も目も潤んだままだし、流した涙の跡も残っている。悔しがっている姿も怒りも本気にしか見えなかった。
あるいは、馬車への愛情自体は本心だったのかもしれない。
そして隙が生まれた。好機と思った途端に、人好きのする御者から冷徹な暗殺者の顔に戻った。
どこからどこまでが演技だったのか。
いや、いつから。どうして。なぜ。何も分からなかった。
痛みに耐えながらコンプリスが動こうとした瞬間、察知したサルコルが大げさに距離を取り、着古した黒コートをはためかせた。
気づけば彼の手には、二本目のナイフが握られていた。
暗器を他にも忍ばせているかもしれない。無警戒には近づけなくなった。
「な、ぜ」
「そりゃあ、命令されたからさ。なあ坊っちゃん。てめえが生きたまま伯爵領にたどり着かれると困るお方がいるのさ。まあ、おれが頼まれたのはチャンスが有ればやってくれ、くらいなもんだったけどさ。仕方ねえよなあ。こんなに絶好のチャンスが目の前に転がってきちまったんだからさ!」
御者サルコルはティルの父、ラグラン男爵とも長い付き合いであった。
にもかかわらず、こんな真似をしでかした。
それが何を意味するのか。ティルにも分かったしコンプリスも苦痛に歪めた顔をさらにひきつらせた。
彼は経験豊富な御者だった。
旅の途中もべらべらと饒舌だったが、どこかお調子者っぽく振る舞っていた。ティルやパテルにも気を使い、気を利かせ、男爵に信頼される御者としての顔しか見せてこなかった。
二人とは距離がある。
ティルは近づかず、遠ざかりもせず、その場から問いを投げかけた。
「父からの刺客ですか!?」
「お? いいね、考えるのは大事だぜ坊っちゃん。おれもよう、男爵閣下には若い頃からずうっと世話になっててさ……カネに困って、なけなしの金貨を借りたときもあった。仕事がなかったときも助けてもらった。言い尽くせないくらい、閣下にはいっぱい恩があるんだ……でもまあ、それはそれ、これはこれってやつでよ」
「……?」
「こっちが本職なんだぜ、おれはよう」
ティルが自分に意識を向けさせたのは、息も絶え絶えなコンプリスが、サルコルの死角になる位置で剣に手をかけていたのが見えたからだ。
幽鬼のような顔になった騎士は、首にナイフが刺さっているとは思えないほど俊敏な動きでサルコルを斬った。
斬った、と思ったが、するりと回避された。
影のような見事な逃げ方だった。
驚愕するコンプリスに、へっへっへ、と彼は笑いかけた。
「言っただろ。こっちが本職だってよう」
「きさま……間諜だった、か……」
「信頼関係ってのは長い時間かけて作らねえとさ、わりとすぐバレるんだよ。おれって閣下がまだ男爵になる前からのお友達だぜ? 若い頃からの友人ってのは案外疑われないもんだ。な、騎士様。少しは勉強になったか? おっと、学んだところでもう将来には活かせねえんだったな! ひひっ」
気持ちよさそうに語るサルコルと、立っているのもやっとなコンプリス。
割り込むように、ティルはまた声を張り上げた。
「では、母が!?」
「さあな。誰からの命令かなんておれは知らねえよ。ま、男爵閣下でないことだけは保証してやるか。あいつの指示なら、自分とこの将来有望な騎士なんか捨て駒にしねえだろうからなあ。良かったな、騎士様。自分の主に裏切られてなくてさ」
ティルは、コンプリスがまだ諦めていないことを察知した。
渾身の一撃を回避されたことからも、敵の身体能力はすこぶる高い。
さすがに騎士と正面切って斬り合えるほどではないだろうが、コンプリスは遠からず倒れる。
時間も状況もサルコルに圧倒的に有利だった。
二人目の暗殺者は、逃げ回っているだけで障害になる騎士を排除できる。
コンプリスが倒れれば、そこで詰みだろう。魔術が使えず、ただの八歳児に過ぎないティルには荒事に慣れた敵に対抗する手段を持ち合わせていない。
コンプリスもすでに限界だ。うめき声のような聞き取れないほどの小さな音を血まみれの喉から漏らしている。
剣で体を支えながら、敵を睨んでいる。燃えるような怒りの視線だけが、サルコルをまっすぐに射抜いている。
その場から、もう動けもしないのだろう。
サルコルはニヤニヤと笑みを浮かべているが、油断してはいない。
距離を保ったままそのときを待つらしい。ひとりの騎士が死ぬ瞬間を、余裕の顔で眺めていた。
「安心したか? じゃあ、それそろ死んでくれ」
騎士の全身から生気が抜けていくのが、傍目にも伝わるくらいだ。
ティルの目にもそうなのだから、さらに近い位置にいて、経験豊富な暗殺者にはなおさら如実に把握できるはずだった。
騎士はもはや障害にならない。
それを確信した暗殺者は、瀕死のコンプリスへとゆっくりと歩み寄る。
警戒は解かない。油断はしていない。
悪あがき、あるいは必死の一撃がありうることを十分に考慮して、それを見てから対応できる自信があるのだ。
ティルは一瞬だけ迷った。
逃げるか、それとも。
サルコルを睨みつける騎士の瞳に、まだ怒りの炎が覗くのを見た。
心のなかでパテルに謝った。ティルさま? と、さっきから彼女が袖を引いて逃げることを提案していることに気づきながらも、それを言外に断る。
「猛き炎よ」
それから、ずっと握り込んでいた短杖を振りかざし、最初は小さく、だんだんと声を大きくする。
「我の指し示したるものを」
詠唱は知っている。何度も練習した。一度も成功しなかった。
それは火属性中級魔術。
ほんのついさっき、行商人の格好をした暗殺者が使った、馬車を吹き飛ばすくらいには威力のある攻撃魔術だ。
「みな、燃やせ――」
御者にして暗殺者であるサルコルは、最後まで油断していなかった。
コンプリスは死に体で、もはや何の障害にならないと確信しながらも、じっくりと仕留めにかかるくらいには慎重な男だった。だから、無力なティルにすら、いくらかの注意を向けていると信じた。
一回限りの濡れ仕事ならともかく、最低でも複数回やっているであろう熟練の玄人であるのなら、メジャーな攻撃魔術の詠唱くらい知っていると信じた。
ティルは賭けに勝った。
暗殺者は素人ではなかった。
だから反射的に、自分を殺しうる攻撃魔術の飛来に備えた。これまで手にかけたなかにどこかの貴族、魔術師もいたのかもしれない。
「《砲火》」
一瞬の判断が生死を分ける。彼はティルが魔力不全症であることを、己の肉体の反応より遅れて思い出したのだろう。肉体による回避行動と、思考による中止命令とが衝突した。
ティルの手にした短杖が、一流の魔術師が使うような逸品であることも幸いしたのかもしれない。
一度として成功することがなくとも、何度も詠唱と呪文を繰り返し、その発声が本来と遜色ないものになるまで練習し続けた日々は無駄にならなかった。
あるいは、ティルは今こそ魔術が使えると信じたのかも知れない。
気迫。心意気。あるいは、殺気。
それらすべてが、ありもしない魔術の発動を、命の危機を暗殺者に察知させた。
「お前っ……なっ」
その隙を見逃すほど、騎士コンプリスは無能ではなかった。もはや命が尽きようとしている瞬間に、自らの首に突き立ったナイフを強引に引き抜き、滑らかな動きのまま暗殺者へと投擲する。
体勢を崩し、己の顔面を狙ったナイフを弾き飛ばしたサルコルだったが、首から血を吹き出しながらまっすぐ突っ込んできた捨て身のコンプリスの、生涯最後の一撃を防ぐ手段は残っていなかった。
「うそ……だろ……?」
下方から天へ飛翔するような、逆袈裟斬りが綺麗に決まった。御者として怪しまれないために鎖帷子などを着込めなかったのが彼の敗因だった。
「おれ……が、死ぬ、のか……? こんな、ところで……」
脇腹から首までを切り裂かれた男は、限界まで見開いた目でぎょろりと周囲を見回したあと、そのまま倒れ込み剣を地面に突き立てた騎士の背中を、それから首を動かして自分を騙したティルを睨みつけて、そのまま仰向けに倒れた。
コンプリスも剣を握り締めたまま微動だにしない。絶命したのだろう。
騎士と暗殺者は対峙した位置関係のまま、ひとりは仰向けに、ひとりはうつ伏せになりかけた姿で死体となった。
双方が血まみれだった。
凄絶な場面を目の当たりにしたパテルが、ひっ、と悲鳴を漏らした。
ティルの腕を強く掴んだまま、凍りついたように動けなくなってしまった。
ティルは大きく息を吐いた。
「パテル」
「は、はい」
「腕が痛いんだけど……そろそろ離してもらえると」
「え、あっ……はい……」
あえて普段通りの口調で話しかけるが、パテルの表情は硬いままだ。
ティルとて半ばパニック状態で、うるさいくらいに心臓がドクドク鼓動を早めている。
今だってずっと落ち着かない気分でいるし、これからどうしようと不安は募るばかりだったが、自分のメイドもそれどころじゃなさそうなので、なんとか無理やり自分を鼓舞して冷静になろうと努力していた。
落ち着いて考えると、地獄みたいな状況であった。
行商人の格好をした暗殺者に奇襲されたと思えば、同行者にも暗殺者が混ざっていて護衛の騎士と相打ち。
しかも口ぶりからすると、暗殺の依頼だか命令だかは別系統らしい。
二人だか二つの勢力だかに命を狙われていることが発覚したティルの内心は穏やかではなかった。
一度ラグラン領に戻ることも考えたが、場所が場所だ。
デルタモア伯爵領に向かうのも、ラグラン男爵領に戻るのも、距離的には同じくらいになる。
いっそのことこの地の領主、なんとかいう子爵に助けを求める手もある。
しかしながら、政治的な問題がどこまで拡大するか分からず、この状況下ではどこに連絡するか、誰に正体を明かすべきかどうかすら判然としない。
一番近い町の詰所か警邏隊、あるいは兵舎に駆け込んで保護を求めるべきか。
それともあえて誰にも知らせず二人旅の方が安全か。
迷うところだ。
おそらく母か子爵家の間諜であった御者サルコルはともかく、もう一方の暗殺者は誰が差し向けたものなのか、まるで見当がつかない。
どこから情報を手に入れたのか。どうしてティルを狙ったのか。何もかも不明瞭である。
助けを求めた相手とつながっていたら目も当てられない。
このタイミングで襲撃してきたのは、この子爵領で暗殺してしまえばもみ消しやすかったから、という可能性もある。
仮定に仮定を重ねすぎている。思考の迷路に入り込んでしまったことを自覚し、ティルは頭を抱えた。
とりとめもなく考えつつも、ティルは少しだけ近づいた場所で立ち止まり、死闘跡の様子をうかがっていた。
死んだふりをしている可能性も疑う。
戦闘能力のある人間は、ティルやパテルにとっては熊みたいなものだ。
近距離で襲われたら防ぐことも逃げることも不可能なのは間違いない。
観察を続けるが、数分経っても変化はない。死体は三つとも完全に沈黙していた。
胸の上下、指先や微細な動きも一切ないことを入念に確認し、それからようやく安堵の息を吐き出す。
「ティルさま」
「僕もだけど、みんな旅の間は偽名で通そうって話だったはず……いいか。もう、そんなこと気にしてる場合でもないし」
「わたしたち、これからどうすれば……」
「そうだね……じゃあ」
パテルの深刻な顔に、ティルは冗談めかしてこう告げる。
「いっそのこと、このまま二人で逃げて駆け落ちでもする?」
「ティルさま!」
「わっ、そんな顔しなくても……」
否定されるのは分かっていたが、普段と違って血相を変えたパテルに、ティルはさすがにこのタイミングで言う冗談ではなかったかと反省した。
パテルの視線は肩越しに、鬱蒼とした木々の向こう側へと向いていた。
振り返ろうとした瞬間、ティルはパテルに突き飛ばされた。
「え?」と間の抜けた声をティルが発するのと同時に、パテルの胸に矢が突き刺さった。
「あ……」
その声を漏らしたのはティルだったか、パテルだったか、それとも二人ともが同時であったのか。
地面に尻餅をついたティルは、パテルの顔を見た。
突然の痛みか恐怖に表情を歪めながらも、ティルの無事を喜ぶような安堵の顔だった。
「……よか……った……」
彼女は近くの樹木にもたれかかり、何かまた喋ろうとして血を吐いた。
そのまま力なく、膝から崩れ落ちた。信じがたい光景を目の当たりにして、ティルの頭は真っ白になった。
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