第28話 凶報
男爵家の屋敷が見えた。
ここに戻ってくるまでに、同じだけの時間がかかった。
まだ夜明けまでには時間があるが、早ければもう出発している可能性もある。
ゲイリオスは急いだ。
元冒険者であり、実践派の魔術師でもある彼は、体力にも自信があった。
「はぁ……はぁ……若い頃のようには、いかん、な……っ」
体が思ったように動かない。若い頃の感覚とは違ったのだ。
途中途中で休憩を入れつつも走り続けていたせいか、足は鉛のように重く、息切れもひどい。
「くそっ、向こうか」
それでも彼は足を止めなかった。
ようやく敷地内に足を踏み入れたが、弟子の乗る馬車は裏手にあるらしい。
「はぁ……なんとか、間に合う、か……?」
歩く速度が落ちるのと同時に、見苦しくないよう呼吸を整え、汗だくの顔を急ぎ唱えた風魔術で手早く乾かす。
髪が乱れるのを直す暇もなく、屋敷を回り込むようにして早足で進むと、ちょうど馬車が走り出そうとする場面だった。
「ティベリウスッ! ティベリウス・ラグラン!」
とっさに叫んだ。静けさに沈んでいる夜の空気に、それはひどく響いた。
無意識に走って、馬車のキャビンの枠に手を伸ばす。
今にも走り出しそうだった馬車が動きを止める。御者の男が迷惑そうな顔で振り返ったのが見えた。
ティルが身を乗り出して、話しかけてくる。
「先生、もしかしたら来てくれないのかと思って、ちょっと不安でした」
ゲイリオスはつとめて平静を装い、弟子の言葉を鼻で笑った。
「吾輩にも情はある」
「知ってます」
懐から取り出した贈り物を、むき出しのまま手渡した。
包み直す時間もなく、不格好ではあったが、ティルは驚いた顔をした。
「お前のために作らせた杖だ」
「でも、僕は」
「いいから持っていけ。吾輩からの詫びでもある。いつか何かの役に立つ日がくるかもしれん」
教え子のティルが、少しだけ呆然としたように、師の顔を見つめた。
それから、
「ありがとうございますっ!」
と笑顔で言った。ゲイリオスはゆっくりと頷いた。
「学ぶことを忘れるな、ティベリウスよ」
「ゲイリオス先生……どうか、お元気で」
そして馬車は動き出した。
そのまま屋敷から遠ざかり、夜の景色の向こう側へと進み、馬車がどんどん小さくなって見えなくなるまで、ゲイリオスは黙って見つめ続けた。
不意に、闇を切り裂くように、遥か遠くの地平線から曙光が覗くのが見えた。
最初はうっすらと、そして小さく細い光が、だんだんと広がっていった。
馬車はもう見えない。夜明けの気配が、ゆっくりと空を塗り替えてゆく。
ゲイリオスが振り返ると、そこにはもう誰もいなかった。途中まで男爵もいた気がしたが、夫人の姿があったかは覚えていない。
細かい人数構成は聞いていなかったが、馬車には御者がひとり。
キャビン内にティルと専属メイド、そして護衛の騎士の三人、合計で四人だったように見えた。
領主の長男を送迎するにしては、ひどく小規模である。秘密を知っている人間は少ないに越したことはないのも間違いない。
デルタモア伯爵領までは、余裕を持った旅程で考えれば二週間ほどになる。
腕の立つ魔術師が先導すれば危険地帯を直進することも可能だが、今回そうした危険を犯す理由はまったくない。
観光旅行ほど気楽な旅でもないが、せめて道中を楽しめれば良い。
そう願ってゲイリオスは、この家でこれから二年間ティベリウス・ラグランと呼ばれる少年の教育について、頭を悩ませることにした。
ゲイリオスは、翌日からさっそく彼への授業を始めようとした。
が、ことの経緯と、不本意な結末とを、手遅れになってから教えられた次男ルキウスが――合意の上で、領内では彼をティベリウスと呼ぶことになってはいたが、ゲイリオスはそれを拒否した――ひどい癇癪を起こし、それどころではなかった。
知ったばかりの魔術を使って暴れまわる彼を必死に抑え込み、弟のためにと兄は自ら名を貸し与え望んで旅立ったとする美談を造って説得し、それでも納得していない五歳の子供をゲイリオスが叩きのめす羽目になったことで、ラグラン家の屋敷はこの一週間、上へ下への大騒ぎだった。
彼はゲイリオスが兄の家庭教師であることは認識していたようで、教師としての言葉にはある程度耳を傾けてくれた。
ルキウスのことを、ゲイリオスは少しだけ哀れに思った。
昨日までルキウスと呼ばれていた自分が兄の名を奪うことになり、そして両親や使用人たちがティベリウス、ティベリウス様と呼ぶのだ。
彼の身になってみれば、これがどれほどおぞましいことか。想像するだに怖気の走る光景であろう。
ただ、自分の身を守るため。男爵家を守るため。兄の苦労を無駄にしないため。そうした理屈が理解できないほど愚かでもないルキウスは、最終的には家中の人間たちからティベリウスと呼ばれることを受け入れた。
ゲイリオスには分かっている。実際には、納得して受け入れたわけではなく、聞き流しているだけだ。
それは兄の名であるという気持ちの方が強いのだろう。
だから余人を交えず授業を行っているあいだ、正しくルキウスと自分の名を呼んでくれるゲイリオスに少しだけ好感を抱いたらしい。
兄について語ってもちゃんと聞いてくれる相手だからと、他の大人たちへの不信感が増すとともに、ゲイリオスへの信頼はどんどん強まっていく。
本来であれば、ルキウスの置かれた状況を鑑みるに、ゲイリオスこそ彼をティベリウスと呼ぶべきであった。
自覚を促す意味でも、成り代わった状態に慣れさせるためにも、そうするほうが彼の安全を守るためには正しかった。
それはゲイリオスが彼の事情を忖度なり斟酌する理由にはならない。
彼の信頼を稼ぐことは、いつか何かで使えることもあるだろう。
だから呼称ひとつで好悪の印象を左右できるなら、ルキウスと呼び続けるつもりでいた。
ティルからの頼みもある。決して指導の手は抜かないし、自分の身を守る力を身につけさせもしよう。
しかし、それ以外については好きにさせてもらう。
ゲイリオスはそう決めた。
後悔したくないのなら、好き勝手に利用されたくないのなら、他人によって人生を左右されたくないのなら、それを自分で気づかなければならない。
力あるものこそ、自分の人生に責任を持つ必要があるからだ。
賢くとも抗うだけの力がなかったティルは、流れに逆わなかった。
しかしルキウスには並ならぬ力がある。
巨大な力を有するものは、力に見合うくらいには賢くならなければならない。
ゲイリオスは、そう考えている。
ルキウスへの魔術講義を始めてから、一週間が経った。
予定していた授業の時間まではあと小一時間ほどあるが、廊下を行き交う使用人たちが落ち着かない様子でいるのが気にかかった。
屋敷内の雰囲気が、妙に慌ただしい。張り詰めたものである気がしたのだ。
ゲイリオスは見覚えのある侍女を捕まえ、何かあったのかと尋ねた。男爵夫人の周囲に控えていたうちの一人だったはずだ。
彼女はゲイリオスに呼び止められるとは思っていなかったのか、あ、と驚いた顔をしてから、困ったように目を伏せた。
「申し訳ございません。お客様にこれを伝えてよいかどうか、わたくしには判断がつきかねます」
「つまり、ただならぬ事態が起こったわけか」
「……っ」
自分の失言を察したか、彼女の顔が青くなった。
口を割るまで詰問を続けることもできたが、見ていて可哀想になるほど怯えた顔の侍女にゲイリオスもそれ以上質問する気が失せた。
許しを得て、侍女は頭を下げ、そそくさと去っていった。
ゲイリオスは男爵の執務室へと向かった。
ノックはしたが、返事や許可を待たずに扉を開いて足を踏み入れる。
中にいたのは男爵と、男爵夫人エリザベート。そして見覚えのない男。
空気や背格好、佇まいから手慣れた戦士のように見えるが、ラグラン領に仕えている騎士ではない。
冒険者か。あたりをつけたが、男爵と夫人が揃って、一介の冒険者を執務室に招いている状況もおかしな話だ。
かつて自分も冒険者として活動していた経験から、ゲイリオスは目の前の男が仕事としてこの場にいることを察した。
銀級、いや鉄級上位か。
どちらにしても、冒険者としては実力がある部類に入る。
他領で活動している冒険者が、男爵夫妻に直接報告を許される状況。
嫌な想像が浮かんだが、ゲイリオスはつとめて冷静に口を開いた。
「何があった?」
「わからないんだ……」
頭を抱えて、動揺を隠せずにいる憔悴した男爵と、その隣で珍しく混乱と困惑を表情に出してしまっている夫人に、気まずそうな顔の冒険者の男。
勝手に踏み込んできたゲイリオスの非礼を咎めるでもなく、男爵は執務机の前に呆然とした顔のまま立ち尽くしている。
まだ動揺が少ない方である夫人が、ゲイリオス様、と顔を見て声を漏らした。よほど衝撃的な一報を受けたらしい。
「ラグラン男爵!」
「……あ、ああ……っ」
「教えてくれ。いったい何が起きた?」
ゲイリオスが強い口調で重ねて問う。
男爵の返答は、うめき声のような湿った響きをともなっていた。
「死んだ。……死んでしまった」
「誰が」
「ティベリウス、が」
ゲイリオスは音がなるほど奥歯を噛み締めた。しかし、まだ、どっちのティベリウスの話なのか、と反射的に聞かないだけの冷静さは残っていた。
ゆっくりと息を吐いた。それから、静かに尋ね直した。
「よく考えてから答えろ。それは、間違いのない話か?」
「……あ? あっ……」
男爵は言葉の途中で凍りついた。
部外者である冒険者がすぐそばにいることを思い出したらしい。
ここで貴族たちの余計な話を聞かされるのは御免被ると言いたげに、冒険者が口を開いた。
「あの……依頼されていた報告は済みましたので、おれ……あ、いや、わたしはこれで失礼しても?」
「え、ええ……あ、こちらを届けていただいた報酬の方は」
「うちの子爵閣下からのご依頼なので、受け取りのサインをいただければ、ギルド経由で受け取ることになっております」
恐る恐る差し出された書類に夫人がさっと目を通し、男爵に署名を促す。手早く記した文字は若干震えていたが、夫人が確認して冒険者に手渡した。
「受領のサイン、確かにいただきました。あの、わたしはあくまで急報を頼まれただけですので、詳しい調査の結果などは追って連絡があると思います。では、ラグラン男爵閣下におかれましては、その、ご愁傷さまで……失礼いたします。はい」
早口気味にしゃべった冒険者は、引き止める間もなく出ていった。執務室の空気は重苦しく、厄介事に巻き込まれたくない気持ちは理解できる。
内容を把握しているということは、彼による口頭での報告だったのか。いや、同内容の報告書だか手紙だかも一緒に配達してくれたのだろう。
あるいは現地の人間にしか分からないこともあったかもしれない。ここは引き止めるべき状況だったか。判断が鈍っている。しかし。
ゲイリオスは自分の動揺の大きさを自覚すると、もう一度深く呼吸をしなおした。
ティベリウスが、死んだ。
出立の日からおよそ一週間。
まだデルタモア伯爵領までの道程は半分ほどで、その途中で何らかの事件に巻き込まれたことになる。
ゲイリオスは、こうした事態の発生を防ぐためにこそ、男爵家のつまらない意向に賛同したのだ。
彼の心が傷つくことは、その尊厳が貶められることは分かっていた。
それでも身の安全、命を守る方がもっと大事だと考えていた。
あの子は精神的に打ちのめされても、立ち直れるだけの強さがあると考えていた。
外に出してしまった時点で、それで家中がまとまった瞬間から、ティベリウスが暗殺される意味はほぼなかった。
信じがたいことだが、つまり、これは事故なのだろう。偶発的な出来事に巻き込まれた。そうとしか考えられなかった。
どこかの山道が突然に崩れたか、橋が落ちたか、あるいは山賊に襲われでもしたか。
宿で出された食事に毒茸や毒草が混じっていたか、それとも立ち寄った村で流行り病をもらったか……死因はいくらでも思いついた。
彼はまだ八歳の子供だった。
たとえば護衛の騎士が支払いのため目を離した隙に、通りがかった酔漢に強く腹を殴られればたやすく死ぬだろう。
そもそも、ただ単に乱暴に押しのけられてテーブルの角に頭を打ち付けただけでも、人間は死ぬ。
それらすべてを先んじて防ぐことはできない。
男爵家の館の中にいればありえなかったような予期せぬ危険が、旅の途中では無数にあったことだろう。
ティルには魔術が使えない。
年に見合わず賢く口は回るが、単純な暴力や、切迫する危険な物理現象に対処する術がないのだ。
あの教え子は、それくらいには脆く、か弱い存在でしかなかった。
ゲイリオスの見たところ、男爵にも、男爵夫人にも、エンディール子爵やラグラン領の内外のどこにも、もはやティベリウスを排除する意味がない。
どの勢力、どの意図であっても、わざわざ暗殺に手を染める必然性がない。
誰にとってもティベリウス・ラグランは使える駒だった。だから盤上から遠ざける必要があった。
彼は無力だった。魔力不全症という欠陥を抱え、自分の身を守る魔術の行使すら叶わぬ、ただ頭と口が回るだけの幼い貴族に過ぎなかった。
むしろ、二年後に採れる手段の増減や状況の変化の可能性を考えれば、むしろ無事でいてもらったほうが都合で良いはずなのだ。
それはゲイリオスがルキウスに学ぶよう説き伏せた手段からも明白だ。
ラグラン家の誰もが認識している、彼の手綱を握るための手法でもあった。
ティベリウスがルキウスのために犠牲となることを受け入れたのと同じく、ルキウスもまたティベリウスのことを大事に想っている。
いわば、互いが、互いの人質になりうる。
そういった都合の良い存在を、このタイミングで消しにかかるのはまったく道理に合わない。
だが、それでもティベリウスは死んだ。死んでしまった。
詳しく話を聞く必要がある。
どうしてこんな結果に至ったのか、ゲイリオスにはそれを知る責任があった。
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