第26話 サクリファイス・エスケープ
館までの短い帰り道、男爵や夫人はどこか晴れやかな顔をしている。
いや、男爵は今になって少しだけ気遣わしげなふうに目を伏せた。
長男の名前を取り上げ、二年ほど領外で暮らすよう言いつける自分の役目を思い出したのかも知れない。
領地の上位者として、あるいは貴族、父親として毅然として命じられないのなら、最初から長男の負担や苦痛も考慮に入れて策を講じれば良いとゲイリオスは考えるのだが、男爵のことだ、おそらく深くは考えていなかったのだろう。
残酷な命令を突きつける直前になって実感が湧いてきた、現実味を感じだしたあたりか。
ゲイリオスはラグラン男爵を、年下の知人と思っている。足らないところが目立つ男と思っている。
対等な友人ではない。あくまで知人である。
このラグラン領を守っていることから、戦闘能力については一目置いているが、それ以外の部分では平均以下の貴族でしかない。
出会いからして同情、あるいは若く不運にも男爵位を継いでしまった人間を見捨てられなかったことからの関わりである。
だから貴族として不足している部分の多さには長らく目を瞑ってきた。
教育、あるいは環境に起因する知識や感覚の欠如であると、そう憐れんでいたからである。
一年、ラグラン領で暮らしているうちに、そうではなかったと気づいた。
彼に足りないのは向上心であった。
そしてそれは、ゲイリオスからすれば、蔑むべき怠惰さといえた。
繰り返すが、ラグラン領は貧乏である。
魔の森という危険地帯を抱える、領地としては恵まれていない不毛の地である。
そのラグラン領を若くして、準備不足のまま継ぐことになったラグラン男爵は、客観的に見ても間違いなく不運であった。
しかし、その長男、ティベリウス・ラグランを見ていると、どうしても父親と比較してしまう。
この父親から、こんなにも理知的な子供が生まれるのか。
ゲイリオスは不思議でならなかった。
才覚の源泉は母親か。
かもしれぬ、次男もまた魔術の才という意味では至上の素養を持って生まれたのだから。
というわけで、戦場で肩を並べて、あるいは数年に一回や二回、短い時間だけの付き合いでは見えてこなかった男爵のダメさ加減が把握できてきた今なら、彼が情けない男であることも承知していた。
一年この地にいて、時折顔を合わせるだけでも読み取れた彼の程度は、息子であるティベリウスならもっと深く認知しているだろう。
だから彼は、そんな父に期待することはない。
もとより母の愛も感じてはいないであろう聡明なティルが、この家で自身より重視するのは、自分を素直に慕う次男ルキウスだけである。
ルキウスのために必要なこと。この論理が働く限り、彼はこの残酷な命令を最終的には受け入れることになる。
皮肉なことだが、それを言い出したのはあのエリザベート、ティルの母である男爵夫人だ。
愛情は向けないくせに、そうした機微、あるいは行動規範は理解しているというのは実にたちが悪い。
そして、ゲイリオスがこの気持ち悪さに手出しができない現状が、なにより気に食わなかった。
善意であるとか家族愛であるとかを人質に取る狡猾なやり口は、実に貴族的である。
ティベリウスがこれをはっきりと拒絶したならば、ゲイリオスは彼の助けになれる。
そうはならないだろうことを、家庭教師としての彼は予測していた。
ままならないものだ、と彼は天を仰いだ。
そうこうしているうちに屋敷へとたどり着いてしまった。館内の使用人のほとんどが集められていたのだ。
異変を感じていれば、答えにたどり着いているころだろう。
そしてティルは、やはり、察したらしい。
メイドを傍らに、長い廊下にいた彼に気づいた弟が走り出した。
兄が受け止めてくれることを一切疑わず、その腕の中に全力で飛び込む姿は危なっかしい。
驚きつつも優しく抱きとめたティルが、ゆっくりとルキウスを立たせた。
それから腰をかがめて弟の高さに目線を合わせる。
廊下の先にある心温まる光景と裏腹に、いきなり駆け出したルキウスを制止できなかったことで青ざめている侍女をちらと見た。
ゲイリオスや夫の目もあるせいか、男爵夫人は、この場では何も言わなかった。
どこか醒めた微笑を浮かべたまま、兄弟のやり取りを眺めていた。
ティルは弟に細かいことを聞かなかったらしい。求められるままにその頭を撫でてやった。
弟は目を細め、気持ちよさそうにされるがままになっている。
少しして男爵夫人がルキウスに戻ってくるよう声をかけた。
兄にしがみついたまま離れたがらない弟だったが、その兄本人から母のもとに戻るよう諭されてしまった。
とぼとぼと歩くルキウスは、何度も兄を振り返り、未練がましく口をとがらせていた。
夫人と次男はその場から離れた。後始末というか、面倒ごとは男二人に任せたということらしい。
説明役を名指しで任されたゲイリオスは頷いたものの、内心、なんだこの女は吾輩に対して偉そうに、と思った。
男爵夫人が視界から消えるより先に、彼は男爵を視線で叱りつけた。
気づいた男爵は肩身が狭そうに目を泳がせ、ゲイリオスに対して申し訳なさそうに何度も頭を下げていた。
いま言葉で謝罪できない理由は分からんでもなかった。ここでゲイリオスに謝罪を口にしてしまうと、別の意図が生じてしまうことを危惧しているらしい。
ゲイリオスには、どのみち手遅れだから諦めろ、と焦っている男爵に直裁に言わないだけの優しさはあった。
もはや父としての、あるいは男爵としての威厳を気にすべき状況ではなく、誠意の問題なのだが、それすら分からないのだろう。
不甲斐ない父の代わりとして、状況をなんとなく察したらしいティベリウスが表情と目礼でフォローする。
それがまたゲイリオスの苛立ちを増すことになった。
誰のせいで要らん苦労をしていると思っているのだ、と説教したくなる。
そうした話を始めるとまた本題から遠のく。
一度大きく息を吐きだすと、ゲイリオスはつとめて事務的に、ラグラン男爵家とティベリウス・ラグラン、そして次男ルキウスの、これまでとこれからについての予定と展望とを語ってみせた。
話が進むにつれ、横で一緒に聞いていたティルの専属メイドのまなじりが釣り上がっていくのを横目に、当の本人は何の感情も見せないまま聞き終えた。
もしかしたら、説明していたゲイリオスの方が、怒りに満ちた声を発していたかもしれない。
「つまり……今月末までには、僕にこの家を出て行けと」
「そうは言っておらん。断れるだけの名分が立たなかったのだ」
「ええ、ええ。先生がそうおっしゃるのでしたら、そうなのでしょう。そして父上もそれを良しとした」
冷静な声であった。軽く天井へと目を向けただけで、すぐに前を見た。
隣のメイドは口を挟めない立場と我慢しているのか、うつむき加減で無言だ。しかし握りしめた拳が小さく震えている。
ああ、その通りだ。ゲイリオスはそう告げたつもりだったが、声が小さく後半は届かなかったかもしれない。
「すまぬ」
「いえ。僕のためにしてくれたことですから」
そう口にして微笑むティベリウスの顔が、どこか儚げに見えた。
「それに、全部、僕が無能であったことが悪いんです」
そんなことは、と否定するより早く、彼は男爵に頭を下げた。
ラグラン男爵はうろたえていた。
ゲイリオスは、隣にいて息子にこんなことを言われて動揺を隠せない男の脇腹を小突いた。
う、と彼はうめいた。
それから絞り出すような声で、深く考えていないであろう言葉を吐き出した。
「そうではない。そうではないのだ」
「何が違うと?」
「あいつは……エリザベートは、お前を恐れている。だからこそ、こんな手段を取ろうと考えたのだろう」
一瞬、空気が変わった。
それはティルの表情からもうかがえた。へえ、と彼は肩をすくめた。
「それは嬉しいですね」
「……どういう意味だ?」
「僕が母上からそんなに意識されていたなんて、初めて知りました」
ラグラン男爵が、目を見開いた。わかりやすく愕然としている顔をした。
父は、息子の物言いに初めて何かを理解したらしかった。
「父上の望むとおりにします。僕に選択権はありませんから」
ゲイリオスは本当かこの男、と呆れを通り越して哀れみすら覚えた。
自分が父である認識はしていたが、自覚はなかったのかもしれない。
皮肉なものだ。
自分が何を選択したのかをこの瞬間に理解したとは。
「ティベリウス」
こっちを見るな、とゲイリオスは眉間に刻まれたシワを深めた。
男爵がすがるように、救いを求めるように自分を見た。
ゲイリオスからすれば今更が過ぎた。
もう計画は動き出してしまったのだ。
ここで後悔するのなら、もっと最初からちゃんと考えておくべきだった。
それだけの話だった。
そうしてティルは、残酷な提案を受け入れた。
命令の形でこそなかったが、そこに選択の余地はなかった。
光属性の適性を持った弟を守るため、兄ティベリウスの人生は制限される。
ティルは二年のあいだ領地から離れ、ルキウスに自分の名を貸し与える。
「すまぬ」
父親が繰り返すのを、ティルが肩をすくめながら、じっと見ていた。
ゲイリオスは嘆息した。これは奉仕や献身ではなく犠牲なのだ。
一人を選び、もう一人を生贄にした。
全員が、その自覚を持たなければならなかった。
すべての負担を引き受けたのは、多少頭が良いだけの、魔術も使えない、わずか八歳の子供である。
そして、その糞のような策略を認めた自分もまた、この糞みたいな連中の同類に過ぎないのだと自分を嗤った。
こみ上げてきた吐き気じみた最悪の気分を、顔に出さないよう苦心した。
この賢い教え子は、そうした他者の選択の苦悩を見抜いたうえでなお気を遣える人間であることを、彼はよく知っていたからである。
ゲイリオスは自分の無能を恥じた。
いっそのこと、こんな自分の何が無欠かと叫びたかった。
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