第12話 左様なら
ひととおりの支度が終わり、あっという間に月末を迎えた。
日もまだ昇らない時刻、早朝より深夜に近い暗さのなか、迎えの馬車が館の裏手の目立たぬ場所に停まっていた。
二頭立ての馬車であった。馬も立派で毛艶が良く、大人しくしている。
キャビンは四人乗りだが、荷台が別になっている。
荷台で運ばれる乗合馬車と違って、屋根付きなのはありがたい。
「へへっ。おまたせしました」
御者台から降りてきた男の顔に、ティルも見覚えがあった。
館の使用人ではないが、よく父を送り迎えしている馴染みの御者である。
黒っぽいコートを着込んでいて、いかにもな佇まいだった。
すぐそばに母の姿も見えた。声をかけられた御者は、自らの胸を叩いてみせた。
来るとは思ってなかったから、ティルはわずかに驚いた。
とはいえ、別れを惜しむ顔ではない。どことなく穏やかな顔にも見える。
ルキウスの姿も探したが、母の傍らにも見当たらなかった。
もし弟に一切伏せたまま進めた話であれば、のちの禍根になりかねない。
さすがに当日までには伝えるべきだとティルは考えていたが、機会は今日まで訪れなかった。
自分がいなくなったあとで、大暴れしないといいけれど。
まあ、その場合は自業自得か。せいぜい機嫌を取ってくれ。
ティルはため息を付いた。
父と執事も見送りのため、姿を表した。父は、そこに母がいたことに少しだけ驚いた顔をしたのが見えた。
また誰かの影が近づいてきた。
先生が顔を出したかと思ったが、どうにも体格が違いすぎる。
「若様、おはようございます」
よく通る声である。
不思議そうにティルが見上げると、その若い男は綺麗な礼を見せた。
あ、とティルは気がついた。
ラグラン男爵家に仕える、数少ない騎士のひとりだろう。
普段は領内の巡回をしているはずだから、館で見かけることはほとんどない人物だと思われる。
父が説明してくれた。
「こいつはコンプリス。デルタモア公爵領まで、お前達の護衛を頼んである」
「騎士コンプリスです。このたび若様を無事に送り届ける大役、閣下より仰せつかりました。どうぞよろしく」
穏やかそうな声色ながら、どこか自信に溢れた感じがする。
騎士らしい威圧感ある金属鎧姿ではなく、旅人の、あるいは傭兵や冒険者によく見られる軽装である。
使い古したマントや胸当ても、一見すると安物に思われそうなボロさだ。
しかし、腰に佩いた長剣には雰囲気がある。
笑顔のようで笑っていない目付きのせいで、見るものが見れば騎士と気づくかもしれない。
目立たないのが大事、ということだろう。
コンプリスは目つきこそ鋭いが、顔は整っている方である。
一行が人目につきたくないのなら不向きな人選かもしれない。
人気の舞台役者みたいに、若い娘から熱っぽく見られかねないのでは、とティルは心配になった。
パテルもいつものメイド服ではなく、長期用の旅装に着替えている。
しっかり防寒対策をしたら、初めて王都見物に行く田舎者みたいな着込み方になってしまった。
一方のティルも似たコンセプトで用意した。
色味を抑えた、厚みのある良質な生地の長袖長ズボンで、だいぶ着こなしている感があった。
この時期の夜はかなり冷える。
雪の季節にはまだ早いものの、長い馬車旅だから、疲労がかさむだろうことは想像にかたくない。
旅程が崩れないよう、全員、風邪を引かないようにしたいところである。
はたから見れば、年齢差のある姉と弟、そして護衛の剣士の組み合わせだ。
基本的にはずっと馬車移動であり、貧乏人とは思われないだろうから、ある程度は仕方ないと割り切る。
貴族の子弟ではなく、それなりの商家の子供と見られれば成功であろう。
ここであんまりボロボロの格好だと、逆に目立ってしまいかねない。
違和感のない服装のほうが道中のトラブルは避けやすいはずだった。
「御者はサルコルだ。俺が若い頃から頼りにしている男でな」
「へっへっへ。旦那様にはいつもお世話になっておりますんで」
紹介されたサルコルの背中は丸まっていた。
御者生活が長いせいか、姿勢だか背骨だかにくせがついてしまったようだ。
日焼けのせいか浅黒い顔で、父よりも年上に見える。
くたびれたコートの色のせいか、羽をたたんだコウモリにも見えた。
ティルに頭を下げ、そのまま人懐っこい笑顔を向けてきた。
「いつもと違って距離が長いが……」
「ええ、ええ。大船に乗ったつもりで。ただ、相応の報酬はいただきますんで」
「ああ、色を付けておく。ただし、無事に仕事を果たしたらだぞ」
通用口近くに積んであった荷物を、サルコルが運んで馬車に詰めていく。
日用品やら衣料品やら雑貨と種類はあるが、量はそれほど多くない。
あくまで二週間程度の馬車旅で必要になるものだけにとどめた。
不足したり別に必要になれば、その都度買い足すことになっているし、そのために十分な費用も用意されている。
何も問題はない。
路銀は護衛と案内役を兼ねる騎士コンプリスが預かることになった。
一介のメイドに持たすにはなかなかの大金であるから、騎士が一括で管理していたほうが安全だろう。
道中の食事の購入や、宿での交渉も任せて良さそうだ。
金貨銀貨が十数枚ずつ、細かい銅貨も揃っている。
ティルの想定よりも潤沢な資金だったが、道中の安全のためにも少ないよりは多い方が良い。
これは巡礼の旅ではないのだから、清貧を心がける必要もない。
デルタモア領には馬車でおよそ二週間かかる距離らしい。それも順調に進めた場合のスケジュールである。
泊まる宿の選択については御者任せになると言われた。
旅慣れしているので知人も多いし、馴染みの宿もあるそうだ。
予約できれば良かったのだが、遠方の宿へは連絡すること自体が難しい。
遠く離れた場所と連絡する魔道具は存在しているが、基本的には大貴族しか持っていない品である。
大成功した商人ならあるいは、といったところか。
男爵家から道中の宿屋へ電話一本で予約、とはいかないのが辛いところだ。
では先生はどうやってこの数日でデルタモア伯爵家に連絡を取ったのか。
急なお願いにもかかわらず、いかにして了解を取ったのか。
そこまでは教えてもらえなかった。
謹慎中とはいえ、宮廷魔術師には様々な伝手や手段があるのだろう。それで納得しておく。
二年を過ごす土地なり家屋なりは、先方がすでに用意してくれたそうだ。
デルタモア伯爵家を訪ねれば、案内してくれることになっている。
当面の生活費は伯爵家、というよりはゲイリオスの縁者経由で届けてくれる。
荷物の積み込みも完了した。
あとは乗り込むだけだ。
護衛役の騎士コンプリスはこの馬車に同乗する。
騎馬で先導なり並走されたら、地味な格好にした意味がない。
コンプリスに促され、ティルが踏み台に足をかけた。
背丈の問題で、そのままではキャビンに届かなかったのである。
「父上」
「な、なんだ?」
「これより僕は、なんと名乗れば?」
勢いをつけて乗り込む直前、振り返って尋ねた。
予想外の問いだったのか、父は目を瞬かせた。
「……家名さえ伏せてくれるなら、お前の好きにしていい」
こういう父である。やはり、我が子の気持ちは分からないらしい。
知ってはいたが、ティルはなんともいえない気持ちになった。
二年間、ティルは名を伏せるか、変える必要に迫られた。
自分自身である、大事な名前を封印することになるのだ。
ならば、代わりの名前くらいは用意してくれてもよかったのに。
そうした機微にうといとは知っていた。
だからティルは、率直な思いを口にすることはなかった。
諦め混じりに母を見た。
何を求められたのか分からなかった父と違い、母は意図を汲み取ったらしい。
「あなたは賢いのだから、自分で考えられるでしょう?」
「では……適当に何か考えておきます」
しかし、求めたものは与えられなかった。
褒めているようで、突き放すだけの言葉だった。
パテルの顔は見られなかった。
たぶん、いたましいものを見るような眼差しが向けられているから。
ティルは今度こそ馬車に乗り込み、顔を出して、行ってきますと声を発した。
頼んだぞ、と応じて父が手を振ったのを見た。ティルは微笑みで返した。
「ありがとう、ティベリウス」
と、母は最後に、澄んだ声でティルの名を口にした。
どういたしまして、と言葉にせず返した。
何のための感謝なのか、何に対しての感謝なのかは聞かなかった。
ティルに続いてパテルがキャビンに乗り込み、コンプリスも入った。
最後にサルコルが御者台に登り、休んでいた馬たちに声を掛ける。
いざ出発というそのとき、
「ティベリウスッ! ティベリウス・ラグラン!」
と、大声で呼ばれた。
夜明け前の、冷たい暗闇によく響く声だった。
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