第5話 「生まれてはじめて……」
自分とは何者なのだろうか、一体なぜそれを忘れてしまったのだろうか、そもそもなぜ生まれてきたのだろうか、何も分からない。
何者なのかもわからないまま、生まれ落ちていく……。それが普通で、当たり前なんだろう。
だが何か、何か大切なものを忘れている気がする。大切な何かが抜け落ちたまま生まれてきた気がする……。
「あら、どうしたの?アス」
「んぁ?」
優しい瞳で見つめる女性を赤子はつぶらな瞳で見つめ返した。
「お腹でもすいたのかしら……」
困った様子の女性から目が離せない。
赤子は確信する、彼女は自身の母親なのだと。
確信して初めて違和感を覚える、『母親』という単語に何かとてつもない強烈な拒否反応が出ることに。
「んっ、」
「ゃあ!?」
女性の突然の行動に驚きのあまり声が出る。彼女の長い髪に触れる数センチ手前まできて女性は赤子の頬に口づけをしたのだ。
「あらら、驚かせちゃった?ふふ、驚いた時の顔まであの人そっくりなんだから……」
儚げな表情の女性のその落ち着いた声に、赤子は少しずつ身を委ねる。
身を委ね、ゆっくり、ゆっくりと意識が遠ざかっていく……。
■■は生まれて初めてのぬくもりの中、眠りについた。
赤子は思う、何も忘れてなどいないのだと。今大切にすべきものは、■■べきものはここにあるのだと……そう思った。
***
――あなたに出会えてよかった、■■に出会えて、本当に良かった……。
懐かしい声が聞こえる。先ほどまでとは異なる声が、誰かに向けて涙を流している。
――■■、君は僕のの友人だよ、たった一人のね……。
ずっと聞いてきた声が聞こえる。その声はずっと誰かに微笑みかけている。
「誰かって、誰なんだよ……」
虚空の中、ひとり呟く。
赤子は思う、何故この者はこんなにも大事にされているのかと。
赤子は思う、何故この者が自分の夢に出てくるのだと。
まるでそれは■■の人生を追体験しているような、そんな夢だった。
――もし一度だけ人生の選択をやり直せるならあなたは何をやり直しますか?
そんな問いが聞こえてきた時、徐々に意識が浮上していく……。そして何もなかったかのように、……夢の世界は遠のいていった。
***
「あら、よく眠れた?」
気づけば大きなベッドに寝かされていた。隣で微笑む女性を横目に赤子は思う。
何かを忘れている気がする……
それが何なのかはわからない、だが大切な何かを、ずっと側にいてくれたはずの誰かを……
「おや、起きていたのかい?シュルフ、」
寝室に一人の男が現れた。自分が誕生したあの時、豪華な衣装を身に纏い、誰よりもはしゃいでいた男だ。
「ええ、ついさっきアスが目を覚ましちゃって」
シュルフ、それが母の名前らしい。彼女はこちらを向くとそっと頭を撫でながら艶やかな笑みを浮かべた。
『母親』、その言葉に憎悪を抱くのは何故なのだろうか。
少なくともその理由をまだ■■は知らない。が、それを知るのはこれから先、長い人生の道の途中でいいと、そう思えた。だから今は、今だけはこの瞬間を……
「お……かあ……」
気が付くとすでに口にしていた。その瞬間、寝室が静寂で包まれる。
「…………っ」
シュルフは口元を押さえた。
つぶらな瞳でそっと見つめる。今にも泣きだしそうな女性の、シュルフの琥珀色の瞳を。
「あなた、アス、さっき私の事……」
「ああ、聞いてたよ。まさかこんなにも早く言うとは思ってもなかったけどな……。」
ベッドに座り込むシュルフを宥める様に男はそっと彼女の背中を擦った。感激と感動で言葉に詰まるシュルフを横目に男は少しだけ寂しそうな顔をした。
その瞳はこちらへ向けられ――
「お……とう……さ。」
この体では慣れない、しっかり発音することさえままならない言葉で、彼らのくれたものに対する、今自分のできる最大限の恩返しをする。
瞬間、男は涙を流す。
「アス――!!」
うるさい、しつこい、めんどくさい、それくらい男は大泣きし、そして赤子の頭をぐしゃぐしゃになるほど撫で回した。
赤子はその手を受け入れ、父と母に挟まれ生まれて初めての幸福を感じた。
***
「はやく……」
虚空に取り残された■■は呟く。
「はやく、思い出してくれ……。」
忘れ去られた自分に気付いてほしくて、
「このままじゃまた……」
大切な全てを次こそは取りこぼしたくなくて、
「今度こそ絶対に、誓いを果たさなきゃいけないんだ……。」
生まれて始まった新たな世界で、すべてを守り抜くために。




