第1話 「君と過ごした日常」
「私はあなたに出会えてよかった。あなたとの出会いが、生活が、そして他愛のない毎日が、今の私を形作ったんですもの――」
不意に優しい声が耳をかすめた。
振り返っても、もうそこにはいない優しい少女が、可愛らしく落ち着いた見た目とは裏腹に明るい陽気に包まれ、そっと優しく、けども強引にその手を引いてくれた少女の声が…
「なんだ…夢か……」
少し寂しそうな、でもどこか嬉しいような表情で起き上がる。少し散らかった部屋に明かりが一つ、こんな夜更けまで寝てたなんて怠惰だな、なんて思いながら青年は目覚めた。
そうして身支度を済ませると二人の少年に挟まれた桜のように鮮やかな桃色の髪の少女の写真を見ながら青年はもう一度優しく微笑んだ。
「行ってくるよ...…」
どこか覚悟を決めたような表情で、その青年は自身のその紺色の髪をかき上げ、玄関の扉を開き、外の漆黒に姿を消していった。
***
――一体いつから狂い始めたのだろう……
ふとそう思い始めた時、足が止まる。
目の前はこの国の心臓とも言える王宮がそびえたつ。
さらにその奥――フェルムンド邸と呼ばれる小さな一軒家こそが目的地であった。
「ふぅ、……」
息を整える。チャンスは一度きり、失敗は許されないのだから――
「スイ……?どうしたんだい、こんな夜更けに」
ふと、背後から声が聞こえた――
懐かしく、昔から聞き慣れた、優しく包み込んでくるような声が……
青年は振り向く前からその声の正体を知っていた。なにせ、それこそが厳重な警備が敷かれている、このフェルムンド邸に侵入しようとした理由なのだから……
「アス……」
背後の声、振り向いた先、水色髪の青年は居た――
アス――そう呼ばれた青年はまるでここに青年、スイが来るとわかっていたかの様に堂々とした面構えで、しかし嬉しそうに紺瞳の青年を見つめていた。
スイはアスのその真っすぐで美しく曇りのない碧眼を見て思った。
――ああ、本当に……
***
『英雄』アス・フェルムンド、誰もが彼をすべてを持って生まれてきた人間だと言った。五歳でセルパ王国最強の証でもある『英雄』の称号を授かり、その称号にふさわしい剣技と立ち振る舞いで多くの者を魅了してきた。
そして十歳になる頃、名家フェルムンド家の当主となり、それからというものセルパ王国から争いは消え去った。
――それが現在語り継がれている『英雄』アス・フェルムンドの伝説だ。
だが俺は知っている、『英雄』にはいくつかの語られていない物語があることを――
***
――失敗した。
それが『英雄』を前にスイの脳裏に浮かんだ言葉だった。
「スイ……?」
心配する『英雄』、その様子にスイは一つの感情を『英雄』に向けた。
――■■。
「久しぶり、``魔人騒動``以来だね。」
反応のないスイにそれでも話しかけようとするアスは声のトーンを落とし、そう切り出した。
‘‘魔人騒動‘‘その言葉にスイは強く反応を示した。
「ああ、久しぶり。あんときはお互い大変だったな……。」
懐かしむような、悲しむような、そして同時に■■ような、そんな返事だった。
『魔人騒動』、それは千年前に滅んだはずの魔人族が次から次へとセルパの各所に現れ人間族を襲っていったというとても怪奇的な事件だった。被害は他方に及ぶも死者は‘‘一名‘‘と異例な事件であったにも関わらず、完璧な対応だったと王都は英雄を称える歓声に包まれた。
――■■。
――俺は知っている……。
「なあ、アス……」
スイは『英雄』に静かに問いかけた。
「ん?どうしたんだい、スイ」
「お前は大切なものを失ったこと、あるか?」
そのスイの問いかけは静寂を生みアスに少しの考える猶予が渡った。考えこみ、熟考した上で『英雄』は答えを出した。
「僕の大切なものはまだ‘‘ここ‘‘にある。だから僕にその気持ちはわからないかもね……」
予想通りの回答、予想通りの申し訳なさ全面の顔にスイがしびれを切らしかけた時、アスは「でも、」と言葉を続けた。
「でも、僕はそもそも大切にしたいものが少ないだけかもしれない。確かに僕は王国の英雄という立場上、この国のすべてをもっと尊ぶべきなのかもしれない。けれど、本当に守りたいものは一握りしかなくて……スイ、君もその一人だ――」
やはりだ。やはり英雄とは名ばかりのそいつはただの‘‘人間‘‘だったのだ。
だからこそ、もし本当に『英雄』が自分だったならと、そう考えてしまう。
――私はあなたに出会えてよかった。あなたとの出会いが、生活が、そして他愛のない毎日が、今の私を形作ったんですもの。
もし自分が英雄だったなら、花を愛で平和を尊ぶ空をも飛びそうな君を守ってあげられたのにと……
――何もできなかった自身も、役目を全うできない『英雄』も、そして彼女のいないこの世界も、すべてが■■……狂っているとわかっていても、それでも俺はこの世界が憎い、『英雄』が憎い――
だからこそ、
「お前なら守れたんだろう?アス。教えてくれ……」
何も持たざる『狂人』は今にも掻き消えてしまいそうな声で縋るように『英雄』の裾を掴んだ。




