第4章 五冊のノート
前回までのあらすじ: 天音凛は再び黒川のもとを訪れる。少しずつ、凛の中で何かが変わっていく
三度目に港町を訪れたのは、それから数日後のことだった。
工房のドアは、いつものように半分だけ開いている。
「こんにちは」
「ああ」
黒川は手を止めなかった。凛に何かを教えようともしなかった。「やってみるか」とも「見ていろ」とも言わない。ただ、凛がそこにいることを拒まないだけだった。
凛はしばらく作業を眺めていたが、ふと思い立って作業台に近づくと、黒川が磨き終えた指輪を受け取って棚に戻しにいった。
金属の塊を両手で受け取って、布で包んで、棚の上に置く。それだけのことなのに、手のひらに残る重さと温度が、しばらく消えなかった。
黒川の体温で温まった金属が、凛の手に渡った瞬間にわずかに冷めて、でもまだぬるい。その温度の移り変わりが、指先にじんわりと残っていた。
「その道具、触ってみても良いですか」
一仕事終えて休憩している黒川に尋ねた。
「ああ」
磨き棒を手に取ると、木の柄が思ったより硬い。表面は長年の手脂で飴色に光っていて、握ると、黒川の手の形に沿って削れた凹みが指に当たる。
凛の指はそこにうまく嵌まらなかった。三十年かけてひとりの人間の手に馴染んだ道具は、別の手のためにはできていない。
「握り方がちょっと違うな」
黒川が言った。
「もう少し下のほうを持って、小指で柄の端を支えるようにすると安定する。力は入れなくていい、道具の重さで動かす感じだ」
凛は言われた通りにしてみた。少しだけ安定する。でも、まだ手の中で道具がよそよそしい。
「すぐには馴染まないよ。道具は手が覚えるのに時間がかかるから」
その言い方には、教えているというよりも、自分自身の記憶を辿っているような響きがあった。
凛は黒川の手を見て訊いた。
「手、怪我しないんですか」
黒川は左手を凛のほうに差し出した。
指先には無数の小さな傷跡があった。古いものは白く薄れて、新しいものはまだ赤みを帯びている。爪の際には金属の粉が皮膚の溝に沿って細い線を引いていて、洗っても取りきれないのだろう。
「最初のうちは毎日どこかしら切ってた。十年くらいして、力の入れ方が分かってくると減る。でも、完全にはなくならないな」
「痛くないですか」
「痛いときもある。ただ、痛くないと力加減が分からないから、ある程度の痛みは必要なんだよ。金属がどこまで耐えるか、どこから傷になるか、それを手が覚えるには、手のほうも少し傷つかないと」
凛は自分の手を見た。滑らかで、傷がなくて、何にも触れてこなかった手だった。
*
黒川がまた作業に戻ると、凛は部屋の隅に古い段ボールが積まれていることに気づいた。蓋が半分開いていて、中にノートが何冊か入っているのが見える。
「これ何ですか」
黒川は手を止めず、ちらり見ると答えた。
「ノートだな。SATSUKIの工房に置いてあったやつだ。使う予定もなかったんだが、捨てるのもなんとなく気が引けてそのまま持ってきた」
凛は一冊を手に取った。表紙は少し黄ばんでいて、角が潰れている。今の時代、紙のノートなんてほとんど見ることはない。エージェントのショッピングリストには1回も出てこなかった。
「一冊、いただいてもいいですか」
「いいよ。俺は書くことがないから、5冊全部持っていっていいぞ。鉛筆も箱に入ってると思うから、一緒に持っていくといい」
白いページの上に、指を置いた。紙の表面はデバイスのガラスとはまるで違っていて、少し抵抗があって、少し温かい気がした。
*
凛は椅子に座ると、目の前にあるものを描いてみた。壁にかかっているヤスリの柄。作業台の工具。未完成の指輪。
生まれて初めての、何かを自分の手で作っているという感触だった。
「おお、うまいな。お前、絵描きだったのか?」
ノートを覗き込んで黒川が言う。
「いえ、そんな。」
黒川が本当に感心しているのを感じた。凛が本心から誰かに褒められたことは初めてだった。
その日、黒川の工房を出てホテルに向かう道は今までとは全く違って見えた。路地の角にある苔むした石段。漁港の岸壁に積まれた古い網と、その上で丸くなっている錆色の猫。
描いてみたい、そう思うシーンがたくさんあった。
「描こう」
凛はノートの空いたページにどんどん書いていった。気づくと日が暮れていた。
スケッチの横には、どこで書いたか忘れないように短い文章を書き添えた。
「この石段は、三段目だけ少し高い。つま先が引っかかる」「この路地を抜けると、急に潮の匂いが濃くなる」
凛がこの場所で目にしたものを、凛自身の手で書き留めた、初めての記録だった。
*
東京に戻った翌日、凛は自分のノートを見返した。そして気づいた。自分がスケッチしたものは、エージェントの推薦に出てこないものばかりだった。検索しても表示されない道具、ルート案内には載らない道。
凛はスケッチを続けることにした。東京の中にも、エージェントの推薦から外れたものはある。検索に引っかからない古い路地、評価スコアのつかない建物の裏側、データに記録されない時間帯の空の色。
凛はそれらを探しに、自分の足で歩き始めた。エージェントに頼らず、地図も見ずに、ただ歩く。見つけたものを描く。横に短い文章を添える。
*
三冊目のノートを使い切りかけた頃、凛の手は変わっていた。
指先には小さな傷がいくつかできている。鉛筆を長く握りすぎて中指にできた硬い豆。スケッチに集中しすぎて紙の端で切った薄い傷。どれも些細なものだったけれど、それらは全部、凛が自分の手で何かに触れた痕跡だった。
凛はノートを持つと、あの港町に向かった。
黒川はいつものように手を動かしていた。
「このノートの中身、誰かに見せたいんです」
ノートを差し出しながら、凛が言った。黒川は手を止めると、ノートをパラパラとめくる。
「この街と、東京両方で絵描きをしていたんだな。見事じゃないか。でも見せるって誰にだ」
「分からないです。でも、この中に描いてあるものを、私以外の誰かが見たらどうなるんだろうって、最近ずっと考えてて」
「俺はよく知らんが、AIエージェントはそれを誰かに送ったりもできるのか」
「それはしたくないんです。ここに描いたのは、エージェントには見えないものなんです。黒川さんの工房や作品や道具や、細い路地裏の道や、石畳の階段や、看板。この世界には、そう言う素敵なものがたくさんあるって、私以外の誰かにも気づいて欲しい」
「じゃあ、どうする」
「このまま、置きたいんです。どこかに、手に取れる場所に。エージェントを通さないで、物理的にそこにあるだけ、という形で」
「届くか分からないぞ」
「それでもいいんです。届くかどうかを先に計算してから動くのは、エージェントのやり方だから」
「好きにすればいい」
凛が黒川の笑った顔を見たのは、それが初めてだった。
*
凛は黒川に冊子の作り方を教わった。
残りのノートから白いページを丁寧に切り取って、そこにスケッチを描き直し、文章を書き写す。
ページを束ねて、糸で綴じる。糸は、黒川が棚の奥から持ってきた古い麻糸だ。
「昔、革の修繕に使ってた糸だ。丈夫だから、紙くらいなら十分持つ」
表紙には何も書かなかった。タイトルもない。最初のページに、一行だけ添えた。
「この冊子には、検索しても出てこないものが描いてあります」
最初の一冊が完成した時、既に日が暮れかかっていた。
「この一冊は、黒川さんが持っていてください」
凛がそう言って冊子を渡すと、黒川は驚いたように言った。
「良いのか?ここには俺とお前以外、ほとんど誰も来ないぞ?」
「私がスケッチを始めたのは、自分の目で、手で生きようと思えたのは、黒川さんのおかげなんです。だから受け取ってください」
黒川は冊子を大事そうに受け取ると、自分の作品を並べている棚の中央に立てかけた。
*
東京に帰り、五冊の冊子を綴じ終えたとき、凛の手のひらは鉛筆の黒鉛で汚れていて、指の腹の豆は大きくなっていて、紙で切った細い傷の数は増えていた。
それでも、五冊じゃ足りない。凛はそう思って、配送カタログを開くと、「ノート」と検索してみた。エージェントの推薦には当然出てこない。
でも、カタログの奥深く、工業用記録資材のカテゴリの中に、無地の紙のノートが残っていた。製造元は小さな製紙会社で、主に研究機関や保存用の記録媒体として細々と作られているらしい。
凛は十冊注文した。
届いたノートは、黒川の工房にあったものとは手触りが少し違っていた。紙がやや白くて、繊維のきめが均一で、新品の匂いがする。でも、ページを開いて鉛筆を置くと、ちゃんと抵抗があって、線が紙の上に残った。
凛はテーブルの上にノートと、港町から持ち帰った短い鉛筆と、新しく取り寄せた鉛筆を何本か並べると、また冊子作りに没頭していった。
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