第5章 私の手で作ったもの
凛は黒川の工房で見つけたノートに、AIの世界には存在しない現実のものを描いて冊子を作ることを思いつく。
冊子を置きに行ったのは、よく晴れた朝だった。
凛は三冊を鞄に入れて、家の周りを歩いた。自動タクシーからずっと見てきた眺めのはずだが、歩くとまた違って見える。
一冊目は、公園のベンチの下に。
二冊目は、ビルとビルの間の細い路地の入口の、壁の出っ張りの上に。
三冊目は、ガードレールの上に。
どこにも説明は書かなかった。誰宛てでもない。ただ、そこに置いた。手に取るかどうかは、通りかかった人が決める。エージェントは推薦しない。通知も届かない。検索にも出ない。
ただ、物理的に確かに存在している。凛にとって、それが重要なことだった。
*
最初の数日は、何も起きなかった。
凛は三十四階の部屋でいつもの朝を迎えた。コーヒーはエージェントが淹れてくれるし、服はクローゼットにかかっている。でも、凛はコーヒーの豆を自分で指定するようになっていたし、服も自分で選ぶようになっていた。
全部を手動にしたわけではない。インフラは使う。ただ、「好き」だけは自分で決める。その線引きが、凛にとっての落ち着く場所だった。
冊子のことは、ときどき考えた。誰かが手に取ったかどうか、知る方法はない。データにも検索にも何も残らない。届いたかどうかは分からない。
でも、分からないままでいいと思えるようになっていた。
*
変化を知ったのは、黒川からのメッセージだった。
デバイスの通信機能で届いた短いメッセージ。黒川がこの機能を使うのは初めてで、凛は少し驚いた。
「工房に人が来た。冊子を見て東京から来たそうだ」
凛は黒川のメッセージを何度も読み返した。
「どうでしたか?」
聞きたいことはたくさんあったが、そう聞くのがやっとだった。
「指輪を1個、買っていったぞ」
気づくと凛の頬を涙が伝っていた。止まらなかった。
*
黒川は港町にいる。
毎朝、工房に降りて、窓を開けて、金属を手に取る。冷たい。その冷たさが体温でゆっくり変わっていく。形を与えて、磨いて、光らせる。また明日もやりたいと思う。三十年経っても変わらず。
作業台の横の壁に、凛がくれた冊子が一冊、立てかけてある。ページは開いたまま、工房の窓からの風景のスケッチが見えている。
窓の外で、風が港の水面をわずかに揺らしている。
世界は変わっていない。
エージェントは動き続けているし、推薦は最適化され続けているし、ほとんどの人は画面の向こうで静かに暮らしている。手作りの価値が復権したわけでもないし、職人が再評価されたわけでもない。
ただ、この世界のどこかに、検索しても出てこない冊子が存在している。凛はきっと今日も冊子を作り続け、どこかに置きに行っている。
表紙には何も書かれていない。タイトルもない。
最初のページにだけ、短い一行がある。
「この冊子には、検索しても出てこないものが描いてあります」
どこかで今、誰かがページをめくっている。
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