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AIに支配された私をあの人が変えてくれた  作者: 亮誠翔


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第3章 金属の温もり

前回までのあらすじ: AIネイティブ世代の天音凛は、ジュエリー職人の黒川と出会い、自分の着けているネックレスが彼の手によって作られたものだと知る

 凛は東京に戻った。何も変わらない、いつもの生活がまた始まる。

 朝起きると服がハンガーにかかっていて、コーヒーが淹れてあって、スケジュールが表示される。凛はそれを着て、飲んで、従った。

 あの工房の匂いも、金属を擦る不規則な音も、日常の中に少しずつ溶けていった。

 ただ、ひとつだけ残ったものがあった。

 ネックレスだけは、毎日凛が自分の意思で着けるようになっていた。ネックレスの留め具に、指が触れる回数が増えていた。

 ソファで動画を見ている時、友達と話している時。気づくと指先があの小さなずれの上にあって、爪の先でその段差をなぞっている。左に0.3ミリ。最初触った時はわからなかった人の手の痕跡を、指が覚えていた。

   *

 玄関の受け取りボックスに、注文した覚えのない小さな箱が入っていた。開けると、シルバーのピアスが一組。小さな雫のような形で、台紙にはブランド名だけが印字されていた。

 凛はそれを掌の上に載せて、しばらく眺めていた。重さは軽く、表面は滑らかで、光の角度によって微妙に色が変わる。嫌いではない。形も色も、きっと自分に似合うのだろう。

「これ、私が頼んだの」

 声に出すと、デバイスから返答が映し出される。

「過去の着用パターンと、直近の行動データから選定された自動購入です」

「直近の行動データって、たとえば何」

「旅行先での滞在傾向や、視線の動き、心拍の変動などが含まれます」

 凛はピアスを台紙に戻して、箱を閉じた。

 自分が頼んでいないものが届いて、それがきっと似合っていて、エージェントが選んだ日に着けて、友達に褒められてお礼を言うという一連の流れの中に、自分の手が触れる場所がどこにもないことに、初めてはっきりと気づいた。

   *

 その夜、凛は自分の購買履歴を開いた。

 これまで一度もやったことがなかった。届いたものを受け取って、使って、それで終わり。その裏側を覗こうと思ったことがない。

 画面には過去三年分の購入品が並んでいた。服、靴、アクセサリー、化粧品、食品、書籍。どれも見覚えがあるし、どれも「悪くない」と思った記憶がある。

 ただ、「これが欲しい」と胸の内側から湧き上がるような衝動で手に入れたものが、ひとつも思い出せなかった。

  試しに、ネックレスの推薦理由を辿ってみた。画面には、「白檀のルームフレグランスとの嗜好類似度が高く、使用時間帯および心拍変動の傾向から好意的反応が予測されました」と表示されている。

 ネックレスとフレグランス。凛には関連が分からなかった。

 ではそのフレグランスはなぜ買ったのか。タップする。「北欧の短編小説集との行動パターン類似度に基づく推薦」。小説とフレグランス。さらに分からない。

 ではその小説は。タップする。「オーガニックリネンのストールとの嗜好ベクトル近似」。ストールと小説。タップする。「陶器の一輪挿しとの感性プロファイル一致」。

 凛はスクロールする指を止めた。

 ネックレス、フレグランス、小説、ストール、一輪挿し。AIエージェントには、それらはすべて同じ形として認識されているのだろう。

 ただ、どこにも「凛がそう決めた」という瞬間がない。好きだから買ったのではなく、買ったものが「好き」の定義に取り込まれ、その定義をもとに次が選ばれ、それを受け取ることでまた定義が書き換わる。

 合わせ鏡の中を覗き込んでいるようだった。映っているのは全部自分の顔のはずなのに、どれが最初の顔なのか分からない。

 画面を閉じて、窓に映る自分の顔を見つめた。奥に映る東京の夜景はいつも通り輝いている。きれいと感じるのは自分自身なのか、「これずっと見てられるやつだ」とデバイスに表示しているエージェントなのか、わからなくなっていた。

   *

 翌朝、凛はひとつだけ変えてみた。

 クローゼットの前に立ったとき、ハンガーにかかっている服に手を伸ばさなかった。代わりに引き出しの奥から、昔母のおさがりでもらった古いTシャツを引っ張り出した。ロゴはかすれ、襟元は少しよれている。エージェントの推薦リストには1回も載ることがなかったと思う。

 袖を通すと、生地が今の服よりざらついていた。肩の落ち方が違うし、洗い込んだ綿の匂いがする。似合っているかどうかは分からなかった。でも、それを自分の手で引き出しから出したということだけは、確かだった。

   *

 そこから少しずつ、凛はエージェントの機能を手動に切り替え始めた。

 最初は食事だった。毎日届く食事は、凛の栄養バランスと嗜好に合わせて自動で選ばれている。凛はその自動選定を止めて、配送カタログを自分でスクロールしてみた。何百もの選択肢が並んでいるのに、どれを選べばいいのか分からない。

 普段は見ることすらないその一覧を、凛は三十分ほど眺め続けて、最後にほとんど勘で和食の定食セットを選んだ。届いた味噌汁の塩気は思ったより強くて、焼き魚は少し冷めていて、漬物は酸っぱかった。

 推薦された食事ではまず起きない誤差が、口の中にいくつも転がっている。不快ではなかった。むしろ、舌の上で何かが起きているという実感のほうが、ずっと強かった。

 次に服。エージェントの提案を非表示にして、配送カタログを自分で見てみた。色、素材、形。何を基準に選べばいいのか見当がつかない。

 画面を何度もスクロールして、結局一時間かけて一枚のシャツを選んだ。届いたものは、思っていたより襟が大きくて、色も画面で見たのとは少し違っていた。でも、着てみたい、そう自分で思えるものだった。

 そして会話。父にメッセージを送るとき、エージェントの整形機能を切ってみた。語尾も文言も自分で考えるとなかなか手が進まない。

「今日は自分でごはん選んでみた。味噌汁しょっぱかった」

 15分考えて結局これしか送れなかった。送信してから読み返すと、妙にぶっきらぼうで、脈絡もなくて、普段の自分のメッセージとは別人が書いたみたいだった。

 父からの返信は、しばらく経ってから届いた。

「味噌汁、自分で作ってみたら?昔は母さんがよく作ってたから、レシピがどこかにあると思う」

 その返事がエージェントの整形を通っているのかどうか、凛には分からなかった。でも、文面のどこかに、普段のメッセージにはない手触りがあった。率直だけど、温かい。

   *

 二度目に港町を訪れたのは、それから二週間後だった。

 今度はエージェントの提案ではない。自分で行き先を決めた。列車やホテルの手配はエージェントに頼らざるを得ない。でも行きたいという気持ちは紛れもない、凛自身のものだった。

 工房のドアは、同じように半分だけ開いていた。

 中から、金属を擦る音が聞こえる。

「こんにちは」

 声をかけると、黒川が手を止めずに顔だけ少し上げた。

「また来たのか。そこの椅子使っていいぞ」

 作業台の横の、古い木の椅子に座った。座面が少し斜めに傾いていて、体がわずかに左へ寄る。

 黒川は手を動かし続けている。小さなヤスリで指輪の内側を整えていて、金属の粉が光の中に舞っている。

 凛は何も言わず、金属が削れる音を聞いていた。

 工房の壁には古い道具が掛かっていて、棚にはまだ形になっていない金属や、途中で止まっている作品がいくつか並んでいる。誰かに見せるために置いてあるのではなく、ただそこにあるだけだった。

「ひとつ訊いてもいいですか」

「いいよ」

 黒川の返事は短かったけれど、拒んでいる気配はなかった。手は止めない。

「なんで作ってるんですか。売れないのに」

「売れないな」

「見せる人もいないですよね」

「いないな」

「じゃあ、なんで」

 黒川はしばらくヤスリを動かし続けていた。金属の表面を撫でる細い音だけが、部屋の中を満たしている。

 やがて手を止めて、指先の粉を布で拭いた。窓のほうを見る。

「売るために作ってたわけじゃないからな。うまくできるようになるのに何年もかかったし、途中で何度も嫌になったし、もっと楽な仕事はいくらでもあった」

 黒川は自分の手のひらを見た。

「でも朝起きて、金属を手に取ると、冷たいんだよ。その冷たさが、手の中でだんだん変わっていく。俺の体温で温まって、形が変わって、最後に磨くと光る。その一連のことを、また明日もやりたいと思う。三十年経っても、まだ思う。ただそれだけだ」

   *

 帰りの列車で、凛は黒川の言葉を思い返していた。朝、金属を手に取ると冷たい。それが変わっていく。また明日もやりたいと思う。

 凛には、そういうものがなかった。朝起きて、また明日もやりたいと思えること。理由を訊かれても答えられないけれど、やめたくないこと。二十四年間のどこを探しても、見つからない。

 でも、今日分かったことがある。

 指がネックレスの留め具に触れる。あの小さなずれ。

 この感触を「手放したくない」と思ったのは、紛れもなく、凛自身の意思だった。生まれて初めて、心から思ったことだった。


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