第2章 需要がゼロになった日
前回までのあらすじ: AIネイティブ世代の天音凛は、旅行先でジュエリー職人の黒川に出会う
黒川透が最後に新しい注文を受け取ったのは、一ヶ月前のことだった。
発注票には、デザインデータと素材の指定と納期だけが並んでいて、手書きの文字は一文字もなかった。黒川はそれを作業台に置き、金属を手に取り、仕上げの工程に入った。磨いて、留め具を整えて、石の座りを指先で確かめて、最後にもう一度全体を布で拭く。
やることは三十年間ずっと変わらない。ただ、その工程の前にも後にも、以前はあったはずの人間の気配が、いつのまにかなくなっていた。
かつてSATSUKIでは、デザインを紙に描く人間がいた。素材の石を一つ一つ選ぶ職人がいた。仕上がった品をお客様に売る販売員がいた。黒川が磨き終えたものは、そうやって手から手へと渡っていって、最後にどこかの街で箱を開ける誰かの指先に届いた。
今は、黒川の手が触れるのは最後の一工程だけで、その前も後も、人間の手は関わらない。黒川がやっているのは、長い自動化の流れの末端に、ほんの少しだけ手を添えるという、儀式に近い仕事だった。
それでも、黒川の指を通った金属には微かな偏りが残る。留め具が0.3ミリだけずれる。磨きの方向に利き手の癖が出る。計測すれば分かるが、肉眼では見えない。それを「価値」と呼んでいいのかは、黒川にも分からなかった。
一ヶ月前を最後に、発注票は届かなくなった。
*
SATSUKIは、業界の中では少し変わった会社だった。
三代目の月崎皐一が「最後の一磨きは人の手で」と言い続け、自動化を取り入れつつも、手作業を残した唯一のジュエリー会社だった。黒川を含む四人の職人が、その役目を負っていた。
兆しは、まず数字に表れた。
月例会議で、営業部長の村瀬がスクリーンに棒グラフを映した瞬間、部屋の温度が少しだけ下がったような気がした。受注件数の棒が、月を追うごとに短くなっている。前年比で八割減。
「購入側のエージェントが、評価の基準を変えたようです」
村瀬の声が硬くなる。
「恐らくですが、品質スコアの項目から、手仕上げが外れました。以前は加点だったものが、今は項目自体無くなったようなのです」
黒川の隣で、宮本が椅子の背もたれに体重を預けた。宮本は黒川より三つ年下で、SATSUKIでは二番目に長く手を動かしてきた男だった。
「つまり我々の仕事は見られてもいないということですか」
「それより厄介です」
村瀬がスクリーンを切り替える。
「手作業の痕跡が、品質チェックで『ばらつき』として引っかかるんです。ばらつきはリスクに分類されますから、見られていないどころか、足を引っ張っている」
誰も何も言わなかった。
黒川は自分の手を見た。作業台の前に座っているときと同じ手が、会議室のテーブルの上に置かれている。その手が三十年かけて積み上げてきたものが、「リスク」という三文字に変換されて、スクリーンに映っていた。
*
それから数週間で、注文はゼロになった。
毎日、数字が減っていくのを見ながら、それでも朝になれば工房に入り、手を動かし、磨いた。回復を待っていたのか、終わりを待っていたのか、自分でもよく分からなかった。手を止める理由がなかったから動かしていた、というのが一番近いだろう。
最後の注文を仕上げたとき、黒川はいつもと同じように磨いて、確認して、布で包んだ。それが最後だということは、そのときにはまだ知らなかった。
そして1ヶ月後、通知が届いた。
手仕上げ工程の廃止。全工程の自動化。職人四名の契約終了。
文面は丁寧で、退職金の計算は正確で、再就職支援のAIエージェント案内も添えられていた。欠けているものは何もない。ただ、三十年以上同じ場所で手を動かしてきた人間に向けられるべき何かが、その丁寧さの中にはどこにも見当たらなかった。
黒川は通知を閉じて、窓の外を見た。怒りは来なかった。驚きもなかった。
*
退職の日、黒川は工房を最後に見回した。
三十年以上座った椅子は、座面の革が体の形に沈んでいる。左側がわずかに深い。利き手に力を入れるとき、無意識に体重が傾く癖の跡だった。
作業台の表面には無数の傷がある。金属を固定したときの横線、ヤスリの斜めの痕、磨き粉がこびりついた白い染み。黒川は傷一つ一つを目に焼き付けるように見ていった。
布の巻物に包んだ精密ヤスリ、三種類の磨き棒、ルーペ、ピンセット、二十年以上使って柄の木が掌の形に馴染んだ小槌。持っていっていいと言われた自分の道具をひとつずつ鞄に入れていると、宮本が声をかけてきた。
「黒川さん、お疲れ様です」
「ああ」
「俺も今日で最後です。お世話になりました」
「そうか、こちらこそ、世話になったな」
宮本は少し口を開きかけて、やめた。代わりに軽く頭を下げて、廊下へ消えた。黒川もそれ以上は何も言わなかった。何も言えなかった。
*
港町に来たのは、二ヶ月後だった。
家賃が安くて、海が近くて、知り合いがいない。その三つで決めた。古い木造の建物を借りて、一階を工房にし、二階で寝る。壁には前の住人が塗った青いペンキが褪せて残っていて、窓を開ければ潮の匂いが入ってくる。
暮らしに困ることはなかった。退職金があり、毎月のベーシックインカムもある。食料は配送で届く。黒川はそれを受け取って、自分で調理した。届いたものの中から何を使うかだけは、自分で決める。献立をエージェントに任せる気にはならなかった。
毎朝、工房に降りて作業をする。売り先はなかった。黒川が作るものは、どこにも表示されない。エージェントの推薦にも、検索の結果にも出てこない。この世界にとって、黒川の作品は存在していないのと同じだった。
それでも黒川は作り続けた。鍛造、細工、石留め、仕上げ。30年も働いていれば、自分の担当ではなかった工程も一通りできる。思うがままに作品を作っていった。
退屈かと訊かれたら、首を傾げるだろう。やりたいことはやっている。ただ、受け取る人がどこにもいないだけだ。
*
あの子が来たのは、そんな生活を始めて数ヶ月が経ったある日の午後のことだった。
ふと作業台から目を上げると、半開きのドアの向こうに、見知らぬ若い女が立っていた。服も靴も明らかに都会のもので、旅行者だろうとすぐに分かった。
港町には時々、都市部から人が来る。皆決まったルートを通って同じホテルに泊まり、同じ浜辺のスポットに立ち寄り、帰っていく。工房を見つける人も覗く人もいない。
だから、来訪者は少し意外だった。そして、首元のネックレスが目に入ったとき、黒川の指先が止まった。人見知りな自分を忘れて思わず聞いてしまった。
「そのネックレス、見覚えがあるな」
確認すると、そこには確かに自分の癖があった。自分の仕事の痕跡を、誰かが身につけているのを見るのは初めてだった。
あの子が帰ったあと、黒川はしばらく作業台の前で手を動かさなかった。動かせなかったのではない。動かす前に、もう少しだけ、さっきの感覚を掌の中に留めておきたかった。
自分が仕上げたものが、誰かの手に触れていた。それだけのことなのに、三ヶ月ぶりに届いた返事のようだった。
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