第67話 直したはずなのに、まだ何かが足りない夜がある
高梨の赤を受け取ったあとの数日は、たしかに前へ進んでいた。
入口を会社側へ寄せる。
ホテルの夜は削らず、順番だけ変える。
本城由来の女の“近さ”は残しつつ、最初から察しがよすぎる便利さに見えないように、台詞を一つ減らす。
主人公のみっともなさを薄めずに、でも読者がもう半歩だけ見ていられる導線を作る。
どれも理屈としては見えている。
実際、直せば直すほど稿はよくなっている感触もあった。
だから、本来なら少しは安心していいはずだった。
だが、安心と“足りている”は別の話なのだと、その週の木曜の夜、私はまた思い知ることになる。
◇
その日は会社でも大きな問題は起きなかった。
営業部はいつも通り少し強気で、
榎本はその数字を現実へ戻し、
三浦は先方への返信文に“前向きに”を入れたがり、
本城は静かに一覧を整えていた。
つまり、だいたいいつもの一日だった。
会議も荒れず、
部長の確認もいつもより短く、
先方の返答も曖昧ではあるが悪くはない。
仕事の側だけ見れば、今日はかなり“平和”な日と言っていい。
本城の言い方を借りるなら、悪い疲れではなかっただろう。
それなのに、夜、書斎へ入って新企画を開いた瞬間、私はすぐに分かった。
まだ、何かが足りない。
壊れてはいない。
弱くもない。
会議に出した最初のラフより、明らかによくなっている。
主人公も立っているし、入口も広がった。
本城由来の女の距離感も、前よりずっと効いている。
でも、まだ何かが足りない。
私は画面を見たまま、しばらく動けなかった。
こういう時が一番厄介だ。
完全に駄目なら直しようがある。
具体的な問題が見えているなら、手も動く。
だが、“かなりよくなっているのに、まだ足りない”という状態は、一番言葉にしにくい。
何が足りないのか。
熱か。
意外性か。
読者が一話目の最後で絶対に次を押したくなる“決定打”か。
私はキーボードの前で少しだけ背を丸め、メモ帳を開いた。
よくなっている。
でも、まだ“これを絶対に読ませたい”という執念が一箇所足りない。
打ってから、私は小さく舌打ちしそうになった。
こういう抽象的な言い方しか出ない時は、だいたいまだ核心を掴めていない。
◇
私は最初から読み返した。
会社の朝。
メール画面の前で一秒長く止まる主人公。
本城由来の女の静かな視線。
営業部の夢見がちな数字。
主人公の中に残っているホテルの夜。
そして、少しずつ見えてくる“昨夜何かがあったらしい”気配。
読める。
かなり読める。
それでも、途中で私はふと画面から目を離した。
たぶん問題はここだ。
読める。
でも、まだ“読む”の域を出ていない。
“今すぐこの先が知りたい”まで、もう一歩だけ届いていない。
投稿サイトアクセス数重視なら、そこはかなり大きい。
毎話の最後に、小さくても強い引きが要る。
しかもこの作品では、派手な事件や露骨な秘密バレではなく、半径数メートルの現実の中で引きを作らなければならない。
それは分かっている。
分かっているのに、今夜はその“一押し”がまだ見えない。
私は椅子から立ち上がり、書斎の本棚の前まで歩いた。
歩いたところで答えが落ちているわけではない。
でも、こういう時に机の前へ座り続けると、文章がどんどん安全側へ固まっていくのも経験で知っていた。
ホテルの夜で得た見栄や惨めさは、もうかなり入っている。
会社の平日の削れ方も、たしかに書けている。
家で真由美に“いい顔してる”と言われる生活側の圧も悪くない。
じゃあ何が足りないのか。
私は本棚へ指を沿わせながら、ふと気づいた。
主人公がまだ、自分で自分の危うさを認めるのが早い。
それだ、と私は思った。
いまの稿の主人公は、見栄も優越感も持っている。
でも、そのあとで比較的早く“こんな自分は嫌だ”と自覚してしまっている。
それは誠実さではある。
しかし、読者を引っ張る毒としては少し薄い。
もっと遅らせたほうがいい。
主人公が、自分の醜さを自覚する前に、読者のほうが先にその危うさへ気づく時間が必要なのだ。
そうすると、一話の終わりの引きも強くなる。
“この人、まだ自分がどこまで危ないか分かっていないな”と思わせるほうが、たぶん次を押させる。
私は急いで机へ戻った。
◇
メモ帳を開き、かなり速く打つ。
主人公の反省が早いと、読者が先へ行く理由が少し減る。
読者が先に“危ない”と気づいていて、主人公だけがまだそこへ名前をつけていない時間が必要。
その時間が、次を押させる。
そこまで打って、私は深くうなずいた。
そうだ。
いま必要なのは、主人公の誠実さを削ることではない。
誠実さの出るタイミングを少し遅らせることだ。
見栄を持つ。
優越感を持つ。
若い受賞者に刺される。
売れていない同業へ一瞬安心する。
そのあとすぐ“嫌な人間だ”とまとめてしまうのではなく、もう少しだけ生のまま泳がせる。
その泳ぎ方が、たぶん今の読者には必要なのだ。
綺麗に整えられた反省よりも、“この人まだ自分で自分を整理しきれてないな”という生々しさのほうが、次のページへ連れていける。
私は本文の数段落を削り、独白の位置を後ろへ回した。
反省を遅らせる。
そのぶん、ホテルの夜の余韻を少しだけ長く残す。
すると、驚くほど流れが変わった。
主人公が少しだけ危うくなる。
でも、その危うさのぶんだけ、目を離しにくくなる。
嫌な人間ではある。
でも、いま切るとこの男がどこまで自分を見誤るのか分からない。
その感じが出る。
「……これか」
私は小さく声に出した。
答えは、派手な事件ではなかった。
主人公が自分の醜さへ気づく“間”の取り方だった。
◇
その時、スマホが震えた。
高梨ではなかった。
珍しく、結衣からだった。
『まだ起きてる?』
私は少し驚きながら返す。
『起きてる』
すぐに来る。
『リビングにプリンあるから食べていいよ
お父さん今日たぶんまだ寝ない顔してたから』
私はそのメッセージを見て、思わず少し笑った。
寝ない顔。
本城も真由美も結衣も、最近どうも人の顔に名前をつけすぎる。
だが、その雑な優しさに少しだけ救われる。
私はスマホを机に置き、しばらく画面を見つめたあと、メモ帳へ一行足した。
家族は、作品の中身を知らない。
でも、“今日はまだ寝ない顔”だけは見抜く。
それもまた使える。
いや、使えると思ってしまう時点で、私はちゃんとまだ作家なのだろう。
仕事で削られても、
企画会議に一度落ちても、
再提出用の直しに詰まっても、
こうして一行を拾ってしまう。
そのしぶとさだけは、たぶんまだ残っている。
◇
私はリビングへ行って、冷蔵庫のプリンを一つ取った。
家の中は静かだ。
真由美はもう寝ているらしい。
結衣の部屋のドアの下から、わずかに光が漏れている。
スプーンで一口食べる。
甘い。
ホテルのパーティーでも、会社の会議室でも、こういう甘さはない。
それが少しだけ可笑しかった。
キッチンの小さな明かりの中で、私はさっき掴んだものを反芻していた。
主人公の反省が早すぎる。
読者が先に危うさへ気づく時間が要る。
それは、かなり大きな発見だった。
いままでの私は、主人公を早めに自覚させることで“嫌われすぎないように”していたのかもしれない。
でも、それでは毒が少し薄い。
少なくとも、この作品の核には合わない。
主人公は綺麗じゃない。
そして、その綺麗じゃなさに自分で気づくのも少し遅い。
その遅さごと読ませる。
それでようやく、“次が気になる”が強くなる。
私はプリンの空容器を流しへ置き、書斎へ戻った。
◇
机の前へ座り直し、今度は迷わず本文を直した。
ホテルの夜のあとで、主人公が自分の優越感へうんざりする一文を後ろへ送る。
代わりに、若い受賞者を見た時の刺され方と、売れていない同業へ感じた一瞬の安堵を、もう少しだけ生のまま置いておく。
すると、一話の終わりに向かう流れが急に強くなった。
読者は、主人公より少しだけ先に“この人、まだ危ないな”と思える。
でも主人公本人は、そこまで整理できていない。
そのズレが、ちゃんと引きになる。
私は最後に、一話の末尾へ新しく一文を置いた。
その時の彼は、まだ自分がどこまでみっともないのかを、ちゃんとは分かっていなかった。
読み返す。
いい。
かなりいい。
前より、明らかに次を押させる終わり方になっている。
私はメモ帳へ短く残した。
直したはずなのに、まだ何かが足りない夜がある。
でも、その“足りなさ”の正体が見えた時、物語は一段深くなる。
そこまで書いて、ようやく肩の力を抜いた。
再提出用の直しは、やはり簡単ではない。
でも、こうして一つずつ“本当に足りなかったもの”を見つけていく作業は、前よりずっと手応えがある。
壊れていない。
むしろ、少しずつ強くなっている。
そう思えたことが、今夜の一番大きな収穫だった。




