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 皇宮での生活――正確には、『薔薇の離宮』での軟禁ならぬ「超・過保護生活」が始まって、早くも一週間が経過しようとしていた。


 朝目覚めれば、凄腕ぞろいの侍女たちが五人がかりで私の着替えを手伝い、髪の毛一本一本に至るまで真珠の粉を混ぜた香油で手入れされる。食事は毎食、大陸中の珍味が並び、少しでも私が「美味しい」と呟いたものは、翌日には馬車一台分の量が届けられる始末。


「リウィア様、本日は東の国から取り寄せたという、幻の絹織物をお持ちしました。陛下からの贈り物でございます」

「リウィア様、こちらは南の海の底でしか採れないという青珊瑚の髪飾りです。陛下からの――」


 最初の数日は「我が家の借金総額を軽く超える品をポンポン寄越さないで!」と悲鳴を上げていた私だが、人間とは恐ろしいもので、今では「あら、綺麗な色ね。箱にしまっておいてちょうだい」と無表情で対応できるようになってしまった。

 皇帝アウグストゥス様の愛は、底なし沼である。

 私に拒絶されることを恐れているのか、彼自身は夜の晩餐以外では私に直接会おうとはしない。しかし、代わりに一日平均二十回のペースで届けられるプレゼントの山が、彼の巨大すぎる執着を雄弁に物語っていた。


 ある晴れた日の午後。

 私はあまりに息苦しい室内を逃れ、離宮に併設された広大な庭園のガゼボ(エルフ風のあずまや)でお茶を飲みながら、静かに読書を楽しんでいた。

 陽光は暖かく、色とりどりの薔薇が甘い香りを漂わせている。小鳥のさえずりを聞き、古の英雄譚に思いを馳せる。ああ、なんという平穏。我が家で借金取りに怯えていた日々が嘘のようだ。


 ――しかし。

 ページをめくる手が、ピタリと止まる。


 背筋を粟立つような、強烈な視線。

 殺気ではない。敵意でもない。だが、まるで全身を振るわせるような、圧倒的な熱量を伴った『視線』が、私の背中から首筋にかけて突き刺さっているのだ。

 私は本から顔を上げ、周囲をぐるりと見渡した。

 美しく剪定された生け垣。純白の大理石でできた女神像。噴水。

 一見すると誰もいない。だが、私の勘が告げている。絶対に誰かいる、と。


「……気のせい、かしら」


 わざと独り言を呟き、再び本に視線を落とすフリをする。そして、手元にあった銀製のティーポットの側面に、背後の景色をこっそりと映し出した。


 ――女神像の陰。

 そこに、皇帝の象徴である漆黒の軍服を着た大柄な男が、女神像の台座に張り付くようにして、こちらをガン見している姿が映っていた。


「…………」


 私は音を立てずに本を閉じ、深く、深く深呼吸をした。

 あの男。帝国最高の権力者にして、冷酷無比なる氷の暴君(笑)

 私は立ち上がり、女神像に向かって大股で歩き出した。私の足音に気づいたのか、像の裏側から「ヒッ」という、皇帝らしからぬ情けない声が聞こえる。


「陛下」


 女神像の裏に回り込むと、そこには大の大人が身を縮こまらせて隠れていた。アウグストゥス様は、私と目が合うなり、びくぅっと肩を震わせた。


「り、リウィア……。奇遇だな。こんなところで会うなんて」

「奇遇も何も、ここは私の離宮の庭ですし、陛下はずっとそこから私を覗き見ていましたよね?」

「の、覗き見てなどいない! 私はただ、この美しい庭園の生態系を調査していただけで……」

「女神像に抱きつきながらですか?」

「……君が本を読む姿があまりにも神々しくて、近づいたらその美しさで私が消滅してしまうのではないかと思い、安全な距離から拝見させていただいていた。すまない」


 あっさり自白した皇帝陛下は、しゅんとうつむいてしまった。

 もう、ツッコミを入れる気力も湧かない。


「……アウグストゥス陛下。探しましたよ」


 低く冷たい声。

 振り返ると、そこには宰相カシアス様が立っていた。いつもは完璧に整えられている銀髪がわずかに乱れ、その目の下には濃いくまができている。彼の手には、鈍器になりそうなほど分厚い書類の束が握られていた。


「……カシアス。お前も奇遇だな」

「奇遇ではありません。本日は隣国ウァレリウス公国との、不可侵条約の重要な調印式があったはずです。各国の要人が大広間で今か今かと待ちわびている中、主役である皇帝陛下が行方不明。あわや国際問題に発展するところでした」


 カシアス様は片眼鏡をくいっと押し上げ、氷のような視線をアウグストゥス様に突き刺した。


「まさかとは思いましたが、やはりここでしたか。リウィア様、申し訳ありません。このサボり……いえ、我が君がご迷惑をおかけしましたね」

「あの、いえ。私は大丈夫ですが……」

「陛下、今すぐ大広間へ向かいますよ。さあ、歩いてください」

「嫌だ!!」


 アウグストゥス様は、子供のようにその場にしゃがみ込み、女神像の台座にガシッとしがみついた。


「私は行かんぞ! 見ろカシアス、風に揺れるリウィアの金糸の髪を! 本をめくる時の、あの優雅な指先の動きを! あれを一日中眺めていられる特等席を放棄して、息の詰まる会議で外交の握手などできるか!! リウィアの微笑みの方が、世界平和より百倍重要だろうが!!」

「馬鹿なことを言っていないで立ってください。ウァレリウス公国の使節団が痺れを切らしかけています」

「切らさせとけ! むしろあんな国、私が三日で更地にして、リウィアのための新しい遊園地を作ってやる! ほら、愛殺教だったか? あの聖地みたく、活気ある場所に」

「正気ですか? 他国を個人的な理由で滅ぼさないでください」


 もはやカオスである。

 皇帝陛下は駄々をこねる幼児と化し、宰相様は胃薬を水なしで飲み下しそうな顔をしている。

 このままでは、本当に私のせいで隣国が更地にされてしまう。私は額に手を当て、ため息をついた。


「……陛下」

「リウィア! 君からも言ってやってくれ! 私がここにいる正当性を!」

「陛下。今すぐ、お仕事に行ってください」


 ピシャリと冷たく言い放つと、アウグストゥス様は雷に打たれたように硬直した。


「なっ……リ、リウィア? 君は、私を追い出すのか……? 私がここにいると、迷惑なのか……?」


 その青玉サファイアの瞳に、みるみるうちに涙が溜まっていく。また泣く気かこの人は。体が大きい分、捨てられた大型犬としての破壊力が凄まじい。


「迷惑ではありません。ですが……」


 私は少しだけ声を和らげ、彼の目を見つめた。


「私は、仕事を放棄して他国を更地にするような暴君より、民と国のために立派に責務を果たす皇帝陛下の方が……その、かっこいいと思いますよ?」

「かっ……かっこいい……!?」


 アウグストゥス様が、ビクンッ!と大きく体を震わせた。


「それに……」


 私は照れ隠しに視線を逸らし、ぼそりと付け加えた。


「その……調印式とやらの後で、残りの書類仕事もすべて終わらせて定時に帰ってきてくだされば……一緒に、お茶を飲みましょう。私が、淹れますから」

「――――ッ!!」


 カッ!! と、アウグストゥス様の背後に見えない後光が差したような気がした。

 彼の瞳から涙は消え去り、代わりに太陽を直視したようなギラギラとした灼熱の闘志が燃え上がっている。


「カシアス!!」

「はい」

「調印式だ!! 何をしている! 早く行くぞ! ウァレリウスの使節団など軽くあしらってやる!! その後、執務室にある書類をすべて持ってこい! 読むのではない、私が書類のほうを物理的に屈服させる!! 三時、いや、二時半までにすべて終わらせるぞ!!」

「……はい、承知いたしました。では、大広間へ」


 アウグストゥス様は、弾かれたように立ち上がると、先ほどの駄々っ子ぶりが嘘のような完璧な威厳を身にまとい、凄まじいスピードで庭園を駆け抜けていった。その後ろ姿は、紛れもなく帝国を統べる覇王のものであった。


「……リウィア様」


 残されたカシアス様が、私に向かって深く、深々と頭を下げた。


「本当に、ありがとうございます。これから、陛下の操縦はすべてあなたにお任せします。特別手当はお支払いしますので」

「あの……いやです、そんな責任重大な仕事」


 嵐が去った庭園で、私は一人、冷めきった紅茶をすすった。

 権力にものを言わせて力ずくで奪われる不安は完全に消えた。しかし、この「重すぎる愛の暴走機関車」のブレーキ役という、とんでもない役回りを押し付けられてしまったことに、私は今更ながら気づき、深い絶望の淵に沈むのだった。


 ――しかし、彼に「かっこいい」と言った時の、嬉しそうに輝いたあの顔を思い出して。

 不思議と悪い気はしていない自分に、私はまだ気づかないふりをしていた。

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