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 有言実行。

 その言葉を、これほどまでに恐ろしい形で見せつけられる日が来るとは思わなかった。


「リウィア! 約束の時間だ! 二時三十分、一秒の狂いもなく私は戻ってきたぞ!!」


 薔薇の離宮のガゼボに、突風のような勢いでアウグストゥス様が現れた。

 背後には、魂が口から抜けかけたような顔でふらふらと歩くカシアス様と、山のような空の書類箱を抱えた書記官たちが続いている。

 アウグストゥス様の軍服には返り血……ではなく、大量のインクのシミが飛んでいた。おそらく、凄まじい速度でペンを走らせた結果なのだろう。彼の瞳は、獲物を仕留めた猛獣のようなギラギラとした達成感に満ち溢れている。


「……陛下。本当に行ってきたのですか? ウァレリウス公国との調印式」

「もちろんだ! 使節団が条件の微調整を求めてぐだぐだと喋り始めたので、『余のティータイムに間に合わなかったら貴国を地図から消す(相手には比喩っぽく聞こえた?)』と一喝してやった。彼らは涙を流しながら即座にサインしたぞ。平和的解決だ!」

「……それは脅迫というのではありませんか?」


 隣でカシアス様が「公国側は『あの皇帝の目、本気で殺しに来てたぞ』と震え上がって、もはや不可侵条約どころか隷属に近い条件を自分たちから提示してきましたよ……」と力なく補足した。

 どうしよう。私の「かっこいい姿を見せてください」という一言が、国際情勢を極端な方向に捻じ曲げてしまった。


「さあ、リウィア! 約束のお茶だ! 君が淹れてくれるという、神の雫よりも尊いお茶を、私の五臓六腑ごぞうろっぷすべてに染み渡らせる準備はできている!」

「え、ええ……。どうぞ、お座りください」


 私は引きつった笑みを浮かべ、あらかじめ用意していたティーセットに手を伸ばした。

 辺境の我が家で、母や妹によく淹れてあげていた、ささやかな普通のハーブティーだ。皇帝陛下に出すにはあまりに安価な茶葉だが、彼はそれを、まるで伝説の聖遺物でも眺めるような敬虔けいけんな眼差しで見つめている。


 私が丁寧にお湯を注ぐと、爽やかなミントとレモンの香りがガゼボに広がった。

 アウグストゥス様は、カップから立ち上る湯気を肺いっぱいに吸い込み、「ああ……これがリウィアの香り……。天国はここにあったのか……」とうっとりしている。……いえ、それはハーブの香りです。


「どうぞ、陛下」

「……ああ」


 彼は、震える手で繊細な白磁のカップを持ち上げた。

 そして、一口。

 本当に、大切そうに、一滴もこぼさないように飲み下した。

 その瞬間、彼の端正な顔立ちが劇的に変化した。氷のような鋭さは完全に消え失せ、溶けかかった飴細工のような、だらしないほどに幸せそうな表情。


「う……美味い……。美味すぎる。カシアス、今すぐ帝国全土に布告を出せ。本日よりこの茶葉を帝国の国茶こくちゃとし、他の茶葉を飲むことを禁じる」

「やりませんよ、そんな馬鹿なこと。商人が暴動を起こします」

「リウィア……。君の淹れてくれたお茶は、どんな高級なワインよりも私を酔わせる。このカップになりたい。君の唇が触れたこの場所に、永遠に固着していたい……!」

「茶器としての余生を望まないでください、陛下」


 私は冷めた目で、自分のカップに手を伸ばした。

 重い。やはりこの人の言うことはすべてが重い。一挙一動が演劇のクライマックスのようで、付き合っているだけでこちらの精神が削られていく。


「ところで、リウィア。……君に、見せたいものがある」


 アウグストゥス様が、ふと真面目な顔になった。

 彼は懐から、一冊の革装の分厚い本を取り出した。鍵がかかっており、装丁には帝室の紋章が刻まれている。


「これは……?」

「日記だ。私が、あの日――君にハンカチを借りた日から、今日まで欠かさず書き溜めてきたものだ」

「日記、ですか。……十年前から?」

「ああ。君に会えない日々、私の心を支えていたのは、いつか君を迎えに行くという誓いと、この記録だけだった」


 彼はそう言って、カチリと鍵を開け、ページをパラパラと繰った。

「見てくれ。これは五年前、私が初めて戦場に出た日の記述だ」


 私は覗き込んで、絶句した。


『○月×日。敵軍の矢が左肩をかすめた。痛みを感じたが、その瞬間に思い出したのはリウィアの瞳の色だ。彼女の瞳をもう一度拝むまでは、心臓が止まることなど許されない。私は死ねない。彼女の美しさを讃える歌を、まだ一万曲も作っていないのだから。追伸:リウィアの家の借金がまた三万銀貨増えたらしい。愛おしい。私がすべて払ってあげたい。早く皇帝になりたい』


「……愛おしいの意味が分かりません。あと、借金額をリアルタイムで把握しないでください」

「そして、これが三年前。私が皇帝に即位した夜だ」


『○月×日。ついに王冠を手にした。これで法は私だ。私がリウィアと言えば、それは正義となる。今すぐ迎えに行きたいが、まだ帝国内部には不純な貴族が多い。リウィアを歩かせる道に、砂利一つ落ちていることも許せない。完璧な楽園を構築するまで、あと少しの辛抱だ。極秘に密偵を送り、彼女の身辺の安全性を確認した』


「おかしいじゃないですか……」


 私は思わず立ち上がり、叫んでしまった。

 なんということ。この人、私が辺境で「最近、なんだか視線を感じるような……気のせいよね」と思っていたあの夜に、本当に被害妄想ではなかった。しかも皇帝が私一人の為に密偵を飛ばして。


「……陛下、引きます。ものすごく引いています、私」

「なっ……!? なぜだ!? 私はただ、君への想いを純粋に……!」

「帝国法ではどうなっているんですか!」

「私が法だと言っただろう!」

「その法を今すぐ改正してください!!」


 アウグストゥス様は、ショックのあまりガタガタと震え、椅子から転げ落ちんばかりに項垂れた。

「あ、ああ……。リウィアに、嫌われた……。良かれと思って開示した日記が、仇となった……。死のう。今すぐ、このハーブティーに毒を盛って……いや、これはリウィアが淹れてくれた宝物だ、毒などで汚してなるものか……。ならば私は、自らの舌を噛み切って……!」

「死なないでください。というか、その日記を今すぐ燃やしてください」

「嫌だ! これは私の聖典だ! 燃やすくらいなら、私の心臓を焼き尽くしてくれ!!」


 ガゼボは再び、皇帝の号泣と私の悲鳴、そしてカシアス様の「もう勝手にしてください……」という諦めの呟きで満たされた。


 私は頭を抱えながら、冷めきったハーブティーを見つめた。

 アウグストゥス様。

 彼は確かに私を救ってくれた。家の借金を払い、家族に安全な暮らしを与えてくれた。その恩義は、一生かけても返しきれないだろう。

 しかし。

 その対価として支払うべき「愛」が、あまりにも巨大すぎて、重すぎて……。


(このまま、この重力に飲み込まれていいのかしら……)


 号泣しながら「嫌わないでくれぇぇリウィアァァ!!」とすがりついてくる、世界一美しく、世界一迷惑な皇帝陛下。

 その必死な姿を、私は冷たく突き放すことができなかった。

 ……なぜなら、その日記の最後のページ――昨日書かれたであろう箇所に、ひどく震えた字で、こう記されているのが見えてしまったからだ。


『リウィアが皇宮に来てくれた。今、同じ空気の中に彼女がいる。それだけで、私の生きてきた二十数年間には意味があったのだ。彼女がもし私を憎むなら、私は喜んで彼女に殺されよう。彼女の手にかかって死ねるなら、それこそが私の望む救済だ。だが、もし万が一、億が一にでも、彼女が私を見て微笑んでくれたなら……。私は、神にその座を明け渡せと言われても拒否するだろう。彼女の隣こそが、私の唯一の御座みくらなのだから』


 ――バカね。


 私は自分の顔が熱くなっているのを感じながら、足元の黒髪を、そっと、本当にそっとだけ撫でてやった。

 アウグストゥス様は、電気を流されたようにピクンと固まり、信じられないものを見るような目で私を見上げてきた。


「……燃やさなくていいですから。その代わり、二度と夜中に忍び込まないでください」

「リ、リウィア……。今、撫でて……撫でてくれたのか……? 私を、許して……?」

「……お茶、淹れ直しますから。早く座ってください。……アウグ」

「――――――――ッッッ!!!!(声にならない叫び)」


 皇帝陛下は、その場で尊死とうとししかけた。

 その様子を、カシアス様が「……リウィア様、あなたは猛獣使いの才能がありますね。ただし、その猛獣はあなたを食べる気満々ですが」と、これまた失礼な感想を述べていた。


 私の平和な日々は、もう二度と戻ってこないだろう。

 権力に奪われるより、もっと逃げ場のない、「愛」という名の執着に縛られて。

 それでも。

 この重すぎる愛が、ほんの少しだけ、心地よいと感じ始めてしまった自分に、私は深い、深いため息をつくのだった。

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